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―2―

 空がしんと澄んでいた。

 夏の名残を宿して小ぶりな入道雲が遠くにもこもこと立ち上がっている。霞みがかったような淡い水色が悄然と空っぽの街を見下ろしていた。電線が風にたわんでいる。烏が一羽、短く鳴いて飛びたった。ブロック塀の上を気取った白猫がしゃなりしゃなりと歩いていた。

 それだけだった。怪物も宇宙人もゾンビもいなかったけれど、人もいなかった。ありふれた昼下がりの街から、そこにいてしかるべき人々の姿が忽然と消えてしまっていた。映画のセットのような街を、映画の主人公のような気分にはなれないまま歩く。もう一つだけかつての街とは違うところがあるのに気付いた。当然のことなのだが、どの家も車庫や家の前の駐車スペースが空っぽだ。つまり車もない。それだけが人々が忽然と掻き消えたのではなく、自らの意志で去っていったという証拠だった。

 コンビニに着くまで十七分かかった。まっすぐ行けば五分程度で着くのだけれど、少し街の様子を見ていきたくて遠回りをしたのだ。十二分の寄り道の末得られたのは、やはりこの街には実体ある脅威はなさそうだということだけだった。

 昼も夜も眩いばかりに電気を輝かしていたコンビニは、死んだように明りを落として沈黙している。ひょっとするとぼくはここに電気がついていないのを初めて見たかもしれない。自動では開かなくなった自動ドアは半開きになっていた。ガラスを叩き割ったりという物騒なことをしなくてもよくなって、ぼくは安堵する。ドアの状態から強盗でも押し入ったのだろうかとも思ったが、店内はいたって綺麗だ。商品もちゃんとそろっていて、やはり人だけがいない。少し逡巡してぼくはパンコーナーに向かった。カップラーメンやカップ焼きそばでもいいが、日持ちのするものはできるだけ残しておきたい。そんな風に先のことまで考えている自分に苦笑いが漏れた。いつまでこの世界で生かされていられるかわかったものではないのに。

 本当はカレーパンやコロッケパンのようなこってりとした総菜パンが食べたかった。しかしやはり何日も置きっぱなしになっているものに違いないので諦める。もうそれほど暑い日はないにしても、万が一痛んでいたらたまったものではない。この孤独な世界で、体調を崩すのはとりわけ避けたい事態の一つだ。

 あんぱんだけが最後の一個のところまで減っていた。強盗が入ったとすれば無類のあんぱん好きだろう。そんなとりとめもないことを考えて、自分でくすりと笑った。久しぶりに、随分と久方ぶりに笑った気がする。無性にもの悲しくなって、何の飾り気もないコッペパンをひっつかんだ。無人のレジの前で立ち止まる。このままコッペパンを持ち逃げしたところで誰が咎めるわけでもない。けれどぼくはそっとカウンターの上に硬貨を置いた。あえてレジスターを開かなかったのは義理みたいなものだったろうか。違うように思われた。たぶんぼくは無意識に自分がここに居たという証を残したかったのだ。カウンターの上にぽつんと置かれた数枚の硬貨を見て、いつか誰かがここに馬鹿真面目で孤独なぼくが居たということに気付いてくれればいい。きっともう、そんな日は来ないのだろうけれど。

 薄青い空の下で乾いたパンをもそもそと頬張った。暴力的なまでに口の中の水分を奪い取るそれに悪戦苦闘する。ペットボトルのお茶でも買ってくるべきだったと後悔するけれど、今更戻るのはより面倒だった。仕方がないのでやはり遠回りになるけれど、近所の児童公園に立ち寄ることにした。あそこなら水飲み場がある。もっとも水が出るかどうかわからないけれど。それを確かめておきたくもあった。

 にゃぁん、と猫が鳴いた。冷え切った静寂が満ちたこの街では動物たちの声が嫌でも大きく響く。ぼうっと空を見上げていた目を、ぼくは下ろした。ふわっとした毛並みが可愛らしいぶち猫が道の真ん中で何かに食いついていた。猫が齧る茶色い小さな塊があんぱんの切れ端だと、それだけではすぐに気づきなどしなかっただろう。しかしぼくは猫を認識するのとほとんど同時に、それを知った。当然のことだ。

 猫の隣には欠けたあんぱんを持った女の子がいたのだから。

「お腹すいたでしょう。美味しい?」

 彼女はまだぼくに気付いていないようだった。目を細めてあんぱんを一生懸命齧る猫を見ていた。ぼくもただ茫然と彼女を見つめていた。世界が終わってしまうまでは毎朝、電車の中で彼女を見ていたように。

「な……」

 言葉になり損ねた呟きが唇から零れた。沈黙した街にはそれで十分だった。彼女がはっとした顔で視線を上げる。透き通った陽光に煌めく茶色い瞳が、一瞬琥珀のような澄んだ金色(こんじき)に見えた。真ん丸な瞳が大きく見開かれて、彼女は柔らかに微笑んだ。

 黒髪がしゃんとなびく。ワイシャツに薄手のブレザーを重ねただけのありふれた制服が、暴力的なまでに彼女の存在を規定した。ひどく見慣れた姿で彼女はそこに居た。

「お久しぶりですね、先輩」

 中学時代に部活の後輩だったその子はそう言った。ただある昼下がりに道でばったり出会ったような調子で、微笑みを浮かべて。

「うん」

 言葉だけが漏れ出た。心が追い付いていかなかった。

 そうなのだけれど。ただの昼下がりに、ただ道の真ん中で出会ったに過ぎないのだけれど。彼女はなにもおかしくなどないのだけれど。それでもおかしかった。

「君、夢だな」

 喉元を撫でられた猫がごろごろと幸せそうに鳴いた。彼女はころりと笑って、スカート

についた毛玉を払う。

「そうですね、夢かもしれませんね」

 からかうような口調はぼくの心が生み出した妄想とは思えなかった。確かに彼女はそこに居た。馬鹿げた白昼夢なんかじゃなくて、生きた温かな人間がそこに居た。

「みんな夢みたいなものですよ、今となっては。何もかも嘘みたいなことが起きてるんです。私が夢でも何もおかしくはないですね」

 賢しく輝く琥珀の双眸。もうずっと前からまっすぐ見つめることができなかったその瞳を、ぼくは本当に久しぶりに真正面から見返すことができた。はにかんだ微笑みを浮かべて、彼女は静かに立ち上がる。

「まだ、いたんだね。ぼく以外にも」

 ただ心臓を痛切に打ち鳴らすこの感情を何と呼ぶべきか、ぼくはそれに値する言葉を持たなかった。哀切と感慨が複雑に入り混じって、かねて空っぽになっていた心の器に流れ込んだ。何かを言葉にしてしまうよりも、ただ目の前の彼女を抱きすくめていたかった。けれどできるはずもなく。ぼくは下手くそな微笑みを作って、泣きそうな顔で笑う。

「先輩は夢ではないですよね」

 微笑を湛えた顔のどこにも不安の色は浮かんでいなかったけれど、彼女は確かめるように囁いた。その琥珀の中にぼくは微かな諦念を見る。彼女にとってぼくが夢かどうかはどうでもいいのだろう、とわかった。ぼくと出会って何気ない反応を返せた段階でわかりきっていたことだけれど、彼女はほんの少しだけ歪んでしまっていた。それは何も不思議なことではない。孤独な街に放り出されて、猫とあんぱんを分け合って何週間も過ごして完璧に正気を保っていられる方が異常だ。少しずつ少しずつ『正常』の範囲内で歪んで壊れていく。ぼくだってきっともうどこか狂ってしまっている。自分ではそれに気付けないだけだ。あるいはできそこなったこの笑みがその証明なのかもしれない。

「ぼく自身が夢であるとは、さすがに思いたくないね。たぶん、ここに居るのだと思っているよ」

「それならよかったです」

「君、あんまりそう思ってないだろ」

「そうかもしれません。もう長いこと誰も私を観測してくれませんでしたから、私自身どう私を定義したらいいか戸惑っているんです」

 ある種哲学的な響きの言葉を穏やかに口にする。かつて聞き慣れていた心地よい語り口に思わず息が漏れた。賢しらな瞳を悪戯っぽく輝かして、彼女はいつでも煙に巻くような語り方をする。ぼくは不意打ちのように己の内面を覗き込ませる彼女の話し方が、妙に気に入っていた。

「でも嬉しく思っているのは本当です。見知らぬ人に観測されるよりも、先輩に観測され

るのなら心地いい」

 薄い茶色に戻った瞳で細かな光屑のような優しさが跳ねる。口に出しはしなかったけれど、ぼくも胸の奥で万感の思いを込めて返した。たったふたりきり取り残された相手が、君で本当に本当に良かったと。

 ぶち猫があんぱんを欲しがって、にゃぉんと鳴いた。

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