ウミガメのスープ
「ウミガメのスープ、って知っていますか?」
テスト終わりの久方ぶりの部活。
じきに日も赤らんでくるであろう頃に、彼女は唐突にそう口にした。
「……いや、知らないけど」
いきなりの話題の意図が見えず、俺は困り顔のまま首を横に振った。
部活、と言っても部員は俺と彼女の二人だけ。どうせ来年には廃部になるそんな廃れた文化部で、放課後の時間を読書と雑談に費やすだけなのだが、それにしても今回の雑談のテーマは不可解だった。
「そもそも、ウミガメって食べられるものなのか」
「食用になるそうですよ。特にアオウミガメが美味しいそうですが、現在はワシントン条約で捕獲等は禁止されているみたいですね」
あの漫画の某仙人の傍にいたカメは食べられるのか、とそんなどうでもいい感想しか浮かんでこない。
「イギリスやフランスでは、高級食材だったと聞きますね。味は知りませんが、スッポンみたいなものなんでしょうか」
「そもそもスッポンも食べたことはないんだが」
「そうですね。もうウミガメは食べられませんが、スッポンなら一度味わってみたいかもしれません」
そうか、と呟いて俺は開いていた文庫本に視線を戻す。
「……何の話でしたっけ?」
「スッポンが食べたいと言う話じゃなかったか?」
「……違います。ウミガメのスープです」
俺がはぐらかしたことに気を悪くしたか、子供みたいに頬を膨らませて抗議する。
何だか面倒な気配を感じて、俺は小さくため息を零す。
「……それで、そのウミガメのスープがどうしたんだよ」
「そうです。ウミガメのスープ、というクイズがあるんです」
「クイズ?」
「はい。読んでみますね」
俺に拒否する権利はないのか、彼女はさっさと話を進めてしまう。
彼女はパラパラと、自分が持っていた本をめくる。――どうやら、クイズの本か何かを読んでいたようだ。
「このクイズは、出題者にイエス、ノーで答えられる範囲の質問をしていいそうです。本当はシチュエーションパズルと言うそうですが」
「なるほど。似たようなクイズは聞いたことがあるな」
確か、20の扉だったか。何かの番組名から取ったらしいが、出題者が思い描いているものを、イエス、ノーで答えられる二十の質問をぶつけて当てていくとか。
これは少し複雑になる代わりに、質問の数の制限がないのだろう。
「では、さっそく問題を読みますね。
『ある男が、とある海の見えるレストランで「ウミガメのスープ」を注文しました。
しかし、彼はその「ウミガメのスープ」を一口飲んだところで止め、シェフを呼びました。
「すみません。これは本当にウミガメのスープですか?」
「はい…ウミガメのスープに間違いございません。」
男は勘定を済ませ、帰宅した後、自殺をしました。
何故でしょう?』
という問題なのですが」
「へぇ」
不思議な問題だなぁ、と思う。スープと自殺の関連性がまるで見えない。それを解き明かすことが面白いゲームなのだろう。
「それを俺が解けばいいのか?」
「いえ。そうではないのです。――やりたいですか?」
「今日はあまりクイズの気分ではないな」
何せ、テスト明けだ。問題を解く、というフレーズだけで嫌気が差してくる。
「では、答えを言ってしまいますね。クイズが目的ではないので。
『男は船に乗っていた。
ある日、男の乗る船が遭難してしまった。
数人の男と共に救難ボートで難を逃れたが、漂流の憂き目に。
食料に瀕した一行は、体力のない者から死んでいく。
やがて、生き残っているものは、生きるために死体の肉を食べ始めるが
一人の男はコレを固辞。当然、その男はみるみる衰弱していく。
見かねた他のものが、「これは海がめのスープだから」と偽り
男にスープを飲ませ、救難まで生き延びさせた。
しかし、レストランで明らかに味の違う
この「本物の海がめのスープ」に直面し
そのすべてを悟り、死に至る。』
と、そういうお話です」
「……なるほどなぁ」
それは思っていた以上にヘビーなお話だった。当分はスッポンなど食べる気にもならない。そもそも食べたこともないし食べる予定もないけれど。
「それで、そのクイズがどうかしたか?」
「納得がいかないのです」
人が必死に考えて作ったであろう問題に、いきなりいちゃもんをつけ始めた。
「どうして?」
「必要な情報が問題に与えられていないからです」
「それは、そういうクイズだからな。シチュエーションパズルだったか? 問いかけて、答えて、そういうコミュニケーションの中で探っていくものだろう」
「分かっています。ですが、クイズなら、質問をしなくとも答えられるような作りになっているべきだとわたしは思います。これでは出来の悪いミステリーと同じです」
「それは偏見だ」
俺としても、推理を披露する場になって次々と今まで隠されていた情報が出てくるタイプのミステリーは知っているし、それなりに楽しんでいる。個人の趣味嗜好の問題だ。
「そもそも、お前はミステリーもそんなに読まないだろ」
「そうですね。話題になった作品をいくつかくらいです」
そう。こいつはあのシャーロック・ホームズも緋色の研究くらいだけ読んで続きはやめているくらいだ。ミステリーで読んでいるのは、色んなランキングに顔を出していて本屋で平積みしてあった米澤穂信くらいだろう。
「そんな個人の趣味嗜好で問題を否定しちゃ、生きていけないぞ」
「いいえ、それだけではありません」
「……他に何か?」
「このウミガメのスープを食べた彼は、船で遭難しているんですよね?」
「そう読んでいたな」
「どうして、海辺のレストランに行けるのでしょう。食料が尽き、命の果てた仲間の肉を口にしなければいけないような極限状態に陥っているのですよ? わたしなら海自体に嫌悪感を抱くでしょう。船が見えれば発狂ものです。――とても、食事する気分ではいられないと思いますけれど」
「ウミガメの味を確かめに行ったんだ。食事の気分でなくてもいい」
「その場で騒がず、おう吐もせず、静かに帰って、冷静に自殺する、というのは些かリアリティに欠けていると思います」
まぁ、彼女の指摘も分からなくはない。それだけ落ち着いていたなら、仲間の墓の前で涙を流して許しをこう程度で済ませてもおかしくはないだろう。
「ですので、真実を暴きましょう」
「……真実?」
「はい。彼がどうして自殺をしたのか。遭難なんて本当はなかったかもしれないのです。違う結末があってもいいとは思いませんか」
あぁ。
どうやら、今日はこの問題を解決するまで帰れないらしい。
諦めて俺は文庫にしおりを挟んで、カバンの中へとしまう。
「ウミガメのスープを食べて自殺した理由だな。それは単純だ。ウミガメは高級食材だったんだろう?」
「そうですね」
「なら、ただの最後の晩餐だ。彼は初めから死ぬつもりで、最後に高い物を食べたかった。ウミガメのスープを食べたから死んだんじゃない。死にたいからウミガメのスープを食べておきたかった」
「では、その自殺の理由は何でしょう?」
「よくある話なら、借金苦だろう」
「それは成り立ちません。だって、ウミガメは高級食材ですよ?」
言われて、俺も言葉を詰まらせる。
適当に話をでっちあげてあしらうつもりだったが、すぐにつじつまが合わなくなってしまったのでは駄目だ。彼女が納得しない。
「……確認するぞ。元の話では、男は船乗りで一度遭難した経験もある。ということは、男はそう若くはないんだろうけど。遭難自体をなかったことにする訳だから、この仮定もなしだな」
「そうですね。本来なら三十歳は過ぎているような気がしますが、それは考慮しないことにしましょう」
「だとすると、学校のいじめかもしれないし、進学や就職の失敗かもしれない。――あぁ、職場でのいじめもあるか。リストラか、家族に先立たれたか。――あとは、病気の宣告とか」
「仕事のストレスかもしれません」
「……いや。仕事のストレスによる自殺は月曜の朝が多いらしい。突然鬱になって、電車に身を投げるんだそうだ。ゆっくり食事に行くようなタイプじゃない」
「では、いじめでしょうか」
「例に挙げてはみたけど、違うだろうな。それなら恨みつらみか、自分の弱さを嘆いて遺書を残すのがオーソドックスだ。自殺したのはなぜでしょう、という問題にはならない」
「なら、失敗か、リストラか、家族に先立たれたか、病気……」
「ところが、どれもウミガメもスープも関係しない」
「最後の晩餐かもしれません」
「あり得ないな」
一言で俺はそう切り捨てた。初めに俺が言い出したことだろう、とでも言いたげに彼女が睨んでくる。
「何故でしょう」
「男は一口しかウミガメのスープを食べていないからだ」
俺がそう指摘すると、彼女はハッとした。
問題文ではそうなっている。つまり、男はウミガメのスープを味わいに来た訳ではない。だから最後の晩餐説は否定される。――必然、一般的な自殺の理由とウミガメが関連しなくなる。
「失敗とかリストラとかは、この問題から読み解いて導き出される答えじゃない。――君が求める解答にはならないな」
「では、何でしょう」
「分からない」
「……真面目に考えて下さい」
「ただの思考ゲームじゃないか……」
放課後の雑談、暇つぶし。その一環でしかない。
だが、まぁ逃げられないのも分かっている。だから、さっき諦めてため息をついた。今さら足掻いても見苦しいだけだ。
「――ウミガメのスープと言うことは、やはりヨーロッパだろうな」
「イギリスやフランスの高級食材、ということですからね。他にも食されているところはあるそうですが、離島など肉が得られない地域ですので、レストランでスープにして、という形ではないと思います」
ヨーロッパ、ということは宗教的にはキリスト教か。まぁフランスで食材になっていたくらいだから、肉を食べてはいけないのに食べてしまった、みたいな宗教上の理由ではないだろう。そもそも自分で『ウミガメのスープ』を注文している時点で、その線はないか。
ますます、分からない。
自分で注文したウミガメを食べたせいで自殺の理由が生じる、なんて不可解すぎる。
頭がこんがらがって来た。
「状況を整理しよう」
手を打って、俺はそう言った。
「場所はヨーロッパ。イギリスかフランスなら、イギリス海峡のどちらか側の海辺のレストランだ。
男はそこに訪れて、ウミガメのスープを一口だけ食べた。そのあと、自殺をした。
そこにいたのは一人かもしれないし二人かもしれない。年齢も不詳、職業も分からない」
「そうですね。問題文から読み取れるのはそこが限度かと思います」
「男はこのスープは本当にウミガメかと問いかけているな。何の為だ」
「かつてウミガメのスープを食べたことがあって、その味と違ったから……?」
「それは、お前が嫌って勝手に否定したがっている、正しい解答での話だ。他に何の理由が考えられる?」
「そうですね……。たとえば、ウミガメのスープを食べたことがない。だから、これが本当にウミガメのスープかを確認しておきたかった、とか。彼にはどうしても『ウミガメのスープを食べた』という事実だけが必要だったのではないでしょうか」
「そうまでしてこだわるのに、一口だけか……」
さて、困った。
そもそも、既にある解答を否定しようと言うのだ。まずもって、どう転んでも話に無理が出てくる。上手く行っても、元の話に少しでも近かったら駄目なのだ。――それでは彼女が納得しない。
だが、ウミガメのスープを食べたから自殺する、なんてそんな話、俺には考えられない。
こういうとき。考えられないなら、前提が間違っている。だいたいテストでもよくあることだ。勘違いで問題文を読み違えたり、勝手な先入観で決めつけたり。
そう。さっき俺が言ったのだ。
ウミガメのスープを食べたから死んだんじゃない。死にたいからウミガメのスープを食べておきたかったのだ。
そう考えれば、少し違った風景が見えてくるのではないか……?
「――……あぁ、なるほど」
しばらく考え込んだ俺は、適当にでっちあげた真実に辿りついた。
きっと、この辺りがいい妥協点だろう。
「何か、思いつきましたか?」
「自殺の原因は簡単だ。家族に先立たれたんだよ。それでいい」
「……ウミガメは、どう関係するのでしょう?」
「だから、それが家族だ。ウミガメが難しかったら、ただのカメでもいいな」
「……話が見えないのですけれど」
「だからさ。ペットにカメを飼っていて、そいつが死んでしまった。その悲しみに暮れた男は自殺をしようと思う。ところが、場所はヨーロッパ。宗教観念の薄い俺たちと違って、男はキリスト教の教えに忠実だった」
「……自殺は罪でしたね」
「そう。だから、男は死ねなかった。けれど愛する家族のいない生活を続けていく気もなかった。だから男は、自分を罪人にしたかった。死刑、という扱いなら死ねると思ったんだろう。その辺りならキリスト教的にセーフなんじゃないか」
「かもしれません。けれど、罪を犯していないはずです。そんな文章は一度も出ていませんよ」
「犯したさ。元の話と一緒だ。人肉食は、キリスト教じゃ禁忌だぞ」
「でも、食べたのはウミガメの……」
言って、気付いたのだろう。
「そう。彼は愛する家族と同じ肉を食べた。それは人肉食と同じと扱ってもいいはずだ、だから自分は自殺ではなく、罪を償う為の死を選ぶ。そういう言い訳を自分の中でして、彼は愛する家族を追いかけた。――これなら、つじつまは合うだろう。一口しか食べなかったのは、それ以上食べ進めるのは精神的に出来なかったからだ」
俺はそう言って、カバンを背負って立ち上がる。もう既に空は橙色に染まっている。
「ウミガメのスープを食べたから死んだのではなく、死ぬ為にウミガメのスープを食べた。そういうお話だったと」
「それが一番、分かりやすい」
これなら、最初の問題文からでも推論が立てられる。だって、一度も俺は彼女に質問していない。
「これで、満足か?」
「何の話ですか?」
「これで死んだのは、自殺した男一人だけ。遭難して肉を食われた人たちなんていない。余計な人死には出なかった」
俺がそう言うと、彼女は曖昧に笑う。
結局、そういうこと。
彼女は初めから読み解けないミステリーと同じで、むやみやたらに人が死ぬミステリーも、気に召さない。
必要のない死は描かない。必要ならば最低限に。それが、彼女がミステリーに求めるものだった。だからこのクイズには納得いかなかった。
こういうブラックなストーリーであることが醍醐味なのに、それすら否定したがる。そういう偏食主義なのだ。
彼女の偏食が、ウミガメみたいな高級食材に傾倒しないことだけを、俺はひそかに願っておこう。