奴隷小屋
「……大変なことになってしまったな」
「そうですね……大丈夫か、和彦」
「ぐ……ふぐ……」
岸本が途方に暮れたように嘆息し、岡崎が同意を示す。あと王馬、えずくのが良いが、絶対にここでは吐くなよ。ただでさえ糞みてぇな匂いのするこの部屋が益々酷ぇことになっちまう――。
「――アンタたち、新しくここに連れてこられた人たちかい?」
黒一色の視界の中、突然部屋の奥の方から枯れたような声を掛けられる。周りの奴らは驚いたように息を呑んだが、俺は入った瞬間からそいつらの存在に気づいていた。隙間風みたいな弱い息遣いが聞こえてたからな。
岡崎たちは警戒するように口を噤んでしまったので、代表するように俺が闇に向かって問いかける。
「……あなたたちは?」
「私たち君たちより前に連れてこられた男、言ってしまえば先輩の奴隷さ。――ああ、まだそんなに若い人もいるなんて。奴らには本当に人の心が無いのか……!」
その言葉から、どうやら向こうからは俺たちの事が多少なりとも見えているらしい。まあ、ずっとこの暗闇の中にいるのだから有りえなくはないか。幸い、扉の隙間からほんの僅かだが光が漏れているお陰で、段々と近くの物の輪郭だけは見えるようになってきた。
「……申し遅れました。僕は八代智也と言います。よかったらここについて何か教えていただけませんか? 僕達は元々避難所に指定されていたここを目指してやってきたところをいきなり彼女たちに襲撃されまして、何が何やらほとんど分かっていないんです」
ほとんど分かっていない、というのは嘘だ。先ほどの体育館の一件で、奴らに何があったのかはおおよそ検討がついている。それでも、それを裏付ける確証と、少しでも利用できる情報がないかを探るため、俺は疑問を口にした。
「……私たちも元々は、避難所に指定されていたここに避難するためにやってきた。インフルエンス・パニックが発生して数日のうちは自宅に立てこもり、近所の人たちと食糧を分け合いながら過ごしていたんだが、それも限界が来てね。何とか必死に桜坂高校までたどり着いたと思ったら既にこの有様だった。大人がほとんどいないし、男性に至っては一人も見当たらなかった。拘束された私たちはやがて髪の赤い少女の言う『審判』とやらを受ける羽目になり、そこで独り身だった男は殺され、家内や娘を持っていた私たちは、家族の安全の代わりに奴隷行きさ」
そう言って闇の中、男は湿った溜息を吐いた。魂までも抜け落ちそうな、深い溜息だった。
やがて鮮明になってきた視界の中で溜息を吐いた男の『欠損した』身体を見たとき、俺は妙に納得した。あの深い溜息は人生を既に諦めた者のだったなら理解できる。
――まあ、おおよそ予想通りだったな。
大して驚くこともなかったが、他の奴らにとっては違ったらしい。暗闇の中で男の姿を確認した者の喉から引き攣った悲鳴が漏れ出た。
「ね、ねえ、変ですよ。あなた、右腕が短すぎじゃないですか……?」
「そんな、まさかここまでするなんて……、一体どうして………」
王馬が茫然とし、岡崎が声を震わせて疑問を口にする。背後でぺたんという音が聞こえた。岸本さんが腰を抜かしたらしい。
おいおい、そんなんでこれからやっていけんのかよ――。
「腕は奴隷になってすぐに切り落とされたよ。反抗的な態度を取った罰と、周りへの見せしめの意味を込めてね。碌な医療器具もないからね、私はもう長くはないだろうね――」
「……ッ、どうしてこんなことっ! やっぱりあいつら狂ってますよ!」
我慢ならんとばかりに叫んだ王馬の声が部屋に木霊する。幸い、外には聞こえてないだろうが、あまり勧められる行為じゃない。
事実、男も力のない声で王馬の軽率な行動を諫めた。
「私のようになりたくなければ、今後は彼女たちに反抗的な姿勢を取ってはだめだ。奴らは私たちを同じ人だとは思っていない。早ければ明日にはその意味も分かるだろう。何をするにしても今日はもう休でおいた方が良い」
なまじ死期を自覚しているせいか、男は冷静で、言動は理に適っていた。
俺もやんわりと男の言葉に同調し、とりあえず適当な所に座り込む。埃っぽく、糞尿がそこらじゅうに垂れ流されているであろうここには、あらゆる細菌が蔓延してるだろう。いくら感染者に対しては無敵だろうと、それ以外は一般の人間と変わらない身体だ。自分だけでもなるべく清潔を保った方が良いだろう。
今日は華和小学校に行ってからまさに激動の一日だった。少しでも休もうと俺が目を瞑った時、ゆっくりと部屋の扉が開いた。
突然差した光に目を細めると、やがて心配そうな声が聞こえてきた。
「智也……皆さん……無事ですか?」
「灯……どうしてここに」
光を背負ってやってきたのはあれから散り散りになっていた灯だった。
やがて目が慣れてくると、灯の顔が真っ青になっているのが分かる。それはこの部屋の匂いのせいか、奥で横たわる男たちのせいか。
とにかく、灯は桃色のトレーに缶詰を乗せてこちらにやってくると、その缶詰を一つ渡した。
「あの千羽って人の命令で、私が皆の身の回りの世話をすることになったの。私の他にも、ほら、ここにいる人の家族もそれに選ばれたわ」
見れば、入り口から二、三人の女が入ってきて、奥にいる男達に駆け寄った。おそらく家内か何かなのだろう。
「あんた! こんなになっちまって……ぐずっ」
「おぉ、痩せたなぁ幸子……」
瀕死の夫に駆け寄り涙を流す女。感動的な場面だが、女がもう少し若ければ見栄えもあったろうな。あんなオヤジとババアの三文芝居観ても何も興奮しねえよ。
そこで頬の辺りに視線を感じ振り返る。灯は王馬や岸本にも缶詰を配りに行っている。気のせいだったか?
「ちーす。お食事は配り終えたっすかねぇ」
そのとき、入り口から新たに人影が伸びてきた。ツンツンに逆立った髪型。ウルフヘアの少女だ。
「うわ、ていうかやっぱここ臭すぎ。よくこんなところでご飯なんて食べられるっすね」
「そりゃここに監禁されてるからね……」
俺が自嘲気味にそう言うと、ウルフヘアはこちらに向かって歩いてきた。
何事かと訝しんだとき、彼女は腰から警棒を取り出し、瞬きする暇もない速さで俺の横っつらを思い切り振り抜いた。
「づっ!?」
「智也さん!?」
口の中で骨の軋む音が鳴り、視界がチカチカ明滅する。一秒でも歯を食いしばるのが遅かったら歯の何本かがお釈迦になっていた衝撃だ。
「お、よく歯取れませんでしたね。『教育』ついでに二、三本はもってくつもりでやったんすけど。これは教育のしがいがありそうっすね」
「お、お前! 何てことを――ごふゅ!?」
「うるさいっす」
顔色を真っ青にしながらも、王馬がそう食って掛かった瞬間、奴の顔にもウルフヘアの警棒がめり込む。ミシリとこちらにまで聞こえてきた骨の折れる音。あれは鼻の骨いっちまったかもな。
「あがあああああああ!! ぱがっ!?」
「だからうるさいですって」
激痛に悲鳴を上げた王馬に更に激痛を与えて黙らせるウルフヘア。体調を崩している状態で二度も殴られた王馬は気絶したのか起き上がる気配は無い。
「あのですね、皆さんもう少し自分の立場を考えた方がいいんじゃないっすか。自分は姫路先輩と千羽先輩以外で、唯一奴隷の生殺与奪の権利を持ってるんすよ。あんまり舐めた口きくとこれでアンタ等の口内吹っ飛ばしますよ」
『ッ!』
そう言ってウルフヘアが取り出したのは漆黒の拳銃だった。銃には疎いためよくわからないが、テレビドラマなどで警官が持っているタイプと同じように見える。
「――やめて」
「およ?」
「銃」という絶対的な死の象徴に全員が固まる中で、灯が立ち上がった。そこには、以前大学で見たような感染者に震える彼女の姿はなかった。
「彼等は奴隷になる代わりに命の保証だけは約束されたはずよ。それをあなたのどうでも良い気まぐれで破るのはおかしいわ」
「それを言うならおかしいの灯さんの方っすよ。何で女性のあなたがそんな奴らを庇うんですか」
ふとウルフヘアがこちらを一瞥する。その顔は緩められていたが、瞳には俺たちへの確かな殺意と嫌悪感が宿されていた。
「これだけは言っておくっすけど、ここにいる自分ら全員が姫路先輩と同じ考えとは思わない方がいいっすよ。中には、男を庇う灯さんを今すぐ『処分』した方が良いって思っている娘も少なくないんすからね」
「ええ、分かってるわ」
ウルフヘアの脅しにも、灯は鷹揚に頷いた。そしてチラリと俺を一瞥した。
「……相当その人に入れ込んでるみたいっすね。まあ、自分はそこまで過激派じゃないんで別に良いんすけど。じゃ、自分は部屋の外にいるんで、食事と掃除が終わったら呼んで下さいね」
ウルフヘアが肩を竦めると、途端に張り詰めていた空気も弛緩する。
ヒラヒラと手を振って彼女が部屋を後にすると、誰からともなく溜息が出た。
その後は急かされるように灯と女たちは部屋の掃除を始めた。暗闇によって隠されていた部屋の匂いの根源を見た女たちは一様に顔を蒼白にしたが、嘔吐きながらも、誰もやめようとはしなかった。
やがて部屋中にまき散らされていた汚物は片付けられ、饐えたような匂いもかなり緩和された。
それを入り口から眺め、感心したように頷いたウルフヘアは、
「ほあー。だいぶマシになったっすねー。おじさんたちは良い奥さんをもらったもんですねー」
と言った直後に、
「今度は綺麗に使わなきゃ駄目っすよ?」
と悪戯っ子のような顔で付け足した。何が綺麗に使えだ。大方、トイレにすら連れて行かず、ここに隔離していたのだろうに――。
ぐるりと部屋の中を見渡し、満足気に頷いたウルフヘアは腰に手を当てた。
「それじゃあ皆さん食事も終わってるようですし解散としますか。ほら、灯さんたちも戻るっすよ」
「も、もう少しだけ時間を」
「――くどいっすよ。二度も言わせないでほしいっす」
ウルフヘアの顔から表情が消える。声が一段低くなった。ゾワリ、と一瞬心が掻き立てられる。
「……分かり、ました」
女の一人が頷いたことで、他の女も名残惜しそうに部屋から出て行く。灯りが部屋を出る前にこちらを振り返った。
「……必ず助けるわ。だから諦めないで」
やがて全員が退出したところで、残った女、ウルフヘアは手に持っていた空のペットボトルを投げた。
「就寝前と朝食前に、見張りの子がここに来るので、トイレはそのときにでもしてください。我慢できなかったらそれでも使ってどうにかしてください。奴隷の生活環境は清潔さを保つよう、先ほど姫路先輩から言われました。これを守れなければあなた達の命も保証しないのでどうかそのおつもりで――それじゃ、明日は朝九時からお仕事なのでそのつもりでお願いしますっす!」
調子を戻したウルフヘアは扉に手を掛けたところで、
「――蛇足ですけど、ちなみに自分は早川知世って言います。一五七センチ、四十七キロ、歳はピチピチの十五歳。――趣味は人を痛ぶること、またはそれを鑑賞することっす。あなた達が来る前にももう少し人はいたんすけど、二日くらいで『壊しちゃった』んで、皆さんは長持ちするよう祈ってるっす♪」
てへぺろ、とウルフヘア、もとい早川はポーズを決めると、今度こそ、この場を去っていった。
あまりの鮮烈な自己紹介に、最初は誰も口を開けなかった。
やがて、恐る恐ると言った様子で、岡崎が虚空に問いを投げかける。
「えと、今の娘が言っていたことは……」
「――本当だよ。俺たちが入れられた時、ここには他にもう何人かいた。全部あのイカレ女に殺されたけどな」
答えたのは先ほどとは違う、粗野な男の声だった。忌々しいと言った感じの男だったが、その言葉の裏に早川への確かな恐怖があるのを俺は見逃さなかった。
そこで奴隷の男の一人が、「明日も仕事があるから」と締めたことで、全員が雑魚寝になり、目を閉じた。誰も、岡崎ですら何も喋らず、すぐに寝息が聞こえてきた。思うことは全員あったのだろうが、身体が休養を欲していた。すぐに深い眠りに落ちてしまうくらいには、俺たちも疲れていた。
ゆっくりと睡魔が落ちてくる中で俺は明日に思いを馳せる。だがそれは、決して他の奴らのように暗いものではない。むしろ明日何が起こるのか、少し期待している俺がいた。
「趣味は人をいたぶること。またはそれを鑑賞することっす」
先ほど早川が話したことを思い返す。あいつはどんな方法でここに今はいない奴隷を殺したのだろうか。姫路を俺の物にするのも楽しみだが、奴とも気が合いそうだ。気が向いたらペットにでもしてみようか。
まるで遠足を待つ子供のように、俺は微睡の中で意識を手放した。
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