6.君がため、春の野に出でて、若菜摘む
青葉は胸に手を当てたまま、ぐったり項垂れていた。
「青葉先輩は、『君がため――』と読まれても、歌が二首あるから、この札を取ることができなかったんです。だから、囲い手といって、恭助さんに取られないように、札を手で覆って防御したのです」
古久根がさっそく恭助に解説を始めた。
「それって反則ではないの?」
「札に触れていない時点では、お手つきになりませんからね。立派な戦術です。でも、恭助さんはその囲い手を掻い潜って札を取ってしまった。これって、すごいことなんです!」
「私の囲い手って、少し甘いのかなあ?」
「そうですね。甘いと思います。青葉先輩はもう少し体力面の向上に目を向けなければならないと思いますよ」
と、古久根があっさり断定した。
「あらあら、はっきり指摘されちゃった」
そういって、青葉は笑っていた。
「もし、読み札が俺の知っている
君がため 春の野に出でて 若菜つむ
わが衣手に 雪は降りつつ
光孝天皇 (第十五番)
(あなたのために、早春の野原で若草を摘んでいる私の袖には、先程からしきりに雪が降りかかっております)
だったら、俺の勝ちだったってわけだ」
「そうです。百人一首の中に『君がため』で始まる歌は、『君がため 春の野に出でて……』という光考天皇の歌があって、さらにもう一つ、『君がため 惜しからざりし 命さえ ……』という藤原義孝が詠んだ歌もあるのです。
だから、上の句の最初の五文字が読まれても、競技者はどちらの歌なのか識別ができません。いわゆる『六字決まり』の歌なんですね。
この『六字決まり』の歌、つまり六字目が詠まれるまで取り札の確定ができない札のことを、別名『大山札』とも呼んでいて、百首の中に『君がため』、『朝ぼらけ』、『わたの原』の五文字から始まる歌が、それぞれ二首ずつ、全部で六首あるんですよ」
「大山札とね……』
「だから、さっきみたいに恭ちゃんに当てずっぽうで押さえられてしまうと、私はどうしようもなくなるのよね」
「残念だな。札が逆だったら、青葉は俺のいいなりになっていたのに。
まさに運命の歯車がわずかに掛け違ってしまったってことか……」
「ところで、約束はよもやお忘れあそばせてはいないわよね。
恭ちゃんは負けたんだから、これから私のいいなりになるのよ!」
「ええっ、俺が青葉のいいなりかー。
でもさ、それもいいかもね。うふふ……」
「えっ、どうして恭助さん、いいなりになってしまうのに、そんなに嬉しそうなんですか?」
理解できないとばかりに、古久根が訊ねた。
「だってさ、これからなにか命令されるかと思うと、わくわくしてくるじゃない?」
「わくわくというよりも、ぞくぞくの間違いではないのでしょうか。
なるほど。結局のところ、恭助さんは勝っても負けてもどちらでもいいと思っていたから、対戦中、常に冷静でいられたわけですね」
古久根が呆れ果てて、ため息を吐いた。
「馬鹿馬鹿しい。私、最後は本当に必死だったんだから!」
恭助のあまりのいいかげんさに愛想を尽かした青葉が、我慢していた鬱憤を一気に吐き出した。
「そういえば、大山札の『君がため』の歌って、青葉先輩にとっては因縁の歌なんですよね。
というのも、去年の決勝戦で、三条美由紀クイーンと青葉先輩が対戦していた時に、青葉先輩が三枚リードしたまま終盤に入って、勝負を優勢に押していたんですが、そこで読まれたのが、『君がため――』で始める歌でした。
すると、それが読まれた瞬間に、三条クイーンは青葉先輩の陣地にあった『君がため 惜しかりざりし 命さへ……』の札を叩いたんです。ちょうど今、恭助さんがした行為と全くおんなじです。さらに、読まれていた札は、クイーンが叩いた札で正解でした。
でも、『君がため 春の野に出でて……』の札もまだ読まれていませんでしたから、あれは三条クイーンのいちかばちかの勝負手だったわけです。結果的に、三条クイーンの賭けが見事に当たって、ペースを狂わされた青葉先輩は、その後、逆転を許してしまったのです」
「青葉はまとも過ぎるんだよ。時には思い切ってアバウトにならなきゃ、頂点はないぜ」
「恭助さん、ちょっと手厳しいですね。どちらかといえば、私は三条クイーンの方がクイーンらしからぬ行為だったかな、と思います。まともに行っても青葉先輩には勝てない、と判断したのでしょう」
「古久根さんと青葉の対戦はないの?」
「いいえ。今大会も、青葉先輩とは準決勝までは当たりませんでしたけど、二人とも勝ち上がれば決勝で対戦できます!」
古久根麻祐が嬉しそうに答えた。
「準決勝では誰と当たるの?」
「私の対戦相手は三条美由紀クイーン。昨年度の優勝者ですね」
と、古久根が答えた。
「へえ、それは災難だったね。青葉と当たっとけば楽勝なのに」
「いえいえ、恭助さん。青葉先輩の方がずっと強敵だと私は思っています」
そういって古久根は青葉に横目で視線を送った。
「麻祐ちゃん、おだてても駄目よ」
「おだてじゃないですよ。
青葉先輩は前々回の優勝者ですからね。今の実力はクイーンと同格です」
「ふーん。そいつは意外だったな。青葉がそんなにすごいプレーヤーだったなんて」
「恭助さんって、彼氏の癖にとことん無知なんですね」
「そのお偉い三条クイーンさまは、今どこにいるの?」
「クイーンは東の控室ですよ。私たち西の控室とは別の場所にいます」
「準決勝にもなると、対戦者同士の控室を分割するのよ」
青葉が付け足した。
「なるほどね。それで、青葉の対戦相手は誰なのさ」
「さっき教えてあげたじゃない? 吉野小夜さんよ」
「ああ、そうか……。そういっていたね」
恭助の返事を聞いていた古久根が、急になにかを思い出したかのように手をポンと叩くと、青葉にそっと顔を近づけてきた。
「ところで、青葉先輩、知っていますか? 実は、その吉野小夜さんが亡くなったそうですよ」
さりげなく古久根がこぼした言葉に、恭助の眉が吊り上った。同時に、いつも冷静な青葉が、二階まで届くか思われるほどの大声を張り上げた。
「ええっ、どういうこと?」
全く想定外であったらしく、青葉はかなり動揺していた。
「さっき、外にいたらそんな噂がされていました。吉野さんが朝、会場にやって来なかったのは体調不良のせいじゃなくて、もうすでに亡くなっていたからだそうです」
「どうして、亡くなってしまったのかしら?」
「それが、自殺らしいのです」
「ふふーん、そういうことか……。
恭ちゃん、あなた、なにか知っているんじゃないの?」
青葉は乾いた視線を恭助に突きつけた。
「えっ、そんなことはないよ。俺は純粋に青葉の応援に駆け付けただけで……」
「純粋にですって……。嘘がバレバレよ。私は今、なにか知っていないの、と訊ねただけで、恭ちゃんがここに来た理由なんか訊いていないわよ。大体、今まで一度だって応援に来てくれたことなんてなかったくせに……」
「吉野さんが亡くなって、どうして恭助さんがここに来る理由となるのですか?」
「麻祐ちゃん。恭ちゃんはね、これまでにいくつもの刑事事件を解決しているその道の専門家なのよ」
「へええ。人は見かけによらないものなんですね」
古久根はもともと丸い目をさらにまん丸くした。
「でも、吉野さんは自殺じゃなかったんですかねえ?」
「もしかしたら変死だと警察では思っているのかもしれないわ。だから大会が中断していて、私たちはこうして足止めされているわけね」
「考え過ぎだぜ、青葉。実際、俺がここに来るまでは、青葉の対戦相手が死んでいるなんて、俺自身全く知らなかったんだから……」
すると、青葉がピシャリといった。
「嘘おっしゃい! さあ、正直に答えなさい。恭ちゃんは今、吉野さんの死について私たちを取り調べている。
さっきのゲームで負けた恭ちゃんは、なんでも私の命令に答えなくちゃならないはずよね?」
「おいおい、ここでそれを使うか? あれは単なるゲームであって、俺には職務上の秘密を厳守する義務があってだな……」
恭助がしどろもどろになった。
「ふん、もう白状したようなものね……。
麻祐ちゃん、恭ちゃんは警察の取り調べのためにここに来たのよ。もしかすると私たちは容疑者に含まれているのかもしれないわ」
「容疑者って、吉野さんの死に関して、ですか?」
「ちぇっ、仕方ないなあ。たしかに吉野小夜の変死については、病死や自殺以外の可能性が多少は考えられる。
俺は、元々は青葉の応援のためにここにやって来たけど、ここに来てみたら親父がいたんだ。遺体が発見されたことは、その時初めて知らされたんだよ。神さま、仏さま、ご先祖さまに誓って、こいつは正真正銘、真実の事さ」
古久根麻祐が舐めるように恭助の顔を下から見上げてきた。
「へえ、恭助さんってそんなにすごい人だったんですか。見た目はちっともすごくないですけどね」
「さあ、取り調べなら、いつでも協力するわよ」
青葉の冷たい視線に、恭助がなだめるようにいった。
「取り調べはいずれ必要が来た時にあらためてするよ。おそらく自殺で事は運んでいくだろうし、そんなにピリピリする必要はないよ。
そうだな。協力してくれるっていうのなら、今は百人一首を教えてくれ」
「百人一首が事件と関係があるのですか?」
「さあね。そいつはノーコメントだ。俺だって職務上の秘密厳守の義務があるからね」
「まあ、おおよそ事情はわかったわ。おかげで、なんで私たちが拘束されているのかも理解できたし」
「いつまでここにいなければならないですかね?」
「でも、事件が犯罪かどうかさえ確定してはいないのでしょう。だったら、いつまでも私たちを拘束し続けることはできないのではないかしら?」
「だから、いち早く俺は百人一首について知りたいんだ。時間がないからね。
さあ、協力してくれ!」
「そういうことなら、私たちで良ければいくらでも協力しますよ。どうぞ、なんでも聞いてください!」
古久根麻祐が両拳を胸元に構えて、ファイティングポーズを取った。
「じゃあ、さっきの続きだ。百人一首の歌を片っ端から説明してくれ。
そう、ありとあらゆるね……」