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「私は私がこの終わりを迎える世界の主人公だと思っていたのですけど、先輩が現れたことで議論の余地が生まれてしまいましたね」
児童公園のブランコに腰かけて、彼女は歌うように言った。彼女と同じようにきしきしと軋む鎖の先に腰かけたぼくは苦笑して肩を竦める。
「君が主人公でいいんじゃない。ぼくは全然主人公気分でなんかいないんだから」
膝の上に丸まったぶち猫を乗せた彼女は不服そう。それにしてもよく懐いた猫だ。彼女が根気強い餌付けで手懐けたのか、ひょっとすると元々彼女の飼い猫なのかもしれない。眠たそうに瞼を上げ下げする猫を撫でながら、彼女は言葉を紡ぐ。
「ですが私の知る限り、こうした終末ものの映画では女性よりも男性の主人公の方が多かったと思います」
「ぼくの知る限りではそんなに変わらないと思うけど。それにこのシナリオライターはずいぶんひねくれてるようだからね、あえて少数派を選ぶということもある」
一理あります、と呟く彼女。正直ぼくにとっては不毛以外の何物でもない会話だ。それでも久しぶりに誰かとかわす言葉というのは、恐ろしいほどに心を捉えた。いいや、あるいはそれが彼女との会話だったから。どんなくだらない内容でも、ただ目の前にいるぼくに語り掛けているというその事実だけで十分だった。
「私はひょっとすると、私のせいで世界が終わってしまったんじゃないかとか思っていたわけです」
きしきしとブランコの鎖を軋ませながら、彼女は静まり返った公園を見渡した。小さなプラスチックのスコップが打ち捨てられたように砂場に埋もれていた。そのくすんだ赤色が痛むほどに胸を刺した。
「映画館のスクリーンに映るような劇的な何かが起こったらって、そう願ってしまう。不思議な何かがこの世の不条理を丸ごと変えてしまってほしいって、そう願っていました」
「別におかしなことじゃない。映画みたいな経験がしたい、非日常に埋没したいなんてことは誰でも一度は思うことさ」
結果としては圧倒的なまでの不条理を押し付けられただけだったのだけれど。ただぼく
が驚いたのは、彼女がそういう類の夢想に耽ることが意外だったからだ。ぼくにとって彼
女は可憐な哲学者であり、不条理を一つの真理として語るような現実主義者だった。彼女
は目を細めて、ぼくを凝視する。絹糸のような滑らかな黒髪が一房、頬に垂れた。左目の下の小さな泣きぼくろが、潤んだ瞳から零れた一粒の黒真珠に見えた。
「私にだって、泣きたくなる時はありますよ、先輩」
返す言葉はないように思えて、ぼくは軽く地面を蹴る。うっすら舞い上がる砂埃。彼女の顔がすっと左にずれて、再び接近する。右にずれて、三度接近する。だんだん小さくなる振幅。彼女は黙っていた。
「やっぱり君が主人公の方がいい」
とうとう揺れ動かなくなったぼくは言う。彼女は苦笑いしながら首を傾げた。
「ぼくが主人公だとして、何か面白いことがある? それよりも君みたいな女の子がスクリーンに映っている方が観客はきっと嬉しいだろう。泣きも笑いもするというならなおさらね」
「遠回しにお褒めの言葉をいただいたと解釈しても?」
「なんなら直接的に言ったっていい」
彼女はくすくすと声を忍ばせて笑った。膝の上の猫が迷惑そうに身動ぎする。誰にも憚ることはないのだから声を上げて笑ってもいいのに。彼女のことだから猫に憚っていたとしても不思議ではないのだけれど。
「直接的に褒めていただきたいのはやまやまですが、先輩を困らせてしまうのでやめておきますよ。それにどうせ私と先輩しかいないのですから、私以上に魅力的な女性はいないということになりますから」
「まるでアダムとイヴみたいだ」
エデンの園で二人きり。アダムはイヴにただ恋い焦がれて心拍を速めていたろうか。イヴは憂いた琥珀の瞳で後悔を噛みしめていたろうか。たとえ禁断の果実を勧める奸智の蛇の言葉であっても、この停滞と絶望を打ち破るのなら耳を傾けたろう。
「ぼくらはこれからすべての人類の祖になるわけだ」
「――やめてください」
冷えた声だった。禁断の果実を口にした二人を、神はこんな声で断罪したのだろうか。彼女は目を伏せて、紺色のスカートのプリーツをしきりに整えていた。自分がまずいことを言ってしまったのだとは考えるまでもなく分かったけれど、果たして何がそれほど彼女を苛立たせてしまったのかが分からなかった。
ぼくが戸惑っていると、彼女ははっとしたように目を上げる。身体がぴくんと跳ねたせいで、猫が不満そうに鳴いた。困ったようにぎこちなく微笑んで、彼女は取り繕うように
言う。
「やめてくださいよ。せっかく映画みたいな世界なんですから、嘘みたいに透き通ったま
まで生きていきたいじゃないですか」
冗談めかして語られたそれが彼女の本心なのか、その表情から推し量ることはできなかった。ならば言葉の裏など探るまい。彼女がそう語ったのであれば、それが真実に違いないのだ。
「別にそう言うわけで言ったんじゃないって。ぼくが変態みたいに言うなよ」
「ふふ、冗談です」
彼女は表情を和らげた。それからほぅと疲れたため息を吐き出す。
「聖書に例えるのなら、アダムとイヴよりノアの方舟の方がふさわしい気がしますね」
すべてを押し流した大洪水の後に、一番ずつの動物たちとノアとその家族が残される。なるほど、いかにもそれはぼくたちを指しているかのようだった。人間を憂いた神によって浄化されてしまった世界。ノアはすべてが水に呑まれた孤独な世界で、一体希望を描けたのだろうかと疑問に思う。
「するとぼくか君かどちらかがノアということになるね。ぼくは啓示を受けていないから、やはり主人公は君だ」
「残念ながら私も事前通告は受けていません。そもそもノアとなるべきだった人は、とうの昔に死んでしまったではありませんか」
自称予言者の男のことだった。啓示を受けたというのなら、彼がノアだったのだろう。しかし当の本人が死んでしまった。もしかするとぼくたちはその穴を埋めるために何の意味もなく生かされたのかもしれない。それを幸運と喜ぶことも、不運と嘆くことも、ぼくにはまだできそうにない。
日が落ち始めていた。夏の終わりの真っ赤な太陽がのろのろと地面に引き寄せられている。しばらくぼくたちは言葉もなく、赤く染まった空気の中に座り込んでいた。彼女の膝の上でようやく落ち着けた猫が瞼を閉じている。烏が二羽寄り添うように中空を羽ばたいていた。番と思しきその二羽は、あたかも比翼の鳥のようだった。なんということはない、ありふれた光景。薄まった幸せがまんべんなく満ちた世界。ぼくらの孤独や悲壮を抱えてもなお、世界は何も変わらずに動き続けている。
「一人きりになってから、ずっと考えていることがあります」
細い指で猫の背を漉きながら、彼女は空を見据えていた。斜陽を宿しても彼女の茶色い瞳はまた、澄んだ琥珀に似ていた。
「生きているって何なんでしょう」
ひどく哲学的な問いを口にする。いや、むしろ誰でも一度は抱くありふれた問いか。答えなどありはしないのだけれど、みんなこじつけに意味を与えて誤魔化している。そうしていなければ生きてはいけない。彼女だって十六年の人生でその答えを持っていなかったわけではなかろう。けれどぼくがアダムとイヴの、ノアとその家族の幸せを疑ったよう
に、この世界は当たり前を考え直させる。
「二週間考え続けて、君はまだ答えを見つけられない?」
彼女はほっそりした頤に指を添えて、しばし目を閉じた。緩やかに弧を描く睫毛が微かに震えた。言葉というピースをパズルに当てはめていくように、ゆっくりと確かめながら彼女は口を開く。
「例えば私たちは死ぬために生きているのかもしれません。生はあくまで死のアンチテーゼに過ぎなくて、弁証法的に言うのならそれを統合して最良の死の形を探るために生きているんです」
「なるほど。確かに生きている限り、死は必ずそこに在るものだからね」
「でも先輩。私は自分で自分の理論を肯定できないんです」
「それはまたどうして?」
「最良の死を見出すことが生の目的だとしたら、それを見つけられない生は無意味ということになります。この何か月かでとても多くの人が死に、私の傍にいた人たちもみんな消えてしまいました。彼らが例外なく自己の生の終着点を見つけられていたとは到底思えないんです。そうすると彼らが生きた意味などなかったということになってしまうじゃないですか」
彼女が最も恐れていることをあえて口にしていないのは分かっていた。他人のことなど知る由もない。消えていった彼らが本当に彼女の言う生の解答を見いだせていなかったとは限らない。あるいは終わりの形を受け入れたからこそ、彼らは終わりのある方角へ逃げていったのかもしれない。
彼女の白い指先を震えさせるのはそんなことではない。彼女はただ、まだ自分が見いだせないことを怖れているのだ。そう遠くない将来に自分は自分のあるべき死の形に辿りつけないまま、時間切れを告げられてしまうのではないか。そうしたら主人公どころか脇役としての存在意義すらなくなってしまう。
それを子供じみた恐怖と一蹴することができただろうか。しかし終わりに向かう世界でそれを杞憂と呼ぶことなどできなかった。溢れかえるほどいたはずの人々が、足跡一つ残さず消え失せた街。そこにおいて存在の消失は妄想の域を超えた、生々しいまでの現実としてぼくらの隣に立っていた。
「怖がらなくていいよ」
彼女の哲学を汚す言葉だった。けれどぼくはそう言わずにはいられなかった。彼女がそこにいることを少しでも肯定してあげないと、他の人々と同じように消えていってしまうような気がした。本当はもっともっと言ってあげるべき言葉が、ずっと胸の奥に抱えていた言葉があったのだろうけれど、それを告げるにはぼくはあまりに臆病だった。
「ありがとうございます」
それでも彼女は笑ってくれた。それは広い広い世界ではほんの些細な出来事に過ぎないのだけれど。終わりながらどんどん狭くなる世界では、きっと素晴らしいことだった。