―6―
「私と先輩、どちらが主人公かという話をしたのを覚えていますか」
彼女が唐突にそう切り出すまで、ぼくらは焼き直しのような、単調で少しの幸福を秘めた日々を過ごした。圧倒的なまでの異常で上書きされてしまったこの世界で、彼女とぼくが出会ったところで何かが大きく変わるわけでもなく。ぼくの溜息と彼女の独り言と猫の鳴き声しかなかった世界に、ぼくと彼女の戯言にも似た問答が加わっただけだった。コンビニから買ってきたパンやカップラーメンやスナック菓子を糧にし、凪の海のような安穏を享受する。少なくとも例のコンビニから食べられるものがなくなってしまうまで、この取り繕われた平和と正常を保っていられるだろうと信じていた。
といっても、それを愚直に信じ込んでいたのはぼくだけだったのだけれど。彼女はそれよりずっと早く破局を迎えることを覚悟していたに違いない。だからこそ、平然とした表情でその問いを切り出すことができたのだ。
「覚えているよ、もちろん。君と再会して、近所の児童公園のブランコに腰かけてそんな問答をしたね」
「はい、そして先輩は私がこの映画の主人公だと言ってくれました。私はそれがとても嬉しかった」
彼女はソファに、ぼくは床のカーペットの上に座り込んでいた。偶然にもその会話をした日と同じ、高校の制服に身を包み、彼女は静謐な目をしていた。
「私は映画の主人公になりたかったんです。この年齢になってと笑われるかもしれませんが、大真面目にそれを願っていました。だから先輩、私は本当の本当にこの終わる世界を招いたのは自分だと思っていたんです」
彼女の言説が回りくどいのはいつものことだったし、ぼくはそれが好きだった。けれどその時一つだけ違和感を覚えたのは、その議論の目的が明示されていなかったことだ。彼女は煙に巻くような物言いが得意だったが、問答を求めるなら初めに論題というべきものを提示した。それがないことに、ぼくは少しだけ戸惑う。しかし後になって考えればそれは不思議でも何でもないことで、単に彼女は議論するつもりなどなかったのだった。問答してもどうにもならない話を、決定づけられた現実の話を、彼女はしようとしていたのだから。
「先輩――」
確かめるようにぼくを呼んだ。目の見えない人が相手の存在を不安がるようだった。
「私はやっぱり主人公にはなれませんでした」
彼女の言葉の意味を、ぼくは理解できなかった。何とか解釈してみようとしても不吉な意味しか思い浮かばなくて、結局何も切り返すことができなかった。彼女は哀しそうに目尻を歪める。
「どんなふざけた脚本でも主人公が退場することだけはあり得ません。話の途中でシナリオからいなくなってしまうような人は、どんなに重要な役回りであったとしても主人公にはなり得ません。違いますか」
「違、わない……と思う。でもそれは――」
「私がいなくなっても映画はまだ終わりません。だってまだスクリーンの中には先輩が残っていますから。先輩が観測し続ける限り、このシナリオは進み続けます」
「言いたいことは分かる! 待ってくれ、そんなことを――」
「主人公である先輩は見なくてはならないのです。知らなくてはならないのです。さあ、逃げないで」
そう言うや否や、彼女はワイシャツの袖をまくり上げた。逃げることなどできなかった。目を逸らすことさえできなかった。ぼくは虚ろな目の人々の行列を見ていない。だからぼくにとって、それは終わりゆく世界で初めて見た明確な異常だった。
透けている、といえばよいのだろうか。
消えていく、とは言いたくなかった。
ワイシャツに隠されていた彼女の手首から下が、どうしてかよく見えなかった。何かに覆われているわけではないとまくり上げられた袖が証明しているのに、靄がかかったようにそれを視認することができなかった。もはやありのままを語る他ない。彼女の手首から先は、まるで幽霊のように透き通って薄らいでいた。肘より先に至っては、もう微かな空気の揺らぎとしか彼女の身体を捉えることができなかった。それを存在の希薄化という以外にあったろうか。
「初めはほんの小さな薄らぎでした。でも癌が転移するみたいに、少しずつ少しずつ全身に広がったんです」
言われてみてようやく、彼女の黒髪の先端付近も白い指先もぼんやりと霞み始めているのに気付いた。なぜいままで何一つ気付けなかったのだろう。彼女の隠し方が上手かったからだけでは説明できない。その解は明確だった。たとえ彼女の存在の消失を暗示する手掛かりがあったとしても、ぼくはそれを信じようとはしなかったのだ。だってそうではないか、人間がだんだん薄れて消えてしまうなんてあっていいはずがない。結局ぼくは世界の終わりという理不尽の中でも、当たり前を盲信していた。
「本当のことを言うと、先輩と会った日、もう私は消え始めていたんです」
息を呑んだ。まさかそれほど初めからとは。それと同時にこんな状況なのに感服せずにはいられなかった。自分の存在が消えていくという想像を絶する恐怖を今日までおくびにも出さなかった彼女。その清廉なまでの強さに、聖性に圧倒された。
「おそらくは今日、私は完全に消えます。わかるんです。ああ、消えるんだろうなあと」
こうしている間にも彼女が徐々に消え失せていくかのようだ。ぼくは何度も言葉を紡ごうとしては、何の音も発することができずに口を開け閉めした。彼女は我慢強く、慈母のような諦めきった微笑を湛えて、ぼくを待っていた。
「なんで……、なんで今まで隠していたんだ」
「私はそれでもやっぱり自分が主人公だと思いたかったんです。私が主人公なら、消えきってしまう前にきっと素敵な奇跡で救われるんだろうと。先輩に言ってしまうともう消えていくことを受け入れてしまったようで、怖かった」
言葉を裏返せば、彼女はもう救いになど期待していないと分かった。そしてぼくに消えていく事実を告げたことは、彼女がそれを受け入れてしまっていることだとも。そこに至るまでにどれほどの葛藤と覚悟があったか知れない。ぼくが何も知らずに温かな束の間の
幸福に溺れている間、彼女がどれほど悩み苦しんだか。その苦しみに気付いてあげることすらもできなかったぼくに、その覚悟を否定する権利などなかった。
「なんでもいい、なにかぼくにしてほしいことがあれば遠慮せずに言ってほしい。せめて君のためにぼくのできることはすべてしたいんだ」
本当はそんな悟ったような台詞を吐きたかったわけがない。叫び出し、泣きだして、駄々をこねる幼子のように彼女を引き留めたかったに決まっている。しかし、それをするにはぼくは少しばかり彼女を愛しすぎていた。彼女を知りすぎていた。たとえぼくに彼女の決意を否定する覚悟がなかったとしても彼女がそれを望んでいれば、ぼくはいくらでも引き留めただろう。だが彼女自身がもはやそれを願いはしない。その心に背いてまで喚けるほど、ぼくは彼女を疎かにはできない。
「それじゃあ、先輩。外に連れていってくれませんか。狭苦しい家の中で消えていくのは嫌ですから」
もう左足が消えかけていて上手く歩けそうにないんです。恥ずかしそうに言う。首筋に冷えたナイフを突きつけられたようだった。彼女の消失という現実離れした恐怖は、刻一刻と生臭い現実味を漂わせてぼくの背筋を凍らせた。
すみませんが肩を貸してくださいという彼女の求めに応じて、ぼくは彼女の腕を首に回して立ち上がらせる。ぼやけた腕にはまだ温かみが宿っていて、少しだけ安堵を覚えた。けれどその温もりはとても希薄で、意識しなければ溶け消えてしまいそうに思えた。彼女の左足を覆う黒いソックスがはらりと床に落ちるようなことはなかった。スカートの裾から僅かに覗いた彼女の素足はそれくらい薄れていたのだ。
彼女の軽い身体を支えながら、いつもと変わらず静まった街を歩いた。今まさに彼女が消え去ろうとしていても、やっぱり世界は何も動じてはいない。もっとずっとたくさんの人が消えても平然としていた世界にそれを求めても無駄なのだろうけれど。
「公園に行きましょう」
びっくりするくらい軽い身体をぼくにもたせかけて、彼女は言う。
「この議論を始めた場所で、私は先輩が主人公だと証明しますよ」
「――悲劇の主人公にはなりたくないって言ったはずだけど」
「願わくは私もハッピーエンドの映画の端役でいたかったですよ。でも仕方がないじゃないですか、終末映画の悲劇の登場人物に割り振られてしまったんですから」
あの日よりも遊具に積もった砂埃が心なしか厚くなっていた。消えかけた左足を庇いながらよろよろと、彼女はブランコに腰を降ろす。世界が終わってしまってからというもの、彼女はこうして過去の輪郭をなぞることを好んだ。ぼくは隣のブランコに座って、できる限り忠実に過去の再現に努める。彼女は満足そうに微笑んだ。けれどぼくにはその顔が笑っているようにはどうしても見えなかった。目尻から零れた泣きぼくろは彼女の頬と
ともに色を失い始めていて、一粒の涙にしか思えなかった。
「押してもらえませんか、先輩」
ぼくを一旦座らせておいて、彼女はそう懇願した。ぼくはできそこなった苦笑を頬に、彼女の背中をとんと押す。およそ重みというものを空気に溶かしてしまったのではないかと思うくらい、彼女はやすやすと舞い上がった。浅い弧を描いて戻ってきた痩せた背中をもう一度押し込む。二度目で十分な高さまで放物線を描いた彼女は、短い歓声を上げた。
彼女の琥珀色の双眸が、すっと通った鼻筋が、小ぶりな桃色の唇が、涙色に変わる泣きぼくろが、筆で二本引いたような綺麗な眉が、一往復二往復。だんだんと振幅を小さくしながら、ぼくの視界から離れては戻ってくる。そのたびに彼女のすべてが削れ落ちていくようだった。ぼくが愛おしむすべてが。ぼくの生きる意味のすべてが。
数分に及ぶ振り子運動を停止したブランコは、錆び付いた鎖を切なげにきしりと鳴らす。ぽんと彼女は大地に飛び降りる。案の定薄れた足は身体を制御しきれず、体勢が大きく崩れた。ぼくはとっさに飛び出していた。傾ぐ彼女の身体をすんでのところで抱きかかえた。胸を撫で下ろして目を開けば、目の前に彼女の顔。意図せずもぼくは彼女を抱きしめるような形になっていた。
奇しくも時刻は黄昏。あの日と同じ、あの映画と同じ。
彼女はそっと首を傾け、ぼくの肩に顔をうずめた。生温かな吐息が衣服越しでもはっきりと感じられた。睦事を口にするように、彼女は耳元で艶やかに囁く。
「私がこんなに長い間この世界にいられたのは、先輩、あなたのおかげです」
ぼくには何もできなかった。気づいてあげることすらできなかった。
「私の身体は急速に急激に薄れていました。もうあと二、三日もすれば私はあのまま孤独に、誰に看取られることもなく消え去るんだと思っていました」
でも、と彼女は続ける。優しい声だ。甘やかな声だ。ずっと聴いていたくなってしまう。いなくなってほしくないと、叫びたくなってしまう。
「不思議ですね。先輩と会ってから消えていく速度が目に見えてゆっくりになりました。ほとんど変わらないように思える日さえあった。結局止まりはしなかったみたいですけど、先輩が居なかったら私はずっと前にこの世界から消えていましたよ」
心が震えた。
神が与えた残酷に、自分の無力に。それなのに確かにそれを肯定してくれる彼女の慈しみに。
「先輩にはそんな不思議な力があるんです。自信を持っていいんです、正真正銘の主人公なんですから。私が憧れた映画のヒーローなんですから」
温い吐息に冷たい雫が混じった。薄れ薄れたガラスの彫刻のような凄絶に美しい貌をくしゃくしゃに歪めて、ぼろぼろと琥珀色の涙を落とす。
そのとき、ようやくぼくは言葉を忘れた。
誤魔化しも詭弁も衒いも子供騙しもやめて、ぼくはもう言葉は紡がなかった。ただ強くきつく、彼女の温かな身体を抱きしめた。そのときのぼくらはあの日見たラヴストーリーの恋人同士のようだったろうか。彼女の細い腕が怯えるようにぼくを抱きしめ返した。柔らかな黒髪に鼻先をうずめて、ぼくはただ彼女を愛した。沈黙に彼女の嗚咽だけが溶けていく。琥珀色の夕暮れが、確かなお終いに向かっていく。彼女は嗚咽を呑み込んで、泣き濡れた笑顔でもう一度ぼくを見返す。琥珀色の瞳。
「――私を愛してくれてありがとう」
そしてさよなら、大好きな人。
ふっと、重さがなくなった。両腕が虚空を切った。
「うそ、だよな」
彼女の制服の胸元を結わえていた朱色のリボンがふわりと地に落ちた。瞬きする前までは真ん前にあったはずの双眸を、もうどこにも認めることはできなかった。
「隠れるのはやめてくれよ。こんな冗談を笑えるはずないんだから」
ジャングルジムの影にも、樹下の木漏れ日の中にも、錆びたブランコの上にも、彼女はいない。ぼくの懇願に応える声はない。
地面に垂れ落ちた一筋の血痕のように、彼女のリボンが横たわっていた。今にも風に連れていかれそうになるそれを、ぼくは拾い上げる。彼女の胸元を可憐に彩っていたリボンに、まだ彼女の温もりが残っているような気がした。じんわりとした彼女の残滓が、情けもなく崩れ去っていく。肩に触れればシャツには彼女の零した涙滴が染み込んでいた。ブランコにもしばらくの間、彼女の体温が残っていた。彼女という存在がそこにいたという証はいくらでもある。けれど、彼女がそこにいるということをどうやっても証明できなかった。
地平に落ち込んでいく夕日が最後の琥珀色を世界に投影する。それは彼女の瞳に映った世界の色そのままで。そう感じた瞬間、急に彼女がもういないのだと確信した。心臓に楔を打ち込まれたようにはっきりと、ぼくはそれを知ってしまった。
一瞬の煌めきを残して、夜が立ち込めていく。がくりと膝が折れた。乾いた砂地に崩れ落ちるように座り込んで、ぼくは立ち上がることができなかった。
夜は何百何千何万回と繰り返してきたそのままに、音を吸い取って穏やかな沈黙を街に与えていく。何も変わらない。この世界の一番大事な部品が欠けたというのに、歯車は不協和音を立てることもなく回る。
実にありふれたやり方で、ぼくらの映画は幕を閉じた。マンネリ化した無数の悲劇の一つとして、誰に記憶されることもなく。有象無象の底なし沼に、じわじわと沈み込む。
世界が終わりを迎えてから一ヶ月と一週間と二日。
ぼくにとって、本当の意味で世界は終わった。