19.人の命の、惜しくもあるかな
「恭助、詳しく説明をしてくれ。私にはちっとも理解できん」
堪えきれなくなった警部が、息子に催促した。
「いいよ、お父さん。
まずは吉野小夜の事件からだね」
と、恭助が嬉しそうに説明をしはじめた。
「さっきもいったように、吉野が握っていた札は、状況からして、彼女の意思ではなく、他人が意図的に握らせたと考えるのが自然だ。すると、まず疑問となるのが、その人物の動機だ。なぜ吉野小夜を殺したのか、そして、なぜ藤原義孝をダイレクトに示す札を彼女に握らせたのか。
藤原義孝の札を握らせた動機は、まだわりと単純に推測ができる。つまり、この犯行の犯人を藤原義孝に見立てることで、奴さんをおとしめようとしたというものだ。必然的に、真犯人は藤原義孝に個人的な怨みを抱いていたことになる。俺は、藤原の性格から察するに、怨みの根源は、奴さんのとりとめのない女癖に原因があると見た。以前に、奴さんから捨てられた女か、あるいは、彼女を奪い取られてしまった男による怨みか」
そういって恭助は巡査部長にちらりと目を向けた。
「壬生さん――。藤原義孝を尋問した時の供述を思い起こしてくれよ。奴さんは大倉いずみのことを、最初は『大倉』と苗字で呼び捨てていたのに、途中で一回だけ、『いずみ』と名前で呼んだよね。おそらく、普段使っていた呼び名が、うっかり会話の途中にも出てしまったんだろう。
俺は、藤原が大倉いずみをよく知っていて、しかも、名前で呼ぶ仲であったのではなかろうか、と推測をした」
「たしか、そうでしたかね……」
顔を伏せ気味に答える様子を見ると、壬生はそこまでは気付いていなかったみたいだ。
そこへ、先ほど大倉いずみを追いかけていった巡査の一人が、息を切らせながら戻ってきた。
「巡査長、さきほどの女の子ですが、自室に閉じこもって鍵を掛けてしまいました。いかがしましょうか?」
混乱している巡査をなだめるように、壬生忠泰が冷静な口調で命じた。
「どうせ、どこにも逃げられはしまい。周りを包囲しておけ。フロントからマスターキーを借りて、部屋をこじ開けてしまえば、それまでだ」
「わかりました」
安堵した巡査は、表情を緩めつつも、壬生と如月警部にきちんと敬礼をしてから、部屋を出ていった。
そのやり取りを確認して、恭助が話を継続した。
「藤原義孝は気に入った女を見つければ、片っぱしから物にしようと声を掛けまわる軽率なナンパ野郎だから、他にも迷惑を被った人間はこの中にもいるかもしれないね」
そういって、恭助は瑠璃垣青葉に視線を向けたが、青葉は平然としていた。逆に、有馬風人が、なにやら悔しそうに拳を握りしめながら、歯を食いしばっていた。
「大倉いずみは、真面目で従順な女の子だ。いかにも藤原義孝が遊びでひっかけてみたくなるような。
二人は付き合って、やがて破綻する。そして、大倉いずみは藤原義孝に個人的な怨みを持つようになったんだ」
「だから、藤原をおとしめるような危険な札を、吉野小夜に手に握らせたのですか?」
「しかし、だとすると吉野小夜を殺したのも大倉いずみなのか?」
と、先に質問を発している壬生の脇から、如月警部が立て続けに疑問を投げかけた。
「そっ、そうですよ。大倉が犯人ならば、なんの目的で密室を創りあげたのですか?」
壬生も負けずに警部に追随した。
「吉野小夜は殺されたんじゃないよ。彼女の死因は――、自殺だ。
彼女は自らの部屋に鍵を掛けて閉じこもり、そこで自らの胸を刺して、命を絶ったんだ」
「なぜ?」
「様々な情報を聞くうちに、俺が抱いた吉野小夜に対する印象は、喜怒哀楽の感情起伏が激しく、人との付き合いが下手で、物事に一途にのめり込む性格……。それも異常なまでの執着心でだ。精神面では、情緒不安定で躁鬱症のきらいがある」
「広汎性発達障害――、自閉症やアスペルガー症候群などでよく見られる症状ですね」
壬生忠泰が同意した。
「だからこそ、ことかるた競技においては、他人にはまねできない異常な強さを彼女は持っていたともいえる。そして、勝負に対する執念も、表情には出さないものの、人一倍強かったに違いない。だから、彼女は、この大会で当然、優勝をするつもりでいた。しかし、準々決勝で楽勝だった相手の藤原義孝から、勝負もほぼ決した試合の終盤で、意図的な反則行為による、無意味な怪我を食らってしまう。しかも、この怪我は思ったよりも重症で、その後の試合に致命的となってしまった。いくら吉野小夜が天才的に強くたって、利き腕を怪我してしまえば、次の対戦相手の青葉に勝つことなど、とうてい不可能だからだ。
そして、不慮の出来事で落ち込んだ時の彼女が感じる絶望感は、通常の人間が受けるダメージとは比にならない。ハイテンションでこの大会を楽しんでいた吉野小夜にとって、理不尽な怪我による戦線離脱は、奈落のどん底に叩き落とされたような出来事だったんだ。
自責の念にあえぎながら、一人で部屋に引き籠もって自問自答を繰り返すうちに、彼女は生きる望みを絶たれるところまで、自らを精神的に追い詰めてしまう。そして、持参していた果物ナイフを取り出して、そのまま自殺という路を選択してしまった」
「そんなくだらないことで……、死んでしまうのですか?」
やるせないように、積もった気持ちを松山が吐き捨てた。
「そこまで一途に思い詰めることができることが、逆にいえば、彼女のかるたの強さの秘密だったということだろうね。誰もまねすることができない……」
「でも、自殺をしたのなら、なにかメッセージを残さなかったの? 例えば、メモを残すとか」
青葉が絞り出すように小声でつぶやいた。
「そ、そうですよ。私なら、ええと……、自分のやるせない気持ちを誰かに知ってもらいたいという願望なら、誰でも心の底に絶対に持っています!」
古久根麻祐も必死になって訴える。それを聞いて、恭助が答えた。
「俺もその辺は同感だな。じゃあ、吉野小夜が動機を記したメモを残して自殺をしたと仮定して、果たして、そのメモはどこに消えてしまったのだろうか? 実際に現場から吉野小夜の自殺をほのめかす物は、なにも残されてはいなかったのだからね」
「犯人が持ち去った……?」
「なんのために?」
「それは――、なるほど、大倉いずみが持ち去ったということですね。
自らの目的である、藤原義孝をおとしめるために、吉野小夜が自殺をしたという事実は、ぜひとも隠ぺいをしておきたいですからね」
と、壬生巡査部長が説明した。
「その通り」
「しかし、藤原をおとしめようとした人物が、なぜ大倉いずみだと断言できるんだ。
恭助の話では、藤原が大倉いずみの名前をうっかりと呼んでしまったことだけが、唯一の証拠となっているが……」
と、今度は如月警部が疑問を呈した。
「吉野小夜の死因は自殺だった。すなわち、彼女を殺した人物がいないのだから、彼女の死を知っている者も、誰もいなかったはずだ。彼女が会場に姿を現さないという非常事態が起こるまではね。
だとすると、藤原義孝をおとしめたいという動機を持った人物がいたとしても、吉野小夜が自殺したことを察知して、彼女の部屋に忍び込み、手に札を握らせて、密室を構成してから、部屋を脱出するなんて芸当は、そもそも出来っこないのさ。だいたい、密室にする必要なんかないじゃんか? 現場を密室にするという行為は、藤原義孝をおとしめたい人物にとっては、自殺説を有力にする両刃の剣と化してしまうんだ。
ところが、大倉いずみだけが、現場が密室であった事実をきれいに説明できるたった一人の人物だった。偶然とはいえ、大倉いずみは吉野小夜の遺体の第一発見者になってしまう。そして、同行していた従業員の小野孝史がフロントに報告している間、一人切りで現場に残れた唯一の人物だ。
吉野の遺体を前にして、驚いた大倉は、まず最初に、吉野が残した自殺をほのめかすメモを見つける。テーブルの上に残されたリングノートには、数枚分の頁が破り取られた痕跡があったけど、それこそが、紛れもない、吉野の残したメモを大倉が破り取った跡だったのさ。
そして、大倉いずみはすぐさま事態を全て掌握する。しかし同時に、彼女の心の中で突然、悪魔の囁き声が聴こえた。なにげなくだが、部屋の中に並べられたかるたの中に、藤原義孝の歌である『長くもがなと 思ひけるかな』の札を見つけてしまったからだ。ひょっとしたら、軽い気持ちで手が動いただけかもしれない。
とっさに大倉いずみは、藤原義孝の字札を吉野の手に握らせた。それから、自殺の動機を記した吉野のメモを懐にしまい込んだ。ところが、陣形から一枚を引き抜いたために並び方が不自然な形になっていたのを見かねて、慌てて山札から一枚取り出して、抜いた札の場所に置いて補充をした。その時に積まれた山の一つを、うっかり崩してしまったけれど、それを直す間もなく小野が戻ってきた、というのが真相だ。
今回の事件では、彼女を除いて、こんな悪戯ができた人物なんていないのさ」
「大倉いずみだけが、自殺した吉野小夜を見て、藤原義明が犯人であるかのように現場を創作することが可能だったというわけですか……」
「そうだね」
「でも、それならば、なぜ三条美由紀は殺されてしまったのですか? なにか関連でも?」
「これもあくまでも俺の推測にすぎないけれど、三条美由紀は、なんらかの手掛かりから、大倉いずみが藤原義孝をおとしめる極めてたちの悪い悪戯をした事実に、気付いたのだと思う。
例えば、大倉いずみの部屋の中から、吉野小夜が残したメモを、偶然見つけ出してしまったとかね。そして、それを元に、三条は大倉を責めた。いや、むしろ、脅迫をしたのかもしれない。そして、追い詰められた大倉は、やむなく三条を殺してしまう――」
「しかし、大倉はどうやって三条の殺害現場を密室にしたのですか? 今度は、現場が二階ですけどね……」
「うん、あれね。あれは偶然に生じた密室なんだ……」
恭助がにっこりと笑った。
「大倉いずみが三条美由紀を襲ったのは、三条美由紀の部屋の外。つまり、凶器が飾ってあった廊下だった。そこでいざこざが起きて、大倉いずみが思わず三条美由紀を背後から刺してしまう。しかし、その直後に、三条は自力で逃げ出した。自分の部屋へとね。はっと驚いた大倉いずみも、すぐに追いかけたけど、ちょっとだけ時遅しだった。間一髪で、三条は自室に逃げ込み、中から鍵を掛けてしまう。結局、大倉いずみは、その後、なにもできずに、すごすごと現場を立ち去らざるを得なかった。翌日、自分が警察に連行されることを内心覚悟しながらね……。
ところが、三条美由紀の背中の刺し傷は、意外にも致命傷だった。部屋の中で一縷の安全を確保した三条だったけど、外部に連絡を取ろうとしたのかもしれないが、傷の痛みがひどくてそれもできずに、すぐに動けなくなる。しかし、なんとかして、大倉いずみが犯人であるという手掛かりだけは残したい。そうしなければ死ぬに死にきれないしね。そこで目に留まったのが、練習用に畳に並べてあった、かるたの札だった。
陣形に組まれていた札は十五枚だった。でもその中に彼女が望んだ札はなかった。だから、残りの山にまとめてある札の中から、三条は目指す札を必死になって探した。大倉いずみが犯人であることをはっきり明示する手掛かりとなるべき札を――。
そして、意識が朦朧と遠のく中で、ようやく彼女は目的の札を見つけ出したんだ」
「それが、『小倉山――』の歌の字札だったわけですね。でも、なぜそれが大倉いずみを暗示しているのでしょうか?」
待ちかねた壬生が、われ先にと、恭助に問いかけた。
「死を間際に迎えた三条美由紀が、残りの気力を振り絞って取り出した一枚の札は、『いまひとたひの みゆきまたなむ』と書かれた字札だった。
貞信公が宇多上皇に送ったおおらかで格調の高い歌――。
しかし、結論をいってしまうと、三条美由紀が欲しかった札は、実はこの札ではなかった!」
「えっ、どういうことですか?」
古久根麻祐の喘ぐような声がこぼれてきた。恭助の話を聞き入っている者は、全員が固唾をのんでいる。
恭助は静かに説明を続けた。
「三条美由紀が欲しかった札は、同じ『いまひとたびの――』という句で始まる、百人一首の中にある、もう一つの、別な歌――。それは……、
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
いまひとたびの 逢ふこともがな
なんだよ!」
気が付くと、誰もが押し黙り、周囲は静寂に包まれていた。壁時計の秒針が刻むかすかな音だけが室内に響いていた。
いつも冷静な瑠璃垣青葉が、いつになくうろたえていた。
「三条さんは、『いまひとたひの あふこともがな』の札が欲しくて、間違えて、『いまひとたひの みゆきまたなむ』の札を取ってしまった……」
「そう。いわゆる、『お手つき』ってやつだ。
学生最強のクイーンである三条美由紀が、生涯の最後に手にした札は、こともあろうに、お手つきだったってことさ」
壬生巡査部長は悔しそうに歯を食いしばっていた。
「すると、その本命の歌には、大倉いずみを暗示する言葉が秘められていると、恭助さんは主張されるのですか?」
「暗示するもなにも……、その歌の作者は、ずばり『和泉式部』だぜ。
百人一首を用いて大倉いずみという女性を示そうと思った時に、これほどふさわしい札は他にはないんじゃないかな?」
恭助がいい終わった時、先ほどの巡査が、さっきよりもさらに蒼白さを増した顔で、部屋に飛び込んできた。
「大変です! そのお……、大倉いずみが自害しました!」
「なんだって!」
さすがの壬生巡査部長も顔色が真っ青に変化する。
一同は部屋を出て、大急ぎで大倉いずみの部屋へと向かった。もちろん、最終的に大倉の部屋に入るのが許されたのは、如月親子と壬生の三人だけであった。