2.長々し夜を、独りかも寝む
日本八景の景勝地にも選定された東海随一の河川、木曽川の中流域に、『日本ライン』と呼ばれる美しくも雄大な渓谷が存在する。かつて、『日本風景論』を著した地理学者、志賀重昂が、その風景がヨーロッパのライン河にあまりによく似ていたために、そのように命名したといわれている。
そして、今回の事件の舞台となる『いぬやま自然の森ユースホステル』は、その日本ラインの南岸に位置していて、尾張の小京都と称される歴史文化で栄えた城下町、犬山市の全貌が見渡せる眺望のよい小高い丘の上に、ポツリとたたずんでいた。
中部地区最大のターミナル駅、名古屋駅から、名古屋鉄道の特別急行に乗ると、およそ四十分で、名鉄犬山遊園駅に到着するが、さらにそこから東に向かって歩みを進めれば、落ちついた情緒の桜並木を横目に、『日本モンキーパーク』と呼ばれる世界有数の霊長類動物園を併設した遊園地にたどり着く。その敷地内を縦断する一般道路を、さらに二十分ほど歩けば、丁子色をしたユースホステルの建造物が、坂の先にその勇姿を現す。
ここでは、全国から予選を勝ち抜いた大学生が集まって、二日間にわたる競技かるた学生大会が催されていた。競技かるたとは、百人一首のかるた札を用いて行われる一対一の対人競技である。かるたといえば、お正月に家族が集まって、和気あいあいと遊ばれる日本の伝統文化という感じがするが、競技かるたとなると、そのような娯楽的な感覚は全く影をひそめ、高度な瞬発力、記憶力、精神力が要求される、どちらかというと格闘技といったスポーツ的なイメージが強くなる。
全国の大学にも競技かるたのサークルが数多く存在し、それぞれが競い合うことでレベルの高い戦いが毎年展開されているのである。
ところで、緊急連絡の一報を受けた千種警察署の如月惣次郎警部が、いぬやま自然の森ユースホステルに駆け付けたのは、十時半のことであった。警察車両のおどろおどろしいサイレンの音が、閑静なユースホステルの駐車場にこだます中、トレンチコート姿の警部が助手席から現れた。
現場に到着した警部は急ぎ足で館内へ入っていくと、正面のロビーでは、たくさんの若者でごったがえしていて、それはたいそうなご盛況であった。『第四十六回 全国百人一首かるた競技学生選手権大会』と仰々しく書かれた垂れ幕が大きく掲げられている。すると、その群衆の中に、警部にとって極めて見覚え深くて、同時にそこにいることが全く予想外でもある一人の人物の姿があった。
「なんだ、恭助。こんなところで、お前、なにしているんだ?」
恭助と呼ばれたその青年は、背丈こそ大したことはないのだが、自信に満ち溢れたちょっぴり生意気そうな雰囲気を、子供っぽい表情の中に何気なく浮かべていた。
「ああ、お父さん――。実は、青葉の応援で、朝からここにいるんだけど……。知っての通り、青葉はここで催されている百人一首かるた大会に出場しているんだ。でもさっき、大会を一時中断するってアナウンスが、突然流されてさ、会場はなにやら異様な雰囲気になっているんだよ」
「ちょうどよかった。それなら、これから地元の警察から事件の説明を受けるところだから、お前もいっしょに来い!」
「事件だって……?」
警部が案内されたのはユースホステルの二階の奥に設けられた集会室だった。
「如月警部ですか? 遠路はるばるご苦労さまです。犬山警察署に勤務しております、巡査部長の壬生忠泰です」
細面でひょろりと背が高い狐目の若手刑事が、如月警部に向かって挨拶をした。
「千種署の如月です。よろしく」
「そちらのお方は?」
壬生巡査部長が恭助に目を向けた。如月警部の後ろで後ろ手を組んで立っていた小柄な青年は、自分に注がれた壬生の好意的にあらざる視線を感じ取ると、面倒くさそうに小さく頭を下げた。
「ああ、こいつは息子の恭助だ」
「あの、ご子息は民間人のようにお見受けしますが、よろしいのでしょうか?」
「ああ、恭助のことか。こいつはいないと思ってもらってかまわないよ。それじゃあ、事件の方を詳しく説明してくれ」
「わかりました――」
訝しげな視線を恭助にちらりとくれると、壬生はこほんと咳払いをした。
「事件が起こったのは昨日の夜です。この館内で催されている学生かるた大会で、その参加者の一人であった早稲田大学の一年生である吉野小夜という女子学生が、彼女の宿泊部屋の中で遺体となって発見されました。ちなみに、このユースホステルの各部屋は、鍵が旧式で、オートロックではありません。部屋に鍵を掛けるには、中から掛けるか、外から配布された鍵を利用して掛けるかのいずれかしかできないのです。そして、吉野小夜は、鍵が完全に内側から掛けられた部屋の中で、胸にナイフを刺された状態で、一人倒れていたのです――」
「部屋の鍵をその女子学生は身に着けてはいなかったのかね?」
如月警部が乗りだした。
「いえ、彼女に支給された鍵はその部屋の中でちゃんと見つかりました」
「じゃあ、女の子が自殺をしただけじゃないの?」
後ろでずっと黙っていた恭助であったが、ついに堪えきれなくなって、悪態を吐いた。
「しかし、遺書らしきものが発見されておりませんし、これまでのところ、特に自殺をほのめかす理由も見当たらないのです。わざわざ晴れの舞台で自殺するのも不自然な気がしますしねえ」
「晴れの舞台?」
「そうです。吉野小夜はこのかるた大会で、初日の競技を堂々勝ち抜いて、ベスト四まで進出していたからです。準決勝と決勝は今日行われる予定でしたけど、この様な事件が発覚したために、大会は現在中断されているのです」
「まあ、無理もないことか……」
と警部がため息を吐いた。
「部屋の窓は?」
今度は恭助が訊ねた。
「窓は鍵が掛かっていましたから、外からの侵入は無理かと思います」
「外部からの変質者による犯行の可能性は、薄いというわけか。部屋は何階?」
「一階です」
「窓の錠前の種類は?」
「通常の三日月錠です。窓ガラスが壊された形跡はありません」
「三日月錠以外に鍵はあったの?」
「いや、それはないですね」
それを聞いた恭助が涼しげな顔で自己の見解を述べた。
「三日月錠なんて、凧糸とボール紙さえあれば簡単に外から鍵を掛けることができる。現場に行ってみなければわからないけど、犯人は案外簡単に部屋に鍵を掛けたまま、外に脱出できたのかもしれないよ」
すると、それを聞いて、警部が訊ねた。
「つまり、一見自殺に思われるこの事件が、実は殺人事件かもしれないということだな。しかし、それならば犯人は、そもそもどうして手間を掛けてまでして、現場を密室にしたんだ?」
「できれば、この犯行を警察には自殺として片付けて欲しかったから、ということではないでしょうか?」
恭助にかわって、壬生が返答した。
「なるほど。一理あるな」
「ところで、一つ奇妙なことがありまして……」
いかにもこれからさも重要なことを発言するぞとばかりに、壬生の声が一段高くなった。
「なんだい?」
「被害者――、いえ、亡くなった吉野小夜ですが、右手にかるたの札を一枚握りしめていたのです!」
「かるた?」
「はい。警部は百人一首をご存じでしょうか?」
「ああ。昔は私も坊主めくりをして遊んだものだよ」
如月警部が懐かしむように答えた。
「そうですか。なら話は早いです」
「握られていたのは、なんの札なの?」
そわそわと落ち着きのない恭助が、口を挟んだ。
「ええと、百人一首はかるたですから、全部で二百枚ある札は、読み札と取り札とに分かれます。読み札には和歌の他にきれいな絵が描かれていて、俗に『絵札』と呼ばれています。そして、取り札には平仮名の文字しか書かれていなくて、『字札』と呼んでいます。
そして、今回、吉野が握っていたのが、
『――なかくもかなと おもひけるかな――』、
と書かれた字札だったのです」
「なかくも……? なんだ、それは?」
思わず警部の口から疑念の台詞がこぼれた。
「字札に書かれているのは、和歌の『下の句』なんですが、それ以上は。私も百人一首については、あまり知識がありませんので……」
「それはお互い様だね。ところで、後で現場を確認できるのかな?」
「はい。発見時ありのままに保存しております。鍵を掛けて厳重に警備していますからね」
得意満面な笑みを浮かべながら、壬生が答えた。
「仮に殺人事件だとすると、容疑者は?」
「現時点では全く特定することなど出来ませんが、あえて動機を持つ人物といえば、私は一人だけ挙げることができます」
自信ありげな壬生の一声に、警部は眉をピクッと吊り上げた。
「ほう、誰だね。その人物とは?」
「吉野小夜の次の試合、つまり、準決勝――で対戦相手となる瑠璃垣青葉という名古屋大学の女子学生ですよ!」