瓦解
第2章、スタートです。
謎のモヒカン野郎と闘ってから数日は、久しぶりに自宅に帰り、冷蔵庫に残っていた食糧をありったけ胃袋に詰めると泥のように眠った。自棄食いからの不貞寝だ。嫌なことがあった日はこれに限る――。
そうして太陽が三回目に昇ってきた朝、僅かに残ったアルコールで明瞭としない意識の中、重い瞼を渋々持ち上げる。まだ寝ていたい。しかしカレンダーを見れば既にあれから三日も経過している。そろそろ避難所に戻らなければと、ノロノロと支度を始める。
「いって……」
未だ止まっていない水道の水で久しぶりに顔を洗うと、針で刺したような痛みが俺の顎を貫いた。鏡で見ると、決して小さくない傷が顎に出来ていた。いつのものかと考えたところで、三日前のモヒカンとの戦闘を思い出す。
「あのときか……」
表面の皮膚が少し切れて全体が腫れ上がってはいるが、触診の結果、骨に異常はなさそうだった。同じくシャツをたくし上げ、奴にやられた脾臓の辺りを見るが、内出血で醜く変色しているものの、幸いそちらも骨は大丈夫なようだった。
ほっとしたのも束の間、俺の思考はすぐさまモヒカンの戦闘能力についてで一杯になる。
俺だってもう昔みたいに朝から晩まで鍛錬に時間を費やしているわけではないが、戦闘、特にルール無用の殺し合いでは、ほとんど敵なしだと過信していた。それをたった一人、それもステゴロでああも苦戦するなんて想定外だった。俺の腕が鈍ったわけでは無いと思うのだが……。
とにかく、ああいう奴がこの街にいると分かった以上、警戒レベルを一つ上げる必要がある。俺は避難所に行く前に一軒に店に寄ることを決めて、足に靴を引っ掻けた――。
今日の天気は少し曇っていた。日差しが弱々しい代わりに、どこかまとわりつくような熱気が外に漂っている。まだ七月は始まったばかりだ。これで本格的に夏が到来すれば、今年もあの殺人的な猛暑がこの街にもやってくるのだろう。
そんなことを考えながら俺がまず向かったのは、近所のスポーツショップだった。
ここら辺ではそこそこ大きい店で、マイナーな部類に入るスポーツアイテムもここになら置いてある。
店内に入ると、軽快なBGMと共に冷房の効いた涼風が客を出迎える。店の管理をする人もいないからそのままになっているのだ。電気代すごいことになりそうだなと、どうでもいい感慨を抱く。
俺が真っ先に目指したのは二階のアウトドアコーナー。そこにあった目的の物を見つけると、手に取って確認してみる。
それは、刃渡り十五センチ程度のサバイバルナイフだった。俺が持っていた果物ナイフをちょうど二倍したくらいの長さのソレは、安直的な頼もしさがあった。
こんなもの、普段なら使わないし、頼りたくもないが、ちゃんとした武器がないといざという時に困るというのは先日学習済みだ。基本滅多に使うつもりはないが、モヒカンや強力な武器を持った相手と相対した時にあって損はないだろう。
他に、新たに感染者誘導用に熊除けブザーを回収し、カロリーメイトもいくつかリュックにしまう。店を出るとき、背中にありがとうございました、と声を掛けられた気がした。勿論、お金は払わなかったけどね――。
スポーツショップを出た後は、そのまま華和小学校を目指す。道中は、感染者ばかりで動く生者どころか、動かない死体すら見かけなかった。どうやら奴らの感染力は、俺たちの想像の遥か上を行っているら
しい。
汗で額に張り付く前髪を払い、歩き続けること三十分、ようやく俺は学校の坂の下までたどり着く。が、そこで俺は昨日の光景との変化に気づく。
前は俺たち以外に人影なんて見当たらなかった坂は今、大勢の感染者が我が物顔で闊歩していた。
無論、以前俺が誘導したため、何体かは坂にいてもおかしくはないのだが、ざっと見ただけでも二十や三十はいる。明らかに多すぎる。
不自然に思いながらも後藤たちを処理した坂の途中のコンビニに来ると、後藤やら佐々木がゔーゔー呻きながら奴らのお仲間になっていた。
「お、ちゃんとできてるじゃん」
自分で作った玩具がちゃんと動いた時のような嬉しさだ。俺はナイフの切れ味を確かめるついでに後藤ゾンビの指を一本ずつ切り落として遊んでいると、そういえば避難所は現在絶賛食糧不足中であったことを思い出した。昨日の晩は家でたらふく食ったので忘れていた。
少しでもコンビニから食糧を持ち出そうかとも思ったが、どうせ俺一人が運べる量などたかが知れている。有斐さんの分は俺が分けるとして、今はとっとと避難所に戻ろう。
そう決めて再び坂を登りはじめ、十分くらいするとようやく華和小学校の校門が見えてきた。ようやっと着いた、と息を吐いたのも束の間、俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。
「校門が……開いてやがる」
「おいおい嘘だろ……」
避難所は既に感染者がひしめき合う魔窟と化していた。校舎に続くアスファルトで舗装された道には乾いた血痕がこびりつき、何かも分からない桃色の臓器があちこちに散乱している。敷地内には老若男女問わず感染者が徘徊し、中には頭をカチ割られている感染者もいたが、未だ動いている感染者の数は二十や三十じゃきかない。よく見れば、その中には避難所で見かけたことのある顔もあった。
正面玄関は大きく開け放たれていた。これで、校舎内に籠城しているという線も薄そうだ。まさか、俺がいないこの三日で本当に陥落したというのか。いくら大した戦力もないとはいえ、容易く校門を突破されるとは思えなかったが……。
「ッ! そうだ、有斐さんは……っ!」
そのとき脳裏を駆け抜けた名前を思い出し、慌てて周囲を見やる。この避難所が滅びたのはどうでも良いが、彼女だけはなんとか助けたい。でなければ本当にここまでの努力が水の泡になってしまう。
そこで俺は最近の体の変化を思い出す。やけに鋭い聴覚。これを利用して有斐さんを探せないか……。
俺は目を閉じて神経を聴覚に集中させる。聴覚以外、五感から受け取る情報を全てカットし、息遣いさえ聞き逃すまいとじっと耳を澄ます。
感染者のうめき声。不規則な足音。流れ続ける水。何かを貪り喰う咀嚼する音。緊張で震える息遣い――。
「――ッ!」
それが聞こえた瞬間、俺は全速力で走り出す。確かに聞こえた。場所は二百メートル先の体育倉庫の中。決して普通の人間なら聞こえないであろう音でさえ気づいたということは、やはりこれも噛まれた影響なのだろう。もしかしたら俺は既に感染者なのかもしれない。
「まあ、そんなことどうでもいいけどな……!」
到着した体育倉庫では、感染者四体が倉庫の扉をガンガン叩きつけている最中だった。
扉はそこそこ頑丈そうではあったが、体のリミッターが外れている感染者に対しては心許ない。強い外力を与えられ続けた扉はくの字に曲がり、今にも壊れそうな体であった。
とにかく今は情報が欲しい。俺は途中落ちていた鉄パイプを拾うと、扉に集中している感染者のうなじに思い切り叩きつけた。
「ヴアアアア……」
頚椎を破壊され倒れた同胞に気づき、残った感染者は振り返る。しかし、その濁った瞳に俺の姿は映らなかった。
鉄パイプを器用に振り回し、残った二体も早々に処理する。棒術は武器がどこでも入手しやすいということから唯一教わった素手以外の武術だが、しばらく触っていなかったにも関わらず、体は覚えたままでいてくれた。やっぱり努力は人を裏切らないということかね。
感染者が動かなくなったのを確認し、俺は壊れかけた扉に向き直る。突然扉を叩く者がいなくなったことに動揺しているのが、扉越しでも息遣いで伝わる。
「当たりだといいんだがな……ッ!」
俺は鉄パイプを振り回して遠心力を付け、渾身の力で扉へと振り下ろした。
ガシャァン!
決して小さくない破砕音と共に扉が吹き飛び、中にいた人物の姿が目に入ったとき、俺は息を呑んだ。こんな偶然が起こることが本当にあるなんてな――。
吹き抜けた外気で一房だけ結った前髪がふわりと踊った。怜悧な美貌にはもう涙は伝っていなかった。困惑した表情の彼女に、俺は口元だけで笑みを作った。
「――よう、また会ったな」
「――あなた、は」
倉庫に隠れていたのは、あの日、大学で最後に俺が助けた女だった。
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