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新訳 その人の名は狂気  作者: 無道
第1章 目覚める狂気
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指針

 枕元の携帯がバイブレーションで震える。

 それを手探りで止めると、俺は布団から這い上がった。


「ふぁああ……」


 大きく伸びをし、腰を回す。寝起きで固まっていた関節が音を立てた。カーテンを開けると、途端に眩い陽光が闇に慣れた視神経を刺激する。


「~~ッ。今日も良い天気だなぁ」


 ぼやいた俺は寝巻きに使っているスウェットからいつものジーンズとTシャツに着替える。ジーンズはスポーツジーンズという伸縮性の生地が使われているもので愛用してるものだ。冷蔵庫を開けると、中から卵と納豆を取り出してガスコンロに置かれた鍋に火を点ける。中は昨日作り置きしておいたわかめと豆腐の味噌汁だ。

 三分前に炊けていたご飯をどんぶりに山盛りでよそい、そこに納豆と卵を溶かして入れる。その頃には味噌汁も白い息を吐き、火を止めるとそれもお椀に注ぐ。

 それらをテーブルに置き、正面にあるテレビの電源を付ければ準備完了だ。俺は両手を合わせる。合掌。


「いただきます」


 言うが早いか、ごはんをかきこむ。美味い。今日も平和だ。

 テレビからはニュース番組が流れていた。味噌汁を啜りながら、何の気なしにそれを眺める。


『――繰り返しお伝えします。昨日から依然として続いています大規模な暴動「インフルエンス・パニック」は、未だ治まる気配を見せておりません。この放送を見ている方は、慌てず冷静に、戸締りを厳重にして外出を控えてください』

「――ふはっ」


 顔を強張らせて原稿を読み上げるキャスターを見て可笑しくなる。政府は非常事態宣言を出してるんだ。それなら今そうやって仕事をしに外に出てるお前はどうなんだよ。

 俺は立ち上がり、居間の窓を開ける。爽やかな風が体を突き抜け、部屋に涼風が入り込む。今日は昨日より涼しいな。気持ちの良い風が頬を撫でるのを感じながら、俺はそっと耳を澄ます。

 外から聞こえてくるのは、蝉の声だけ。それ以外は何もない。車の走る音も。学生の笑い声も。どこかで、爆竹のような音が散発的に響いた。


「今日も派手にやってんなあ――」


 だが、昨日はもっと酷かった。ほぼ絶えることなく町中では悲鳴や絶叫が木霊し、夜も眠れないくらいだった。まあ個人的には満足すぎる一夜だったが――。

 部屋の隅に転がる空のビール缶や焼酎のボトルを見て苦く笑う。流石に昨日ははしゃぎすぎたか。これからは酒の入手も困難になるかもしれないのだから今度からは少し自重しないとな。


『――政府は昨夜、正式にインフルエンス・パニックの原因を「未知の感染症によるもの」とし、今のところ治療する手段はないと発表しました。これを受けて、一部感染した親族団体から感染者への暴力に反対する声明があるなどして、今期の内閣支持率は更に低くなるだろうという見解が示され、今年中に解散もあり得るとみる専門家の声もあります』


 ニュースキャスターは、相変わらず緊張した顔と声で、ふざけているかと疑うようなことを話している。今まさに日本、いや人類が滅亡するかもしれないという状況で、人権がどうのだの支持率がどうのだの言っていられる。もし今のこの街の様子を直に目で見れば、きっとそんなことなど言ってられなくなるだろう。

 眼下にはあちこちに死体が転がり、その倍の数の感染者が我が物顔で道を闊歩している。その感染者たちに五体満足な奴などまずいない。四肢のいずれかが千切れたり、腹から飛び出た腸をアスファルトに引きずっていたり。どれも目も当てられないほどひどい有様だったが、俺の心には波風一つ立たない。俺の心は本当に人間の物ではなくなってしまったらしい。猟奇殺人犯ってのは、案外こんな心の持ち主なのかもしれないな――


 乾いた銃声がまた響く。

 さて、これからどうしようか。今後の身の振り方について俺は考える。

最優先で考えるべきは自分の生きる糧――他人の絶望や恐怖、悲嘆だ。その次に自分の命が勘定に入る。つまり、生存者にとっては俺は本当に敵でしかないということだ。感染者みたいな身体能力はないが、知恵がある分だけ俺の方が厄介だろう。人類共通の敵役(エネミー)


「昂ぶるぜ……」


 それを踏まえたうえで今後の立ち回り方は二つ。一つはこのまま自宅(ここ)を拠点として、一人で自由にやっていくこと。これは倫理上の制約もないし気楽だ。一人しかいないから飢餓の心配もない。ただし、一人だからこその問題――感染者の襲撃はないが生存者からの襲撃などが生じる。ただ、それらを踏まえても俺個人の生存率は高く、今の所一番無難な案に思えた。

 もう一つの案は、一般人として生存者の集団に紛れ込み、共に生活するという案だ。これは命の危険が多いうえに制約も多い。他の生存者に俺の感染者からの不可視能力がバレれば、確実に面倒なことになる。俺が既に噛まれたことがあることも含め、俺の経緯は秘密にしなければならない。しかも集団でいれば、食糧は全員で分けなければならないし、集団だからこそのトラブルも絶えないだろう。前者の案に比べれば生存確率はぐっと下がる。


 しかし逆に――俺が求めるものが手に入るか、という点では群を抜いてトップの案だろう。なにせ、俺が欲する他人の感情がすぐそこにあるのだ。人の目をかいくぐることが出来れば、自分の手で好きなだけ絶望を生み出すことが出来る。意図して内部分裂させて全滅に追いやったり、周りの目をかいくぐって一人攫って監禁、拷問したり。何より、人の輪に入ることで集団の人間関係を把握でき、それを利用して更に絶望に追い込むこともできるのだ。今の時点で浮かんでいる凄惨なショーを親友や恋人、家族でやらせたり……。


 ぶるりと体が震えた。想像しただけで体が熱くなる。そうだ、先ほど考えたばかりじゃないか。最優先事項は、己の欲望――


「……準備するか」


 方針は決まった。あとはそれに準じて行動するだけだ。

 俺はクローゼットを開き、奥から登山用の大型リュックを引っ張り出すと、てきぱきと荷造りを始めた。

 持っていくものは必要最低限に。どうせ集団に合流すれば、持っている食糧は共有することを迫られるのだ。保存のあまり利かない野菜などを主に、リュックの二重底の下に缶詰や乾パンなどを入れておく。あとは着替えや小物を少し入れ、更に小さめのリュックを中に入れるとリュックのボタンを留めた。リュックにはまだ余裕があるが、感染者に襲われないとはいえ、あまり重いといざという時に邪魔になる。最悪もう一度この部屋に戻ってくればいいのだ。十分程度で身支度を終えると、俺はスマホで街のホームページを開いた。

 どうやらうちの街では、避難所への移動を推奨しているらしい。結構な数の住民が近隣の学校や施設に避難しているらしく、とりあえずは俺も避難所へ行くのが手っ取り早いだろう。


「ここから一番近い避難所は……華和小学校か」


 華和小学校は、ここから歩いて二十分くらい歩いた小高い丘の上に位置する市立の小学校だ。俺が通った小学校はそことは違うため直接入った事はなかったが、学校の校舎自体は新築とは言えないまでも、そこそこ新しかったはずだ。学校を囲う鉄柵もあったし、よっぽど馬鹿でなければまだ陥落していないはずだし、まずはそこを目指してみるのが良いだろう。

 スポーツシューズを足にひっかけ、玄関の扉を開く。

 アパートの廊下には尾を引くような血の線が残っていた。

 あの時の光景を思い出し、俺はほくそ笑む。


「あんなのがまた見れるといいな」


 俺は陽気に『さんぽ』を口ずさみながら、太陽の下にその身を晒した――。


読んでいただきありがとうございます!

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