5.今を春べと、咲くやこの花
突然、控室の戸がパッと開いたかと思うと、おさげ髪の少女がひょいっと顔を突き出した。
「あら、お取込み中でしたか?」
古久根麻祐は、部屋の中に二人切りでいる青葉と恭助を見つけると、びっくりした顔をした。
「うんん、大丈夫よ。今、恭ちゃんと百人一首について話をしていたの。
麻祐ちゃんもよかったら仲間に入らない?」
「面白そうですね。じゃあ、いいですか?」
古久根は嬉しそうに青葉と恭助のそばにやってきて、二人の間にちょこんと座った。
「どうぞ、どうぞ。
ええと、こちらは古久根麻祐さん――。北海道地区の代表選手よ。今回は控室がいっしょなの。
それから、如月恭助君――。高校時代からの友達なの」
たどたどしく青葉が、二人を交互に紹介した。
よろしくと、恭助はすんなりと挨拶をした。対して、古久根は丁寧に正座にただして、深々と頭を下げた。
「青葉先輩の彼氏ですね? どうぞよろしくお願いします」
「麻祐ちゃん、そんなのじゃないってば!」
「あはは、必死になるところを見ると、青葉先輩、あやしいですよ」
丸顔の古久根麻祐は、見た目がおっとりした感じの女の子だ。
「今ね、ちょうど百人一首の歌について話をしていたの。ところで、麻祐ちゃんの好きな歌ってなにかしら?」
「それはもちろん、
ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川
からくれなゐに 水くくるとは
ですね。業平さまって、かっこ良過ぎです!」
「うんうん、よくわかる。頭の回転が速くて、誰よりも歌が上手なプレイボーイって感じがする」
「大人の魅力がいっぱいです」
「ふーん。なんだか、俺にはよくわかんないけどな」
二人の乗りに取り残された恭助が、口をすぼめた。
「この歌と同じように、紅葉の美しさを詠んだ歌があるわ。学問の神様、菅原道真が詠んだ歌よ。
このたびは 幣も取りあへず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに
菅家 (第二十四番)
この度の旅はなにぶんにも急なことであったので、幣も準備できずにやって来てしまいました。だから、お詫びといってはなんですが、この手向山の美しい紅葉を、代わりに神さまに捧げさせていただきます、
という意味ね。幣とは、神様へ捧げる布や紙のことらしいわ」
「最後の『まにまに』の響きがいいや」
恭助が感心していると、古久根も負けずに割り込んできた。
「道真の歌を聞くと、私はいつもこの歌を思い出しちゃいますね」
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ
貞信公 (第二十六番)
(小倉山の紅葉よ。もしもお前に人の心があるのならば、しばらくするともう一度ここに天皇の行幸があるはずだから、それまではどうか散らずに、そのままでいておくれ)
「この歌の中の『みゆき』という言葉は、美しい雪のことではなくて、『行幸』、つまり天皇が外出することを意味しています。
あまりにも小倉山の紅葉がきれいだったから、今度みかどが訪れるまでは散ってはいけませんよ、と紅葉にお願いしている歌ですね」
「いずれの三首も、鮮やかな紅葉の世界がまぶたに浮かんでくるね」
と、恭助が賛美した。
「でも、業平さまの歌は、紅葉の広がる枝の下を水が流れているんですよ。幻想的で耽美的……。やっぱ、別格です!」
突如、悪戯っぽい恭助の目がきらりと光った。
「そうだ、青葉。かるたって、競技になっているんだよね。どうだい、一回勝負してみないか?」
青葉が口を開こうとしていると、古久根が先に早口で捲くし立てた。
「ええっ? 無理、無理、無理です――。絶対に無理、無謀、無礼千万、無責任この上なしですね。
一年前まで学生クイーンだった青葉さんと、素人の恭助さんでは、とてもじゃないけど、勝負になんかなりませんよ!」
「うん、だからさ、ハンディをくれればいいんだよ。青葉が十枚取る間に俺が半分の五枚を取ったら、俺の勝ちってことで……」
「恭助さん、ところで百人一首の歌をいくらかご存じなんですか?」
「いや、あんまり」
呆れたように古久根がほっとため息を吐いた。
「その程度のハンディでは、おそらく勝負にはなりませんね」
「じゃあ、恭ちゃん。私が十枚取る間に恭ちゃんが二枚取ったら、恭ちゃんの勝ちでいいわよ」
と、青葉がさらりと提案した。
「ええっ、たったの二枚でいいの? そんなの楽勝じゃん。それじゃあ、俺が勝ったら青葉はどうするのさ?」
「恭ちゃんの望むことをなんでもしてあげるわよ。万が一にもそれはあり得ないけどね」
「本当? じゃあ、決まりだ。
俺が勝ったら、青葉は俺の命令になんでも従わなきゃならないと……。うふふ……」
「なら、恭ちゃんが負けたらどうしてくれるのかしら?」
からかうような口調で、青葉が訊ねてきた。
「俺が負けたら……? もちろん、青葉のいうことをなんでも聞いてやるよ」
「ふーん、その言葉忘れないでね!」
「いいよ。男に二言はなしだ。どうせ勝つのは俺だからね。
うふふ、青葉がなんでもしてくれる……と」
恭助が妙に嬉しそうな、不気味な含み笑いをした。
「大変なことになっちゃいましたね。でも、結果ははっきりいって見えてますけどねえ」
古久根麻祐も余裕顔で笑っていた。
「麻祐ちゃん。読手をお願いしてもいいかしら?」
「はい、喜んで――」
青葉は文字だけが書かれた札、いわゆる字札、を全部箱から取り出すと、裏向きにして畳の上に広げた。さらにそれらをよくかき混ぜた。
「さあ、恭ちゃん。この中から二十五枚を抜き取ってちょうだい」
「どれでもいいの?」
「いいけど、表は向けて選んでは駄目よ。伏せたまま、二十五枚を取り出してね」
「オッケー」
恭助と青葉は二十五枚ずつの伏せ札の中から取り出した。残された五十枚の札は古久根麻祐がまとめて箱の中へしまい込んだ。
「今度は二十五枚の札をそれぞれの陣地に上段、中段、下段の三つの段に振り分けて並べてください。あっ、恭助さん。そんなに札と札とを離しておいてはだめです」
「ええっ。それじゃあ、札と札とがくっついちゃうじゃんか?」
「それでいいんです。
陣地の広さは横が八十七センチ、縦が二十五センチと決まっているのです」
「恭ちゃん。この線と、この線の間に並べていくのよ」
そういって、青葉が畳の二か所を指差した。
「ふむふむ。線って畳の目のことね。
でもさ、どうして青葉はその八十七センチなんて中途半端で細かい幅の長さがわかるの?」
「だいたいだけど、こうして肘を支点にして距離を測るのよ」
そういって、青葉は並べ終えた下段の札の列の端に右手の指先を添えて、指先から肘までを下段の札の列に平行に合わせると、肘を支点にして、パタンと手を百八十度返すことで、彼女の腕の二つ分に相当する距離を測った。それが、ちょうど八十七センチくらいになっているらしい。
「札の向きは俺が読める向きでいいんだね」
「そうです」
「それぞれの段に何枚ずつ並べたらいいの?」
「それは各対戦者の自由です。でも、一つの段には最大で十六枚までしか並べられませんけどね」
「なるほどね。青葉はもう並べちゃったのか。
ふーん。下段に六枚と六枚、中段に四枚と四枚、そして上段に三枚と二枚とね。ええと、そうやって左右に分けて札は配置した方がいいの?」
青葉が並べた二十五枚の札は、縦に三枚と横に十六枚しか並べることができない狭い長方形の陣地の中に、中央部が空けられて、左右の端ぎりぎりまで札を押し詰めた状態で置かれていた。
「そうすれば相手からは遠くなって、自分からは近くなるでしょう」
青葉がそっけなくいった。
「なるほどね。でも俺は正々堂々、逃げも隠れもせず、真ん中に置いちゃうんだ」
そういって恭助は上段に九枚、中段に九枚、下段に七枚ずつを、中央に固めて並べた。
「それではこれから十五分間の記憶時間を取りますよ」
古久根が腕時計に目をやりながら宣言した。
「ええっ、面倒くさいなあ。すぐに始めちゃおうよ。どうせ、俺は時間をもらっても覚えることないし……」
「でも、それじゃあ、競技としては……」
古久根が困ったように青葉に目を差し向けると、青葉はにっこりと微笑み返した。
「いいのよ。麻祐ちゃん。始めちゃって」
「いいんですか? まあ、青葉先輩がそういうのなら……。
それじゃあ、始めますね」
「よろしくお願いします」
青葉が、まず対戦相手である恭助に頭を下げて、向きを変えてから、さらに読手である古久根にも一礼をした。
「あっ、恭助さん。胡坐なんか掻いていないで、きちんと正座をしてください!」
「えっ、この方が楽なんだけどなあ」
古久根の注意に、恭助は渋々正座に座り直した。
「
なにわずにーー、咲くやこの花、冬ごもりーー、
今をはるべとー 咲くやこの花ーー。
」
古久根麻祐が朗朗とした声で最初の歌を読み始めた。
「
今をはるべとー 咲くやこの花ーー。
……。
うかりけるーー、ひとをはつせの、やまおろしーー、
はげしかれとはー、いのらぬものをーー、
はげしかれとはー、いのらぬものをーー。
」
「――はい……」
青葉が、恭助の陣地の中段にある札にゆっくりと手を伸ばした。その札には、『はけしかれとはいのらぬものを』と書かれていた。
憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ
はげしかれとは 祈らぬものを
源俊頼朝臣 (第七十四番)
(つれないあの人の気持ちが少しでも私になびくようにと、初瀬観音まで行ってお祈りをいたしましたが、初瀬の山おろしよ、お前のようにつらく激しくなるようになどとは、私は決して祈りはしなかったはずですよ)
「あっ、それかあ?」
頭を抱え込んでいる恭助に、青葉は自陣から字札を一枚拾うと、それを手渡した。
「はい。じゃあ、これね……」
「なに、これ?」
戸惑う恭助に、古久根が説明した。
「その札を恭助さんの陣のどこかに置いてください。
競技かるたは自陣札をすべてなくすことが勝利条件なのです。今、青葉先輩は恭助さんの陣にあった『はげしかれとは』の札を取ったので、結果的に恭助さんの陣の札が一枚減った状態になっていましたが、青葉先輩が自陣から好きな札を一枚選んで恭助さんの陣へ送ることで、恭助さんの陣の枚数が変わらず、青葉先輩の陣の札が一枚減ることになるのです」
「なるほどね。自陣札を全部なくせば勝ちなんだ。
ところでさ、さっき古久根さんが読んだ歌なんだけど、『はげしかれとは 祈らぬものを』と読むまでに、いろいろな言葉が飛び交っていただろう? だから俺は、どこで出題が始まっていたのか、よくわからなかったんだ。
最初のなんか長ったらしいおまじないみたいなのは、いったいなんだったの?」
恭助がうらめしそうに古久根を問い詰めた。
「あれは序歌といって、競技の始めに読まれる歌です。
競技かるたは直前に出題された歌の下の句をまず読んで、それから、次の出題歌の上の句が読まれます。でも、最初の出題の時だけは、読むべく下の句がありませんから、序歌が用意されているのです。
序歌自身は、実は百人一首の歌ではないですけどね。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
今は春べと 咲くやこの花
王仁 (競技かるた序歌)
(難波江の港に花が咲いたよ。冬にはじっと籠っていたけれど、いよいよ春がやって来たのだから、花が咲いたんだよ。
――王仁の本来の歌は、四句目の言葉が『今は』であるが、競技かるたで序歌として読まれるときには、『今はただ』で始まる左京大夫道雅の歌(第六十三番)との混同を避けるために、その部分を『今を』と読むのが慣例となっている)
これからは、先に読まれた歌の下の句を読んでから、出題目の歌の上の句が読まれますから、恭助さん、しっかりと聞いていてくださいね」
「うん。わかった。畜生、もう少しで取れたのになあ」
恭助が真剣に悔しがる顔を見て、古久根と青葉がくすくすと笑い出した。
「あと、青葉先輩――。遊んでいちゃだめですよ!」
「うん。でも恭ちゃんがどれくらい百人一首を知っているのか、ちょっと見てみたくてね……」
「なにをいっているんだよ。まだ、青葉が九枚取る間に俺が二枚取ればいいんだろ。楽勝じゃん?」
全くへこたれた様子のない恭助に、
「さあ、どうかしら。そう思っているのも、今のうちかもしれないわね」
と、青葉がいい返した。
「じゃあ、次に行きますよ。
はげしかれとはー、いのらぬものをーー。
……。
みちのくのーー、
」
瑠璃垣青葉の右腕がふっと動き出したかと思うと、疾風のごとく瞬時に、恭助の眼前を通り過ぎて行った。すると、彼女の陣地の中段にあった札が一枚だけ、きれいになくなっていた。青葉はすくっと立ち上がって、部屋の隅まではじき飛ばされた一枚の字札を拾って戻ってきた。手中の札を恭助に見せると、そこには、『みたれそめにしわれならなくに』、と書かれていた。
これには、さすがの恭助も眼を丸くするばかりであった。
「ええっ、まだ古久根さんは、『みたれそめ……』なんて読んでいなかったじゃんか。なんで青葉はこの札だってわかったんだ? ひょっとして、なんかズルしてるんじゃないだろうな?」
「失礼ね。恭ちゃん――、上の句と下の句については理解しているわよね?」
「知っているよ。和歌には上の句と下の句があるんだろ。最初の五,七,五が上の句で、後の七,七が下の句だ」
「そして、読手は歌を上の句から読むけれど、取り札に書かれているのは下の句よね?」
「そうか! 先に上の句が読まれた時点で、下の句が書かれた札を取ってもいいんだ。
だけど、そうすると上の句と下の句の両方を覚えていなくちゃ勝負にならないじゃないか?」
「そういうことよ。やっと理解したみたいね。じゃあ、どうするの。勝負を続けるの?」
「ふふん、ようやくルールがわかったってことさ。まだ青葉が八枚取る間に、二枚取ればいいんだろ。楽勝じゃん!」
「相変わらず前向きね。感心しちゃうわ。
さあ、麻祐ちゃん、続けてちょうだい」
「はい――。
乱れそめにし、 われならなくにーー。
……。
はるのよのーー、
」
「はーい!」
得意げに大声を上げた恭助の手が、自陣の上段真ん中にあった札に伸びた。彼が手にしたのは、『ころもほすてふあまのかくやま』、という札であった。
「どうだい、さっそく一枚ゲットだぜ! 持統天皇の歌なら俺でも知っているのさ」
古久根が申し訳なさそうに恭助にいった。
「あのお、恭助さん。その札は、『春過ぎて……』の歌ですよね。今読んだ歌は、
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に
かひなく立たむ 名こそをしけれ
周防内侍 (第六十七番)
(春の夢のように、儚いたわむれで差し出されたあなたの手枕のせいで、二人が恋仲になっているなどとつまらない噂が立ってしまうことがあるのならば、それはとても口惜しいことですよね)
という歌で、残念ながら、持統天皇の歌ではありません!」
「えっ、間違っちゃったってこと? じゃあ、どうなるの?」
「『お手つき』、ってことになります。その結果、青葉先輩が一枚取ったことになりますね」
「でもさ、『かひなく……』なんて文字札、どこにもないじゃんか。こういう時はどうすればいいのさ?」
恭助が口を尖らせると、冷静なトーンの語り口で青葉が解説した。
「『かひなく……』の札は、さっき麻祐ちゃんがしまった箱の中の五十枚に入っているのよ。だから、今のは『空札』なの。競技かるたでは空札が読まれることも考慮しながら戦わなければならないのよ」
すると、古久根も説明を付け足した。
「空札が読まれた時に、場に出ている札を触ってしまえば、それは『お手つき』ですね。
このお手つきは、少し細かいルールがあって、もし読まれた持統天皇の『春過ぎて』の札が恭助さんの陣地の中にあれば、その時は、恭助さんの今の行為はお手つきにならないんですよ」
「ややこしく来たな。
つまり、答え札が入っている陣地の中の札なら、なにを触っても無罰だけど、答え札が入っていない陣地の札だと、どれを触ってもお手つきになってしまうのか……」
「そうです。お手つきをしたら、敵陣の札一枚を自陣に加えなければなりません。つまり、一枚取られたことになります」
「ということで、恭ちゃんにこの札をあげるわ」
そういって、青葉は自陣の目の前に置いてあった『いつくもおなしあきのゆふくれ』、と書かれた札を一枚、恭助に差し出した。恭助はそれを受け取ると、無造作に右の上段に配置した。
「空札ってのがあるのか……。こいつはちと厄介だな。五十枚をしまったってことは、空札が読まれる確率はほぼ半分ってことだね?」
「そうですね。でも、恭助さん。競技者は本来ならばその読まれた空札もすべて頭に入れておかなければ勝てませんよ」
「どうしてさ。済んだ読み札が二度も読まれることがあるのかい?」
「それはないですけども……」
「麻祐ちゃん。それについては、ここでは説明しなくてもいいわよ。どうせ十枚で終わる勝負だし」
「了解です。それでは続きを始めますね。ええと、勝負は、青葉先輩が三枚で恭助さんがゼロ枚取っているところからですね。
かいなく立たん、 名こそおしけれーー。
……。
あけぬ――
」
次の瞬間、青葉の陣地にあった札が一枚、気づいた時には宙を舞っていた。青葉が立ち上がって拾ってきた札には、『なほうらめしきあさほらけかな』と書かれていた。
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら
なほ恨めしき 朝ぼらけかな
藤原道信朝臣 (第五十二番)
(夜が明けてあなたとお別れしても、やがてまた日暮れがやってきて、あなたと再びお会いできることは、もちろん存じてはおりますが、それでもなお恨めしい、この朝ぼらけですね)
「ええっ、もう取っちゃったのかー。電光石火だな。はははっ、これじゃあ、勝負にならないや」
「次です……。
なお恨めしき 朝ぼらけかなーー。
……。
す――
」
古久根がまだ読みかけたかどうかというタイミングに、疾風のごとく軽い音を残して、一枚の札がはじき飛ばされていた。
「なになに? まだ、なにもいわれていないじゃん?」
恭助が目を丸くした。
「――みのえのーー、
……。
さすがは青葉先輩――、素早いですねえ。
今のは『一字決まり』の歌でした。恭助さんが驚くのも無理はありませんね」
青葉がすっと立ち上がって、自らはじき飛ばした札を取りに行った。
「えっ、どういうこと?」
「ええと、百首の歌の中で、『む、す、め、ふ、さ、ほ、せ(娘房干せ)』で始まる歌は、それぞれ一つずつしかないんです。だから、『す』と読まれた時点で取るべき札は、
住の江の 岸に寄る波 よるさへや
夢の通ひ路 人目よくらむ
藤原敏行朝臣 (第十八番)
(住吉の岸辺に打ち寄せる波みたいに、寄せては返す波のごとく、私の心も揺れています。どうしてあなたにお会いできないのだろうかと。昼間には会えぬまでも、せめて夜の夢の中でぐらいなら会ってくださってもいいでしょうに。夢の通い路さえも閉ざされているなんて、辛過ぎます)
の下の句である『ゆめのかよひちひとめよくらむ』、だと確定してしまうわけですね。
だから、『むすめふさほせ』で始まる七枚の札は、素早く取られてしまうので、競技者は必ずあらかじめ全部の場所を記憶しているわけです」
「そんなあ、それじゃあ、勝てるわけないじゃんかあ……」
恭助がなさけない声を出した。
「今さら泣き言? それって、ギブアップ宣言かしら?」
「ふふっ、勝負事は最後までわからないものさ。さあ、続けようぜ」
「では、お次に行きますよ。
ゆめのかよいじ ひとめよくらんーー。
……。
ゆらの――
」
「はい!」
青葉の掛け声とともに、やはり一枚の札がはたかれて、壁に向かって真っ直ぐに飛んで行った。
「
――とをーー、
わたるふなびと、かじをたえーー、
あらあら、今度は『うつしもゆ』の札ですか!
恭助さん、本当にお気の毒ですね」
「『うつしもゆ』の札?」
恭助はきょとんとしていた。
「『う、つ、し、も、ゆ』の五文字で始まる歌は、それぞれが二首ずつしかないのです。
今の歌は、『ゆ』で始まる、
由良の門を 渡る舟人 梶を絶え
行方も知らぬ 恋の道かな
曾禰好忠 (第四十六番)
(由良の門を漕ぎ渡る舟人が、櫂をなくすと、行方知らずに漂うように、この先どうなるのか全くわからない、我が恋の道であるよ)
という歌でしたけど、もう一つ『ゆ』で始まる歌がありまして、それが、
夕されば 門田の稲葉 おとづれて
蘆のまろ屋に 秋風ぞ吹く
大納言経信 (第七十一番)
(夕方になれば、家の前の田んぼの稲葉がさやさやと音を立てながら、私の蘆葺きの仮屋に、秋風が吹いてくるのだよ)
なのです。
『むすめふさほせ』の七首と同様に、『うつしもゆ』の十首の歌も、競技者はみんな配置場所を確認しているはずですから、そのですね……」
「それが出ちゃ、勝負にならんということか?」
恭助がムッとしていった。
「さあ、どうなんでしょうねえ? では、次に行きます――」
と、古久根がはぐらかした。
「
ゆくえもしらぬー、こいのみちかなーー、
……。
なつのよはーー、
」
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいずくに 月宿るらむ
清原深養父 (第三十六番)
(夏の夜は短いものだ。まだ宵だとばかり思っていたら、いつのまにか夜が明けてきてしまう。今夜の月は、明け方になってもまだ西の山までたどり着くことはないから、だとすると、月はいったい雲のどこに隠れてしまっているのだろうか)
この後も、空札が何枚か読まれながらも、勝負は着実に進行していった。気がつくと、青葉が八枚を取っていて、一方の恭助は依然一枚も取れてはいなかった。
「今の歌は、
高砂の 尾上の桜 咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ
権中納言匡房 (第七十三番)
(遥か彼方に見える高い山の峰に桜が咲いているなあ。でも、手前にある近い山にかかる霞よ、どうか立ち塞がらないでおくれ。美しい桜が見えなくなってしまうからね)
でしたけど、空札ということでいいですか?
では、次行きますよ。
とやまのかすみー、 たたずもあらなんーー。
……。
あま――
」
ひと際大きなバーンという音がした。古久根がちらりと場に目を向けると、意外なことに、恭助が一枚の札を押さえていた。
「
――つかぜーー、 雲のかよい路、 吹きとじよーー。
おとめの姿ー、 しばしとどめんーー。
」
恭助が押さえていたのは、『をとめのすかたしはしととめぬ』の札であった。青葉の顔から血の気がさっと引いた。
「へへへ、嘗めちゃいけないよ、青葉――。これでも、少しくらいは上の句から知っている歌があるのさ。さあて、あと一枚取れば俺の勝ちだよね。勝負はここからだ!」
天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ
乙女の姿 しばしとどめむ
僧正遍昭 (第十二番)
(大空を舞う風よ。お願いだから、雲の通路を閉ざしておくれ。この美しい天女たちを、もう少しだけここにとどめておきたいから)
瑠璃垣青葉が大きく深呼吸した。
「ちょっと油断したみたいね。じゃあ、本気を出すわよ」
元々姿勢のよい青葉の背筋が、ひときわピンと伸びた。
「ふむふむ……、
天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
安倍仲麿 (第七番)
の歌が、まだ読まれていませんでしたからねえ――。
『あま』で始まる歌がまだ二つ残っているのに、『あま』と読まれた時点で恭助さんが動いたから、青葉先輩は反応できなかったわけです。
つまり、恭助さんの今の取り方は、ある意味、結果オーライの無謀な賭けだといわざるを得ません」
「えっ、どういうこと?
まあいいか。どうせ俺が手の出せる札なんて限定されているしな……」
「では、気を取り直して……、
おとめの姿ー しばしとどめんーー。
……。
月みればーー、 ちじにものこそ、 悲しけれーー、
わが身ひとつのー、 秋にはあらねどーー。
」
月見れば 千々(ちぢ)にものこそ 悲しけれ
わが身ひとつの 秋にはあらねど
大江千里 (第二十三番)
(月を眺めていると、なにかと物悲しく感じられるものだなあ。秋は私一人のためにあるのではないのだけれどね)
「青葉が動かないってことは空札なんだね。じゃあ、次行こうか?」
恭助が古久根に目配せした。
「
わが身ひとつのーー、 秋にはあらねどーー。
……。
これやこのーー、
」
青葉が恭助陣の札を一枚払った。拾い上げた札には、『しるもしらぬもあふさかのせき』と書かれていた。
なに食わぬ顔で座り直した青葉であったが、実は内心どきどきであった。今取った蝉丸の歌も、あまりに有名な歌だから、恭助でも知っている可能性が十分にあったからだ。恭助が知っている歌はさほど多くはなさそうだけど、逆にいえば恭助は特定の札だけに専念してそれを狙ってくるのだから、メジャーな歌ほど気が置けないのだ。ましてや、その札が恭助の陣地にあるなんてことになると、たった一枚だけなら、恭助が取ってしまうことも不可能ではないのかもしれない。
「畜生。また取られたか。でも、あと一枚取れば、青葉は俺のいうことをなんでも聞いてくれるんだと……、うふふ……」
まるで単細胞生物のごとく、恭助はプレッシャーを全く感じていないようだった。
「ええと、恭助さんが一枚で、青葉先輩が九枚ですから、お互いにあと一枚取った方が勝ちになりますよね。
さあ、次の歌で勝負が決まるのでしょうか?
知るも知らぬもー、 おうさかの関ーー。
……。
やえむぐらーー、 しげれる宿の、 さびしきにーー、
人こそ見えねー、 秋は来にけりーー。
――ありませんか? では空札ということですね」
八重葎 しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり
恵慶法師 (第四十七番)
(葎が生い茂るこの寂しい家に、人が訪ねて来ることなど、まずありはしないけれど、秋だけは、毎年きちんとやって来てくれるのです)
青葉は気が気ではなかった。あんな約束しなければ良かったと後悔したが、後の祭りだ。いずれにせよあと一枚取れば終わるのだ、と今は自分にいいきかせるしかなかった。
「では、次です。
人こそ見えねー、 秋は来にけりーー。
……。
きみがためーー、
……。
」
古久根が上の句を読み始めると、鬼の首を取ったかのような恭助の大声が部屋中に響き渡った。
「青葉、敗れたりー」
青葉の陣地で、彼女の一番そばに置いてあった一枚の札を、青葉が覆い隠そうとしていた手の平の下を掻い潜って、恭助がその札を見事にはじき飛ばしたのだ。その迫力たるや、読手の古久根麻祐がびっくりして、読むのを途中で止めてしまったほどであった。
そして、恭助が拾い上げた札には、『わかころもてにゆきはふりつつ』と十四文字の平仮名が書かれていた。
「どうだい。俺が知っているたった二つしかない歌が両方とも読まれるなんてさ――、俺ってやっぱり強運の持ち主なんだよな」
満面の笑みを浮かべる恭助に対して、瑠璃垣青葉は表情をキッと引き締めた。
「麻祐ちゃん――。歌の続きは?」
青葉にせかされて、古久根は手にした絵札に目を通した。
「あっ、そうですね……。
きみがためーー、 をしかりざりし、 いのちさえーー
です……。だから、ええと、つまりは……、お手つきなんですね。
恭助さんが取った札は、光孝天皇が詠んだ『きみがため』で始まる別の歌です。――ということで、恭助さん……、残念でした。
でも、ど素人の分際でここまで青葉先輩を追い込むなんて、恭助さん、すご過ぎです!」
古久根麻祐が拍手でたたえたが、恭助は呆然と天を仰いでいた。
「なにい、『君がため』で始まる歌がもう一つあるなんて……。
畜生、そんなのありかよー?」