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火恋の山 ‐ヒレンノヤマ‐  作者: 遠矢九十九
2/8

其の山の話

ある、国。


まだ、夜を照らすものが月と星と炎ぐらいしか無く、自動で動く機械や乗り物も無く、隣国との国取りの戦争が続く、だが、少なくともそれぞれの国の形が、政治機構や軍隊や同盟や謀略や、城を中心にした要塞のような街や、その街の中には様々な仕事や娯楽や文化や人がひしめいているような、そんな時代の、とある、国。


その国の中心となっている城塞都市は、城の周りを城壁、城下の街の周囲にも高い壁を備え、さらに四方を山に囲まれ、それらの山々が城と街をより強固に守る防壁となっていた。


山を越えた先には、各所に小さな街や村が点在しており、それらを、さらに遠くの山や海が囲み、戦争状態にある隣国の侵略から守っていたが、比較的外部から攻めやすい一部の地域では、最近隣国の侵攻を受け、占領されたり、村ごと焼き払われたりしていた。


ある夕暮れ時、城塞都市を囲む北の山を越えて街へ入ろうと山道を歩く、特徴的な色遣いと格子柄の入った衣服をまとった、一人の娘の姿があった。


夜になるまでには街に辿り着きたかったが、このままでは間に合わなそうだった。


夜には野盗や敵対国の密兵や、野生の肉食動物も現れる。


娘は歩速を強めながら、先を急いだ。


と、その時、右手の茂みから、がさがさと草を踏み鳴らす音が聞こえてきた。


とっさに身構え、後ずさる娘だったが、現れたのは、いっぱいに膨らんだいくつかの麻袋を腰に下げた、小柄な老人であった。


「おや、何やら足音がすると思って出てきたら、娘さんじゃったか。こんな時間に一人でこんなところにいては危ないぞぃ」


老人とは言えわずかには警戒しながらも、しかしその優しい表情に、そして久しぶりに人と遭ったことも手伝い、ほっと胸を撫で下ろす娘。


「夕方には街に着きたかったのだけれど、思ったよりも道が険しくて」


娘が短く状況を伝えると、老人は頷きながら、


「あぁ、娘さん、北から来なすったようだね。この北の山は四方の山の中じゃいちばん高くて、道も急じゃからのぅ」


娘が通ってきた方向へ目を細めた。


「そうなのよ、思っていたよりずっと大変だったわ。おじいさん、ここから街へはあとどのぐらいあるのかしら」


「わしもちょっと山菜採りに夢中になり過ぎてな。本当は夜飯時には家に着いとるはずだったんじゃが、今からじゃとだいぶ遅くなるのぅ」


老人の足では時間がかかるであろうことを考慮すると、それを差し引いても、つまりは、着くのは完全に夜になるということか。


「そうなの…。それならおじいさんも早く帰らないと、奥様が心配するのでは?」


「いいやぁ、わしはしがない一人もんじゃよ。ただ、今から帰って夜飯を作っておると、寝るのはもう真夜中になってしまうのでのぅ」


老人はため息をついた。


「あら、それは大変ねぇ。うーん…、おじいさん、この山にはよく来るの?道には詳しいのかしら」


「あぁ、詳しいも何も、何十年もうろついとる庭みたいなもんじゃて」


山全体を指すように腕を広げて見せる老人。


娘はそれを聞いて少しほっとした様子で、


「良かった…。それならもしよろしかったら、ご一緒に山を降りてもよろしいかしら。それに、私がお手伝いすれば、おじいさんも少しは急いで帰れるんじゃないかしら?」


と老人に提案した。


「あぁー、そうじゃのぅ。娘さん一人では危険な道じゃ。まぁ、かと言って、わしが一緒にいたからと言って、いざという時にこんな老人に何ができるわけでも無いがのぅ」


「あら、こんな山に一人で登ってこられるおじいさんなら、きっと何が遭っても大丈夫だわ」


「ははは、まぁだいたいが、こんな老人から何も盗るものも食うものも無いしのぅ」


「そうかしら、美味しそうな山菜が詰まってるみたいだから、気を付けた方がいいのでは?」


娘は老人の腰の麻袋を指差した。麻袋の口からは、山菜が頭を覗かせていた。


「おぉー、そうじゃのうー、ははは」


笑い合う二人。


「さ、それでは行きましょうかの。あまり良い道では無いから、足元には注意しなされ。わしはもう何十年も通っているから目をつぶってでも歩けるがな、何、わしが踏んだ足跡と同じ所を踏んで歩けば心配無い」


「はい、よろしくお願いします」


ところが老人の歩調は思っていたより遥かに軽く速く、薄暗い山道をすいすいと進んでいく。さすがにこんな山を一人で歩き回っているだけのことはある、ということか。


しかし、いくらなんでも老人にしては早過ぎる。


娘は予想外にその背を必死に追うことになり、肩で息をし始めていた。


やがて急だった斜面や、足元を阻む石や木の根が、少しなだらかに、平坦になり始め、おそらく峠近くと思われる辺りまで差し掛かった頃、


「ところで娘さん、立ち入った話かも知れぬのだが…」


ふと、先を歩く老人が口を開いた。


「は……はい?」


娘は息を整えながら、女ひとりの旅であればそのうち必ず訊かれるであろう質問が来たと思い、わずかに顔を曇らせたが、しかし、いつものこと、いつものこと、それほど気にしていないような軽い雰囲気につとめて返事をする。


「こんな時間にわざわざ山を越えて、街へはどうして……」


「……ちょっと…仕事を探しに」


短く答える。


そう、いつものこと。


自分から自分のことをあまり細かく話すと、相手によってはろくなことにならない場合もある、いつものこと。初めて会う人との会話は、できるだけ短く、おおまかに。


旅の道中で、ある程度は身に沁みた。


特に若い男などには、困り顔を見せたり甘えたりしてはいけない。


ただ、今目の前にいるのは人の良さそうな老人であったため、まだ、大丈夫とは思うのだけど。


老人の方は、そんな娘の懸念や警戒心とは別に、何か思い当たる、あまり良くない話があるようで、


「ふむ…。最近は確かにそういう者も多いのぅ。中でも北からと言えば……、そうか……」


と言葉を濁す。


老人はきっと自分のことを何か考えているのだろうと、娘は目を伏せながらも、それでもあまり気を使わせないように、あまり悪い方に深読みされ過ぎないようにと、できるだけ平静を保つように歩調は変化させない。


ただ、老人の口調からは悪意めいた響きは感じ取れないし、久し振りに誰かともう少し話をしていたかったので、もう少し、もう少しだけ…。


「はい……。先日の戦火で故郷も家族も失ってしまったもので……。」


「やはりそうじゃったか……。街に何か、誰か宛てはあるのかね?」


「……いいえ。ただ…、街にはそれでも得られる仕事はあると、色々なところで聞いたものですから……」


山向こうの農村からすれば、中央の都市は夢の様な世界だと想像するだろう。


大きな街には人も物も食料もあふれ、当然、仕事だって色々なものがいくらでもあるはず、街で働けば大金を手に入れて、一生幸せな暮らしができる人だって多いはず。


だが、


「そうか……まぁ…そうじゃのぅ、確かに、仕事はそれなりにあるにはあるが…」


「何かしら?」


「ふむ……。最近では、娘さんのように山を越えて中央に集まってくる者が、老若男女問わず多くなっていてのぅ。中央に元々いた人間からすると、異国民のように感じたり扱ったりする者も多くてな、自分の家の庭を荒らされているというかなんというか、それで、あまりいい顔をせんし、いい仕事を回してやらんような連中も多くてな」


「そうなの……。でも、仕事が無いわけでは無いのでしょう…?」


村を出てきた時からずっと、どうにかなる、と、できるだけ楽観するようにつとめて歩き続けてきた娘は、その言葉にやや不安げになりながらも、希望は失わずに尋ねる。


「まぁー、だから…、娘さんのような若い女ごは、よく騙されて夜の良からぬ商売を強要されておるのを、街でも見かけるでなぁ…」


「そう……、そうなの…、まぁ、そういうこともあるのかもしれないわよね…」


そう言えば、ここへ来る途中でも、女の子をいっぱい乗せた荷馬車が中央の方に向かっていくのを見かけたわ。今にして思えば、みんなあんまり楽しげじゃなかったし、あれは、結局そういうことだったのかしらね…。


娘は道中のことを思い出す。見かけた時はただ単に、みんなで荷馬車で楽々中央に行って何か仕事をもらうことが決まっている、幸運な子たち、と思っていたのだが。


「だもんでなぁ、何の宛ても無く行くのは、あまり勧められたもんでは無いのじゃがのぅ。街への入門での身元調査でも、少しでも怪しければ、最悪入れないこともあるでなぁ」


老人の言う通り、中央の城塞都市は入門する際の警備も厳しく、外からふらりと入ってこれるような状態ではない。


「そうなの……。だけど、私にはもう行く宛なんて無いし、それでもなんとか街で仕事を見付けないと、どうにもならないわ」


顔色を曇らせながらも、決心の固い娘。実際のところ、仕事を選んでいられるような余裕があるわけでも無いし、それに夜の良からぬ商売と言っても、詳しいことはあまりよく知らず、せいぜい酒の酌をして、多少のいやらしい言葉を浴びせられる程度のことで、村の宴会と似たようなもの、そんなの慣れっこだわ、というぐらいの気持ちでいた。


「ふぅーむ、しかし、ここで出会ったのも何かの縁じゃしなぁ。悪い娘さんでは無いようだし、あまり不幸な目には遭ってもらいたくないのぅ」


心配し出す老人。


「大丈夫よ。故郷も家族も失って、もう今さらこれ以上の不幸なんて無いわ」


開き直ったように強気の娘だが、


「いやー、だからこそじゃよ。娘さんはもう充分に酷い目にあった。この上不幸を重ねて欲しくは無いのぅ」


「でも……、そんなこと言ったって…」


どうにもならないじゃない、と、少し苛立つ。


どうにもならないじゃない、どうせならあの時、村のみんなと一緒に死んでれば良かったのに、私だけが生き延びて、私だけが逃げ出して、私だけで生きてかなきゃならなくて、今さら幸せも何も無いわ。


その時のことを思い出し、こらえながらも涙ぐんでうつむく。


「ふぅーむ……、そうじゃ、ときに、娘さん、お幾つじゃったかね」


ふいに老人が尋ねる。


「歳……?二十になったばかりよ…」


急になによ、と、涙声で、苛立ちを込めたように投げやりに答えるが、


「ふむふむ、ちょうどいい歳頃じゃの…。それならばこれは…。いやいや、もっとこうなればあれも少しは……」


なにやらぶつぶつつぶやきながら考えている老人。


考え事をしているせいか、娘が着いて来ていることを忘れ、さらに足早になっている。


「ちょっと、待ってよおじいさん、なあに?どうしたんですの?」


あわてる娘。


「あぁ、あぁ、すまんすまん。ちょっと考え事をしてしまっての」


老人が足を止めて振り返る。


まったくなんて元気なの、とても老人とは思えないわ。まさか、山のもののけにたぶらかされてるんじゃないかしら。


娘は追い着き、少し肩で息をしながら、


「なんですの?」


と尋ねた。


「いや、それがの…、もし、良かったらなんじゃが……、わしの家に来ないかね」


「えぇっ?でも…」


山のもののけがいよいよ…、いやいや、違うわ、そうじゃなくて、でも、と娘は不安げな表情になる。


「いやいや、とりあえずというかじゃな、まずはとにかく安全に街に入って、まっとうな仕事を見付けるには、街の者の縁者ということにしておいた方が何かと都合が良いでの。わしもこの歳まで生きてきとるで、それなりに知り合いも多い。何かとお役に立てると思うんじゃ」


「でも…」


「それにだいぶ前に婆さんがいなくなって、すっかり寂しい一人暮らしじゃ。わし一人には広過ぎる家での、娘さんのような方が一時でもいてくれたら、わしも助かるんじゃ。どうかね」


いぶかしく思いながらも、確かに、街に入ることすらできない可能性を考えると、老人と共に行動した方がいいのはわかる。


今夜の宿のことも、行けばどうにかなるだろうと楽観していたのだが、老人の言うとおり、多くの難民が街に集まっているのならば、どこも空いていないかもしれない。


それにもうほとんど日も暮れて、今から宿やら仕事やら、探しものをするには遅すぎる。


老人の家も、聞く限り、もののけや良からぬものが好んで住みそうな山中深く、というわけでは無さそうだし、もののけの類なんてことは、さすがに無いか、だいたい私も、子供じゃあるまいし、そんな、ね。


娘は自分の妄想を打ち消すように、小さく首を振って、老人に、


「そうねぇ、もしもおじいさんが、私を夕飯にとって食うようなもののけの類じゃなければ、ご厚意に甘えさせて頂こうかしら」


と微笑んで見せる。


「ほほっ、もののけとな。はっはっはっ、こりゃいい、確かに、こんな時間に一人で山をうろついとるような老人じゃ、もはやもののけのようなもんかもしれんな。街の連中にもよう言われるわい。はっはっはっ」


屈託なく大声で笑う老人に、娘はつられて一緒に笑い出し、だいぶ不安が消えるのを感じた。


「それでは、よろしくお願いします、おじいさん」


娘は深々と頭を下げた。


「あぁ、そうと決まれば先を急ごう。心配なさるな、きっと、万事上手くいくわい、この、菜食主義者のもののけじじいに任せなされ」


「あら、そうなんですの?」


こんなに元気なのに、意外だわ、と娘。


「あぁ、もうええ歳なんでな、すっかり歯も弱ってしもうてのぅ、こないだ調子に乗って猪肉を噛んだ拍子に、前歯が抜けてしまってからは、自重しとるんじゃよ」


にっと笑う老人の、上の前歯は、確かに二本とも抜け落ちてしまっている。その少し間の抜けた口元に、娘は笑いをこらえきれない。


「う、ふふ、それじゃ、私が食べられる心配は無さそうね」


老人はそんな娘に微笑ましく、


「あぁ、老人には、この山菜のスープぐらいがちょうどいいものよの」


と、いっぱいに詰まって膨らんでいる腰の麻袋を軽く持ち上げて見せた。


「山菜のスープなら私も大好きだわ。楽しみね」


と微笑み返す娘。


しかしその娘の言葉に、老人ははっとした様子で、娘や自分の腰の麻袋や、周囲を覗った。


娘も何事かと笑いを止め、


「どうかなさいましたの?」


と怪訝に老人に問う。


何事も無いと確認した顔の老人が、


「すっかり」


と娘の目を、やや真剣な眼差しで見つめ、


「山を降りるまでの少しの間じゃて、大丈夫じゃと思って、すっかり忘れておったんじゃがな…」


と答える。


「何かしら」


私、何か悪いこと言ったかしら、と再び顔を曇らせる娘。


老人の方も、やはり最初に話しておくべきことであったと、自戒の念で眉間に皺を寄せながら、娘に語り始めた。


「実はの…、この山には、もののけはおらんが…、奇妙な現象が起こるんでの…。こっちの街の者はみんな知っとることなんで、山向こうの人たちもきっと皆知っとるもんじゃとばかり思っとったが…」


「はい…?」


娘は、何か聞いたことがあったかしら、と記憶をたぐったが、思い当たる話は無さそうだった。


立ち止まり、話し始めようとしたものの、しかし何から話したものかと、少し考えこむ老人。


黙ってそれを見つめる娘。


しばしの沈黙の後、老人はがさごそと麻袋やら懐やらを探り出し、仕方無い、まぁ、これでいいかの、と独り言をつぶやきながら、麻袋の中の山菜から、小さなキノコを一つ取り出した。


「このキノコはコカサダケと言っての、これを入れたスープが、そりゃあ美味くてな」


と言いながらも、なぜかそのキノコを地面に投げやる。


「?」


娘は不思議そうに老人とそのキノコを交互に見た。


老人はそんな娘にちらりと目をやるも、


「スープでなくても、焼いても良し、コメと一緒に炊いても良しで、だからわしはこのキノコが大好きなんじゃ」


と続けた。


すると突然、地面に転がるそのキノコから、ぱっと炎が上がり、静かに燃え始めた。


「え…?えぇっ!?」


娘は驚いて、香ばしい香りを放ちながら小さく燃えているキノコを、じっと見つめた。


「ふぅむ、なるべく小さな声で言ったつもりじゃが、やはり燃え尽きてしまいそうじゃな…。ちともったいなかったかのぅ…」


せめて香りだけでも味わっておこう、といった素振りで、炎に包まれ焦げが広がっていくキノコの煙を吸う老人。


「これは一体…どういうこと…?」


やがてすっかり真っ黒な炭になってしまったキノコを見ながら、娘が問いかけた。


「ふむ。この山はな、自分が好むものに対してその気持ちを言ってしまうと、こうしてそれが炎に包まれてしまうんじゃ」


「えぇっ?」


突拍子も無い話に耳を疑い、再びキノコと、そして老人の顔を交互に確認する娘。


「まぁ、今見た通りじゃよ。タネも仕掛けも無い、本当にただの自然現象なんじゃが…」


大好きなキノコだったその炭の残り火を、名残惜しげにも踏み消しながら、


「ま、歩きながら話しましょうかの、山に長居して、また間違って何か燃やしてしまっては事じゃてな」


「え、えぇ…」


老人に促されて、地面に残った黒い焦げ跡を何度か振り返りつつも、娘も後について歩き出す。


歩きながら、老人はこの山の不可解な現象について、その法則と、過去の出来事や伝承について語った。


まず、この山の中で、「好きなものに対して『好き』と言うと、その相手が発火する」のだという。


この山、とは、まだ誰もはっきりと境界を調べて見付けたわけでは無いので定かでは無いが、おおよそ誰もが山に入ったと認識できる辺り、たぶんこの辺りからがこの山だろうと思われる、道筋や地面の傾斜で見て、そこに近付いた頃から、であり、その辺りから、皆気を付けてその言葉を言わないようにしているらしい。


そして、反応する言葉は「好き」というただひとつ、その単語のみであって、ゆえに皆、山に入った時には、「嫌いじゃない」「好んでる」などの言葉で、上手く「好き」を避けて会話していれば、何事も起こらないのだそうだ。


が、時折ついうっかり、お気に入りの名工が仕立て、買ったばかりの登山靴を履いて山に入り、


「いやー、まるで履いて無いような心地なんじゃよ、やはりここの靴がいちばん好きじゃなぁ」


などと言ってしまって、靴が丸焦げになってしまったこともあるという。


「あの時は参ったよ。おろしたての靴じゃったのになぁ。足も火傷するところじゃったし、裸足で帰る羽目になったしのぅ」


と、老人は笑う。


そしてそんな時には、一緒にいる仲間たちと、


「おいおい、あんた何年ここにいるんだよ」


「いやー、うっかりしとったわい」


「まったく、これで何度目だい?」


「はは、それにしても、たった一言、日常でそれほど使いそうで使わないようなこの言葉を使えなくなるだけで、こんなに不便になるもんじゃな」


「まったくだな。って言っても、俺なんて山の外ですら、ここ何年もカミさんにも言われたことねぇから関係ねぇけどな」


「酒場の若い娘にはしょっちゅう言ってるくせにかい。お前さん、間違っても例のあの娘を連れてここに来たりするんじゃないぞい」


「しかし山にでも来ないとカミさんに見付かっちまうしなぁ」


「まぁ、おとなしくおきらめることじゃな」


などと言って笑い合うのであった。


また、法則にはいくつか補足的な条件があり、例えば、本当に好きなものに対して「好き」と言った時だけ、発火現象が起こる。


そこに本当の想いが無ければ、炎は上がらないのだという。


これについては、今すぐにでも証明するのは簡単なのだが、


「古くから伝わっとる面白い話があるよ」


と老人が楽しげに語り出した。


昔、別の国のある男がこの山の話を聞き、かねてから鬱陶しく付きまとってくる女を、この山の現象を使って殺してしまおうと、女を連れて山に入り、


「お前が好きだ!!」


と叫んだ。


しかし何事も起こらない。


その男は、本当の想いが無ければ発火しないということを知らなかったのだ。


あわてにあわてる男と、目を輝かせて「私もよ!!」と叫び抱きつく女。


結局男は女の勢いに勝てず、ニ人は山を降りてこの国に入り、そのまま結婚して仲良く暮らしたということだ。


「確かに、ありそうな話ですわね。ちょっと怖いけど、面白いわ」


と興味深げな娘に、老人は続けた。


「それでな、今日はおらんが、周りに結婚している男がおる時にはな、この話をした後には、その中の誰かをさして、『この話の男ってのが、こいつなんじゃよ』とやるのが、長年のこの国のしきたりなんじゃ」


ニ人は大きな笑い声を上げた。


「しかもその時、女の人が彼のことを好きだなんて叫んでたら、彼の方が危なかったわよねぇ」


「ははは、まったくじゃ」


その他にも、形の無いものや、話の中に出てくるがこの場に存在しないもの、状態・状況を示すものなどに対しては、炎は起こらないことや、その言葉を言う声の大きさによって、発生する炎の大きさが決まること、また、山の中にいて、山の外にあるものを「好き」だと言っても、たとえそれが山の外にいる者に聞こえる程の大声でも、炎は起こらない、といった補足条件があるのだという。


「なんだか本当に不思議ね。一貫しているようで、曖昧なことだらけだわ。なぜこんな現象が成立してるのかしら」


娘は少し頭を悩ませる。


「さてのぅ。この国にも科学はあるし宗教もあるもんで、皆、昔から色々考え説明はするもんじゃが、やっぱりどうにも曖昧でよくわからんし、そもそも炎がどこから来るものなのか、誰が、何が、なぜ炎を起こしているのか、全くわかっていないんじゃよ」


と、こちらもやっぱり不思議そうに、しかし決してその現象の正体について、漫然と受け入れてはいない様子の老人。


「科学的に考えるにはあまりにも不自然な謎が多くて不可解過ぎる、だけど、宗教の中の神様にしては、現実に起きている不思議な現象、これ自体はもはや神の奇跡とも言えることなのに、それにしてはあまりにも神がかってないというか、法則性や規模がゆる過ぎる気がするのよね」


なかなか聡明な分析をする娘さんじゃな、と老人は感心しながら、


「はは、そうじゃのぅ。何しろあの言葉なんて、敢えて言わないと決めずとも、実際それほど日常で使うもんでも無いしのぅ。ただ…」


と少し遠い目で付け加える。


「ただ…?」


「ただ、この山には、この国がはっきりと国の形を為す以前から、悲恋の末に涙も枯れ果てるほど嘆き苦しみ死んだ山神様の伝説もあってな。その山神様は炎を司る神であったと聞く。しかしまたそんな取ってつけたような言い伝えが、現実の出来事を引き起こしているというのも、それはそれでおかしな話ではあるんじゃが…」


「うーん、なるほどねぇ。確かに、裏付けとしては急展開、強引過ぎるわ。まぁ、でもとりあえず説明しようが無いわけだし、仕方無くその伝説に乗っかるとすれば…、つまり、嫉妬深いんでしょうね、その神様が」


「ふむ、まぁ、そういうことなんじゃろうなぁ。よほど、自分以外の者が愛されるのが疎ましいのかもしれん」


「でも、だとしたら、ますますやっていることの規模が曖昧だし小さ過ぎる気がするわ。きっと、本当は気が小さくて優しい神様なのね」


「はは、そうじゃのぅ」


と笑う二人。


しかし誰の思惑とも無関係に、現実にその現象は発生するわけで、結局理由や原理がわからないというのであれば、それはやはりその神様が起こしてることに違いないんだわ、と娘はむしろ納得がいった気がした。




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