―7―
もうこの先に語るべきことはない。味気ないスタッフロールが流れて、スクリーンの灯りが消えるのを待つだけだ。観客は席を立って、賑やかな日常の世界に戻っていく。ぼくらをスクリーンの奥に残したまま。
観る者もいないのならば、ぼくがどんなに無様でもどんなに愚かでも構いはしないだろう。自分がどれほどの間、放心していたのかわからない。気づいた時には月がすっかり頭の上まで昇っていた。時計に目をやるほどの心の余裕などあるわけがなく、ぼくはゆらゆらと立ち上がる。死に絶えた街を徘徊する孤独なゾンビのように、おぼつかない足取りでアスファルトを踏んでいた。
彼女と歩いた道を辿る。今日、その肩を支えながらゆっくりと歩んだ道。微笑む彼女と子分のように付き従う猫に導かれた道。コンビニにパンを買いに行き、それでも家まで行けば彼女がいると分かっている幸せを噛みしめて急ぎ足で歩いた道。どれも同じ道。それなのにとめどなく彼女との記憶が脳裏に瞬いた。
彼女と過ごした青い屋根の家。玄関には一足減ったままで彼女の靴が並んでいる。彼女が横になっていたソファには人の形に皺がついていた。彼女が昨日着ていた服が洗濯を済ませず、部屋の隅に折り畳まれている。彼女の残り香のない場所があるはずがない。脳髄を刺すように、彼女と過ごした数えきれない瞬間が閃いては消える。
玄関に戻ってドアに手を掛けたとき、その指先が判然としないのに気付いた。指先が霞がかったように、ぼぅっと薄れていた。それを恐ろしいとは思わなかった。ああ、やっぱりな、とそれだけ思った。やっぱり彼女が主人公だったのだ。主人公の去った舞台上に、いつまでも脇役が残っていていいはずがない。ぼくは自身の消失を止めるつもりなどなかった。この世界は彼女がいなくなると同時に、何の意味も持たなくなったのだから。
透けた指でノブを回すと、ふわりとした奇妙な感覚はあったが大した苦労もなく扉を開く。ぼくは敬虔な巡礼者のように、彼女の残滓を辿りながら夜の街を彷徨った。ほんの些細なきっかけでいくらでも思い出すべきことはあった。何も世界が終わってからのことだけではない。それ以前に彼女と見たもの、歩いた道、来た場所。それらはぼくと彼女だけの思い出ではないことも多かったけれど、そこに彼女がいたという事実だけでこの上ない輝きを宿した。
アスファルトを踏む足が泥を踏むような異質な感覚を伝え始めたころ、ぼくはようやくあの商店街までたどり着いた。彼女はこの八百屋をもの珍しそうに覗き込んでいたっけ、アーケードの柱に浮かんだ錆を見て何か奇妙に哲学的なことを言ったっけ――、世界が終わる前と後、その区別もなく流れ出した記憶は琥珀色の思い出となって心に沁みる。
もはや手のひらも腕も自分でもほとんど見えなくなっている。ぼくは少しだけ速足で商店街の一番奥を目指した。ここまで来たのならば、消えていく前に一番尊い記憶をなぞっておきたかった。
映画館。彼女の映画館。
彼女自身は知らないだろうけれど、ぼくが彼女の十七歳の誕生日に彼女のものだと告げた場所。その暗闇に橙色のハンドランプの光を投影する。ついにこの映画館は彼女という所有者をも失ってしまった。厚い闇と静寂はそんな寂寥に満ち満ちているようだった。薄れて機能を失いかけている足では、最前列のぼくと彼女の指定席に行くのにも難儀した。ほとんど這いずるようにして、ぼくはその座席に収まる。
ひどく、疲れてしまった。ハンドランプを二人の席の間に置こうとして、そこにすでに何かが置いてあるのを認めた。
「ビデオカメラ……?」
前回来た時にはこんなものはなかった。その意味を考え終えるよりも早く、ぼくは思い出す。これとよく似たビデオカメラを、ぼくは彼女の家で見たことがあった。半ば本能的に、このビデオカメラを彼女が残したものだと断じた。彼女と違ってぼくの眠りは深い。ぼくが眠っている間に家を抜け出てここまでやってくるのは難しいことではなかったはずだ。
あわただしくハンドランプを手放すと、震える手をカメラに伸ばす。差し出された指先がどんどん希薄になるのがわかった。初めて消失の停止を願う。ぼくは奪い取るようにカメラをひっつかんだ。どこにあるのかもわからないような指で、電源を入れる。バッテリーは半分ほど残っていた。
そして、たった一つだけ動画ファイルが残っていた。
再生ボタンを押すのをためらった。これがぼくに向けられたものだという保証は何もない。ぼくに見てほしかったにしては渡し方もあまりに遠回りだ。このビデオカメラは彼女が夜の散歩のときにただ置き忘れたのかもしれない。気づかなかっただけで前回からあったのかもしれない。どうせすぐに消え去るのだ。失望するより彼女がぼくに何か残してくれていたのかもと夢想する方が幸せではないか。
それでもボタンを押さずにはいられなかった。
ぱっと明るくなった画面。橙色の光にぼんやり照らされたこの場所で、彼女はまっすぐカメラを見据えていた。その姿だけで息が詰まった。そこに彼女がいないことは分かり切っていたが、意味を成さない言葉の断片が喉を震わせる。彼女は一度瞬きして息を吸うと、静かに微笑んだ。
『これは私の映画です。私が主人公の映画です。私のモノローグだけの短いものですけれど、そう定義しようと思います』
目尻の泣きぼくろが歪む。穏やかな笑顔の中でそれは涙には見えなかった。
『最初にお礼を言っておきましょう。スタッフロールは最後にやるものと相場が決まっていますけど、言わせてほしいんです』
画面越しに彼女は確かにぼくを見ていた。橙色を琥珀色に変える魔法のような瞳と、ぼくの瞳がしっかりと交わった。
『最高の誕生日プレゼントでしたよ、先輩。こんな素敵なものはいままで一つだってもらったことはありませんでした。心からありがとうと言わせてください』
呼吸も心拍も停止したようだった。一つはこの〝映画〟が間違いなくぼくに向けられたものだったから。もう一つは彼女がぼくの贈り物を知っていたから。
『眠りが浅いって言ったじゃないですか。気づいてましたよ、ずっと。でもなんだか直接言うのが気恥ずかしくて、先輩も恥ずかしいだろうと思って。それでずっと言えないでいたんです。ごめんなさい、そしてもう一度ありがとうございます』
小さな画面の中で彼女は笑っていた。本当に幸せそうに愛おしそうに笑っていた。それだけでぼくには十分すぎた。感謝の言葉よりなにより、彼女のその笑顔こそが清らかに尊かった。
『ねぇ、先輩。これを見ている先輩の隣に、私はまだいますか』
微笑に仄かな哀愁を混ぜて問う。その問いかけにはある種の確信が感じられた。自分はもういないだろうという哀しい諦めが。
『たぶん、いないんだろうと思います。もし仮にいたとしても、私はずっと先輩の隣にはいられません。先輩の隣はとても温かくて快くて、いつまでも微睡んでいたくなってしまいます。しかも先輩はそれを許してくれるでしょう。でも私に与えられた時間はそれほどたくさんはないんです。私は少しずつ薄れて消えています。先輩と会ってその速度は格段に遅くなりましたが、止まることはありません。いつか、そう遠くない将来、私は髪一本残さず消えなければならない時が来るでしょう。この映画は一応、その時のために撮っているつもりです』
唾を呑む彼女の喉が小さく蠢いた。乾いた唇を潤して、彼女は急に不安そうに顔を曇らせる。身を乗り出してカメラのレンズを覗き込んでいた。
『聞こえて、いますか? 私の声は先輩に届いていますか?』
「聞こえてるよ。安心して。ぼくは君の声を聞き洩らしはしない」
お互いに届くはずのない言葉だった。それなのに彼女は画面の中で安堵を浮かべる。画面越しに、今でも彼女と繋がっているような錯覚を覚えた。
『仮に――これはとてもとても悲しくて寂しいことですが、私はもう先輩の隣にはいないとしましょう。教えてください、先輩。あなたは今、私をどう思っていますか。あなたをこんな世界に置き去りにした私を恨んでいますか』
「愛している」
それ以外の答えは存在しなかった。どうして彼女を恨むことができよう。ぼくは彼女から数えきれないほどの幸福を貰った。ただ彼女がそこに居るというだけで、彼女は常にぼくを祝福していた。そのことへの言葉にしようもない感謝を捧げることはあっても、恨みなど一つもあるはずがなかった。彼女がいなくなってしまったことは、哀しくて苦しくてどうしようもないほど耐え難いことなのだけれど、それで彼女の与えてくれた無数の幸福がなかったことにはならない。
『これは私の自惚れなのかもしれません。でも私には先輩がどう答えるか、大体わかってしまうんです』
眉がくたびれたように垂れて、下がった目尻に零れた黒真珠の一粒。ぼくは彼女の微笑みが大好きだったけれど、それは初めて見る微笑だった。指先で触れただけで砕けてしまいそうに儚げで、それでいて何か強固な芯のようなものを感じさせる。
『だって先輩、私も同じなんですから』
――さよなら、大好きな人。
彼女の最後の囁きがフラッシュバックした。時が止まった。琥珀の瞳に偽りの影は欠片も落ち込んではいない。何よりも見たこともないその微笑みがすべてを暗示していた。
『一緒にいられるだけでいい。隣で温もりを感じていられるだけでいい。ううん、そうじゃない。いてくれるだけでいい、ただそこにいるだけでいい。それが生きる意味だと分かったんです』
恥ずかしげにほんのりと頬を染めて、彼女は目を伏せる。その姿は思わず息を呑むほど美しい。心臓が大きくどくんと跳ねるのがわかった。
『私は私のわがままを先輩に押し付けてしまっているのかもしれません。今言ったことだって私のとんだ勘違いで、先輩は私のことなんて何とも思っていないかもしれない。でももし当たっていたなら、ひとつだけ身勝手なお願いをさせてください』
空間も時間も超えてぼくを見据える二つの瞳。そこに宿る強い意志が、彼女が伝えたかったことはまさしく続く言葉なのだと教えてくれる。一言も、その呼吸さえも聞き逃すまいと神経を研ぎ澄ませる。
『忘れないで』
一つまみの怯えが混じった言葉。
『私のことを忘れないでください。叶うなら、ずっと私のことを想っていてほしい。それで私は存在していられるんですから。確かに私はもう先輩の手を握ることはできないし、言葉を交わすことも出来ません。でも先輩の心に私がいる限り、私は世界にも存在しているんです』
乾いた大地に水を零すようだった。彼女の言葉は何の違和感もなく、ぼくの心に染み込
んだ。染み込んで中からそれを温めた。
ぼくはなんという愚か者だったのだろう。なんという馬鹿な思い違いをしていたのだろう。ぼくの愛おしんだ世界はちっとも終わってなんかいなかった。ぼくと彼女が演じる脚本は全然幕を閉じてなんかいなかった。当たり前ではないか。彼女がこの映画の主人公なのだから。ぼくという観客がまだスクリーンの前で愚直に見つめ続けている限り、彼女という主人公だけがさっさと退場してしまうなんてありえないのだ。
頬に温いものを感じて、初めて自分が涙を流していることに気付いた。世界が死んでも、彼女が目の前から消えても流れなかった涙が、なんとも間抜けなタイミングで決壊していた。とめどなく、自分ではどうしようもないほどの勢いで頬を濡らした。哀しいのか嬉しいのか、分からなかったというよりも何もかもがごちゃ混ぜになっていて判別できなかった。
『そうだ、言い忘れていました』
不意に画面の中の彼女が声を上げる。もう終わりだと思っていたのに。動画ファイルはもうあと少しだけ、残っていた。
『こんなに素敵なプレゼントを貰ったんですから、お返しをしなくてはいけません』
悪戯っぽく目を輝かせて、彼女はたっぷり間を置いた。
『先輩は世界が嫌いかもしれませんけど。私はどんな風でもこの世界が大好きなので、先輩も好きになれるように、〝世界〟をあげます』
こんな終わりの中だったら、何でも好きなものを自分の物にしてしまっていいだろうと言ったのはぼくだ。それにしても〝世界〟を自分の物にしてしまうとは。途切れることない涙に顔をぐしょぐしょにしながら、ぼくは苦笑した。
『私にはこの映画館があります。先輩がくれた映画館があります。だから先輩は外の世界を自分の物にしてしまってください。映画より素晴らしいものを、たくさん見つけてきてください。そして疲れた時にここに戻ってきてくれればいいんです。そして私に幸せな話をたくさん聞かせてください』
すぅと息を吸いこむ。大輪の向日葵が花開くように、彼女の端正な貌を満面の笑みが覆い尽くす。子供のように無邪気で優しい、幸せを具現化したような最高の笑顔。
腕時計の二本の針がぱしりと頂点に揃う。
『お誕生日おめでとうございます。大好きですよ、先輩』
涙を拭った手は、ぼやけも薄らぎもせず、彼女に繋ぎ止められてはっきりとそこに在った。彼女の琥珀色の優しさに包まれて、ぼくはあとほんの少しだけ泣いた。