00-勇者の旅立ち
『空』というものは鋼で出来ているものだと思った。
剥げかかった青い塗装が空の色だと思っていた。
俺だけじゃない、この世界に住む人間のすべてが。
でも、そうじゃないと教わった。
この世界の『外』にはもっと素晴らしいものがあると。
父の寝物語、その日からずっと俺は『外』に出たいと願っていた。
そしてついに、その夢は叶う。
教会の洗礼を受け、俺は外の世界に旅立つのだ。
地の底深く、空から最も遠いこの地――冥獄『タルタロス』を抜けて。
※
俺と幼馴染のレミ、グレイは三人並んで教会へと続く石畳の道路を歩いていた。道行く人々から励ましの声がかけられる。自然と、背筋が伸びてくる。
「オーリ、緊張し過ぎ。手と足一緒に出てるの、気付いてる?」
レミが俺の顔を覗き込んでクスクスと笑う。茶化しているが、こいつもガチガチに緊張している。シャツのボタンを掛け違えて平坦な胸元が僅かに見えているのだ。
「事ここに至って緊張しても仕方がありませんよ」
グレイは髪型をビシリとキメて、飾りベルトの多い一張羅のコートを着て得意げにしている。が、眼鏡がずれているし手に持った聖書も逆さまだ。
みんな、緊張している。洗礼とは単なる儀式ではない、この町の外に出られるだけの力を得るために必要なのだ。町の外に住まう魔獣と戦うために。
タルタロスは過酷な世界だ。未開拓の原野、『太陽』の光さえ届かない暗闇、地図にさえ記されていない場所がまだ多くある。だが一番危険なのは、タルタロス内を我が物顔で闊歩する魔獣たちだ。
魔獣たちは人間たちを積極的に狙う。他にも犬猫家畜、襲う相手はたくさんいるにもかかわらず、だ。このあたりに住んでいる魔獣はせいぜいが大柄な犬といった感じだが、それでも人間を上回る力を持ち大きな被害を出している。上層にはそれこそ想像もつかないような恐ろしい姿をした魔獣もいるという。
それに対抗することが出来るのは、洗礼を受けた戦士――勇者だけだ。
(絶対にタルタロスを脱出する……親父に追いつくためにも)
父は母と自分を置いて旅に出て、帰って来なかった。生きているのか、それとも死んでいるのか、それすらも分からない。父の足跡を見つけること、それも旅の大事な目的だ。
石段を昇り左右に開いた神殿の扉を潜ると、礼拝堂に着く。規則正しく配置された長椅子には洗礼を見守るため多くの人が座っていた。特に娯楽もない田舎町、神聖な儀式さえ見世物の一種なのだ。
「お前たちが洗礼を受けられる年になるとはなあ……感慨深いものがあるわい」
赤い絨毯の上を歩き祭壇へ。そこで待っていたのは青い正装を纏った神父様。子供の頃から白髭の神父様には世話になりっぱなしだ。
「今日この日、新たな勇者が誕生する!
レミ・フルブスト!
オーリ・セイラム!
グレイ・ホワイトホーク!
聖神の加護を受け、困難へと立ち向かう覚悟はあるか!」
俺たちはこれを揃えて「あります」と答えた。神父様は頷き、
「では、ここに聖水を」
脇に控えていた三人のシスターがくすんだ銅色のカップを持っておれたちの前に立った。なみなみと注がれた銀色の液体はドロリとした質感で、間近で見ると少しだけ怯んでしまう。
「聖水を飲み干せば第一の儀式は完了する」
慣例ではこの後、教会の裏側にある『聖山』に入り第二の儀式を一週間かけて終わらせる。それが終われば晴れて勇者としてデビューする、というわけだ。
俺たちは盃を煽った。とろみのある液体は飲み干すのに難儀した。とはいえほとんど時間はかからず、俺たちは顔を見合わせ笑った。
瞬間、異変が起こった。
まるで体を内側からずたずたに引き裂かれるような激痛が襲ってきたのだ。
耐えられず膝を突き、両手を地面に突き何とか転倒を防いだ。
立ち上がろうとしたが足の力が萎えて動かない。
そうしているうちに全身から脂汗が噴き出して来た。
それもただの汗ではない、銀色の汗だった。
急激に体温が低下していく。
寒い。
痛い。
「ああっ、これは……」
神父様は俺の前に立った。
顔は見えないがどんな表情をしているかは分かる。
「お前は加護を受けられなかった」
子供がいたずらをした時と同じ――あの悲しそうな顔をしているのが分かった。
目を覚ますと、見慣れた天井が――自宅の天井だ――あった。
「ああ、気が付いたかいオーリ? 二日も眠ったまんまだからダメかと思ったよ」
「おば、さん? 俺、いったいどうなって……アヅヅヅッ!」
頭に乗せられた濡れ布巾を取った。ベアトリーチェ、ベアのおばさんがやってくれたのだろう。父が行方をくらまし、母が死んでから派ベアおばさんが俺の面倒を見てくれた。体を起こそうとしたら激痛が走った。痛みが俺の記憶を呼び起こす。
「そうか、俺、洗礼を受けに行って……でも、それに、失敗して……」
「たまにいるんだよねぇ……百人に一人か、二人か。洗礼を受けられない子が。ほとんどは戻って来ないから、アンタは運がよかったんだよ」
おばさんはゴツゴツした手で俺の頭を撫で、励ましてくれたが、俺にはよかったとは思えない。タルタロスへの道は永遠に閉ざされた……
「ま、洗礼を受けに行くやつばかりじゃない。それに受けたって必ずしも勇者に慣れるわけじゃない。アタシだって若い頃洗礼を受けたけどほれ、ほんの少し力が強くなった程度だよ。平穏にクラスだけならこんな力はいらないしねえ……」
そういっておばさんは力こぶを作った。男のそれと比べても太い腕、おばさんはこの町一番の力自慢だ。これだけの力を持っていても、魔獣蔓延るタルタロスを踏破することが出来ず帰って来たのだという。しかし……
「冗談じゃない」
痛む体に鞭打って、俺は立ち上がった。
「まだ無理しちゃいけないよ! ゆっくり休んでいなさいって!」
「ありがとう、おばさん。でも、俺は行きたいんだ。タルタロスの外に」
父もなく。
母もなく。
洗礼もなく。
何もない俺に残っているのは夢だけだ。
それさえも諦めてしまったら、それこそ俺には何もなくなってしまう。
「別に洗礼がなくたって外には行けるんだ。だったら加護なんて必要ない、俺は俺の力だけでタルタロスを踏破してやる! 外の世界に行ってやる!」
「そんなのただの自殺行為じゃないか! やめなさい、オーリ!」
だがおばさんは動けない。ふらついた俺に何かすればそのはずみで死んでしまうのではないか――そんなことを考えているのかもしれない。
おばさんが狼狽えている間にチェストを開く。親父が遺してくれた鎧をシャツの上に着て、その上に擦れたコートを纏う。棚の底に入っていた形見のケースを開き、グランク10mm拳銃を手に取る。ズシリと重いフレーム、手入れを欠かしていないから動作に支障はない。弾倉に弾を込め、挿入。スライドを引く。
「やめて、オーリ……そんな、そんな危険なことをするのは……」
おばさんは涙ながらに俺を止めた。だが俺は止まらない。いつも使っている狩猟用の12ゲージ散弾銃と鞄を背負う。旅立つために何週間も前から用意していたものだ。これを無駄にするわけにはいかない。
「ごめんおばさん。でも俺は、行かなきゃいけない。証明するために……!」
おばさんの涙を尻目に、俺は部屋を飛び出した。自動ドアは俺を遮らなかった。大切な人を振り捨てて、俺は夢の第一歩を踏み出した。