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小倉百人一首殺人事件  作者: iris Gabe
出題編
11/20

11.今日を限りの、命ともがな

「でも、百人一首といえば、やっぱり恋の歌ですよねえ」

「そうよね、和歌を集めた歌集はたくさんあるけれど、これほど恋の歌が多い歌集は、小倉百人一首しかないわね」

「それなら、どんどん挙げてみてよ。その恋の歌とやらをさ」

「じゃあ、まず私からです」


 忘らるる 身をば思はず ちかひてし

  人のいのちの 惜しくもあるかな


   右近うこん (第三十八番)


「なんか深刻そうな歌だね。重々しい感じがする」

「ところがそうでもなくて、この歌の意味は、


 あなたに忘れられてしまい悲しみに暮れる私のことよりも、永遠の愛を誓ったくせにお破りになったあなたが神罰でお亡くなりあそばせることの方が、私はずっと心配ですわ、


と、裏切られた男性に対して皮肉を込めて詠まれた歌なのです」

「怖えぇ。とんでもねえ歌だな」

「うふふ。相模さがみの歌も負けずにすごいわよ」


 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを

  恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ


   相模さがみ (第六十五番)

(つれないあの人を恨み悲しんでいるうちに、涙に濡れたままの袖が朽ちてしまうことも悲しいのに、そのうえ、恋の噂に振り回されて、私の名前まで朽ちてしまうのがたまらなく残念です)


「踏んだり蹴ったり、って感じの歌だね」

「『名こそ惜しけれ』という言葉なら、この歌にも含まれていますよね」


 春の夜の 夢ばかりなる 手枕たまくら

  かひなく立たむ 名こそ惜しけれ


   周防内侍すおうのないし (第六十七番)


「こちらは、


 これを枕に、とあなたが差し出したかいな枕を、この私が受け取るとでも思って?  短い春の夜の夢のようなあなたとのつまらないたわむれごときで、私の名前が朽ちてしまうのは、まっぴらごめんですわ、


といった軽い意味です。

 『かひなく』が、腕のかいな、と、つまらないを意味する、甲斐なく、とに掛かっていますね。見事です」

と、古久根が称賛した。

「さっきの青葉との対戦でも出てきた、俺がお手つきした歌だよね。

たしかに百人一首には同じ旋律や言葉が氾濫しているな」

 青葉が、さらに歌を一つ挙げた。

「プレイボーイを軽くあしらっている痛快な歌といえば、これよね」


 音に聞く 高師たかしの浜の あだ波は

  かけじや袖の ぬれもこそすれ


  祐子内親王家紀伊ゆうしないしんのうけのきい (第七十二番)

(噂にとどろく高師の浜のあだ波にかかって袖が濡れてしまわないように、浮気で有名なあなたの言葉にも十分に気を付けておかないと、涙で袖を濡らしてしまうことになりそうね)


「『かける』、と『濡れる』が、いずれも波のためと、涙のための両方に掛かっていて、技巧的にもとても優れているわ」

「技巧的で中身も濃い歌か。小式部内侍の『大江山』の歌を思い起こさせるなあ」

 恭助が感心していた。

「女性らしさが格別際立った歌もあるんですよ。これを詠まれたら、恭助さんなんか、きっといちころになってしまうでしょうね」


 なげきつつ ひとり寝る夜の くる

  いかに久しき ものとかは知る


   右大将道綱母うだいしょうみちつなのはは (第五十三番)

(あなたを待ち侘びながら、夜が明けるまで一人で過ごす、それがどれほど長くてつらいことなのか、ご存じですか? いいえ、どうせおわかりにはならないでしょうね)


「たしかに、控えめな姿勢に好感が持てるよ」

 恭助が頷いた。

「道綱の母は小野小町と並び称される美人だったそうです。数々の文献にそう書かれています」

「次の歌も、道綱の母と同じような感じよね」


 忘れじの ゆく末までは かたければ

  今日を限りの いのちともがな


   儀同三司母ぎどうさんしのはは (第五十四番)

(いつまでも私のことを忘れないとおっしゃっていただきましたけれど、そのお言葉が永遠に続くことは難しかろうと存じます。ならば、いっそのこと、その言葉を聞けた今日を限りに、命が尽きてしまえばよろしいのに、と思わずにはいられません)


「おのろけでれでれで、まあ勝手にしろ、って感じだね。

 同じ『命』を使った恋歌として、式子内親王をちょっとは見習って欲しいよなあ」

「ふふふ、恭ちゃんもだんだんうるさくなってきたじゃない」

 青葉が微笑んだ。

「身分不相応のために、もがき苦しんでいる歌がありますね。


 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを

  人づてならで いふよしもがな


   左京大夫道雅さきょうのだいぶみちまさ (第六十三番)

(今となっては、もうあなたへの想いはあきらめなければなりません。ああ、せめて人づてではなく、直接お伝え申し上げたいのに)


 藤原道雅は、斎宮さいぐうである皇女・当子内親王とうしないしんのうのもとにお忍びで通っていたことが世間にばれたために、会うことを禁じられてしまったのです。

 これは、その時に詠まれた歌ですね。

 まるで、業平さまと高子皇太后との悲しき関係さながらです」

「たしか、式子内親王も斎宮だったよね。なにかと事件が起こるんだな、斎宮がらみの」

 頭の後ろに両手を抱えながら、恭助がつぶやいた。

「犯罪の陰に斎宮あり、ですかね?」

と、古久根が笑いながらいった。

「お坊さんが歌った恋の歌もあるわ。しかも、女性目線で詠まれているのよ。

 ええと、


 今むと いひしばかりに 長月ながつき

  有明の月を 待ち出でつるかな


 素性法師そせいほうし (第二十一番)

(すぐに行きます、といわれたあなたのお言葉を信じて、ずっと待っておりましたけども、あなたは来ないまま、私はとうとう明け方の月を待つ羽目になってしまいました)


 他には……、


 もすがら 物思ふころは 明けやらぬ

  ねやのひまさへ つれなかりけり


   俊恵法師しゅんえほうし (第八十五番)

(更け行く夜に、来てもくれないあなたのことを思い続ける私。でも夜はなかなか明けてはくれません。これでは、寝室の戸の隙間さえも、私にとって冷淡な存在となってしまいますわ)


も、そうじゃないかしら?」

「ああ、なるほど。そうですね。

 私、実はこの歌が結構好きなんです。だって、『閨のひま(寝室のふし穴)』が暗いままであることが恨めしいなんて、すごく着眼点が斬新だと思います」

と、古久根がうっとり目線でしみじみといった。

「坊さんのくせに恋歌なんか詠んでいていいのか? 煩悩を捨て切れていないぞ」

 恭助が突っ込みを入れた。

「恋の歌はお坊さんでも案外詠まれているみたいね。他にもこんな歌があるわ」


 思ひわび さてもいのちは あるものを

  きにへぬは 涙なりけり


   道因法師どういんほうし (第八十二番)

(あの人のことを思って嘆き悲しんでいる私だけど、それでもどうにか命は長らえている。なのに、つらさに耐えかねた涙が、止め処なくこぼれてくる)



 なげけとて 月やは物を 思はする

  かこちがほなる わが涙かな


   西行法師さいぎょうほうし (第八十六番)

(月が嘆けと、私に意地悪をしているのだろうか? いや、そんなはずはない。でも、月のせいであるかのように止め処なく流れ出るこの涙は、いったいなんなのだろう)


「この二首ってさ、なんとなく似ているね」

「でもね、西行法師はいわずと知れた歌人だけど、あえてこの歌が選ばれたのは、疑問視する声もあるらしいわよ」

「ということは、この歌もマイナーな歌なのか? そんなに悪くないけどね」

「そうみたいね。例の歌織物のために選ばれた歌かもしれないわね」

「西行さんも自由人でしたからねえ。業平さま顔負けの」

「とかく才能がある奴って、わがままが多いよね」

と、恭助が追随した。

「少なくても、恭ちゃんにだけはいわれたくはないわね、超自由人代表の……」

 青葉がムッとして反論した。

「えっ、俺が? それは誤解だって」

「恭助さんと業平さまはともにわがままかもしれないけれど、かっこよさとなると天と地ほども違いますよねえ」

「やだなあ、まゆゆ。俺のことそんなにかっこいいと思っていたんだ」

「違いますよ! 逆に決まっているじゃないですか」

 突然の恭助が投げ返した言葉に、古久根麻祐が真っ赤になって否定した。

「麻祐ちゃん、恭ちゃんの口八丁に乗ってしまってはだめよ」

 青葉が古久根をさりげなくなだめた。

「ううっ、恭助さんもなかなか油断ならない人ですねえ」

 してやられたとばかりに、古久根は恭助の顔をにらんだ。

「ようやく気づいたのかな。ふふふっ」

 恭助がくすくす笑った。


「僧侶の歌だと、恋の歌よりはやっぱり隠遁生活のわびしさを歌った歌が多いわね。例えば、こんな歌があるわ」


 わがいほは 都の辰巳 しかぞ住む

  世をうぢやまと 人はいふなり


   喜撰法師きせんほうし (第八番)

(私のいおりは都の東南に位置しており、鹿が住んでいそうな山奥にあるのだよ。そこで私はこのように安穏と暮らしているけれど、世間では、私が世の中を悲観してここに籠っていると噂しているらしいね)



 もろともに あはれと思え 山桜

  花よりほかに 知る人もなし


   大僧正行尊だいそうじょうぎょうそん (第六十六番)

(ともに昔を懐かしもうぞ、桜の花よ。もうお前しか私のことを知っている者はいないのだから)



 寂しさに 宿をたち出でて ながむれば

  いづくも同じ 秋の夕暮


   良暹法師りょうぜんほうし (第七十番)


 その三首の歌を聞いて、古久根も一首を掲げた。

「お坊さんではないけれど、この歌も隠者の歌ですね」


 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける

  人目も草も かれぬと思へば


   源宗于朝臣みなもとのむねゆきあそん (第二十八番)

(山里はとりわけ冬の寒さが身に沁みるものだ。誰も訪ねてなんか来ないし、草木も枯れ果ててしまうしね)


「ごめんなさい。また、恋の歌にするわよ」

と、青葉が話を戻した。

「たしか、この二つの歌が、恋がテーマの歌会で同時に詠まれて、どちらが優れているかが競われたのよね」



 忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は

  物や思ふと 人の問ふまで


   平兼盛たいらのかねもり (第四十番)

(人に知られないように秘めて来たのに、私の恋心はどうやら顔に出てしまっていたようだ。物思いにふけっているのかと、人から問われるまでに)



 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり

  人知れずこそ 思ひそめしか


   壬生忠見みぶのただみ (第四十一番)

(恋をしているという私の噂は、もう世間に広まってしまったか。人に知られぬように秘めておくつもりだったのに)


「どちらもよく似た意味の歌だね。テーマがあったってことか。

となると、どちらが優れていたのだろう?」

「たしかその時に勝ったのは、兼盛ですね。でも、後世の批評では、『恋すちょう』の歌の方が、高く評価されているそうですよ」

と、古久根が答えた。

「いわば、引き分けってとこかしらね」

「でも、負けてしまった壬生忠見は、落胆してしまってこの歌会の後、亡くなってしまったそうですよ」

「ええっ? たかが和歌の勝負で負けただけなのに?」

 恭助が呆れて声を発した。

「それほど当時の人々は、歌に名誉を掛けていたということです」

と、古久根が説明した。

「恋歌の中にも、技巧に凝った歌がありますよねえ」


 みかの原 わきて流るる いづみ川

  いつ見きとてか 恋しかるらむ


   中納言兼輔ちゅうなごんかねすけ (第二十七番)

(みかの原から湧き出でて流れるいずみ川ではないけれど、いつ見たのであろうか。本当は会ったことがないあなたなのに、どうしてこんなに恋しいのでしょうか)


「この歌は、掛詞かけことばが多いんですね。『わきて』は、水が分かれる、と、水が湧く、の二つの意味を持っているし、『いつみ』が、いずみ川、と、いつ見る、の意味を兼ねています。

 もう一つは、――」


 有馬山ありまやま 猪名ゐな笹原ささはら 風吹けば

  いでそよ人を 忘れやはする


   大弐三位だいにのさんみ (第五十八番)

(有馬山に近い猪名の笹原に風が吹くと、そよそよと音がします。そう、それです。風になびく笹のように頼りないのはあなたの心であって、どうして私があなたのことを忘れましょうか)


「『いで』は、さあ、という意味で、『そよ』は、それよ、それなのよ、という意味ですね。

 出だしの三句で、『そよ』という言葉を導く序詞になっているし、『猪名』という地名に、否、という意味を掛けているんです」

「どちらの歌も、目の前にいない相手に対して詠んだ歌だね。こういう歌の方が感じがいいや」

「私が気に入っているのが、殷富門院大輔の歌なの――」

 そういって、青葉は一首を口ずさんだ。


 見せばやな 雄島をじま海人あまの 袖だにも

  れにぞれし 色は変はらず


   殷富門院大輔いんぶもんいんのたいふ (第九十番)


「この歌の作者、殷富門院大輔は藤原信成ふじわらののぶなりの娘で、名前は仰々しいけどれっきとした女性なのよ。実はこの歌が詠まれた背景には、源重之が詠んだ次の歌の存在があったの――」


 松島まつしまや 雄島の礒に あさりせし

  海人あまの袖こそ かくは濡れしか


(きっと松島の雄島の磯にいる猟師の袖くらいなものであろう。悲しみに暮れる私の袖のようにびしょびしょに濡れているのは)


「この歌を踏まえて、殷富門院大輔は、『見せばやな』――それなら私の袖を見てもらいたいわ、と歌い出したの。

 そして、『雄島の海人の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず』、つまり、昔の歌で詠まれている『雄島の海人の袖』だって、びしょびしょに濡れているといっても、まさか色までは変わってはいないでしょう、と締めくくったのよ」

「色まで変わる?

 いくら泣いたところで、涙で袖の色が変わるわけがないじゃんか?」

「泣き過ぎて血が出てしまい、袖が真っ赤になってしまったと歌っているんですよ。恭助さん」

 古久根が補足した。

「ええっ? じゃあ、殷富門院大輔の歌の意味は?」

「意味はね、


 あなたに見せてあげたいわ。涙のために色まで変わってしまった私のこの袖を。歌で有名なあの松島の雄島の漁夫の袖でさえも、同じようにびしょびしょに濡れてはいたのでしょうけど、まさか色までは変わることはないですからね。


という感じかしら」

「それって怖すぎないかい?」

「『血涙』という言葉が中国の古典にあるわ。殷富門院大輔は清少納言のように漢詩にも長けていたのよね」

 青葉がさらりといい切った。

「でもさ、元の『松島や』の歌がなければ、意味がわかんなくなってしまうじゃないか。

 いいのか、そんないいかげんで」

「これは『本歌ほんか取り』という、和歌の世界では立派な技法なんです。昔に詠まれた有名な歌の背景を踏まえて、自分の歌を詠むという」

 古久根が恭助に説明をした。

「それって替え歌ってこと?」

「ちょっと違うと思いますけど……」

「ふむふむ。とにかく、この歌は本歌取りだったのか。でも、単に真似をするだけなら俺でもできそうな気がする」

 恭助が思ったままを口に出した。

「本歌取りは一見簡単そうで、実はそうでもないらしいわよ。下手な歌を詠んでしまうと、本歌に食われてしまうからね」

 青葉が意見した。

「なるほどね。歴代の秀歌に、いざ挑戦いたさん、って感じか。

 それにしても、恋ってさ、どちらかというと、上手くいかないからこそいい歌になるものだよね」

「そうですね。それをいったら、まさに絶望のどん底、って感じの歌が三つありますよ」

 そういって、古久根は三つの歌を次々と挙げていった。


 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに

  人をも身をも 恨みざらまし


   中納言朝忠ちゅうなごんあさただ (第四十四番)

(逢瀬というものがこの世の中に全くなければ、相手のつれなさや、自分のわびしさを恨むこともなかろうに)



 あはれとも 言ふべき人は 思ほえで

  身のいたずらに なりぬべきかな


   謙徳公けんとくこう (第四十五番)

(かわいそうね、といってくれる人が誰ひとり思い浮かばないままに、私はむなしく死んでしまうのでしょうか)



 かくとだに えやはいぶきの さしも草

  さしも知らじな 燃ゆる思ひを


   藤原実方朝臣ふじわらのさねかたあそん (第五十一番)

(これほど想い焦がれているのに、口に出すことができようか。伊吹山で採れる藻草のように燃えるようなこの私の想いを、おそらくあなたは知らないでしょうね)


「なんかさ、暗過ぎてやるせないね。どの歌も」

 恭助がため息を吐いた。

「逆に、恋が上手くいったがために、恨めしいという歌だってあるわよ」

 青葉が恭助の顔をのぞき込んだ。

「へえ、どんな歌?」


 逢ひ見ての 後の心に くらぶれば

  昔は物を 思はざりけり


   権中納言敦忠ごんちゅうなごんあつただ (第四十三番)

(あなたにお会いして、想いを遂げることができた今となってみれば、昔の私は、なにも考えてはいなかったみたいですね)


後朝きぬぎぬの歌ですね」

と、古久根がいった。

「きぬぎぬ?」

「前の晩に想いを遂げた男性が、翌朝になって詠む歌のことです」

「それって幸せの絶頂で詠んだ歌ってことじゃないか。むしろむかつくよな」

 恭助が答えた。

「でも、後朝の歌って、取りようによって色々な解釈もできるのよね。一度は『逢えた』のに、その後全く会えなくなってしまい悲しんでいるとか、逢いにいったけど、最後まで行かなくて、悲しんでいるとか」

「最後まで行かないって、どういう意味さ?」

 恭助がなにげなく青葉に訊ねた。

「あのね、恭ちゃん。そんなこと具体的な言葉にはできないでしょ」

 咳を一つ入れた青葉が、珍しく顔を真っ赤にして、声を張りあげた。

「ああ、そういうことか。面会はしたけど、することまではできなかったってことか。そういう意味の歌なら、俺だって共感しちゃうけどな」


 無邪気に笑う恭助の横顔を見ながら、古久根麻祐がさらに歌を一つ口にしたのだが、後々になって、この歌が深刻な物議をかもし出すこととなった。

「後朝の歌といえば、これもそうですよね――」


 君がため 惜しからざりし 命さへ

  長くもがなと 思ひけるかな


   藤原義孝ふじわらのよしたか (第五十番)


 歌が口ずさまれた瞬間、如月恭助の肩がピクッと震えた。

「えっ、今なんていった?」

「えっ、なんかいいましたっけ?」

 恭助の勢いに押されて、古久根がまごまごした。

「ええと、下の句――。今の歌の下の句を、もう一度いってみてよ」

「『長くもがなと 思ひけるかな』……ですか?」

「そいつだ! その歌の意味は?」

藤原義孝ふじわらのよしたかが詠んだ歌で、


 あなたに会うまでは、惜しくもなんともなかった私の命ですが、こうしてあなたと幸せな日々を送る今となっては、少しでも長く続く命であって欲しいと思うようになりました、


という歌です。

 義孝は双子の兄弟の弟で、兄弟ともども美男で有名だったそうです。ところが、二人ともそろって、二十一歳の若さで天然痘にかかって、同じ日に命を落としています」

「双子の兄弟が同じ日に天然痘で死んだって? ちょっとうまく話が出来過ぎているな。そんなの作り話じゃないの?」

 恭助が食ってかかった。

「でも、かの有名な歴史書『大鏡おおかがみ』に、そのように記されていますけどね。それによれば、朝にお兄さんが亡くなって、夕方に弟が亡くなったそうですよ」

「ふーん、そうなんだ。にしても、ブラック過ぎるな……」

「若くして亡くなった義孝が詠んだ歌だからこそ、味わい深いのよね。この歌は……」

 青葉が口を挟んだ。

「そうですよね。長寿を全うした人が詠んでも、説得力なんか全然ないですからねえ」

「あら、恭ちゃん。急に黙っちゃったけれど、どうかしたの?」

「いや、気にしないでくれ。それより、その歌についてもう少し説明してくれないか?」

「えっ、義孝の歌のこと?」

「うん。なんでもいいから思うままに」

「この歌は、たしかさっきもいいましたけど、青葉先輩に取って因縁の歌なんですよねえ。

 六字決まりの歌で、三条クイーンが勝負を仕掛けて来た札です」

「あんまり思い出したくないことね」

「そうか、『君がため』で始まるもう一つの歌が、これか……」

 そうつぶやくと、恭助はさっきの青葉とのかるた対戦を脳裏に思い起こした。

「そういえば、作者の藤原義孝ふじわらのよしたかって、義孝先輩と全く同姓同名だったんですねえ?」

 古久根がなにげなく口ずさむと、

「あら。いわれてみればそうね。義孝先輩のご両親って、生まれた時から、かるた選手に育てるつもりだったのかしらね。あはは」

と、青葉もいっしょになって笑い出した。

 突然、恭助が声を荒げた。

「ちょっと待って! その、義孝先輩って、いったい誰なんだ?」

 鬼気迫る恭助の異常な剣幕に、青葉と古久根はただポカンと口を開けるだけであった。


藤原義孝ふじわらよしたか先輩――。東京大学の四年生で、美男子で頭もよくって、私たち女子選手の中では断トツのあこがれの存在ですよねえ」

 古久根がさらりといった。

「青葉もそう思うのか?」

「ええっ? かっこいい人だけど、別にあこがれてまではいないわよ」

 いいわけをするように、青葉は小声で答えた。

「今大会にも出場していたんですけど、昨日の最後の試合だった準々決勝で敗れてしまいましたね。義孝先輩もすごく強い選手なんですが、相手は……、誰だったかしら?

 ――ああ、吉野小夜さんです」

「そうね。たしか十四枚差だったわね」

と、青葉が付け足した。

「ええっ? 圧勝じゃないですか! 吉野さんってすごいですねえ」

と、古久根が目を丸くした。


 さっきまで五里霧中を彷徨っていた恭助に取って、青葉と古久根が提供したこの情報は、まさに青天の霹靂であった。被害者の吉野小夜が握っていた百人一首の札の歌の作者と、同姓同名である藤原義孝という人物が、このかるた大会に参加しており、さらに、昨日の最後に行われた準々決勝の試合で、優勝の有力候補であったこの藤原義孝は、事件の被害者である吉野小夜に、大差で敗れ去っていたのだ。


「その藤原義孝って奴は、負けた後、そのまま帰ってしまったのか?」

「いいえ、おそらくまだここにいると思いますよ。だって、これから準決勝と決勝が行われますから……」

「さっき広間にいたわよね。準決勝が始まろうとしていた時に……。

 恭ちゃん、どうしたの? 義孝先輩の話になってから目の色が変わっているわよ?」

 青葉が恭助を心配するように見つめた。

「ううん。べ、べつになんでもないよ」

 恭助が口ごもった。それを見て、青葉の眉が吊り上った。

「嘘ばっかり! さては、なにかを隠しているわね。

 恭ちゃんはさっきのゲームで負けたのだから、私のいうことならなんでも聞かなければならなかったわよね?」

「ええっ、それはもう終わったんじゃないのか? それにさ、これ以上の深い内容は、捜査上の秘密なんで……」

と、恭助がいいわけをした。

「ふっ、麻祐ちゃん。やっぱりなにか事件と関係があるみたいよ。義孝先輩が――」

「あらら、そうだったんですか?」

 古久根も興味深げに身をのり出してきた。

「ふん、まあいいや。どうせすぐにおおやけになっちゃう事実なんだから」

 ついに恭助は、観念をしたように肩を落とした。

「実はさ、昨日変死で発見された吉野小夜の右手には、百人一首の札が握られていたんだよ。

 そして、その札こそが、今話していた藤原義孝の詠んだ歌だったのさ……」

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