DEAD END
リメイク版開始しました! とはいいつつほとんど前と内容違うのは内緒。
中国の思想家である孟子は性善説を唱え、人は生まれながらして善の兆しがあるとしました――。
講師の声に、ふわふわと辺りを漂っていた俺の意識は急に現実に引き寄せられた。
「この思想は高校で倫理をやっていた人なら知っているかと思います。これは、人間は生まれながらにして善の兆し、四端の心を持っているとしたもので……」
去年還暦を迎えたというその講師は、先ほどからずっと黒板に向かって話し続けている。まるで俺たち生徒などいないかのようだ。この倫理学の講義が一限ということもあって教室には気だるげな雰囲気が漂い、授業を受けている生徒の大半も居眠りするか内職に勤しんでいるかのどちらかで、いっそ授業なんてしない方がお互いの為になるんじゃないのだろうかとも思う。
「四端の心とは惻隠、羞悪、辞譲、是非を表したことで、これらを拡充して世間一般で言われる『仁・義・礼・知』が言われるようになりました――」
そのまま講師の話を聞くともなく聞いていると、やがて俺のよく知る部分を話し始めた。小さい頃から養父である一馬に散々聞かされた四つの徳。
『血が繋がってなかろうと、お前は俺の息子になったんだ。この四つの徳だけは、どんなときでも忘れずに、全うできる人間になれ』
『死んだ両親にいつ見られても恥ずかしくない姿でいろ』
実の家族を失い、親父の知り合いだったという一馬に引き取られてからしばらくは、朝昼晩とこの言葉を聞かされた。思えば、あの時に一馬という人間のネジの外れ具合に気づくべきだった。引き取られた当時、七歳にも満たない俺に向かって一馬は引き取った翌日から自分の伝手をフル活用して武術の英才教育を施し始めた。曰く、強くなければ悪を打倒できないとのこと。俺が引き取られた八代一馬という人間は正義漢という言葉では生易しいほどに正義を遵守する男で、更に質が悪いことに、彼はその価値観を養子に押し付けることに疑問を抱かない人物だった。
そんな押しつけがましい価値観を迫られて少年時代を過ごしたせいか、最近俺はこの倫理感について疑問を持つようになっていた。
確かに一つの共同体で生きていく以上、他者を思いやる気持ちというのは必要だ。しかし、それはあくまで共同体の中で生きていく以上必要だということであり、決して孟子の言うように人の本質が善というわけではないし、更に言えば共同体でない――例えば文明も何もない世紀末の世界で、これら倫理観の話をするというのはナンセンスに感じる。生きる意味など千差万別あるだろうが、最終的には幸せになる為に生きるのが大半だろう。
つまり結局のところ何が言いたいかというと、結局孟子の四端の心にしろ、一馬の言う正しい倫理観にしろ、全ては自分が幸せになるために必要な事であるならば別だが、自分が不幸になってまで行うことではないように俺は思う。俺たちは聖人君子になりたいわけではないのだ。ただ、社会には法律や憲法などのルールがある以上、結局は今否定した倫理観なども多少必要になってくるわけだが――。
「……ん?」
どこかで車のクラクションが鳴った気がした。
深い思考の沼に沈んでいた意識を浮上させ、俺は顔を上げる。
「……ッ、ぐ……はぁ……」
壇上を見ると、先ほどまで喋っていた講師が苦しそうに喘ぎ、左手に貼ったガーゼの部分を押さえていた。それは講師が講義を始める前、
「四日前に妻と喧嘩になった時思い切り引っ掻かれましてね。私はまだ治らずこのざまで、妻も転んだ拍子に腰を痛めて病院に入院しているんですよ。いやぁこの歳でお恥ずかしい」
と喋っていた所で、特にそんな重症なようにも思えなかった。少なくとも、あんな風に痛がったりするほどではないのは確かだ。
流石にそうこうしてるうちに、他の生徒たちも講師の様子に気づき始める。訝しむ者もいれば、席を立ち、講師を介抱しようと近づく者もいる。そのとき、講師が一際大きな叫びをあげた。
「う、ぁ、ああああああああああああああああああ!!」
枯れ枝のような痩躯を限界までのけ反らせ、講師はやがて糸切れたようにその場に倒れた。講師の着けていたマイクがゴツンッとノイズを走らせる。
あっという間の出来事だった。夏の到来を予感させる暖かい陽光が教室に差し込んでいる。まだ控えめな蝉の声に紛れて、またどこかで車のクラクションが鳴った。
それで魔法が解けたように、教室は喧噪に包まれた。常識のある生徒の一人が講師に駆け寄り、先生、と呼ぶ。
「息をしてない……死んでる……」
喧噪の中にあっても、その生徒の声だけははっきりと教室に響いた。
「死んでるって……冗談だろ? ひっかき傷なんかで人が死んでたまるかよ」
「本当に死んでるんだってば! 疑うんならお前も確かめてみろよ!」
小馬鹿にするように言った男も、血の気の引いた眼鏡の男の表情を見て押し黙る。
確かに、こっちから見ても講師の男の胸はピクリとも動かないし、何より講師の顔からは、生気のようなものを全く感じられなかった。
皆、ただ立ち尽くすしかなかった。まだ倒れただけなら医務室に運ぶなり救急車を呼ぶなりすることはあるが、数分前まで元気だった人間が急死したという事実に誰も思考が追い付かなかった。
何だ……一体何が起こってる。
狐につままれたような気持ち、とはこのようなことを言うのだろう。誰もが動きを止めたそのとき、視界に動く影があった。
『ソレ』を見て、俺たちは再び息を呑む。
視線の集中した先には、虚ろに視線を彷徨わせて立つ、講師の姿があった。
「なんだよ……、生きてるじゃんかよ、ったく」
全員が安堵したようにほっと息を吐いた。いや、正確には俺と、講師の容態を見た眼鏡の男以外は。
「そんな……確かにさっきまでは死んでたんだ! 心臓だって止まって……え?」
後ろから肩を掴まれた眼鏡の男が固まる。戻りかけていた喧噪も、一気に消え失せる。
口を半開きにした眼鏡の男がゆっくりと後ろを振り返った。肩を掴んでいた主――講師の顔を見ると、一歩後ずさった。
「せ、せんせい?」
「ヴ、ヴアアアア……」
梅雨が明けて間もない湿気を含んだ風が頬を撫でた。ぶるりと、寒くもないのに悪寒が走った。
そして次の瞬間、俺の目の前で講師の歯が眼鏡の男のうなじに勢いよく喰いこんでいた。
「ぐ、ぎぃあああああああああああああああああああ!!」
絶叫が教室に木霊する。それに講師は構うことなく、眼鏡の男のうなじを思い切り喰いちぎる。あの老いた体からは考えられない顎力だった。
「ああああっっ!! あ、あ……」
眼鏡の男の足元から水溜まりができ、ほのかなアンモニア臭がこっちまで漂ってくる。眼鏡の男はそのまま床に崩れ落ちた。倒れた眼鏡の男の奥で、豹変した講師と目が合った。
淀んだ瞳の奥で、講師が俺たちを捉えた。
「キシャアアアアアアアアッッ!!」
その瞬間、教室が爆ぜた。悲鳴が連鎖し、誰もが我先にと廊下へ飛び出した。
しかし、結果的にそれが講師を惹きつけることになる。猛然と走り出した講師の動きは最早常軌を逸していた。三メートルはあった教壇から机の間を助走なしで飛び越え、そのまま机を蹴り、目にも留まらぬ速さで逃げ惑う生徒たちに襲い掛かる。
「きゃぁああああああ! 離して!」
まず教卓から一番近くにいた女が餌食になる。腕を掴まれた女が女性特有の甲高い声を上げるが、講師はそれを意に介さず、女のもう片方の腕も掴むと――一気に両方とも引き千切った。
「ぃぎゃぁああああああああああああああああああッッ!!」
今までで一番の絶叫が俺の耳をつんざく。なんて膂力だ。その光景を見た俺を含めた全員の血の気が引いた。
「くそっ、どけろよ!」
「俺が先だ! 横入りすんじゃねえ!」
「痛いっ、押さないでぇ!」
両腕をもがれて気を失った女に腹這いになり、講師は女の体を言葉通り貪り始める。そのうちに逃げようと全員が入り口に殺到した結果、大渋滞となってしまっていた。
俺は混乱する頭を無理やりフル回転させ、どうするべきかを考える。
逃げ惑う集団に紛れ込んで教室から脱出するのは論外。ならあの講師と闘うか? 小さい頃から一馬に異常な鍛えられ方をしたお陰で腕っぷしには自信がある。しかし、相手は人間の腕を簡単にもぐような膂力の持ち主だぞ? そんな奴に果たして勝てるのか?
そこでふと視線を感じた。講師は未だ女に跨りこちらを向いていない。他の奴らも恐慌状態でこちらを向く余裕なんてない。ならば一体――。
俺はゆっくりと視線の方向に眼を向ける。
そこには、先ほど講師に喰われた眼鏡の男が立っていた。
「ッ!?」
第六感ともいうべき不吉な直感が警鐘を鳴らす。眼鏡の男は首の右側の肉がごっそりなくなり、赤く滴る血肉の中から白骨を覗かせていた。
「キシャアアアアアアアアッ!!」
直後、眼鏡の男が跳ねるように走り出した。半ば予想していた行動に対し、俺も戦闘態勢を取る。
入り口は缶詰状態で塞がっていて逃げられない。ここでやるしかない。
早鐘を打っていた心臓が冷や水を浴びせたように落ち着く。己の危機の時こそ冷静に。今まで恨む事こそあった一馬の鍛錬に感謝したのはこれが初めてだった。
周辺の机を蹴散らし、奇声を発しながら真っ直ぐに突っ込んでくる男は速い。先ほど見た異常な膂力を思い出す。掴まれれば負け。カウンターの一発で仕留められなければそれまでだろう。神経を集中し、恐怖や不安を腹の底に呑み込む。狙うは露出させた首の骨――。
「フッ――!」
彼我の距離が縮み、遂に男が両腕を伸ばそうとした瞬間、俺は上半身を限界まで捻り、体の反発力までも乗せた、渾身の回し蹴りを男の首に叩き込んだ。
ごきっ、という不快な音と、硬い物を砕いた確かな感触。突っ込んできた男はそのまま漫画のように吹き飛び、頭から教室の壁に激突した。首があらぬ方向に曲がり、そのまま倒れる。
――流石に死んだか。
眼鏡の男が立ちあがらないのを確認すると、息を整え入り口の方を見る。入り口に溜まっていた生徒の数は明らかに減っていた。しかし、その数を埋めるように床に転がる人間と、襲い掛かる人間の数も増えている。おそらく、今倒した男のように、講師に喰われた者もしばらくすると奴らの仲間になるのだろう。
その光景を見て、俺はある生物を思い出した。様々な生物に感染し、感染者が別の個体を殺すと、その個体も感染して生きる屍と化す。
――人はそれを、ゾンビと呼ぶ。
「ヴァアアアア……」
口元を血に染めた感染者数体がこっちを見る。ギョロリと充血した瞳の数は十。一体倒すのもギリギリなのに、感染者の数は五体。あれほどの身体能力を持つ奴らに一斉に襲い掛かられれば勝機はゼロに等しい。それに加え感染経路が分からない以上、不用意に近づくだけで感染するかもわからない。当然助けてくれる者もいない。客観的に見ても俺が生きてここから脱出するのは絶望的だった。
己の生存を半ば諦めかけていたそのとき、後ろで大きな打撃音が聞こえる。
見ると、まだ俺の他にも教室の後ろで感染者と闘っている人がいた。セミロングの髪を後ろでまとめ、前髪の一房だけを垂らした彼女は手に持った椅子を振り回し、両腕の千切られた感染者を近づけまいとしていた。
「ッ……ッ!」
相当怖いのだろう。足は小鹿のように震え、目尻には零れそうなほどの涙、口は何かをこらえるように真一文字にひき結んでいる。
こんなときだというのに、俺は少々の興奮を覚えた。
彼女は控えめに言ってもかなり整った顔立ちをしていた。色素の薄い肌。スレンダーな体つき。何より、恐怖する心を必死に御して気丈に感染者へと立ち向かうその姿は、奇しくも俺の短い人生の最後の行動を決定するのに十分だった。
――どうせこれで終わりなんだ。せめて最後くらいは拾った親の言う事を聞くとするか。
『強きを挫き弱きを助く。これからお前にはあらゆる武術を教えるが、これだけはいつもはき違えるなよ』
一馬の言葉が脳を反芻した瞬間、俺は女に向かって走り出していた。
俺がアクションを起こしたことで、それまで緩慢と迫ってきていた感染者たちも、俺に向かって一斉に駆け出す。感染者たちは、障害となる机や椅子など弾き飛ばして最短距離で俺へと迫るが、流石にスピードでは俺が速い。
「――ッ!?」
感染者が椅子を吹き飛ばす音で、彼女の方も俺に気づいた。一瞬、俺が感染者を引き連れてこちらへやってくるのを見て諦観の表情を見せたが、両腕を失った感染者を俺が跳び蹴りで窓側へ吹き飛ばすと、切れ目の鋭い瞼を大きく持ち上げた。零れた涙が怜悧な美貌を伝う。
近くで見た彼女は、やはり美しかった。良かったな、ヒロイン合格だ。内心そう皮肉って苦笑する。
チラリと入り口を一瞥する。入り口の混雑はすっかり解消されていた。代わりに転がる死体が増え、感染者がそれを食らっていたが今はそれの方が好都合だ。俺が感染者を惹きつければ脱出できる可能性は十分ある。
「――ここからは出してやる。後はアンタ次第だ」
「え、ちょっ……!」
「椅子は捨てろ。よし……行くぞ!」
俺は有無を言わず彼女の手を取ると、向かってくる感染者を迂回するように入り口へ走り出す。
当然それを追ってくる感染者たち。女性の彼女では全力の俺のスピードにはついてこれない。見る見るうちに距離は縮まる。入り口はもう少し。間に合うか――。
「きゃっ――!」
「チッ!」
扉が目前というところで彼女が足を掴まれる。それまでは床に伏していた、死体だった個体だ。よりによってこのタイミングで奴らのお仲間になったらしい。
あわよくば俺もと思ったが……。
刹那に湧いた未練を即座に断ち切ると、俺は足を掴んでいた感染者の腕の筋を踵で踏み砕く。それで彼女を掴んでいた手を緩み、バランスを崩した彼女をそのまま廊下へと突き飛ばした。
「ここまでだ! この先はアンタが決めな!」
「……ッ! あなた――」
彼女の表情が灯りを失ったように変わった。桜色の唇が動く。
それを最後まで確認する前に扉を閉め、鍵を掛ける。うなじに後ろの奴らの吐息が届いた気がした。
奴らが息をするかも、分からないけどな――
読んでいただきありがとうございます。更新速度は相変わらず遅いですが、これからもお付き合いいただければ幸いです。