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小倉百人一首殺人事件  作者: iris Gabe
出題編
3/20

3.長くもがなと、思いけるかな

 如月警部と恭助の親子二人は、拍子の抜けたパペット人形のように、互いに顔を見合わせた。

「まあ、対戦相手が容疑者として怪しいというのは一理あるけど、とにかく……、まだ早計じゃないかな?」

 恭助がぼやきを入れつつ反論した。瑠璃垣青葉は恭助の友達で、彼女のことはよく知っているからだ。

「もちろん、犯人だと断定しているわけではありませんよ」

 恭助の胸のうちを見透かせるはずもない壬生巡査部長は、そっけなくいい返した。

「遺体の第一発見者は?」

 二人の若者がいがみ合っている状況から話題をそらそうと、如月警部が壬生に問いただす。

「はい。大倉おおくらいずみ、という、京都大学の学生です。

 この大会の競技に参加していた選手ですが、昨日の準々決勝で敗退してしまったそうです」

「なるほど。それなら、発見時の状況を、その子から詳しく確認しておきたいな」

「では、大倉いずみをここに呼んで来ましょう」


 大倉いずみは、これといった特徴のない地味な感じの女学生だった。度の強い黒縁の丸眼鏡越しに、不安げな視線を絶えずきょろきょろと振りまいていて、おどおど戸惑っている様子がはっきり見てとれた。

「大倉いずみさんですね。どうぞ、その椅子に腰掛けてください」

 壬生巡査部長が優しく声を掛けて、大倉を椅子に座らせた。椅子に座った大倉は、申し訳なさそうに肩をすぼめながらうつむいていた。

「我々は単に事実関係をはっきりさせておきたいだけでして、吉野小夜さんのご遺体の第一発見者であるあなたに、少しばかりお話を伺いたいのです。だから、緊張しないで、どうか気を楽にしてください。昨日はよく眠れましたか?」

 質問を受けた大倉は、パッと顔を上げると、早口でしゃべり始めた。

「えっ、はい――。大会では負けてしまいましたけど、一日中試合を行っていましたから、疲れていて、部屋に戻った途端にぐっすりと寝込んでしまいました」

「あなたの宿泊部屋で……、ですか?」

「もちろんです」

 大倉はこくりと頷いた。

「お一人で?」

「はい……」

「部屋に戻られた時刻は?」

「八時頃に美由紀みゆき先輩と別れて、それからお風呂に行ったので、部屋に戻ったのは八時半を優に回っていたように思います」

「美由紀先輩とは、三条美由紀さんじょうみゆきさんのことですね?」

 壬生がすかさず訊ねると、

「はい、そうです」

と、そばかす顔の大倉が答えた。

「その後は、お一人で部屋の中にいたのですね。誰とも会わずに、朝までずっと……」

「そうですね。でも、ひょっとしてこの質問って……?」

「ああ、気にしないでください――。

 さて、大倉さんがどうして第一発見者になったのか、今度はその経緯いきさつを説明していただけませんか?」

 アリバイ調査を警戒しているな、と察した壬生巡査部長は、たくみに話題を切り替えた。

「ええと、私は美由紀先輩を応援するために、競技会場になっている和室の大広間におりました」

 蚊の鳴くほどの小さな声でありながら、言葉遣いは丁寧で、聞き取りやすい流暢なしゃべり方であった。

「今朝は個人戦の準決勝と決勝が行われる予定でした。そして、準決勝開始時刻の九時になりましたが、美由紀先輩と対戦相手の古久根こぐね麻祐まゆさん、それから、もう一方の試合に勝ちあがった瑠璃垣るりがき青葉あおばさん、の三人の選手はその場に姿を現していましたけれど、青葉さんの対戦相手である吉野小夜さんだけがそこには見えませんでした。五分ほど待ちましたが、ちっとも来る様子がなくて、なかなか試合が始められません。準決勝の二試合は、一人の読手どくしゅによって同時進行で行われますから、四人のうち一人でも選手が欠けてしまうと、試合自体が開始できないのです。痺れを切らした美由紀先輩が、誰でもいいから吉野さんを呼んできて頂戴、とおっしゃいました。そこで、私が手を上げて、彼女を呼びに行ったのです。

 でも、吉野さんの部屋に行ってみると、内側から鍵が掛けられていて、中へ入ることができません。何度も扉を叩いて呼んでみたのですが、なんの反応もなかったので、私はフロントまで出向いて、緊急事態なので吉野さんの部屋の鍵を開けて欲しい、と頼みました。間もなく、従業員の方がお一人見えたので、いっしょに吉野さんの部屋まで行って、合鍵で扉を開けてもらいました。

 ――でも、中へ入ってみたら……」

 大倉いずみの顔がみるみる真っ蒼になったので、心配した如月警部が思わず立ち上がったほどであったが、大倉は、大丈夫です、と一言告げて胸に手を当てた。

「――吉野小夜さんが、こちら側に背を向けたまま、うずくまるように床の上にうつぶせていました。

 畳の上に赤い血が少し見えましたから、とんでもないことが起こっていることには、すぐに気付きました。すると、従業員の方が、支配人に連絡するからしばらくここで待っていてください、とおっしゃって、駆け出していかれました。

 この様な成りゆきで、私はしばらくの間、一人でその部屋にいなければならなくなってしまったのです。

 ああ、その時の恐ろしさといったら――、とても言葉ではいい表すことなどできません!」

 その時に大倉が感じた恐怖などには一切関心がない壬生巡査部長が、間髪入れずに次の質問をしてきた。

「その間に、誰か他の人が部屋の中に入ってくることはありませんでしたか?」

「いいえ。私がずっと一人でおりました」

「その部屋の中でなにか気付かれたことはなかったですか? その――、なんでも結構なのですが……」

「いえ、特に……」

 大倉は縮こまって、不安そうに答えた。

「ああっ。そういえば、私、従業員さんが出ていこうとしていた時、窓に鍵が掛かっていたことを確認してもらいました!」

「ほう、どうしてまた、そんなことを?」

「ええと、どうしてでしょう? なんとなく、窓が開いていれば、悪い人が外から侵入してきて吉野さんを襲った可能性を主張できるのではないかと、変な意味で期待を掛けたのですが、残念ながら鍵は掛かっていて、このままでは私もなんとなくこの事件に巻き込まれてしまいそうな不安がよぎったので、瞬間的に従業員さんと情報を共有しておいた方がよかろうと感じたからです。でも、今から考えてみると、奇妙な判断でしたよね」

「そうでもありませんよ。極めて冷静で賢明な行動でした。二人で確認すれば、部屋の中が完全な密室であったという事実が、はっきりしますからね」

「はい。それなら良かったです……」

 大倉いずみの口もとからかすかに笑みがこぼれた。

「ところで、亡くなった吉野さんは、実は、百人一首の札を一枚握りしめていたのですが……、ご存知でしたか?」

 ここで壬生の声のトーンが幾分高くなった。わかりやすい奴だな、と恭助は腹の中でほくそえんだ。

「そうなんですか? そういえば、吉野さんが倒れていたそのすぐ前には、百人一首の札が並んでいましたね。きっと試合前の模擬練習でもしていたのでしょう」

「そのようですね。私も現場は見てきました。たしかに、大倉さんがおっしゃったように、たくさんの文字が書かれた札が並べられていましたね」

「あの――、これは殺人事件なのでしょうか? だとしたら……、私はなにもしていませんけど……」

 大倉いずみの表情は、今にも泣き出しそうであった。

「別に、今回の事件が殺人と決まったわけではありませんよ。あの部屋には内側から鍵が掛けられていましたよね。となると殺人事件であるならば、犯人がどうやって鍵を掛けたまま部屋から脱出できたのかを、我々は説明しなければなりません。吉野さんが自殺をした可能性は十分に有力です。ただ、それならば遺書の一つでも見つかっていいはずなのですが……」

 大倉の肩がピクリと動いた。

「遺書がなければ、それだけで他殺ということになってしまうのですか?」

「いえ、別にそこまではね。ただ、見ず知らずの旅行先で自殺をするのなら、遺書を残していてもおかしくないかな、と思ったまでですよ。どうか、気にしないでください」

と、両手を前に向けた壬生巡査部長が、面倒くさげに答えた。

「大倉さんは、部屋の中で吉野さんが残した遺書を見かけられませんでしたか?」

 如月警部が確認を求めると、

「いいえ、私はそのようなものはなにも見ませんでしたけど……」

 大倉はあっさり否定した。

「三条美由紀さんの応援とおっしゃっていましたが、三条さんとあなたとのご関係は?」

「美由紀先輩は、大学で同じかるたサークルの先輩です」

「なるほどね。どうして、あなたが、吉野さんを捜しに、広間を離れる羽目になってしまったのでしょうね。他にも行ける人はいくらでもいたでしょうに」

「他に行ってくれそうな人は誰もいませんでしたから……。それに、私は選手でもなかったし、あの場面で最も都合がいい人間だったのでしょうね」

といって、大倉はため息を一つ吐いた。

「そのようですね。わかりました――」


 大倉いずみが出ていくと、今度はユースホステルの従業員が連れられてきた。

「君が、大倉いずみさんとともに、遺体を最初に見つけた人なんだね?」

 壬生巡査部長が切り出すと、

「はい、小野孝史おのたかしと申します」

と、男は答えた。

「ここで主催されているかるた大会で、選手の一人が試合の開始時刻になっても会場にやって来なかったらしいのです。そこで、部屋の鍵を開けて欲しい、と女の子がフロントに飛び込んできまして、私が同行したのです」

「その時、吉野さんの部屋の鍵は、たしかに掛かっていましたか?」

「はい、それは間違いありません。最初はドアノブをひねってみましたが、扉は開かなかったので、マスターキーを使って開けました。その時に、カチャリとく音がはっきり聞こえたのを覚えています」

「マスターキーって全部でいくつあるの?」

 恭助が割り込んできた。

「一つだけです」

「まさか、誰でも勝手に使えるってわけじゃないよね?」

 恭助が確認を促した。

「もちろんです。従業員しか場所は知らないはずだし、私が使った時も、本来の保管場所にきちんとありましたからね」

 小野ははっきりと断言した。すると、今度は如月警部が出てきた。

「遺体を見つけた時の状況を詳しく説明してくれないか?」

「ええ。部屋の中に女の子が倒れていたので、私はすっかり動顛どうてんしてしまいました」

「遺体に触れたりはしましたか?」

「いえ、そんなこと……。とんでもない。遠くから見るしか、怖くてとてもできませんよ。

 でも、いっしょにいた女の子は割と冷静でしたね。大人しそうな子でしたけどね。大倉さんとかいいましたっけ?

 彼女が、すぐに支配人に連絡を取って下さい、と指示してくれたので、私も少しは冷静になって、それではしばらくここで待っていてください、と一言告げてから、いわれるがまま支配人のところにすっ飛んで行きました。

 その後、警察に通報したということです」

「その時に窓の鍵がどうなっていたのか、覚えていませんかねえ」

 如月警部が念を押すように訊ねた。

「ああ、そうだ。私が支配人のところへ駈け出そうとした瞬間、いっしょにいた女の子が、突然、待ってください、と呼びかけてきたので、どうかしましたか、と問いかけたら、彼女が冷静な表情で、窓は閉まっていますね、と窓を指差したのです。だから、私もその事実を確認できました。たしかに、その時窓の鍵は掛かっていましたよ」

「そうですか……。他に部屋の中のことを思い出せますか?」

「うーん、そういえば、百人一首の札がいっぱい並べてありましたよ。もっとも、この大会に出場する選手はみんな個人持ちでかるたを持参していますけどね」

「そのカードは吉野小夜が持参したものだと?」

「多分そうでしょう。少なくともうちの施設では、トランプや将棋盤ならありますけれど、百人一首のかるたまでは用意していませんからねえ」

「彼女が札を一枚握りしめていたのを確認していますか?」

「いえ――。そうだったんですか? 全然、気付きませんでした。なにしろ、亡くなった女の子は床に突っ伏せていましたから」

「他になにかお気付きになりませんでしたか?」

「ええと、正直なところ、あまり覚えていないんですよ……」

「そうですか――」

 壬生が残念そうにつぶやいた。


 小野が出ていくと、恭助がすっと立ち上がった。

「まず先に、現場を確認したいな」

「いいですよ。こちらへ」

 壬生巡査部長は、警部と恭助の二人を案内して、一階の長い廊下を歩いて行った。突き当りの一つ手前にあるドアの前で、頑丈な体格の巡査が一人、立ちふさがっていた。

「お役目ご苦労さん。中の様子を警部さんたちに見せたいんだ」

と、壬生が巡査に説明した。

「ああ、わかりました。どうぞ――」

 そういって、巡査は道を開けた。壬生巡査部長はその個室の鍵をポケットから取り出して鍵を開けると、恭助たちを中に招き入れた。

「さあ、ご覧ください。遺体だけは鑑識にまわしましたけど、それ以外は発見当時のままです!」


 部屋は八畳の広さの和室で、小さな白い冷蔵庫と黒いテレビがあるだけの、質素な部屋だった。テーブルと座椅子が隅っこに押しやられていて、部屋の中央に広い空間ができていた。その畳の上には、遺体があった場所を示す白いマーカーが施されていて、さらに、拭き取ってはあるのだが相当量の血が流れたであろうみも残されていた。

 マーカーの傍にはたくさんのかるたの札が並んでいて、見ればすぐにわかるが、それらは明らかに競技かるたをしている配置であった。

 まるで、中央が抜かれたトランプの七並べのように、札は六列の横並びになっており、遺体があった位置を示す白いマーカーは、競技者の片方がいるべき場所に引いてあった。

 マーカーから見て手前の列には、左右両サイドに五枚と五枚とに分かれた札が並び、手前から二番目の列には、同じく左右に四枚ずつの札が置いてあった。三番目の列には、左側に四枚、右側に三枚並んでいて、合わせて二十五枚の札で自陣が構成されている。

 さらに、その先の四番目から六番目の列には、やはり左右両サイドに分かれた二十五枚の札によって、敵陣が構成されていた。いずれも字札で、自陣札はこちら向きに、敵陣札は向こう向きに、文字が読めるように置かれている。

 テーブルの上には、使用されなかった残りの五十枚の字札が、三つの山に分けられて置いてあったが、そのうちの手前の山が一つだけ、斜めに崩れていた。一方、絵札百枚は、テーブル上のかるた札をしまう箱の中に、きちんとしまわれていた。

 テーブルには、他にも、B5版のリング閉じノートと、ペンシルケースに、ボールペンが散乱していた。オレンジ色のペンシルケースのチャックは開いたままだった。

 恭助はさり気なくリング閉じノートを手にした。そして、リングの間にぎざぎざの紙切れが残されていて、少なくともノートの中の何枚かの用紙がすでに破り取られていたことを確認した。くずかごを探してみたが、ノートから破り捨てられたような紙切れを見つけることはできなかった。

 窓は、手前に障子戸が付いたカーテンのない窓で、部屋の内側から見て左側の障子戸が右側に完全に寄せ切った状態で開いていた。だから、窓の三日月クレセント錠が掛かっているのが、障子戸に邪魔されずに、ここからでもはっきりと確認することができた。ただ、窓は曇りガラスのために、外から室内の様子をのぞき込むことはちょっと無理なようだ。

 窓を開けてみると、外は庭になっていた。部屋が一階なので、そのまま庭に出ることも簡単なのだが、木々がかなり雑多に生い茂っていて、少なくとも散歩をしてみたくなるような環境ではなかった。職員でもなければ庭をうろつく者もいなかろう。


「恭助。さっきお前がいっていた、凧糸で窓の鍵を掛ける、とはどういうことだ?」

 警部のリクエストに答えて、恭助はそろそろと窓に近づいていった。

「ほら、窓ってさ、完全に閉じてしまえば、二枚の窓枠の間に透き間ができないから、そこに厚紙を通すなんて芸当はできないけど、こうしてちょっとだけ半開きにすれば、窓枠にできた透き間に厚紙が通せるよね。こいつを利用するんだ」

 そういって恭助は、二枚ある窓枠のうち、三日月クレセント錠が取り付けられた、部屋の内側を動く方の窓枠、いい換えれば、部屋の中から見て右側に位置する窓枠、だけを動かして三分の一ほど開けた。それによってできた間合いは、細身の恭助の身体がかろうじてすり抜けられる程度の狭い幅であった。次に、恭助は三日月錠のつまみ部分に指を掛け、中途半端に回転させてそっと離した。この窓に付けられた三日月錠は、つまみ部分を回転させることで、外の窓枠に固定された(フックに、内の窓枠に固定された三日月形状をした金具トリガーを引っ掛けて、双方の窓枠を固定するという、ありふれた構造の錠である。つまみ部分を下向きすると鍵が空いた状態となり、百八十度回転させてつまみ部分を上向きにすれば鍵が掛かるのだが、恭助はその四分の一に当たる四十五度ほど回転させた状態、つまり、つまみ部分を斜め下向きにした状態で放置をしたのだ。

 そして、ポケットから一メートルほどの長さの凧糸を取り出すと、それを二つに折り返して、U字型に折れ曲がった糸の腹の部分を、半端回転させた三日月錠のつまみ部分に、セロテープで固定した。次に恭助は、凧糸の両方の端っこをひとまとめにして、それを細長い厚紙にセロテープで貼りつけて、しっかりと固定した。そして、三分の一ほど窓が開いたことで生まれた二枚の窓枠のあいだの透き間に、その厚紙を通した。厚紙の端が部屋の外部に押し出された状態で、恭助は厚紙を内側からセロテープで軽く固定した。この厚紙は長さが五十センチはゆうにあり、開いている窓の幅よりも十分に長いものであったから、窓が開いた状態でも、凧糸をくっつけた厚紙の片端は外部まで押し出されていた。そして、恭助は開いている窓のわずかなスペースを通って外に出ると、厚紙を強く引っ張って、内側で窓枠に厚紙を固定していたセロテープを引き剥がし、そのまま厚紙を手繰り寄せた。ついに、凧糸の両端を、部屋の外にいる恭助は手にすることができたのである。

 さらに凧糸を引っ張って、糸に緊張を保たせた状態にして、恭助は糸の両端を外部の窓ガラスにセロテープで一旦固定した。それから、再び狭い窓のスペースを通って部屋の中に戻り、厚紙の固定や三日月錠のつまみに糸を固定するために使用したセロテープを全部はがして、内部に痕跡を残さないようにしてから、三日月錠のつまみに引っ掛けてある凧糸がはずれないよう細心の注意を配りつつ、外へ脱出した。

 外に出た恭助は、出入りのために開けてあった窓をゆっくりと閉め始めた。すると、四十五度ほどにまわされた三日月錠は、鍵止めに触れることなく、窓枠は完全に閉め切ることができた。窓枠をしっかり閉めてから、外の窓枠に固定してあった凧糸をはがして、糸の両端をゆっくりと引っ張ると、凧糸の腹が引っ掛かったつまみ部分が、糸に引かれて吊り上がり、部屋の内部にある三日月錠が、残り百三十五度をくるりと回転して、つまみ部分は完全に上を向いた。

 それを確認した恭助は、片方の凧糸の端っこを手放して、もう片方を手繰り寄せる。こうして、糸しか通せなくなっている閉じられた窓枠の透き間から、密室構築に役立った凧糸が、部屋の内部になんの痕跡も残さずに、外にいる恭助の手に見事に回収されたのである。


「ここは一階で安定した足場が外にあるからできたんだ。そうでなければこの業は使えないけどね……」

「なるほどな。単独犯でも実行可能だし、時間にして五分とかからない。こうなると、自殺の可能性だけでは事が済まなくなってしまうな」

 腕組みをした警部が、感心していた。

「死亡推定時刻はいつ頃なのかな?」

 恭助のパフォーマンスに面白くなさそうな顔の壬生巡査部長が、ぼそりといった。

「今、鑑識に調べてもらっています。午後には結果が出ますから、もう少しお待ちください。でも、おおよその時刻は、昨晩遅く、おそらく深夜の零時前後でしょうね」

「死因は?」

「心臓を果物ナイフで一突きです。ほとんど即死だったと思われます。意識があったとしても、せいぜい一、二分が限度でしょうね」

「すると、自殺ではないということか?」

「いえ、傷口は前方から真っ直ぐに入っていますから、自ら左胸にナイフを突き立てることも十分に可能です」

 いかにも自信ありげな壬生の発言に、恭助がすっと反論してきた。

「でも、そうするとさ。札を手にしながらナイフを突き立てたことになるよね。不可能ではないけど、ちょっと不自然だな……」

 壬生の眉がちょっとだけ動いたが、そんな壬生の仕草に目も暮れずに、警部が質問を続けた。

「凶器のナイフはどうなったんだね?」

「遺体に突き刺さったままでした。極めて普通の果物ナイフです。もちろん遺体とともに鑑識に回してあります。指紋とか出てくるかもしれませんからね」

「ナイフの持ち主は?」

「従業員に聞いても、部屋の中にそんなものは置いていなかったということでしたから、おそらくは吉野小夜の持参品ではないかと……」

「あるいは、未知の犯人が持ち込んで、という可能性もあるわけか。でも、それだったら凶器は持ち去るのが道理だよね。

 さて、他に尋問の予定は?」

 ひと通り部屋を見渡している恭助が訊ねると、

「今のところは……、まだ関係者を確認している段階ですから」

と壬生が答えた。

「そうか。じゃあ、ちょっと調べてみるかな」

「なにをですか?」

「『なかくもかなと おもひけるかな』、という歌の意味だよ……」

 そういい残して、口笛を吹きながら、恭助は部屋を出ていった。


 恭助がなにげなく座敷をのぞき込むと、白いTシャツにえんじ色のジャージを羽織った黒髪少女が一人たたずんでいた。

「よう、青葉。探したぜ」

「あら、恭ちゃん。いつ来たの?」

「ついさっきさ。ところで、大会じゃなかったの?」

「ええと、準決勝の時に、選手の一人が体調を崩したみたいで、姿を見せなかったの。そしたら、大会本部から、しばらく試合開始の時刻を遅らせるから、控室で待っていてください、と連絡があって、もう二時間もこの状態で待たされちゃっているのよ」

 若干ふてくされ気味に、青葉が答えた。

「そうか。ここは選手の控室なんだね」

「ええ。西の控室ね。私の他にもう一人、北海道大学の古久根さんという選手もいるわ。さっきまでここにいたけど、今は外に出ていっちゃった」

「東の控室もあるのかい?」

「ええ。京都大学の三条さんと、準決勝で私と対戦する早稲田大学の吉野さんの二人のために用意されているけど、その吉野さんが今朝の会場に姿を現さなかったのよ」

「ふーん、青葉の対戦相手がね……」

「本当に、どうしちゃったのかしら?」

 青葉の前の畳にも、百人一首の札が陣形を構成していた。

「そうだ、青葉、ちょっといいか?」

「なあに?」

 突然、恭助は青葉に向かってガバッと正座をただし、深々と頭を下げた。

「お願いだ、青葉――。

 俺に、百人一首を一から手ほどきしてくれ!」

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