―5―
準備よく彼女が持ってきた電池式のランプの灯りががらんとした客席に零れた。橙色の柔らかな灯は、古ぼけた座席を慈しむように照らし出す。
「前に先輩と来たときは、確か最前列に座りましたね」
もう三年も前の些事を彼女は覚えていた。あの日座ったのとまったく同じ、中央からやや右にずれた最前列に腰を下ろす。真っ白なスクリーンがぼくらの目の前に屹立していた。それもあの日のままだった。
「近すぎますよね、ここ。見上げないとスクリーン全体が見えないですよ」
身を乗り出して手を伸ばせば届きそうな距離にあるスクリーン。あの日もほとんどずっと見上げる羽目になって、見終わった後は首が痛かったっけ。彼女もそれを思い出したのか、真っ白な首筋を指で揉んだ。
あの日、隣り合ったぼくらの席の間にはハンドランプの代わりにポップコーンとコーラがあった。ポップコーンの入った紙カップの隣に置かれていたのは彼女のコーラで、ぼくのものは反対側に置かれていた。間違って私のを飲まないでくださいね、とほんのり頬を赤らめた彼女は言った。見たのはありきたりなラヴストーリーだったと思う。ラストシーンの透き通った夕焼けの中で、二人が抱き合っていた姿を鮮明に覚えている。スクリーンの中の夕焼けは、まるで彼女の瞳に映った夕焼けのような優しい琥珀色をしていた。
ランプの橙色を映した彼女の双眸はやはりそんな色だ。あたかも彼女の瞳の中だけではあの日のままに映画が続いているようだった。
「私、映画館って好きです」
見終えた映画の感想を語るように、彼女は囁く。ふかふかとした背もたれに身体を預けて、ぼくは彼女の言葉に耳を傾けた。
「実際に映画が流れているかどうかは重要ではないんです。そこが非日常への入り口であるという意味で、映画館は私たちにとって特別な意味を持つと思うんです」
「確かにね。家で見ても映画館で見ても内容は同じはずなのに、なんとなく感じ方が違うよね」
「ええ。映画館それ自体が人間の感情の振れ幅を大きくする増幅装置のような役目を果た
していると思うんですよ。人がいっぱいいっぱいに詰まっていればそれも当然なんですが、こうしてがらんとしていればしていたで、そこに別の暗示を見つけられるんです」
非日常への入り口という特別なものを独占しているというささやかな優越感です、と彼女は目を細める。彼女の言う通り、人っ子一人いないがらんどうでも他の場所で感じるような寂寞は感じない。それはたぶん映画館という日常から隔絶した空間は、世界が終わってしまったという非日常さえ包括しているからなのだろう。
彼女が映画館が好きだという理由も分かるような気がした。日常の世界で過ごしていた頃は、非日常を与えてくれるこの場所を心地よく感じるだろう。異常な世界にあってその異常を当然のこととして受け入れてくれるこの場所は、ひどく懐かしい場所だった。
「先輩は映画みたいな生き方に憧れませんか?」
琥珀の目を瞼で覆って、彼女は唇の隙間から問いを吐き出す。
「どんな映画かによる。悲劇の主人公にはなりたくないけれど、ラヴストーリーの主人公は悪くない」
「アクション映画のヒーローならどうです?」
「男子なら一度は憧れるに違いないさ」
「世界の終わりにたった二人きりで残された少年と少女には?」
思わず彼女の表情を確かめた。けれど彼女は目を閉じたまま座席に身をうずめて、別段そこに特別な意味を込めているようには見えなかった。単なる皮肉か、純粋にぼくがこの状況をどう感じているのか問いたかっただけか。ほんの少し逡巡して、ぼくは言葉を紡ぎ出す。
「それだけでは判断できないな。クライマックスが知りたい。彼らは二人でいつまでも幸せに暮らしていくのか、他にも残された人々と出会うのか」
悲劇的な結末は口にしなかった。それを口にしたらシナリオライターが喜び勇んでオチを書き換え始めるような気がしたのだ。彼女は中々答えなかった。身体をかき抱くように緩く腕を組んで、瞑目したままでいた。眠ってしまったのではないかと思い始めたとき、ようやく彼女の吐息に言葉が混じる。
「彼らは幸せに暮らしていくかに思われましたが、やがて片方が病に侵されて死んでしまう。そんな悲劇です」
どうしてそんなことを、と思った。彼女がことさらな悲観主義者でないことはよく知っているつもりだったが。ぼくが眠っている彼女の隣から黙って去っていったことが、虚ろな目の人々を目撃した彼女には想像以上の恐怖だったのかもしれない。
「ぼくらの物語はそうはならないよ。ぼくは君を一人残しはしない。神でも運命でもシナリオライターでも、ぼくを殺そうというならぼくは死に物狂いで生きるだけだ」
ほっと息をついて、彼女は頬を緩めた。目元に零れ落ちた一房の髪がランプの光に削り
出されて、くっきりとした陰影を刻む。その影に惑って判然としない目元は泣いているようにも微笑んでいるようにも見えた。
「先輩はいつも優しいですね。私にそこまでするほどの価値がありますか?」
君ほどぼくにとって価値ある存在はない、そう言えればいいのに。ぼくはぼくの胸の奥の不定形なモノを定義してしまうような言葉を発することができなかった。ただ、その代わりに彼女がそうしたように、彼女の手をぼくの手のひらで包んだ。今度は明確に微笑んで、彼女はまた肩の力を抜く。
無言でぼくらを赦す映画館の座席に身も心もうずめて、どれほどそうしていただろうか。彼女の浅い吐息はいつしか寝息に変わっていた。眠りが浅いらしい彼女を起こしてしまわないように、細心の注意を払って腕時計を傾ける。ぱちり、と微かな音を立てて二本の針が頂点に重なった。文字盤の隅で密かに切り替わる日付の表示に、ぼくは清らかな偶然を感じた。
「ぼくが君にあげられるものは何もないけれど、あるいはこの終わりの中だったらなんでもぼくのものにしてしまってもいいのかもしれない」
ほとんど吐息と変わらない囁きで、眠りに落ちた彼女に語りかける。別に言葉が届いていなくても構わない。これは馬鹿げた自己満足に過ぎないのだから。
「君が映画館が好きだというから、ぼくはこの映画館を君にあげるよ。今後一切、この映画館に関してぼくが所有権を主張することはない、約束する」
我ながらつまらないことを言っているなと思う。それでもこんな世界でも、たった一人だけでも、彼女という存在を大切に思っているぼくがいることをちゃんと言葉にしておきたかったのだ。
「誕生日おめでとう。同い年だ」
十七年と二分目の人生を生きる彼女の寝息が、彼女のものになった映画館の空気に溶け込んだ。