ブックエンドと君の名前
ブックエンドと君の名前
『私は現場リポーターとして、二十四年間当局に従事してまいりました。二十四年――私の人生のちょうど半分です。長いか短いかっていったらそれはもう長いです。うん。あと一年経てば四分の一世紀ですからね。我ながら歴史的な感慨がありますよ』
中澤はソファーに深く腰をかけて、テレビ画面に映るニュース番組をぼんやりと眺めていた。でもそれはニュース番組というにはあまりに個人的で感情的な内容であった。テレビ画面の右上には小さく『ライブ』とある。『速報』からはじまるテロップもある。当然カメラもあるし、くたびれた太り方をした中年のリポーターもいる。でもリポーターの身の上話を延々と放送する番組なんて今までにあっただろうか? こんなのはニュース番組じゃない、と中澤は思った。
『本当は私、コラムニストになりたかったんです。雑誌とか新聞とかの片隅に、日ごろ思い耽った色々なことを書いてのんびり暮らすんです。いや、のんびりなんて言ったら怒られますね。でもコラムニストが暇人だとか、そんなつもりで言ったんじゃないですよ。もちろん実際にはとても忙しい職業なのかもしれない。あちこち取材に行かなきゃならんかもしれないし、こまごまとした締め切りに追われる日々なのかもしれない。でもいいじゃないですか。実際的なことは、いいんです。漠然とした憧れですよ。そういうのって素敵だと思いませんか。叶わない夢って本当に平和で素敵だと思うんです』
カメラは回り続ける。
『でもね、叶ってしまったら、そこで夢は終わりです。夢が終われば私らは目覚めます。そして驚くんです。なんだい、現実ってのはこんなにも寂れてみっともないものなのかい、って』
カメラは彼の個人的な語りを容認する。
『だから、良かったんじゃないでしょうか』
リポーターはカメラから目を逸らして、ため息をついた。そして深く沈んだトーンで最後に言った。
『みんな夢を見たままで』
唐突にテレビ画面は死んだ。中澤は真っ青になった画面をしばらく眺めたが、いくら待ってもそこにある単色は身じろぎひとつとらなかったのでやがて諦めた。のそのそと歩み寄ってテレビのコンセントを抜き、画面はより深く死んだ。
――だから、良かったんじゃないでしょうか。みんな夢を見たままで。
そうだね、と中澤は思った。いつ来るとも分からない死に怯えるよりは、こうして明確なラインを引いてもらったほうが気は楽だ。そうだ、良かったじゃないか。
「少なくとも、平等だ」
中澤はグラスに指一本ぶん残ったストレートのウィスキーを二口で飲み干し、目を閉じ、体中にアルコールを染み込ませるように長い、長い深呼吸をした。
それは何ヶ月も前から話題になっていることだった。当初は噂に過ぎなかったのだが、日数が経つにつれて噂は一歩、また一歩と着実に確信の領域へ歩みを進めていった。そして二日前、それはすでに噂でも確信でもなくなっていた。ひとつの決定事項となって人類の前に提示されたのだ。
『隕石の軌道に変化はなく』、と時間外速報は始めた。その不吉な知らせはいくつかの言語に同時通訳されていたが、そこに日本語は含まれていなかった。中澤が見ていたのは画面の下部に現れては消えていく日本語の字幕だけだった。『隕石の軌道に変化はなく、計算上では127時間後に地球と衝突する。衝突による被害の程度は予測できないがまず生き残る陸上生物はない。対策は考えに考えつくし、今もなお考え抜いているが、今のところの結論として、生き残ることよりも残りの五日間を精一杯に、未練なく生き抜くことに努めてほしいと懇願せざるを得ない。
どうか私利私欲に走らず、最後まで思いやりの心を忘れないでほしい。産まれたことに感謝し、今日という生ある一日を喜び、隣人を愛そう。我々にはそれができるはずだ』
ブーケみたいに束ねられたマイクに向かって喋っていたのは、禿げ上がった頭の側面に漂白して褪せてしまったような金髪をくっつけた白人の中年だった。彼はダークグレーのスーツを着て、薄い縁の眼鏡をかけ、その奥には力のない青い瞳を一対つけていた。彼だって本当はもっと楽しい話題を知らせたかったに違いないのだ。世界に向かって。
隕石の到来はもう三日後に迫っていたが、中澤は驚くほど平穏な精神で日々を過ごしていた。まるで目の前に終わりが迫っているということを知らないかのように。しかしもちろん中澤は知っていた。彼はニュースと酒が何よりも好きだった。ニュースを見ながら酒が飲めるなら申し分なかった。その隕石のニュースを見ていたときも、ソファーに腰をかけて冷えたルシアンコークを飲みながら、入れ替わったアナウンサーはいないかと目の見張らせていたものだった。
構うもんか、と中澤は思った。いずれみんな死ぬんだ。申し合わせていたみたいにきっちり死ぬ。それがちょっと早まったってだけの話じゃないか。一向に構わない。終わりはいつでも我々の隣にいるし、終わりは未練のことなんて全然考えていない。すっと現れて、すっと奪っていくだけだ。ちょうどグラスに残ったコーラを(ルシアンコークを飲み干す)、一息に飲むみたいに。誰がコーラの未練を尊重する? それだけのこと、僕は全然怖くない。
彼はあくまでいつも通りの生活を貫いた。まるで残りの日数を黙殺しているかのような人為的な日々だったが、なんにせよそのようにして二日という時間が彼の目の前を通り過ぎ、今日に至り、終わりは三日後に迫る。
中澤はオムレツとトマトソースを作り、パスタを茹でて昼食にそれを食べた。時刻は一時に近く、季節は冬に近かった。ウィスキーの瓶を並べている出窓から外の風景を眺めることができる。空は高く晴れている。多少は雲もある。秋のあいだにひとしきり暖色に染まり尽くした街道の木々の葉はあらかた落ち、整然と塗り固められた黒いアスファルトの上で死んだように乾いていた。枯葉を踏みつける者はない。かつて血液のように絶え間なく流れていた輸送トラックや外国車はここ数日の内に一斉に姿を消した。中澤の部屋から見下ろすことのできる街道には生命らしきものがひとつも見当たらない。一時間ほど眺めているが、そのあいだに街道を通ったのは一組の老夫婦だけだった。老夫婦は長いマフラーと手袋を身につけ、ふたり揃ってブラウンのセーターを着込み、一歩一歩を愛おしそうにゆっくりと歩いた。おばあちゃんのほうが街道の中央に並ぶ雑木林のてっぺんを指差し、何か言い、おじいちゃんのほうがそっちを見て頷いて、何か言った。彼らの目の前に続く街道は、はるか昔から引っ張ってきた平和な物語の続きのように、疑いようのない幸福な地点へと繋がっているように中澤には思えた。
掛け時計の針が二時を回ると、中澤は老夫婦が着ていたものに近い色のブラウンのセーターを着て家を出た。それは彼の日課だった。昼食を食べてから家を出て、しばらく近所を散歩して夕方に帰ってくる。今に始まったことではない。昔から彼はそうやって日々を過ごしていたし、たとえ三日後に隕石がやって来て日々をもぎ取っていくとしても、突然その日課をやめて違うことをする気にはなれなかった。いいじゃないか、と中澤は思った。いつ現れるか分からない終わりに怯えるよりは、残り三日に設定された平和な日常を味わえるほうがずっと潔い。なんてことないさ、三日もある。明日になったって、あと二日もある。彼はおおむね楽観的な解釈をすることに決めているようだった。
街の様子は昨日よりもずっと寂れていた。商店街の店はほとんどシャッターを降ろしていたし、人々はだいたいが故郷に帰るなりどこか遠くへ行って三日間に限定された放浪を精一杯楽しむなりしているようだった。都会では強姦などの犯罪が横行していたり(それを阻止してしかるべき機関も機能していなかった)自殺や無理心中が後を絶たなかったりと、それなりにひどい事になっているのだが、中澤にはそんなことは知ったことでなかった。
知ったこっちゃない、と中澤は思った。好きにしたらいいんだ、お前らがいつもそうしているように。
中澤は店を一軒一軒じっくり眺め、アーケード通りの端っこに酒を買うためによく入っていた酒屋を見つけた。中澤は酒屋のシャッターの鍵を蹴り壊して中に入り、懐中電灯で照らして暗い店内を探索した。奥の壁面にウィスキーの棚を見つけて、下段に並ぶ上等のスコッチをいくつか開けてひと口ずつ飲んでみた。しかし暗闇の中で正確な味を判断するというのは思いのほか難しいことだった。味覚を機能させるには十全な色覚がまず必要とされるのだ。中澤は電灯でボトルを照らしてみたり、床に垂らしてみたりした。そうこうしてようやく何本かに絞り込み、もう一度飲んでまた絞った。消去法の戦乱を最後まで生き残ったのはタリスカーだった。タリスカーのボトルを雑貨棚に持って行って、スチール・フラスコに満タンまで注いで尻のポケットに入れて店を出た。彼が店から持ち出したものは安物のスチール・フラスコと、スチール・フラスコ一杯ぶんのウィスキーと、目に付いた頑丈なコルク抜きだけだった。平和で無欲な強盗だな、と中澤は彼ながら思った。金の必要性がなくなったとき、同時に多くの欲が消えうせる。多くの欲は金そのものの足元から伸びる影に過ぎないのだ。というのが彼の持論であった。
中澤は暗闇に目が慣れてしまったらしく、店から出てもしばらくは目を細めてやり過ごすことになった。瞳孔が太陽光に馴染んでくるとゆっくりとまぶたを押し上げ、ため息をつき、スチール・フラスコを取り出してタリスカーを試しにひと口飲んだ。口の中に生じた熱はのどをとおって胃までするすると落ちていった。やはり暗闇の中で飲むよりは比較的クリアな印象があった。中澤はほとんど一日中酒を飲んでいるにもかかわらず不思議とまったく酔わなかった。目の奥にかすかな重みを感じるだけだった。そんなに強いほうじゃないんだけどな、と彼は思った。
中澤は小さな橋を渡って、図書館へ向かった。コンクリートをえぐって削って作っただけというような野暮ったい図書館だ。隕石のニュースが報道される以前からあまり利用者はいなかったし、報道されたあとに突然盛んになるということもないようだった。その建物からは宿命的な孤独感が湯気のように高い晩秋の空へ向かって立ち昇っていた。図書館は世界が崩壊することなどずっと昔から承知していたというような、訳知り顔で佇んでいた。なんだい、みんな今ごろになって慌て腐ってさ。そんなの、俺はずっと前から知ってたもんね。
開きっぱなしになっている自動ドアをくぐり、中澤は読書室を目指した。通路は駄目になったスピーカーの内部のように静かで、山奥の洞窟のように肌寒く、歩くたびに足音が拡大されて不自然な響き方をした。暗いが電灯を使うほどじゃない。この図書館はいつだって暗いのだ。中澤は以前からこの図書館を利用する数少ない人間のひとりであったため、迷うことなく読書室の木戸を見つけることができた。
読書室には本を読んでいる女の子がひとりと、そこに現れた中澤を除けば誰もいなかった。書架と書架のあいだに誰かいてもおかしくないが、気配はなかった。中澤が戸を開けたとき、女の子ははっと顔を上げ、中澤の様子をしばらく見物してからまた本に目を落とした。女の子は濃いグリーンのデニムのロングスカートを穿き、枯葉色のジャケットを着ていた。だいたい十九歳か二十歳くらいに見える。二十一歳には見えないし、かといって十八歳と見るのも適切でなかった。人がひとりでもいたことに中澤は驚いたが、いや、驚くべきことでもないな、と思い直すことにした。本を読みたい人間が本を読みに図書館へ来ておかしいことはひとつもない。彼もまた本を読みたいと思って図書館へ来たのだ。上腕筋を鍛えたいのならスポーツ・ジムへ行っている。
中澤は日本人作家の書架から森鴎外を見つけ、二冊選び、テーブルに持って行った。太陽光の通過を黙認している無防備な窓を背にして席に座り、地上に差し込んだつかのまの暖かさを背に受け止めながら、一項ずつ、ゆっくりと読み進めた。中澤は森鴎外の短編が大好きだった。
「どうしてそこに座ったの?」
と女の子は頬杖をついたまま中澤に言った。ふたりはテーブル三つぶん離れて座っていたが、女の子のほうがちょうど真ん中のテーブルを使っているため、それ以上離れた席につくことは中澤には不可能だった。中澤は念のためあたりを見渡したが、ここに座ってはまずいと示唆するような事物は何ひとつ存在しなかった。
「どうしてって?」
と中澤は訊いた。
「たくさんの席がある中で、どうしてそこを選ばなければならなかったの」
たくさんというほど席はない、と中澤は思った。どう要領良く押し込んだって二十人も座れないはずだ。女の子の声は小さく、目の細かい紙やすりみたいにしゃがれ、どんな小さな隙間にも入り込めそうなほど細かった。読書室は滅びた海底の都のように静かなのだが、それでも中澤は女の子の言葉を聞き取るのに苦労したほどだった。
「ここだとまずかったかな?」
中澤は首だけ女の子のほうへ向けて言った。
「ううん、そういうんじゃないけど」
女の子は気だるげに呟いたが、唐突に会話を放棄し、抱き寄せた腕を下敷きにして眠るように顔を突っ伏してしまった。妙に明瞭な寝言の途中のように見えなくもなかった。中澤は本か女の子かどちらに意識を集中しようかと決めあぐねたが、女の子がそれ以上何も言わなかったので、結局は本を選択することにした。中澤の心はただちに図書館を離れ、かつてのベルリンへ降り立ち、ウンテル・デン・リンデンの街並みをその内なる目に映すことができた。それは世界の崩壊の迫る今日へはたどり着かぬ別の時間軸、あるいは別の世界の風景であるように中澤には思えた。実際には三日経たのちに一片たりとも跡形の残る土地はこの地球上にはあるまいが、それでも彼の心の中に描き出された風景は、物語は、不朽の響きを彼の心に刻み付けたものだった。
時間は残りの時間をひとかけら、またひとかけらずつ飲み込み、その巨大な舌で太陽を西の山奥へ強引に沈めようとしていた。外は夕焼けの濃いだいだい色におおむね染まり尽くし、木々の足元からは、端を爪で引っかいてはがせそうなほど明確な形をした影が長く伸びていた。空気は澄み、冷たかった。しかし窓が東側にあるために、読書室の中はぶ厚い影を落とされたように暗かった。本を読み続けることが難しくなると、中澤は諦めて何冊目かの本を書架に戻した。女の子はずっと顔を突っ伏したままだった。
「僕は帰るけど」
と中澤は木戸を半分開けたまま、顔を伏せた女の子に向かって言った。
「君も暗くなる前には帰りなよ。今はすごく治安が悪いから」
「うん」
と女の子は簡潔に答えた。てっきり眠り込んでいるかと思っていたので、中澤にとって返事が返ってきたことは意外といえば意外なことだった。目が覚めているのなら、あんな体勢でいる必要なんてない。あれは殺人的につまらない授業を受け流すとき、便宜的に眠るためにある姿勢なのだ。しかしその姿勢をどこで用いるかというのはもちろん彼女の勝手であり、他人のとっている姿勢に利便性なり必要性なりを追求する筋合いなどは中澤には到底ありえなかったので、そのまま黙って帰ることに決心をつけた。後ろ髪をひかれる思いもなくはなかったが、どちらにせよ彼の短髪には引っ張れるほどの後ろ髪もなかった。
図書館は夕暮れの日光を半身に受け、もともとはその体がだいだい色であったことを思い出したかのような照らされ方をした。一方で陽の当たらない陰となる部分は息をのむばかりの漆黒に覆われ、その足元に長く漆黒の続きを垂れ流していた。鮮烈な夕日が様々な事物の両面性を暴き出しているように中澤には見えた。それは陰と陽であり、光と影であり、存続と崩壊であった。夕日はそれらの性質が相容れぬことを地上に教え、まさに光と影とをふたつに引きちぎらんばかりの力で訴えかけているのだ。
まだ崩壊はしていない、と中澤は思った。少なくとも今はまだ、紛うことなき存続のさなかなのだと。
家に着くころには街はすっかり暗くなっていた。夕日は沈没の間際に、テーブル・クロスを引っ張り込む要領で光源をすべてどこかへ持ち去ってしまった。ぼんやりとした古い水銀灯の灯りを除けば、地上に光と呼べたものは一切残っていなかった。どの民家も深く眠り込んでいた。
つけっぱなしにしてあるはずの換気扇が回っていないことに、家のドアの前で気が付いた。街中の灯りが死んでいるのは、電気の供給がついに止まったせいであることが中澤にも察せられた。ライトグリーンの作業服を着て、お揃いの帽子をかぶって、せっせとみんなに電気を届けたがるひたむきな電力会社職員は、崩壊の三日前の夜にしてひとり残らず居なくなってしまったようだ。それが正しい、と中澤は思った。最後くらいは自分だけのことを考えていいんだ。全然悪くない。中澤は電気が使えないことに付随するはずの様々な不都合を想定しながら、ドアノブに手を伸ばした。
しかしドアノブに手をかけたとき、中澤は人の気配をすぐ近くに感じた。かすかに足音が聞こえたのだ。それほど近くないのかもしれないが、あまりに暗いせいで、そういった感覚にはやや敏感になっていた。足音の発生源にだいたいの目星をつける。間違いない、おそらくは垣根の裏に誰かがいる。息を潜めてこちらを窺っている。
心臓は胸の中で息苦しくなるほど激しく鼓動した。何せ今はすごく治安が悪いのだ。残り三日の人生を健全に過ごそうと考える人間はそれほど多くない。平坦な人生を歩み続けた中澤でさえ酒屋からスチール・フラスコとウィスキーとコルク抜きを窃盗してきたのだ。彼が世界一の悪人であるとすれば話は別だが、恐れ多くも中澤はそんなに極端な悪人じゃない。本当に極端な悪人は何をしでかすか分からない。興味本位で隣人を殺すかもしれないし、中澤のポケットに放り込まれたささやかな窃盗品を強奪するかもしれない。それは分からない。
中澤は酒屋から盗んできたコルク抜きを右手に持って格闘に備えた。電気のない世界はあまりに暗かった。しかし中澤には恐怖の大きさや暗闇の深さについて考えている余裕はなかった。相手が長物を持っていることを想定して間髪置かず近づき(やはり垣根の裏には人影があった)、左手でその人物ののどを掴み、右手に持ったコルク抜きを目元に突きつけ、石造りの垣根に体ごと押し付けて相手の動きを奪った。一連の動作はすんなりと相手を拘束するに至った。しかし相手はバットもパイプもナイフも持っていなかった。丸腰だ。危ういほどに首は細く、力は驚くほど弱い。女だ、と中澤は思った。
「うちに何か用が?」
と中澤は訊いた。女は無抵抗に首を振り、そういうんじゃないわ、と言った。中澤はその小さく細い声に聞き覚えがあった。図書館で顔を突っ伏していた女の子だ。
「ごめんなさい。でも泥棒しにきたわけじゃないよ。何か食べ物があったら分けて欲しいんだけど」
「どうして図書館でそう頼まなかった?」
と中澤は念を押して訊ねた。
「あのときはまだお腹がすいていなかったし、いずれお腹がすくことになるなんて考えてなかった」
眼球に触れんばかりの距離に鋭いコルク抜きの先端を突きつけられているにもかかわらず、女の子の様子はまったく緊迫していなかった。そのためか、弁解はどこか現実味に欠けた。しかし現実味のない今の状況(暗闇、女体の拘束、三日後に迫る崩壊……)においては、その弁解にはそれなりの説得力があるようにも中澤には思えた。腹が減ることを忘れるということも、あるかもしれない。彼は自分もまた空腹であることにようやく気がついたのだ。
中澤はコルク抜きをポケットに入れた。それから少しのあいだ迷い、彼女ののどを少しさすってから手を離した。
「今は、言ってしまえば世界中が無法地帯だから」
と中澤は説明した。女の子はまったく何ひとつ感慨を得ないといった様子で、その言葉を無感情に聞いた。
「警戒するのは悪いことじゃないよ」と女の子は言った。
「うん。でも結果として悪いことになるというのはある。今のように」
「それって謝ってるの?」
女の子は疑わしそうに言った。中澤は頷いた。彼は暴力的に女の子を拘束したことに少なからぬ後悔なり罪悪なりを感じていた。しかし暗闇の中での頷きはまったく意味を成さない動作のひとつであり、中澤にはそれをきちんと言語に置き換える必要があった。
「謝るべきことだと思う。少なくともいきなり首なんて絞めるべきじゃなかった」
「でも、こそこそっとしてた私も悪いのよ。どう切り出そうかって迷ってて」
「食べ物のこと?」
「そう。家には何もない」
と女の子は言った。中澤は頷きかけたが、自分たちが暗闇に包まれていることを改めて思い出した。
「それはもちろん構わないよ。電気が通っていないみたいだから、缶詰なんかで良ければってことになるけど」
「十分よ」、と女の子は言った。「甘えさせてもらいます」
女の子は中澤から大股一歩ぶんの距離を置いて彼のあとをついて家に入り、電灯をつけて台所へ行き、ふたりで戸棚の中身を物色した。果物の缶詰と、トマトの水煮の缶詰がいくつかあった。魚の缶詰がふたつあり、牛肉の缶詰と真空パックの干し肉がひとつずつあった。冷蔵庫も開けてみたが、かすかに残った冷気と今朝の時点では冷えていたはずのビールとしぼんだ玉ねぎと急激に寿命の縮んだ豚肉しか入っていなかった。
電気がつかないので、中澤は蝋燭にライターで火をつけてテーブルや電話台や廊下の隅に配置した。途端に遠くから昔話が聞こえてきそうな雰囲気が彼の家に宿った。ひとまずの灯りは確保したが、それは灯りというよりは暗闇へ沈む途中の段階にある弱い闇のように見えた。中澤はテーブルに広い皿を持ってきて、その上に肉と魚の缶詰をすべて空けた。小さな皿をふたつ持ってきて、そこに果物を空けた。先ほどまで真空の中に封じ込められていた食べ物が、出来損なって放棄されたいびつな料理みたいな姿へと昇華した。
「なかなか面白い光景といえるね」
女の子はテーブルを見下ろして、感心したように呟いた。声は小さく、細く、加えてこの陰鬱な部屋の中ではどことなくくぐもって聞こえた。
「昼の時点では、もう少しまともなものが食べられたんだけどね」
中澤は弁解をするようにそう言った。
「お昼は何を食べたの?」
「スパゲティー。卵を全部使ったオムレツ」
「もっと早く来たら良かった」、と女の子は言った。
しかしもちろん、ふたりに文句を言えるほどの食欲的な猶予はなかった。女の子の胃袋は世界の崩壊が近づいているとも知らず何らかの到来を切実に要求していたし、中澤の胃袋もだいたい同じことをしていた。ふたりはフォークでその肉の切れ端を突き、白身魚のフレークを裂き、桃のシロップを最後の一滴まで飲み干した。それからぬるくなったビールをコップ一杯ずつ飲み、空腹感はひとまずどこかへ姿をくらましたようだった。上等じゃないか、と中澤は思った。この三日の内にさえ飢えて死ぬ人間はたくさんいるのだ。
「溺死かな」
食事が終わると女の子は呟いた。中澤は台所でスチール・フラスコからタリスカーをグラスに移している最中で、それを持ってテーブルに戻った。
「三日後のこと?」
「大きな津波がくるんでしょう? 昔の映画でそういうのを見たよ」
「アステロイド……ディープ・インパクト……アルマゲドン……」
中澤は記憶の中から隕石と津波の出てくる映画をいくつか引っ張り出した。でもそれ以上は出てこなかったし、女の子のほうもまるで聞いていないようだった。
「洗濯機に放り込まれたみたいにぐるぐる回って水をいっぱい飲んで、苦しんで死ぬのよ」
「内臓破裂、圧死」、と中澤は訂正した。「たぶん即死に近いと思う。ニュースの話なんかから想像するとね。何しろ馬鹿でかい石が出鱈目なスピードで突っ込んでくるんだ。震度八百くらいの衝撃がある。なんにせよ隕石がぶつかったときの衝撃で人体は空中に放り出され、大地に強く打ちつけられる。苦しむ暇もないよ。津波が来る頃には陸上生物はみんな粉々になってる」
「そういうのってどう思う?」と女の子は訊いた。
「どうって?」
「溺死であれ圧死であれ、体が元気な内に死んじゃうことについて」
「分からない」、中澤は正直に言った。「そういうのって、死んでみないことには経験できないからね」
中澤は時間をかけてタリスカーを飲み干し、そのあいだ女の子は一言も喋らず、何かを思いつめるようにして膝をかかえていた。肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪は真っ直ぐ中澤の目に入り、中澤にはそこから心を逸らすことができなくなっていた。彼女の髪の毛はきちんと梳かされ、暗闇がもう少しばかり深まればたちまちそこへ飲み込まれて消えてしまいそうなほど細かった。それでなくとも女の子の姿は全体的にどこか危うく、その存在を外的な力によってかろうじて保たれているというような弱々しい印象があった。それが中澤の目を奪って離さなかった。
「君は、図書館で何をしていた?」
と中澤は訊いた。
「本」、と女の子は答えた。「本」
女の子の言葉には、続きがなかった。『本』。中澤は出窓に並べたウィスキーの瓶を蝋燭で照らし、カティーサークを見つけてそれをグラスに注いだ。テーブルに戻ると、女の子はたたんだ膝に顔を埋めたままささやくような寝息をたてていた。中澤は彼女の驚くほど軽い体を横に寝かせ、毛布をかぶせてからひとりでウィスキーを飲んだ。
「本」
と中澤は呟いてみた。『ほん』。改めて口にしたその呟きは、単語というよりは何らかの擬音語のように中澤の耳には聞こえた。呟きは夜の純粋な暗闇に飲まれ、ばらばらに解けながらどこかへ消え、終わりは二日後に迫った。
中澤が目を覚ましたとき、女の子の姿はなかった。掛け時計はもうじき十時になることを見るものに知らせていた。太陽光は窓の外の風景を強く照らし、その光のいくらかが中澤の部屋にも入り込んでいた。部屋の中は薄暗いが、決して絶望的な暗さではない。
置手紙のようなものがあるかもしれないと、中澤は家中を探し回ったが、どういうわけか彼の部屋からはレシートの一枚も出てこなかった。紙なんていくらでもあったような気がしたものだが、いざ探す段になるとそれらは一斉に姿を隠した。中澤はグラスに残ったウィスキーを台所に捨て、歯を磨くために水道のハンドルをひねった。しかし蛇口からは何も出てこなかった。電気と水は別々の機構のものとして考えていたものだったが、地下から水を引き揚げるには電気が要る。当たり前だ。中澤はうんざりした気持ちで新しい服に着替えた。
中澤は家を出て、近くのコンビニエンス・ストアへ行った。ドアは開きっぱなしで、店内は近いうちに要領の悪い強盗が入ったみたいに商品が散乱していた。中澤はまだ賞味期限が過ぎていないことを確認してからサンドウィッチをその場で食べ、ミネラルウォーターを飲んだ。ミネラルウォーターのボトルは2本だけ余っていたのでそれを手にし、歯磨き粉と歯ブラシと紙コップをポケットに突っ込んでトイレに入り、歯を磨いた。残った水で顔を洗い、頭から少しかぶった。タオルで顔面と髪を拭き、メモ帳とボールペン、カッターナイフをポケットに入れた。ビニール製の手提げの中に適当にパンを放り、果物のジュースを何本か入れた。コンビニエンス・ストアには何でもあるのだ、と中澤は思った。そして店を出て、図書館へ向かった。
風は冷たいが、日光が強くちょうど良い具合だった。寒く感じる直前には日光が身体を暖め、汗をかきかけた頃に風がそれを乾かしてくれた。街道を抜け、ゴーストタウンの一画のような商店街を過ぎ、小さな橋を渡り、図書館の寂れた後姿が見えるころには髪が乾き、水をかぶったときに濡れた服もだいたい乾いていた。
案の定、読書室には女の子がいた。昨日と同じ席に座り、昨日とは違う本を広げて読んでいた。中澤の姿を見つけると女の子は微笑み、こんにちは、と小さな声で言った。
「起こしてくれたら良かったのに」
中澤は手提げに詰め込んだパンを彼女のテーブルの上にひとつずつ置き、そう言った。
「起こしたよ。でも全然起きないから」
女の子は栗の入った菓子パンの包装紙をやぶり、かじった。中澤は蜜柑のジュースを飲んだ。
「全然気が付かなかった」、と中澤は言った。
「睡眠は深いほうがいい」、女の子は目を細めて微笑む。中澤はその微笑を一目で気に入った。「でもここにいるって分かったんだね」
「本」、と中澤は呟いた。
「本」
と女の子も言った。それは秘密の小部屋からこぼれてくる素敵な合言葉みたいだった。
中澤は芥川龍之介の短編を持って、女の子の隣に腰をかけた。女の子も今度はさすがにそこに座った理由を訊ねなかった。ふたりは隣り合って文字を追い、それぞれが別々の物語を読み進め、ときどき思い出したように何か喋った。遠い過去のこと、さして遠くない過去のこと。今のこと、すでに崩壊の約束されている未来のこと。でも喋るのはだいたい女の子のほうで、聞くのはだいたい中澤のほうだった。
女の子は本を読みながら、ぽつぽつと自分のことを語った。自分はもうすぐ二十歳になるのだ、父親は幼いころに死に、母親はろくでもない男を遠慮なく家に連れ込むようになったのだ、処女を失ったのは高校二年の頃だ、相手は年上の学生だった、進学はしたが今年の夏に大学を中退し、アルバイトをしながらぼんやりと暮らしていたのだ、ココアは好きだがコーヒーは思い切り甘くしないと飲めないのだ。そんなこと。
中澤はひとつひとつの断片的な彼女の過去を聞き、相槌を入れたり、ときには感想を言ったりもした。しかし彼は、彼女の語りの総体には何かが欠けていることに気が付いた。それは具体的な欠落ではなく、あるいは彼女の声があまりにか細く頼りないことに起因する単なる欠落感に『似た』ものだったのかもしれない。もちろん、そうじゃないかもしれない。それは分からない。なんにせよ中澤にはその欠落の正体を正確に見定めることができなかったし、それが彼をなんとなく落ち着かない気持ちにさせた。
「自分が何をしたいのか、未だによく分からないの」
と女の子は言った。出鱈目なところまでビデオを巻き戻して、そこから再生したような唐突な喋りだし方だった。
「この最後のときに、何かしなければならないことがあるはずなのに」
「僕にもそういう感じはあるよ。まだやり残したことがあるんじゃないかってね。何せ仕事ばかりで孤独な人生を歩んできたから、やり残したことなんて数え切れないくらいある」
「あなたは、何をやってる人なの?」
「絵本作家」、と中澤は答えた。彼は絵本作家だった。「絵の具とワープロを使って、子供が読むための話を書いてる。隕石も降ってこないし、津波も登場しないごく普通の話」
「有名なの?」と女の子は訊いた。
「有名。一日かけて渋谷を歩いたって誰にも気づかれないくらい有名」
女の子は開いたハードカヴァーの本で口を隠して楽しそうに笑った。
「時間ぎりぎりで有名人に会っちゃった」
「君はすごくラッキーだったよ」、と中澤は真顔で言った。
「それくらい有名だと、変装でもしないと外も歩けないんじゃない?」
「名前に姿はないんだ。僕の名前を知っている人のほとんどは僕の姿を知らない」
と中澤は説明した。名前に姿はないのだ。名前というのはときにそれが表す存在を無視してどこまでも膨張するし、知らない内に縮んだりする。中澤は自分の名前が膨張したり縮小したりという状況を何度も経験していた。それはたいてい無責任な第三者の口によって決定されるのだ。
「私はあなたの姿を知っているけど、あなたの名前を知らないよ」
女の子は頬杖をついて、中澤の顔を覗き込みながら言った。真っ直ぐに目が合わさると、中澤は久しぶりに顔が赤くなった。
「そういえばそうだね」、中澤は感心して頷いた。「まったくの逆だ」
「そういうのってどう思う?」
と女の子は訊いた。それが彼女の口癖であるらしかった。そういうのって、どう思う? 質問の仕方としてはあまり優れていない。漠然としすぎているし、曖昧すぎる。
「どうって?」、と中澤は訊いた。
「喋ってる相手の名前を知らないことについて」
中澤はそのことについて考えてみた。
「僕だって君の名前を知らない。でも君の名前をどうにかしてでも聞き出そうとは思わないよ。それでも僕は少しずつ君のことを知り始めているし、もっと知ることも可能だと思う。たとえ僕が君の名前を知らなくてもね。名前というのは便宜上の概念に過ぎないんだ」
中澤の説明に、女の子はあまり納得がいかないようだった。消極的に頷き、曖昧に首を振った。
「でも」
と女の子は言い、目だけをきょろきょろと小刻みに震わせ、少しのあいだ黙り込んだ。眼前にある空間から喋るべき言葉を探し求めているというふうな様子だった。中澤は静かに続きを待った。
「それは違うよ」、と女の子は言う。
「違うって?」、中澤は訊き返す。
女の子は首を振る。今度は強く、明確に振る。
女の子はそれ以上は何も言わなくなった。女の子の言葉の続きは、沈黙の渦に飲み込まれたようにぷつりと絶え、二度と浮かび上がってこなかった。中澤は読書室の中から少しずつ失われていく明かりを眺めながら、今日が終わり、明日が終わることについて考えた。そして次にやって来る一日について考えた。
陽が完全に姿を消し、読書室の中からあらかた明かりが運び出されてしまうと、中澤は女の子を連れて外に出た。そろそろ食事のことを考えないといけないし、貴重な時間を暗い図書館の中で磨耗させるというのも気が進まなかった。無限に近い時間のある平和な過去とはわけが違うのだ。
「構うもんか」、と言って、中澤はスーパー・マーケットのシャッターの鍵を蹴り壊した。女の子は目を丸くしてそれを眺めた。「どうせ持ち主なんかいないんだ」
中澤は店内を歩き回り、手提げに缶詰や水を入れた。電灯の直線的な光の末端はあちこちを駆けずり回り、酔っ払った俊足の魂みたいに店内を出鱈目に徘徊した。そのあいだ女の子は何も言わずに中澤について歩いた。しかし決して気を悪くしている様子ではない。喋るべき言葉をどこかで落としてきてしまい、それで何を言っていいか分からないというふうなだんまりなのだ。中澤が試しに女の子を菓子パンの売り場へ連れていくと、彼女は黙って栗の入った菓子パンを手提げに追加した。案の定、食欲はあるらしかった。
「今日、ひとつだけ分かったことがある」、と中澤は微笑んで言った。「きっと君は栗が好物なんだな」。女の子はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。中澤は乾物食品の売り場から甘栗を見つけて手提げに追加した。
家に戻ると中澤はミネラルウォーターで食器を洗い、皿に缶詰を空けてパンと一緒にテーブルに置いた。昨日よりはずっと食事らしい体裁をとっている。中澤は女の子と一緒にそれを食べ、食後に果物と、甘栗をむいて食べた。中澤が栗を五つ食べ、残りはすべて女の子が食べた。中澤はウィスキーを並べた出窓からマッカランのボトルをひとつ持ってきて女の子に勧めたが、女の子は首を振った。中澤はそれをひとりで飲んだ。
電気のない生活に慣れてしまうと、中澤は自分がそれほど電気を必要としていないことに気が付いた。とりあえず食事には困っていないし、とりたてて不便というようなことにも出くわしていない。暗いには暗いが、蝋燭の灯りというのも、じっと眺めているとどことなく温かみのあるもののように思えたものだった。炎はちょっとした空気の加減で容易く揺るぎ、照らしだせる領域はあまりに頼りなく、また女の子の声のように細く小さな存在だった。しかしその小さな灯りに照らし出された小さな世界の中に、中澤はこれまでに感じたことのない危うげな親密さを感じることができた。
「ときどきね」
と女の子は久しぶりに喋りだした。中澤はしばらくのあいだ、その言葉の続きを待った。そこには長い、長い沈黙が横たわっていた。掛け時計が時を数えるこつん、こつんという音が部屋の中を彷徨い、暗闇に飲まれて消えていった。一定の間隔で音は放たれ、彷徨い、行き先を求めて空しく消えた。
「急がなくていいよ。気が変わったんなら中断してもいい」
中澤はマッカランをひと口飲み、できるだけゆっくりとそう言った。女の子はしばらく目を瞑り、深呼吸をした。やがて自分のまぶたの裏に語りかけるかのように、静かに口を開いた。
しかしそこからはひと欠片の声も出てこなかった。スピーカーの壊れたテレビに映る人物のように、音のない開閉を彼女の口は繰り返した。そこからは音声になる前の段階にある切実なメッセージが、空気を震わすことも叶わず空中に垂れ流されていた。
「明日が最後の一日だ」
と中澤は言った。改めて口にしたその自分の言葉は、中澤の耳には非現実的な聞こえ方がした。長い時間を置いて、女の子は静かに頷いた。
目覚めると、部屋に女の子の姿はなかった。
『日本では夜明けの頃です』、とポータブル・ラジオから愛想の良い声が流れた。録音だか生放送だかは分からないが、ひどい環境で収録されていることはノイズにまみれた途切れ途切れの音声を聞けば明らかなことだった。
日本では夜明けの頃です。空が白みはじめ、星がひとつ、またひとつ消え、最後の一粒が見えなくなる頃にそれはやって来ます。時間帯としてはまずまず悪くないんじゃないでしょうか。だいたいの人は眠り込んでいる時間ですからね。新聞配達なんかをやっている人も、今夜は遠慮なく寝坊しちゃってください。どっちみち新聞なんかもう誰も読まない。誰も書かない。そうでしょ?
実はこの放送をするために、我々はけっこうな努力をしたんですよ。電気が通っていないから、近くの工事現場から発電機を盗んできたんです。もちろん盗んだって言っても引越し屋みたいにすっと運べるわけありませんよ。現場にあったクレーン車に積んで持ってきたんです。四トンのクレーン車。それでね、クレーン車に乗ったことのある局員なんかひとりもいないから、あっちこっちにぶつけてきたんですね。ブレーキが効きすぎて車内でも頭やら腰やらみんなしてぶつけるし、散々でした。正直かなり思い切りへこませたガードレールもありますが、まぁそんなわけで勘弁してください。夜明けにはガードレールもエッフェル塔もみんな吹っ飛んでますから。可愛いもんです、へこみなんて。
さて、最後の放送で何を伝えるべきか、けっこう考えてみたんですよ。大して痛くないから心配ないよとか、何かしらぐっとくる格言めいたこととかね。公表があったときも外国人のおじさんが言ってたじゃないですか。隣人を愛そう、我々にはそれができるはずだ! って。かっこいいですねぇ。実はああいうタグイの台詞もいくつか用意してあるんですよ。馬鹿みたいでしょ。
でもこれは音楽番組です。もう何年もポップソングを流し続けてきたんです。自慢じゃないけど、番組中に格言なんて一度も言ったことありませんよ。新人シンガーの批評と下ネタだけで大騒ぎするごく当たり前の番組なんですから。それでね、我々としては最後までその姿勢を、軟派なノリを貫きたいと、そう思っているわけです。だから何かしら心を打つ言葉を聞きたがる真面目なリスナーがこの番組を聴いているのなら、悪いことは言わないから違う番組を聴いてくださいな。といってもウチ以外に放送してる番組なんてありませんけどね。ライバルがいないって最高です。市場の独占。これが一昨年だったら大はしゃぎです。
この馬鹿でかい電子レンジみたいな発電機がいつまでもつのか分かりませんが、可能な限り音楽を流します。放送枠なんて関係ありません。ぶっ通しでまいります。二十四時間テレビならぬ二十四時間ラジオ。一度くらいはやってみたかったですよ。まぁ実際には二十四時間もないですけどね。せいぜい十八時間くらいじゃないかな。とにかくそういうわけでつまるところ、これからひたすら音楽を流すから、お気に入りの歌が聞こえてきたら合唱でもしてみてくださいなと、そういうことです。いいかな。鳴る?
(機械を操作する音。そしてアコースティック・ギターの音色が流れる。協和音と不協和音のあいだを縫って足跡ひとつない広い雪原の上にそっと降り立つような巧妙なギター・アルペジオ。『オーライ』と遠くからスタッフの声)
プレーヤーも生きてるね、オーケー。一曲目は『スカボロー・フェア』。冬が近づくとこれを聴きたくなるんだ。いい曲だよね。歌詞がまたすごくいい。もちろん和訳のカードを見なきゃ理解不能なんだけどね。ところで今はヒットチャートの情報なんかまったく入ってこないから、僕らの好きなものだけを流すことにする。つまり世代的に言って、ちょっとばかり古いものが中心になると思う。いいね? でもリクエストは無理だし、クレームも受け付けないよ。
「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」、中澤は擦り切れかけたレコードのような音に合わせて、呟くように歌った。
掛け時計の針は十一時を指していた。部屋に女の子の姿はなく、暗闇もなく、ウィスキーの匂いだけが昨夜からずっとそこに居残り中澤とともに最後の一日を迎えた。
中澤は電池で動くポータブル・ラジオの雑音で目を覚ました。彼が寝ているあいだに誰かが――もちろんそれはあの女の子であるはずだけれど、ラジオのスイッチを入れたのだ。それは女の子の残した何らかのメッセージであるように中澤には思えたが、単に隕石の情報を知りたくてひとりでチャンネルを回し、諦めてそのまま部屋から出ていっただけかもしれない。たぶん後者だな、と中澤は思った。ラジオのスイッチを入れていくという行為自体には、何ひとつメッセージ性が付随していないからだ。
『スカボロー・フェア』の歌詞が途中でわからなくなると、中澤はグラスに残ったウィスキーを台所に捨て、生ぬるいミネラルウォーターで顔を洗った。窓を閉め切っていたせいで部屋の中にはむっとするような熱気がこもり、胃袋の底に残ったウィスキーのこともあって中澤は重い吐き気がした。最後の一日なのにな、と中澤は思った。ひとりで熱気や二日酔いと闘いながらそれを迎えることになるなんて、ひどい話だ。
ラジオから流れる曲はその鼓膜を削り取るような調子のまま『いとしのレイラ』に切り替わった。イントロの特徴的なギター・リフが繰り返される中で、DJがその曲にまつわる自分の思い出話をし、エリック・クラプトンが唸るような声で歌い始めると聞き入るようにして黙った。中澤はそれを片耳で聴きながら、女の子について考えた。
それは違うよ、と女の子は言った。図書館で名前の話をしていたときだ。中澤には何がどう違うのかまったく分からなかったが、とにかく中澤は名前について自分の意見を言い、結果としてそれが彼女を沈黙の底に沈めてしまった。要するにそういうことだった。
……。
知ったこっちゃない、と中澤は思った。考えてもみれば、図書館で偶然出会ったばかりの女の子に執着する必要なんてまったくないのだ。状況がいくぶん特殊で、出会い方がいくぶん複雑であったために、それだけ印象深く感じているだけだ。黙りたいのなら黙ったらいい。出て行きたいのなら出て行けばいい。そんなこと僕には関係ない。中澤はもうひと口だけウィスキーを飲みたくなったが、ウィスキーの匂いのことを考えると吐き気が増した。それで諦めて、いつものように散歩をすることに決めた。
太陽は最後の力を振り絞って大地に強い光を叩きつけていた。空にはひとかけらの雲も見当たらず、メタリックなまでに晴れ渡った単色の青を敷きつめていた。中澤はアスファルトの地面を踏んで歩き、ときどき枯葉の砕けるからっという音がした。枯葉は女の子の着ていた上着のような色で、女の子の着ていた上着は枯葉のような色だった。中澤は彼女が穿いていた濃いグリーンのロングスカートのことを考えながら、ひとりで長い街道を歩いた。どこまでも歩いてやろう、と中澤は思った。どこまでも歩いて、歩き疲れてそのままどこかで眠るのだ。たくさん汗をかいて体内からアルコールを追い出し、飲みたいウィスキーの銘柄を数えながら服を脱いで、膝を抱えて、産まれたときの格好で他の多くの人間とともに死ぬのだ。
中澤は時間の感覚を失ったまま隣町の駅にたどり着いた。歩行という単調な作業に没頭したせいで、彼は自分の体内時計にあまり確信が持てなくなっていた。一時頃かもしれないし、三時頃かもしれない。それは分からない。時間を確認したくて駅舎に立ち寄ったが、駅の時計はすべて四時過ぎを指したまま死んでいた。電気の供給がストップした一昨日の夕方、同時に駅に流れる時間も塞き止められてしまったようだった。ふたつのレールしか通っていない小さな駅には動くものがひとつもなかった。切符売り場のわきで薄汚れたコートを着た老人が横になっていたが、重い扉の軋む音のようないびきをかいて身じろぎひとつなく深く眠り込んでいた。
身を寄せる家族もなく、頭を載せる枕もなく、老人は最後の時を、無機質な公共施設に敷かれた硬いタイルの上で迎えようとしているのだ。中澤は老人の丸まった背中を見て不憫に思った。もっと広々とした場所がある。もっと寝心地の良い場所がある。中澤は老人に教えてあげたかった。乾いた枯葉の心地よい音を。秋の終わりに空からそそがれる暖かな太陽光のことを。でも、なんにせよ、老人は自分の力でその場所を選んだのだ。それは尊重すべきささやかな選択であるはずだった。我々に死に方を選ぶことはできないが、少なくとも死に場所を選ぶことはできる。他人の選んだ場所にけちをつけることなんて誰にできるだろう。中澤にとっては寒々しくて寂しい場所であっても、老人にしか見ることのできない思い出や、人生をかけて見出した意味がこの場所にはあるのかもしれないのだ。中澤は自分の思い出について考えた。自分の歩んできた人生について思いを巡らせた。出会った人間の顔を順不同に思い浮かべた。
「本」
と、中澤は呟いた。彼の心に浮かんだのは、擬音語のような合言葉だった。
……。
僕が今後悔しているのは、苦労してこんな馬鹿でかい発電機を持ってきたはいいが、どうして酒の一本も持ってこなかったんだろうってことだね。不思議と誰も思いつかなかったんだよ。最後まで頭は仕事、仕事のことだけ。酒のことなんて全然考えてなかった。なんて真面目なんだろうね、僕らは。……待ってよ、笑いどころじゃないよ、ここは。
もうそろそろ陽が沈む頃かな。今日は今朝からずっと晴れてるから、まず間違いなく焼けるような夕日になるだろうね。みんな外出の際はサングラスを持って出かけましょうっと、大げさかな。ところで僕は、この夕日ってやつがあまり好きじゃない。まぁわざわざ話すようなことじゃないけど、色々と嫌な思い出があるんだ。夕日を見るたんびにそれを思い出すはめになるし、そのたんびに哀しい気持ちになる。でももちろんね、なんというか、視覚的に綺麗だなというのは分かるんだよ。一般論としてこれは素晴らしい眺めなのだなって、そう解釈することはできる。でも思い出っていうのは不思議なもので、何日何ヶ月何年経っても、ちょっとしたきっかけでふっと浮かび上がってくるわけだ。きっかけってつまり、景色とか、匂いとか、味とかのことね。単に僕の場合はそれが夕日なのであって、昔フラれた女の子の顔とか、受験に失敗した日の帰り道とか、夕日を見るとそういう記憶がふつふつと浮かんでくるわけ。そんなわけで僕は酒が欲しくても、今は外に出たくない。酒が欲しくても、夕日なんか見たくない。ねぇ、僕の言ってること分かる?
(遠くでドアの開く音。『ははは』とスタッフの笑い声)
ははは。面白いね。今ね、田辺君が慌てて酒を買いに出かけたよ。あ、じゃあ僕行ってきます! って言ってね。ああいう素直なキャラ、好き。気は利かないんだけど、頼まれたことは喜んでやっちゃうタイプ。気のいい奴だね。最後の日だっていうのに、率先してお使いに行ける子なんてそんなにいないよ。それともひょっとしてあいつ、ニュース見てないんじゃないの?
(『ははは』とスタッフの笑い声。手の平を叩く音)
さて、田辺君が戻ってくるまでのあいだ、彼が変な酒を持ってこないことを祈りつつこれを流そうか。『ブック・エンド』。なんだか今日はサイモン&ガーファンクルの特集でも組んでいるみたいだ。次は『明日に架ける橋』でも流そうか。それにしてもこれは冬になってから聴きたかったね。冬の名曲だもの。でも冬まで待つ時間なんてないから、今流しちゃうことにする。いいね? さっきも言ったけど、クレームは受け付けないよ。
……。
図書館は沈みかけた陽の光をその半身に受け止め、風景は一枚のロココ調絵画のように曲線的で物悲しく、不均衡であった。北で産まれた風がはるか遠くからやって来て、長い距離を歩いたせいで汗にまみれた中澤の体を冷やした。初めのうちそれは心地よく、しかししばらく図書館の佇まいをぼうと眺めているうちに、次第に中澤の体は寒さに震えだした。もう間もなく秋が終わり、代わりに冬が世界を取り込もうとしている。冬は何も知らないのだ。世界を冷やすことしか考えていない。
中澤は開きっぱなしの自動ドアをくぐり、暗い通路を進んだ。通路は外よりもずっと寒々しく感じられた。歩くたびに凍りつくような硬い足音が響き、コンクリートの壁面を跳ね返って膨張し、奇妙な消え方をした。中澤はそれが自分の足音だということに今ひとつ自信が持てなかった。もしかしたら僕の足音は一度コンクリートに吸い込まれていて、僕が耳にしているのはコンクリート自体から放たれたコンクリートの喘ぎ声なのかもしれない。だとしたら僕の足音はどこへ行ったのだ? 足音は僕の靴底を離れ、コンクリートの壁に飲まれ、そしてどこへ行こうとしているのだ?
読書室には誰もいなかった。女の子がいつも座っていた席にはぽっかりと穴があいたような空虚な残像が残っていた。中澤はかつてそこに座っていた少女のことを考え、少女の着ていた枯葉色の上着のことを考えた。細い黒髪のことを考え、暗闇に消え入りそうな細い声のことを考えた。しかし考えれば考えるほど、中澤は女の子の姿を正確に思い出せなくなった。気が付けば女の子の声の響き方さえ思い浮かべられなくなっていた。彼の頭の中にかろうじて残っていたのは、女の子が確かに存在していたはずだという確信、あるいは事実だけだった。記憶はたった一日のあいだに容易く薄らいでしまった。
中澤は書架から適当に本を選び、それを持って女の子の席に座った。本を開き、字を追おうとしたが、小さな活字を追いかけるには読書室の中はいくぶん暗すぎた。思い切り顔を近づけてなんとか読むことはできたが、これからもっと暗くなることを考えると馬鹿馬鹿しくなってやめた。中澤は諦めて、そのまま顔を突っ伏して眠った。もう何をする気力も彼には残されていなかった。そして眠りはすぐにやってきた。
……。
過ぎ去った日々 それは素晴らしい日々だった
それは無邪気な日々 自信に満ち溢れた日々
もうずっと昔のこと そうでしょう? ここに写真がある
思い出は大切にとっておくことです
それはあなたが失ったすべてのもの
夢の中で『ブック・エンド』の歌が流れた。中澤はそれを頭の中で日本語に置き換え、深い喪失感に満ちたその歌に合わせて鼻歌っぽく口ずさんだ。ポール・サイモンとアート・ガーファンクルの声が巧妙に重なり合い、その物悲しいメロディーを歌いあげていた。それは遠くから聞こえてくる歌であるように中澤には思えた。ぶ厚いフィルターを通して聞こえてくるような、くぐもった響きがあった。音は擦り減ったレコードのようにかすれ、ときどき素っ頓狂なハウリングに飲み込まれ、また浮き上がった。僕がこの歌を最後に聴いたのはいつのことだっただろう、と中澤は思った。きっと僕はどこかで、擦り減ったレコードを聴いていたのだ。それを今頃になって思い出して、夢に見ているのだ。でもどうして今になって時代遅れのフォークソングなんか思い出すのだろう。ひどい音質までくっきりと再現することができるのだろう。
しかし中澤は気が付いた。これは夢じゃない……現実の世界に『ブック・エンド』が流れているのだ。これはレコードじゃない。ひどい環境で収録されているあのラジオ番組だ。
中澤が顔を上げると、放り出した本の隣にポータブル・ラジオが置いてあった。黒いプラスチックに覆われ、艶ひとつない小さなスピーカーから頼りない音を排出している。中澤の家にあったラジオだ。中澤の隣には、当然のことのように女の子が座っていた。
「やぁ」、と中澤は言った。
「こんにちは」、と女の子は言った。
中澤はしばらくのあいだ、ラジオから流れてくる音楽に耳を傾けながら女の子の顔をじっと眺めた。読書室の中はやはり暗く、暗闇の中に女の子の影がかろうじて認められる程度だった。しかし中澤は、誰かが隣にいるというだけで気持ちが落ち着いた。
「名前というのはね」
と女の子は言った。はるか昔から引っ張ってきた平和な物語の続きのように、優しい響きがそこにはあった。
「すごく大切なもの。それを呼び合う相手が、私たちには必要だったんじゃないかって思うよ」
中澤は頷きかけたが、暗闇の中ではそれを、きちんと言語に置き換える必要があった。
「君の名前を知りたい」
「それを待ってたんだよ」
女の子はようやく笑った。
ふたりの背後にある窓は、焼けるようなだいだい色の風景をその外側に映し出していた。間もなく陽が暮れようとしている。そのあとにやって来る暗闇のことを、中澤はひとまず忘れることにした。構うもんか、と中澤は思った。暗くなったら蝋燭に火を灯せばいい。そこに照らしだされる小さな世界は、親密な空気で満ちているから。そこで眠ろう。深い眠りの中で『ブック・エンド』を口ずさみながら。そして目覚めたとき、ふたりで長い、長い自己紹介をするのだ。誰にもそれを邪魔することはできない。たとえ空から馬鹿でかい石が降ってきて、僕らの体を砕き世界をふたつに切り裂いても。
了