15.濡れにぞ濡れし、色は変わらず
恭助がロビーにやってくると、そこでは間もなく決勝戦を行うということで関係者たちがせわしく動き回っていた。いろいろとごたごたがあったけど、大会もこれ以上は延長もできないし、勝ち残った四人のうち、二人がいなくなり、ちょうど二人が残っているということだから、警察からは許可をもらって、とにかく決勝戦を終えてしまおう、という狙いであるらしい。恭助も対戦室に入ると、部屋の中央には、瑠璃垣青葉と古久根麻祐の二人の姿があった。すでにそれぞれの陣地に字札が並べ終えてあり、その配置を記憶している時間帯であった。
ピンと張りつめた真剣な空気が、部屋の中を取り巻いていた。青葉は背筋を伸ばし、目を閉じてなにか考え込んでいる様子だ。一方の古久根は、人差し指を動かしながら、盤面に集中している。
間もなく、競技員から、
「競技開始二分前です」
とコールされた。
すると、二人は同時に素振りを始めた。それぞれの動きをひとつひとつ確認するように、互いに無言のまま、畳を叩く音だけが、静かな空間の中で聴こえてきた。
「ただ今から決勝の競技を開始します」
台座の前に立った袴姿の読手の声がした。選手の二人は、まずはお互いに対戦相手に対して、その後で読手に対して、順に一礼を行った。
「
なにわずにーー、咲くやこの花、冬ごもりーー、
今をはるべと 咲くやこの花ーー。
」
静寂の中、読手の朗朗とした声が、室内に響き渡った。
素人の恭助が見ても、二人の戦いはハイレベルで緊迫しきっていた。出だしは古久根麻祐が、多少無理しながらも飛ばしているという印象を受けた。常に、古久根麻祐が札をリードをするのだが、差が三枚以上に広がることはなく、やがて、無表情の瑠璃垣青葉が追いつくと、すぐに古久根麻祐がスパートをかけて再びリードを維持する。こういった流れのまま、序盤と中盤は進み、残りの札の枚数も徐々に少なくなってきた。
競技かるたは、自陣の札を全て取り去った方が勝利を収める。戦いはもはや終盤に突入していて、自陣の残り札が、古久根が十枚、青葉が十二枚であり、古久根が二枚をリードをしていたのだが、ここに来て、青葉が二枚を連取し、残りが互いに十枚ずつの同点となった。
「
よのな――
」
「はいっ」
青葉の右手がさっと動き、古久根の陣にあった札をはじき飛ばした。それを見た古久根の首が、ぐっとうなだれた。
世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ
海人の小舟の 綱手かなしも
鎌倉右大臣 (第九十三番)
(いつまでもこのままの世の中であって欲しいなあ。海辺を漕ぐ小舟に乗った猟師たちが綱手を引いているさまが、なんとも心動かされることだよ)
それは、ついに、瑠璃垣青葉が初めて古久根麻祐をリードした瞬間でもあった。恭助のすぐそばで座っていた有馬風人と松山末広のひそひそ声が聞こえてきた。
「『世の中よ 道こそなけれ ……』の歌は、もう読まれたんか?」
「たぶん、序盤で読まれとったんやろう。それも空札でな……」
「すげえな。それをちゃんと頭に入れとるんやからなあ」
「氷女の瑠璃垣やで。当然やろう」
「かわいい顔しとるのに、相変わらず、えげつないなあ」
読手の発生とともに、室内は張りつめた静寂に包まれる。
「
あまのこぶねの つなでかなしもーー。
……。
たちわかれーー、
」
今度は同時に二人が動いて、一枚の札が宙に飛んだが、古久根麻祐がすっと立ち上がって、青葉に一瞥をくれると、その札を取りに行った。
立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる
まつとし聞かば 今帰り来む
中納言行平 (第十六番)
(あなたと別れて、私は因幡の国に往きます。稲葉山の峰には松が生えていることでしょうね。でも、あなたが都で待っていると、人の噂に聞くようなことがあれば、今すぐにでも私は帰りますよ)
「やっぱり、『た』の歌となると、古久根にも意地があるか……」
有馬が含み笑いをした。
「でも、ほぼ同時だったな。これで九枚ずつのまた同点だ」
古久根はすでに肩で大きく息をしている。一方の、青葉は最初から変わることのない無表情のままだ。
この後、空札が三枚読まれたが、その度ごとに、室内は異様な緊迫状態に支配された。
「
とやまのかすみ たたずもあらなんーー。
……。
たれをかもーー、
」
二人の身体がぐっと前に乗りだしたけど、同時にふっと力が抜けた。
誰をかも 知る人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに
藤原興風 (第三十四番)
(年老いてしまって、もはや自分を知ってくれている人など誰がいよう。同じように歳月を重ねたこの高砂の松を、昔からの友人だったなんていってみたところで、仕方ないし)
「これで四枚連続の空札か。心臓に悪いぜ」
と、松山がつぶやいた。
「
まつもむかしの ともならなくにーー。
……。
いにしえのーー、
」
読手が『い』と発音したその瞬間に、青葉の細い身体がさっと伸びて、敵陣の最も古久根麻祐の近くにあった札をはじき飛ばした。それはこの試合で青葉がしたどの動きよりも素早いものであった。そのまま、無言で立ち上がり、青葉は飛ばした札を拾いに行った。
いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に 匂ひぬるかな
伊勢大輔 (第六十一番)
(昔、奈良の都で咲いた八重桜が、今日はここ九重(宮中のこと)でも咲いています。それはそれは、とても、良い匂いを放っておりますことですよ)
「おい、三枚札の『い』やろ? どうして、あんなに早く反応できたんや?」
有馬風人が目を丸くした。というのも、上の句が『い』の文字で始まる歌は百人一首には三首あって、その文字だけでは、読まれた札が三首のうちのどれなのかまで識別ができないからだ。
「勝負かけたんちゃうか? まだ『今はただ ……』が読まれとらんやろ」
「いや、そいつはさっき読まれとる。『今来むと ……』も、そういえば序盤にあったから……、だから『い』の歌は一字決まりになっとたんや――。うーん。さすがやな」
親指を咬みながら、有馬が感心していた。
「今の札は、古久根には痛過ぎるな。自陣の一番近い札を、持ってかれてしまったからなあ」
そのプレーを境に、勝負は一方的な展開になった。終わってみれば、瑠璃垣青葉が七枚差の圧勝で終わった。
二人は礼を済ませると、青葉がすくっと立ち上がって、無言で部屋から出ていった。一方の古久根は、その場から立ち上げることもできずに、うずくまったままで、いつまでも泣いていた。
「すげえ試合だったなあ。二人とも力を出し切ったって感じの……」
と、松山が率直な感想を漏らした。
たしかに、恭助の目で見ても、二人は勝負に集中し切っていた。あんな事件が起こっていたなんてことは、一向に気にしていないようであった。
恭助は、部屋の奥で座って観戦していた大倉いずみに気が付いた。立ち上がって部屋の外に出ようとする彼女を、恭助は追いかけて声を掛けた。
「やあ、大倉さん、だね」
「はい。どなたですか。ああ、刑事さん」
「俺は刑事じゃないよ。取り調べの部屋にはいたけどね。青葉の友達なんだ」
大倉いずみは、黒眼鏡越しに恭助の顔をじろっと見つめてから、そっけなくいった。
「青葉さんはやっぱりお強いですね」
「みたいだな。俺も青葉がこんなにかるたが強いとは知らなかったよ」
「なにか用でしょうか?」
「うん。百人一首について知りたいんだ。だから、大倉さんにちょっと教えてもらえないかな、と思ってさ」
「私でなくても、青葉さんから聞けばいいのでは?」
大倉は面倒くさそうにいった。恭助はかまわず続けた。
「今の決勝戦、大倉さんはどういう印象を持ったの?」
「壮絶でしたね。でも、終始青葉さんのペースだったように思います。前半は古久根さんの様子を見ながら、徐々にエンジンを掛けつつ、一字決まりの札が増えてくるのをじっと待っていて、後半になったら一気に強襲する。結局のところ、記憶力にまさる青葉さんの土俵上で、決着は着いてしまいましたね」
「なるほどね。決勝戦に勝ち残ったレベルなら、俺は全部の残り札を暗記できているのかと思っていたけど、そうでもないのか」
「基本的には、残り札の配置なら誰でも頭に入っていますけど、それぞれの札の決まり字が試合の最中に刻々と変化していく中で、すべてを正確に把握するのはなかなか難しいと思います。しっかり把握しているつもりでも、途中で集中力が途切れてしまうこともありますし、特に、勝負どころを見切る力などでは、瑠璃垣さんと古久根さんの間には、経験の差があったのかもしれませんね」
「なるほどね。勝利するためには、さまざまな要因があるというわけだ」
その後、恭助は対戦場でまだうずくまっている古久根麻祐に声を掛けた。
「大丈夫かい、まゆゆ」
「ああ、恭助さんですか。私、全てを出し切って頑張りました。もう、悔いはありません。
でも……、ふえぇぇん。青葉先輩は強かったです。私なんかよりもずっと」
「ああ、壮絶な試合だったよ。最後は青葉にちょいと流れがいってしまったけど、素人の俺の目で見ても、中盤まではまゆゆが戦いを支配していたと思うし、勝負がどっちに転んでもおかしくはなかったよ」
古久根が涙を拭いながらいった。まだ、その声はしゃくりぎみであった。
「やっぱり恭助さん、よくわかってはいませんね。最初から青葉先輩はずっと胸を貸しながら受けていたんです。私のあらゆる攻撃を全部読み切って。
私、普段以上の力を出しました。体調もとても良かったんです。でも、そのすべてが抑え込まれてしまいました。完膚なきまでの敗北――、これは完敗なんです」
恭助が東の控室の扉を開けると、青葉がそこにいた。
「やあ、青葉。優勝だね。おめでとう。すごいや」
「あら、恭ちゃん。ありがとう。でも、決勝戦は危なかった。麻祐ちゃんがあんなに強くなっていたなんて……」
青葉の口ぶりからすると、決勝戦はそれなりに手こずったみたいだ。
「誰に聞いても、青葉の圧勝だってことだぜ」
「あら、そんなことはないわよ。最後の最後まで気が抜けなかったんだから」
恭助がふっと笑った。
「気が抜けない、という言葉が、やっぱり勝って当たり前という青葉の無意識な思いを表しているのさ」
「そうかしら?」
「まゆゆは全力を出し尽くした上で、完全敗北を認めている。だから、今の彼女には、いい勝負だったね、なんて下手な褒め言葉をあげるより、具体的に青葉にあって彼女にない物を教えてあげる方が、きっと喜ぶと思うよ」
「そうなんだ。わかった。そうする」
恭助のアドバイスに青葉は素直に頷いた。
ロビーをうろうろ考え込みながら歩く恭助に、巡査が一人近づいてきた。
「如月恭助さん、頼まれた品物を買ってきました」
巡査の手にしている紙袋を見て、恭助の目が輝いた。
「ああ、これこれ。これが欲しかったんだ。ありがとう」
恭助が紙袋から取り出した物は、『全ての歌の意味がわかる――百人一首入門』、という一冊の本であった。