プロローグ
その祠は、山の中腹の小さな湖の畔に祭られている『土地神』と呼ばれていた存在のためのものだった。
飢饉が続いたころは村からの参拝者がいたそうだが、今は誰も来ないため雑草に埋もれかけている。
村の外れから歩いて30分くらいかかるだろうか。昼下がりの散歩にちょうどよい距離だ。
初夏の日差しが新緑を彩り、鳥の囀りが心地いい、絶好の隠れ場所。
学園の長期休暇中は、いつもこの村の別荘でひっそりと過ごすことにしている。
公爵家でも兄貴が跡を継ぐから、俺は気楽なものだ。
「このまま高等部に上がるのもなあ…。」
一定量の魔力があるから中等部まで入れたが、魔法の才能が格別にあるわけじゃない。
かといって、跡取りじゃない俺はいずれ家を出て、自分で稼がないといけない。
「王国魔術師団に入るなら高等部までは出ないと、か。」
祠の周りの雑草をぶちぶち引きちぎる。風の魔法が使えればスパッと済むのだろうが、やっぱり手で丁寧に処理するほうが神様には相応しい気がする。
こういうことを言うと、父や兄からもっと要領よくしろと叱られるのだけど。
ふいに、パキッと枯れ枝を踏む足音がした。
しゃがんだまま振り返ると、野花を手に持ったやせっぽっちの子供がじっと俺を見つめていた。
粗い目のダボっとした生成りのTシャツに茶色のハーフパンツ、細い手足は日に焼けている。
俺より3つぐらい年下だろうか。
くすんだ金色の短髪、こじんまりした顔のわりには大きめの、ブルーグレーの瞳がすっと細められた。
「こんにちわ。」
丁寧に頭を下げて挨拶してくれた。まだ声変わりしていないのか、高めの声が聞き取りやすかった。
「やあ、こんにちわ! いい天気だね!」
俺が応えると、子供は手の花を祠の前に供えて2回礼をして、パン、パンと手を叩いた。それからもう一度礼をしてから、俺の隣にしゃがみ込んだ。
「手伝います。」
「ああ、ありがとう。」
「祠を管理されているおうちの方ですか?」
子供のわりに丁寧な口調だな、と思った。
「いやあ、暇つぶし。ここの場所が好きでさ、秘密基地みたいだろ? 夏休みはよく来てるんだよ。」
「そうなんですか‥祠をきれいにしようとか、思いつきませんでした。」
「君はお参り? 村からだと結構かかるよね。」
「‥神殿はお金がかかるので。」
神殿は祈祷料をとる。それが仕事だけど、貧しい人たちにはハードルが高いのかもしれない。
「よくお参りに来るの?」
「毎日来てます。お百度参りです。」
聞いたことにすっと答えてくれる。素直な子だ。
「お百度参りって何?」
「100日間、毎日お参りすると願いが叶うんです。聞いたことないですか?」
ないなあ、この村の伝承かな。
「まあ、気休めですけど。これくらいしか出来ることなくて。」
肩をすくめるしぐさは子供らしくない。苦労してるのかもしれない。
「暑いからさ、ちょっと休まない?」
大きな木の根元に二人並んで座る。竹筒の水筒を差し出すと、ちょっと戸惑ったけど受け取ってくれた。口に含むと、驚いた表情が浮かんだ。
「…冷たい。」
ふふ、ちょっと嬉しくなる。
「魔法で冷やしてるんだ。」
「魔法使えるんですか…いいなあ。」
少し緊張が解けたのかもしれない。子供っぽい表情になった。
「魔力、全然ないんです。」
「全然?」
王国の人間は大なり小なり魔力があり、一定量をクリアしていると魔法学園に召集される。
貧しい階層にとっては、魔力があれば立身出世のチャンスが与えられるわけで。
全然ない、というのも珍しい。
「だから、ちゃんと頑張らないと。」
きりっとした表情が俺より大人びていて。
「子供のうちからそんな頑張らなくていいんじゃない?」
つい、口に出てしまった。
子供にジェラシーとかどんだけガキだ俺。
「あ、いや、何でもない。」
「…貴族様なのに、割といい人だね。」
「何で貴族って。」
「服とか指輪とかいいものだし。それにブレスレットに紋章入ってる。一人で出歩いて大丈夫?」
子供に心配されて、何だかタメ口にされた。
俺の方が二回りくらい体大きいんだけど。
「魔法使えるし、それに結構鍛えてるから。」
一人なのは俺に回す護衛費がもったいないと父が言うからだけど、体術にはそこそこ自信がある。
「あと何日ここに通うの?」
「30日かな。」
「じゃあもし次会えたら、また話をしてくれない? 俺は何だか君を応援したい気分なんだ。」
それから俺たちは、湖畔で一緒に本を読んだり、武術の稽古をつけたりして夏休みを過ごした。
細っこい彼は意外に武術の筋が良くて、教えたそばから動きを吸収していって面白かった。
こっそり夜に抜け出して、湖いっぱいの蛍の光や一面の星空を眺めながら、お互いの夢を話したりもした。
まるで昔から友達だったみたいだ。
本のお礼だといって、おにぎりや卵焼きを作ってきてくれた。
どちらも初めて食べたけれど、とても美味しかった。
母親の体が弱くて家事全般を代わりにやっているそうだけど、これだけ有能なら将来に困ることはないんじゃないだろうか。
もう少し上等な服を着て身なりを整えれば、所作も奇麗だし、貴族の家で働くのもできそうだ。
俺の家で働かないか、と何度か言いかけてやめた。
そうして、30日が過ぎた。
夏の盛りが過ぎて、トンボが湖面を飛び始めた。
いつもなら午後過ぎに現れるのに、夕焼けに空が染まり始めても来ない。今日は100日目なのに。
別荘に帰らないとと思うが、踏ん切りがつかず木の根元に転がり続ける。
夕食に俺がいなかったら、それなりに騒ぎになるかな。
この場所は知らないと思うけど、探しにこられると彼に迷惑をかけてしまうかもしれない。
そんなちょっとした問題を結局先送りにして、もう少しで日付が変わりそうなとき。
ゆっくりと、引きずるような足音が聞こえた。
「なんで、こんな時間までいるの…。」
月明りの中、祠の前にいる俺を見つけたとたん身を翻した。とっさに手を伸ばして腕をとる。
「…泣いてるのか?」
俺から顔をそむけて俯いたまま、でも微かなすすり泣きが聞こえた。
「…ママ、の…、病気が、ぜんぜん…。」
涙がぽたぽたと草の葉に滴った。思わず腕を引き寄せて抱きしめていた。
ああ、こんなに華奢だったっけ。
100日参りの願掛けが何か、俺は聞かなかった。
「…楽し、かったから、ほんとは、楽しんじゃいけなかったのに、もっと、我慢しなきゃ、いけなかったのにっ…!」
(俺も楽しかった。)
何か抱えているのを分かってたのに、何ひとつ聞かずに、ここでの時間をただ楽しんでいた。
「…どんな病気?」
俺の家の力なら、助けてあげられるかもしれない。
「…左、腕からの、痣が、左胸まで、広がって、もうほとんど動けなくて…。」
「赤い痣?」
「紫の、派手な色…神殿に、払うお金、足りなくて…。」
俺は抱きしめる腕を解くと、肩を支えて向き合った。
大きな瞳からはらはらと、頬をつたう涙が月明りをはじく。
「それは多分病気じゃない、呪いだ。」
俺は右手薬指の指輪を外した。
「君の名前を、教えてくれる?」
「…アリス…。」
「アリス、これをお母さんに。破邪の指輪だ。右手につけると呪いに耐性を、左手につけると呪いを解除してくれる。」
こんな風に、と左手をとると、薬指にそっと指輪をはめた。
-封印を解除します―
そんな声が祠から聞こえたような気がするが、後のことは何もわからない。
月が落ちてきたような光が炸裂し、目が覚めた俺は別荘のベッドの上だったから。