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―4―

 夜になると少しだけ心が安らぐ。人影のない道も、静寂が立ち込めた街も、夜の暗闇の中ではそれほど異質ではない。

 けれど今日ばかりは、やはり寝付けなかった。自分以外の人と出会えたということ、しかも彼女と出会えたということが心を支配しているというのはもちろんだ。ただそれ以上にぼくの心をかき乱すのは、見慣れないリビングの風景と寝慣れないカーペットの柔らかさ、嗅ぎ慣れない微かに甘い香り。そして規則的に沈黙に響く彼女の寝息だった。

 せっかく出会うことのできた彼女とあっさり別れることができない心情はぼくも同じだった。しかしそれを彼女の方から言い出すとは思っていなかったのだ。

「先輩、私の家に来てください」

 ぼくが何度も言いだそうとして口ごもっていた言葉を、彼女はこともなげに言い放った。ぼくは面食らって、目を瞬かせる。呆れたため息を吐いて、彼女はそっと肩を竦めた。

「一人でいるより二人でいた方がいい、そうでしょう? 何が起こるか分からない世界なんですから。目を離したきり、先輩がこの街から消え去ってしまったら私は悔やみきれません」

 同意しない理由などなかった。そうでなくてもぼくは彼女をずっと見つめているだけで幸せを感じることができるのだ。もっとも、今はそうしたささやかな幸福を噛みしめるよりも、ちゃんと彼女がそこに居ることを確かめる意味の方が大きくなっていたが。

 ぼくは、薄い毛布をかぶってソファに横になった彼女の顔を見つめた。窓から一筋差し込む月光が部屋に拡散して、ぼんやりとその横顔を照らす。邪な想いはなかった。ただ静謐な幸福に胸が痛んだ。そこに彼女がただ存在するということ。そんな当たり前がこの上ない幸福であること。それは決して終わりゆく世界に生きているからという理由ではなかった。

 生きていることの意味を、彼女は問うた。

 ぼくは最後までその問いに答えなかったけれど、答えられなかったわけではない。触れることもなく、横になったまま彼女を眺める。ぼくは唇を動かさず、音無き声で彼女に語り掛けた。

 生きていることをぼくはこう定義する。

 〝ただ愛すること〟。

 その姿を見つめるだけで胸の奥があふれるほどの幸福と渇望とに満たされる。締め付け

られるような切なさとちくりと刺さる棘のような哀しみに苛まれる。それでも愛おしいほどに幸せで、いつまでもいつまでもそうしているだけでいいとすら思える。そんな特別な人がいる。ぼくらの生はただそのためだけにある。純粋に真っ直ぐに、愚か者と呼ばれるほどにただ愛するために。生きることの意味なんて初めから決まっていて、それはすべて彼女のためにあった。ぼくらの生が何なのかという問いの答えは、その愛をいかに表現するかという過程、その一点にのみ集約される。

 対価などいらない。愛していられるという破格の奇跡そのものは、いくらでもぼくらの愛の報酬になり得る。応えがあるかどうかは問題ではないのだ。愚直な行為にこそ意味がある。否、それはそのまま意味である。だからぼくがこうして黙って彼女を想っているというそれだけのことで、ぼくという生の在り方は肯定される。たとえコンビニに残した小銭を誰も見つけてくれなくても、彼女自身がぼくのことを忘れ去ってしまったとしても、彼女がそこにいるということがぼくの存在証明。置き換えようのない唯一無二のレゾンデートル。

 だからこそ、人の消えたこの街で彼女が残っていたことは、神様がぼくに残した最後の恩情だと思うのだ。パンドラの箱が開け放たれてあらゆる禍が解き放たれた後に、小さな希望が残っていたように。

 ぼくは彼女を起こしてしまわないように、そっと立ち上がった。神様がぼくらに情けをくれたのなら、今この瞬間に彼女を奪い取ってしまうような真似はしないはずだ。足音を忍ばせながら、暗闇の中壁を伝う。履き古したスニーカーに足を詰め込むと、そっとドアを押し開けて玄関を出た。世界が終わる前よりも少し大きくなったような気がする満月が、ぽっかりと広い空に浮かんでいる。もしかするとこのまま月がどんどん近づいてきて、意地悪な終末のクライマックスに墜落してくるのではないかと取り留めもなく思った。実際にそうなってもおかしくはなさそうだから、笑い飛ばすわけにもいかなかったのだけれど。

 彼女の家はぼくの家から一駅分ほど離れている。青い屋根のこざっぱりした一戸建てを振り返った。他の家々と何かが変わるはずもない。けれどその家だけが何か言葉にできない温もりのようなものに包まれているように思われた。それは彼女がちゃんとその家に守られていることの証明のような気がする。

 普段足を伸ばすことのなかった街の見慣れない家々は、夜闇に立ち竦んでいた。夜は一切合財の音を食う不可視の怪物のように街に横たわっている。彼女の声も寝息も聞こえない、昨日までと同じ孤独を噛みしめた。そうして彼女の不在を確かめる必要があるように思ったのだ。あるいは単に、彼女の隣に横になっていては乱れずにいられない心を落ち着かせたかっただけかもしれない。

 どこへ向かうともなく歩を進める。鳥の声も猫の声も聞こえない完璧な静けさは深い海

の底を連想させた。穢れ一つない澄んだ水底にぼくの軽い足音だけがこだまする。不意に見覚えのある風景に出会った。錆びつき始めたアーケードに覆われた商店街。半分以上の店がシャッターを閉じたままにしているのは世界が終わったからでも、夜だからでもない。めぼしい名物もなく、店主たちの高齢化も進んだ商店街は時代の波には勝てない。ぼくが最後にここを訪れた三年前から、もうすでに世界の終わりへと準備を進めていた。

 まるで昨日のことのように、あの日を思い出せた。それは紛うことなく、そのとき隣に居たのが彼女だったからだろう。ぼくが彼女に少しでも積極的なアプローチを見せたのは、あの一度きりだ。勇気を振り絞って、ぼくは彼女を映画に誘ったのだ。寂れた商店街の一番奥に映画館はあった。百人は到底入らないだろう小さな昔ながらの映画館。案外新しい映画もやっていて、活気を失った商店街でもそこだけはそれなりに賑わっていた。

 そのときのままだった。ただ誰もいないだけ。つい先日公開されて話題になっているハリウッド映画のポスターと名前も聞いたことのないB級映画のポスターが、重なり合うようにして壁に貼られている。

「懐かしいですね」

 不思議と驚きはしなかった。ぼくは初めから気づいていたように、悠然と振り返る。彼女は悪戯が失敗した子供そのものの顔で口を尖らせた。

「なんで驚かないんですか」

「ぼくにもわからないよ。相手が君だからじゃないかな」

「そんな理由だとどうしようもないですね」

 くすりと笑って、彼女は目を細めて映画館に目を向ける。その横顔に何か安堵にも似たものが浮かんでいるように見えたのは、気のせいではなかったのだろう。

「……先輩がいなくなってしまうんだと思ったんです」

 視線を映画館に向けたまま言った。密やかな怯えが滲んだ声だった。ほんの少しだけ彼女の目尻が歪んで、泣きぼくろが本当の涙のように揺れた。

「私、眠りが浅いんです」

「ごめん、できるだけ起こさないように気を付けてたんだけど」

 ぼくは素直に謝罪したが、彼女の耳に届いているかは分からなかった。彼女は悄然とした顔で虚空を見つめていた。そのまま何かに憑りつかれたように唇を蠢かす。

「二週間前、この街の人々がどうやって去っていったか、先輩は知っていますか」

「残念ながら。ぼくは逆に眠りが深い方なんだ」

「あの日、一晩中クラクションがうるさくて私は眠れませんでした。深夜を過ぎたころになって、隣の両親の寝室から起き上がる音が聞こえたんです。二人はそのまま玄関から出ていきました。少しおかしいなとは思いましたけど、単に外の様子を見に行ったと思ったんです」

 ようやく彼女の瞳にぼくが映った。縋るような目で、彼女はふらりとぼくに一歩近寄った。その肩は泣きだしそうに小刻みに揺れている。

「でも一時間経っても二人とも戻ってこなかった。さすがに私も心配になって、着替えて外に出ました。そこで何を見たと思いますか」

「……言わなくていい、辛いなら、怖いなら」

「辛くても怖くても先輩にも知ってほしい。この世界がどんなに異常なのか。――人がたくさん歩いていました。車を持っていない人だったのだと思います。それだけならいいんです。でも私はその人たちの目を見てしまった」

 彼女はもはや誰の目にも明らかなほど震えていた。そんな彼女をぼくは初めて見た。理性で感情を押さえつけることも出来ず、小さな子供のように震えていた。

「あの人たちは、何も見ていなかったんです。先輩には想像できますか、何も映っていない人間の瞳が。博物館にある動物標本の目に似ているけれど、もっともっと生々しいんです。あんなに恐ろしいものはありません。そんな人々が何十人も何百人も列を成してどこかに行くんです。私はあの時、はっきりとわかりました。世界は終わってしまったんだって」

 この笑えない悲劇の脚本を世界に書きつけるシナリオライターの吐息を、これほどはっきり感じたことはない。人知を超えたその存在は震える彼女を嘲笑っているのだろうか。

 震える彼女はそれでも涙だけは零さなかった。泣きたいときもあると語った彼女は、まさしく涙を流して然るべき時でも結局それを自らに許さない。ぼくは恐る恐る、彼女の頭に手を置いた。彼女が猫を撫でていたように、そっと雪の欠片を指先に転がすように手を滑らせた。映画の主人公なら迷いなく彼女の震える身体を抱きしめてあげるだろう。彼女が望むかどうかはともかくとして、それが正解なのだとぼくも分かっている。嘘みたいに透き通っていたいという彼女の意思を尊重したわけではない。もっとずっとくだらない理由。やはりぼくが臆病だっただけだ。愛していられるだけで満足だとその臆病さをいいわけしても、やっぱりいつまでもその隣に立っていたかった。傲慢で小心なぼくの手のひらの下で、彼女は微かに頬を染めて微笑んでいた。柔らかな彼女の髪の感触が、ゆっくりと指先から離れていった。

「先輩は、いなくならないですよね?」

 ぼくがそこにいようといまいと彼女にはどうでもいいと思っていたのに。彼女は切実な響きでそう問う。細い身体から震えは消えていた。

「ぼくはずっと君の隣にいるよ、大丈夫。君を見失ったりしない」

 何も言わず、彼女は儚く笑う。そしてためらいもなく、ぼくの手を引いた。

「さあ、行きましょう、先輩」

「行くって、どこへ?」

「映画を見に来たんでしょう? 中に入りましょう」

 そこで映画が流されていないことなど彼女がわからないはずがない。それでも世界が壊れてしまう前のありふれた日々をなぞるように、彼女はぼくを(いざな)った。手のひらに彼女の温もりを感じる。確かにここに生きている彼女の命が穏やかに脈打っていた。

 生きる意味を見出せなくても、最良の死を見出せなくても、君は否応なくここに生きているのだ。

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