愉悦
この話は自分で書いていてどこか物足りなさを覚えたので、何かお気づきの点などありましたら、読んだ後に感想いただければと思います。
「……入るわよ」
そのとき、控えめなノックと共に、校長室に入ってきた人物がいた。
その見知った人物に、和彦は一瞬窒息しそうになる。
部屋に入って来たのは、灯さんだった。
「……西側のバリゲートの近くに、こんな物が落ちてたって弥生さんが」
そう言って手に持った物を渡した灯さんは、今まで見たこともないくらいに憔悴していた。
「……灯さん、大丈夫?」
「……ええ」
躊躇った末にそう問いかけたが、返ってきた返事には明らかに覇気がない。氷細工のような精巧な美貌を持っている彼女だったが、今や本当に触れれば砕け散ってしまうような儚さをたたえている。
彼女は……灯さんは帰ってきてからずっとこの調子だ。
俊介を見ると、困り顔で頷いた。いまはそっとしておいた方が良いということだろう。
そして、姫路たちは姫路たちで何かあったらしく、仰天した声が聞こえた。
「――どうしたんだ?」
姫路と千羽が見ていたのは、黒いカバーに入っているスマートフォンだった。
少し汚れている以外はどこにでもある、普通のスマートフォンだったが、次の千羽の一言を聞いて、二人が驚いた理由が分かった。
「この携帯が、どうかしたのか?」
「このスマホは、確か早川が持っていた物です」
「ッ! そういえば今朝、早川が見つからないって……」
「ええ。そして今も、早川の居場所は分かっていません」
「……」
難しい顔で姫路のスマートフォンを睨んでいた姫路だったが、突然血相を変えた。
何故なら、その携帯に、突然電話が掛かってきたからだ。
『ッ!』
電話はパニック当初、回線が混雑しているとかで全く使えなかったため気づかなかったが、そういえば電話の機能自体はまだ使えたのだということをそのときになって思い出した。
電話の相手は非通知。姫路は、恐る恐るといった様子で通話ボタンを押し、周りに聞こえるようスピーカーモードにした。
「……もしもし」
『――よお、随分出るのが遅かったじゃねえか』
「――――――――え?」
その聞き覚えのある声に全員が思考停止に陥り、やがて一人が呆けた声を上げた。
「……と……もや……?」
真っ先にその答えに辿りついた人物――灯さんは、フラフラとした足取りで声の発信源へと歩み寄っていく。
『その声は……灯か。お前も無事だったみたいだな』
「智也こそ……生きてたの……? 本当に……ッ?」
後半の声に嗚咽が混じる。見ると、灯さんの瞳から、一滴の涙が頬を伝っていた。
そこで和彦も我に返る。生きてる。本当に。八代さんが生きてるんだ!
「――八代さんっ!! 和彦です! 本当に八代さんなんですね!?」
『ははは、おいおい、落ち着けって。そうだよ、俺はその八代だからそう慌てるなって』
呆れ声の返事に、和彦は嬉しさで興奮する一方、何か違和感を感じて冷静になっている自分もいた。八代さんが生きている。姫路たちとも完全に和解したことに続いてこんなに嬉しいことはないのに、何かが引っ掛かる。そう、何か重大なことを見逃しているような……。
そこで、タイミングを見計らって姫路が八代さんに話しかけた。
「……やぁ八代さん。カズくんとあーちゃんも喜んでいるみたいだし、私も生きてくれていて嬉しいよ」
話す内容に反して、姫路の声音は硬い。よく見れば、姫路だけでなく千羽や俊介までも怪訝な表情を浮かべていた。
『そうかい。けど、その割に浮かない声音だな?』
「それはそうだよ。だって――普通あんなになったら死ぬでしょ」
姫路の言葉はガツンとハンマーで殴られたような衝撃を俺に与えた。
「……和彦、常識的に考えて、あの化け物の一撃で八代さんが無事なわけないんだ。仮に生きていたとして
も、なんですぐに俺たちと合流せず、今電話を掛けているんだ?」
俊介の諭すような言葉に、先ほどまで感じていた違和感の招待が、パズルを埋め込むかのように明瞭になっていく。
探索に出る前、八代さんは何を主張していた?
そもそも今、誰の携帯で八代さんは電話を掛けてきている?
今この瞬間にも、何か違和感が無いか?
『ハッ、そんなことを悠長に訊いてていいのか? 本当はお前が真っ先に知りたいことがるはずだぜ。例えば、『この携帯の主はどうした?』とかな?』
「ッ……! やっぱり、知世ちゃんはアンタが……!」
『――あっははははははは!! 良いねぇ! 受話器越しでも伝わってくるぜ、お前の殺意が! そうこなくっちゃなぁ!』
「や、八代さん……」
最早、口調も態度もまるで違う八代さんの豹変ぶりに、和彦はこの電話の相手が本当に八代さんなのか疑いたくなった。だが、聞き覚えのある独特の低い声は、間違いなく俺の記憶の中にある八代さんの声と一致する。
一体何がどうなっているんだ。
「神奈、落ち着いてください! ……おい、お前の目的はなんですか? 報復ですか? 復讐ですか?」
『ああ? その声は千羽か。つまらねえこと聞くんじゃねえよ。てめえらがおっさんたちを何人も殺したことも、俺を奴隷にして好き勝手したことも、どうでもいいことだ。ただ俺は――』
『――愉しみたいだけなんだよ』
『――ッ!?』
その瞬間、外からの光が急に強くなり、全員の視線が窓へと移り、驚愕した。
学校のすぐにある十字路の向こうから、ライトを点けた大型トラックが一台、ゆっくりとしたペースでこちらへと向かってきていた。そして、そのトラックの後ろから追随してくるのは、そう、無数の――
感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者感染者――――――――。
「――――な、なんなの。なんでここに感染者の群れが……!?」
「百……いや、それ以上……。まさか、八代さんが呼んだとでも…!?」
それは正に悪夢のような光景だった。
本来、超人的な身体能力を持ち、また一撃でももらえば感染してしまう特性を持っている感染者を相手取るには、個人差はあれど、少なくとも三人、多ければ十人は必要だ。桜坂高校に今いる人間すべてを数えても五十人には満たない。それでどうやって、こちらより『数の多い』感染者と闘えと言うのか。
「……地獄だ」
誰かの口からふと洩れた一言は、桜坂高校でその光景を目の当たりにした全員の心を代表したものだった。
桜坂高校――和彦たちの聖域へとゆっくりと歩を進める感染者は、時代が違えば戦地に赴く兵隊のようにも見えただろう。だが、目の前に迫る奴らにはそのような愛国心も忠義心も無く、あるのは人を喰うという破壊的な衝動だけ――。
『あはははは!! すげえ数だろ! こんだけ集めるのにも苦労したんだぜ。まあ、もうちょい時間もあればもうちょっと揃えられたんだけどな。まあ一人三体くらい倒せばなんとかなるんじゃねえか?』
耳をすませばここからでも感染者のうめき声が聞こえてきそうだ。言葉を失う俺たちにその人は――今あのトラックを運転しているだろう八代さんは、本当に愉しそうに“嗤った”。
『四十九の人間対百十一の化け物……。さあ、それじゃあ始めようじゃねえかーーお前らが散々やってきた、最期の審判ってやつをなあ――』
読んでいただきありがとうございます。




