丸眼鏡の少年 前
「大丈夫か? なんであんな無茶をした」
「……言ったでしょう。あなたは命の恩人だもの」
「……余計なお世話だ」
灯が立ち上がるのを確認して、俺はさくさくと移動を再開する。それに灯が速足で隣に並ぶ。
「なぜ怒ってるの?」
「女に守られて気を良くする男なんていねえよ」
いくら外道と化しても、こういう価値観自体は以前のまま変わらない。
『男が女よりどうして腕っぷしが強いのか、それは男が女を護るためだ』
一馬が度々口にしていたことだ。今では男女差別とも捉えられかねない考え方だが、不思議と今でもこの考え方は嫌いじゃなかった。
自分でもわかるくらい仏頂面の俺の顔を、灯は不思議そうにのぞき込む。
「……あなた、さっきまで大学で助けてくれた時とは雰囲気が全然違うと思ってたけど、やっぱりそっちが本物?」
「……そうだよ。生憎人見知りでな。大勢の前だとしおらしくなっちまうんだよ」
「あれはしおらしくなるとは違うと思うけど」
風向きが変わった。空気が緩む。
見ると、灯は僅かに微笑んでいた。雪の中から小さく芽を覗かせた程度の笑みであったが、俺は自然と体が軽くなったような気がした。
それからも何度か感染者と散発的に遭遇したが、道中での感染者との戦闘は不思議なほど少なかった。その代わりと言うか、感染者は屋内や物陰に潜んでいるケースが多く、灯が指摘しなければ見逃していた感染者も幾体か遭遇した。
今は華和小学校に続く坂を下り、とりあえず桜坂高校方面へと歩いている。目に見える範囲、聞こえる範囲では、感染者の気配はない。
「お前さん、よくあんなところにいた感染者に気づいたなぁ」
「なんとなくそこにいた気がしたのよ。私も気をつけてみるけど、あなたも注意して。身体能力で大きく劣る私たちが不意を突かれたらひとたまりもないわ」
「……まぁな。けど、なんだって今日の感染者はこんなかくれんぼみたいなことしてるんだろうな。まさか感染者が隠れる知恵を身に付けたとかだったら洒落にならんぞ」
「いえ、今日出会った感染者にも相変わらず知性のようなものは感じなかったわ。物陰に潜んでいるのにはもっと違う理由があるんじゃない?」
「違う理由、ねぇ」
一応考える素振りはするものの、正直感染者についてそこまで真剣に考えてはいない。どうせ見えないからな、俺は。
「こういう時は大抵いつもとは違う条件に目を向けるのが基本ね。昨日までと今日で違うことと言ったら何かしら」
しかし、感染者に襲われる可能性がある一般人には死活問題だ。灯が手を軽く顎に添え視線を落とす。理知的な彼女がこういう仕草をするととても絵になる。
「うーん、せいぜい雨降ってるくらいだよな」
「ええ、やっぱりそれしかないわよね。とすると……感染者は雨が嫌い、てところかしらね」
「はっ、ああみえて清潔好きってか」
そのとき、少し先にある喫茶店から路上に人影が飛び出した。感染者かと身構えるが、悲鳴を上げて助けを求めてるあたり、おそらく非感染者だろう。まあ、既に噛まれている可能性はあるが。
「た、助けてぇえええ!」
「おいおい、こっちに逃げて来んなよ……」
予想通り、次いで喫茶店から飛び出してきたのは蒼白い肌をした片腕のない学生服の少年――感染者。感染者は獲物を求め、ぐんぐんと男との距離を縮めていく。
「どうする?」
「感染者と競争しても勝てないわ。頼ってばかりで申し訳ないのだけど、お願いできる?」
「りょーかい」
他の人にとっては命がけでも、俺にとって感染者一体を仕留めるなど人を殺すより簡単だ。だから灯、そんな顔をしなくてもいいんだぞ。
俺は男に向かって走り出し、男とすれ違った直後、そのすぐ後ろまで迫ってきていた感染者に鉄パイプをお見舞いした。
肋骨を砕かれた感染者は衝撃でアスファルトに転がり、倒れたところに俺がマウントを取る。
「キシャァアアアア!!」
「わざわざありがとよ」
叫ぶ感染者の口内に鉄パイプをねじ込み喉を貫く。感染者の開いた口から洩れる濃厚な死肉の匂い。痙攣してやがて動かなくなったのを確認すると、俺は鉄パイプをそっと抜いた。
「――あなた、怪我はない?」
「あ、ああありがとうございます……!」
灯に問われ、震える声で感謝の言葉を告げる男。もやしのような体型に特徴のないヘアスタイル、黒縁の丸眼鏡が唯一の特徴のその少年は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を手で乱暴に拭う。
「危ないところだったね。君は一人であそこにいたのかい?」
急に口調を変えた俺の態度を胡乱気に見つめる灯を無視して、俺は「どうかな?」と好青年の面をかぶる。
「は、はい。実は、昨日まではここの近くで避難所になってた華和小学校ってところにいたんですけど、ちょっと色々ありまして……」
「なんだ、君も華和小学校から逃げてきたのかい? それなら、僕達と同じだ」
「え、そうなんですか!? よ、よかったぁ。僕の他にも、逃げ延びた人がいたんだぁ」
「――うん。それで、君にちょっと訊きたいことがあるんだ」
読んでいただきありがとうございます




