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小倉百人一首殺人事件  作者: iris Gabe
出題編
1/20

1.忍ぶにも、なお余りある、昔なりけり

登場人物


 瑠璃垣るりがき青葉あおば  名古屋大学の3年生。

 三条さんじょう美由紀みゆき  京都大学の4年生。

 大倉おおくらいずみ  同じく、京都大学の3年生。

 古久根こぐね麻祐まゆ  北海道大学の2年生。

 藤原ふじわら義孝よしたか   東京大学の4年生。

 淡路あわじ陶磨とうま   同じく、東京大学の4年生。

 有馬ありま風人かぜひと   立命館大学の3年生。

 松山まつやま末広すえひろ   同じく、立命館大学の3年生。

 吉野よしの小夜さや   早稲田大学の1年生。左利きの天才。

 小野おの孝史たかし   ユースホステルの従業員。四十歳。

 壬生みぶ忠泰ただやす   愛知県警察所属の若手巡査部長。二十六歳。

 如月きさらぎ惣次郎そうじろう  愛知県警察所属の警部。四十九歳。

 如月恭助きさらぎきょうすけ   名古屋大学の3年生。




目次


1. 忍ぶにも、なお余りある、昔なりけり

2. 長々し夜を、独りかも寝む

3. 長くもがなと、思いけるかな

4. 唐紅に、水くくるとは

5. 今を春べと、咲くやこの花

6. 君がため、春の野に出でて、若菜摘む

7. 玉の緒よ、絶えなば絶えね

8. 焼くや藻塩の、身も焦がれつつ

9. 人も愛し、人も恨めし

10.紅葉踏み分け、鳴く鹿の

11.今日を限りの、命ともがな

12.君がため、惜しかりざりし、命さえ

13.雲のいずくに、月宿るらむ

14.今一度の、行幸待たなむ

15.濡れにぞ濡れし、色は変わらず

16.峰のもみじ葉、心あらば

17.雲隠れにし、夜半の月かな(読者への挑戦)

18.鳥の空音は、謀るとも

19.人の命の、惜しくもあるかな

20.貫き留めぬ、玉ぞ散りける


 古今東西あまたある歌集の中、最もポピュラーかつスタンダードという称号を勝ち得て、人々から常に愛され続けた絶対的なアンソロジー、それが、いわずと知れた『小倉おぐら百人一首ひゃくにんいっしゅ』である。その稀代の傑作を編纂した藤原ふじわらの定家ていかは、貴族文化で栄華を極めた平安時代が終局を間もなく迎えようとする一一六二年に生誕している。

 父親の藤原俊成ふじわらのしゅんぜいは、『幽玄ゆうげん』と呼ばれる幻想的な余情美を確立した和歌の達人であり、指導者としても、息子の定家を筆頭に、寂蓮法師じゃくれんほうし藤原家隆ふじわらのいえたか式子内親王しきしないしんのうなどの多数の卓越した歌人を門下生として輩出するなど、その才能を遺憾なく発揮した人物である。俊成は、さらに和歌に関する著書も多く残していて、中でも代表的なのが、一一八八年に単独編者として編纂した七番目の勅撰和歌集に当たる千載せんざい和歌集であった(もっとも、その仕事は息子の定家も手助けをしていたと、一説では唱えられている)。一方で官位にはさほど恵まれることもなく、一一七六年に六十二才で出家をしている。

 そんな俊成を父に持つ定家は、探究心が旺盛で強い執着心を持つ頭脳明晰な人物であったが、同時に、気性が激しく他人の意見を容易に聞き入れない強情な面も合わせ持っていた。彼が残した日記『明月記めいげつき』には、十九歳から七十四才になるまでの生活が克明に残されていて、細かいことに異常にこだわる定家のまめな性格のエピソードが数多く記載されている。

 藤原という姓を授かりながらも、没落貴族でその日の暮らしもままならない定家の日常生活は、上司や本家筋へのご機嫌伺いや見舞い、祈祷などで京都の町を駆けずり廻って一日が終わることが多かったらしい。彼が生きた時代は王朝政治崩壊による動乱のまっただ中にあって、若い時には源平合戦に直面し、老境に入ってからは承久じょうきゅうの乱が勃発している。

 本歌取りをベースにした古典主義による新たな和歌を生み出そうと、込み入った表現や掛詞、縁語などの様々なテクニックを駆使しながら、次々と精力的に和歌を詠んでいった定家であったが、達磨歌と揶揄されたり難解な前衛歌風とそしられて、持て余す才能を世間から評価されないままに、悶々とした日々を送っていた。そんな定家に、やがて運命を大きく変える後鳥羽院ごとばいんとの出会いが訪れる。


 後鳥羽院は一一八三年に、前天皇の安徳天皇あんとくてんのうが退位しないまま、四歳の若さで天皇に即位しており、平家が滅亡する壇ノ浦の戦いまでの二年の間、二人の天皇が在位するという数奇な時代が生じている。天皇とはいえ、当時の政権は後白河法皇ごしらかわほうほうによる院政で完全に支配されていて、法王が崩御した一一九二年になって、ようやく後鳥羽院は晴れて権力を手にすることとなる。同時にこの年には、源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が設立された。

 即位してわずか六年後の一一九八年に、弱冠一九歳ながら後鳥羽院は天皇の位を嫡子の土御門天皇つちみかどてんのうに譲位して自らは上皇となる(この時の土御門天皇はわずか二歳であり、さらに一二一〇年には、三男の順徳天皇じゅんとくてんのうが十三歳で即位する)。その後は贅を尽くした生活を思う存分にくり広げ、承久の乱で敗れる一二二一年までの二十三年間、後鳥羽院は院政を貫きながら事実上の実権を掌握し続けた。

 文武に優れた天才肌の後鳥羽院は、定家の才能を瞬時に見出した。こうして定家は、最強のパトロンである後鳥羽院の支援を得ることができたのだが、同時にこれは最凶の足枷を取り付けられた瞬間でもあった。

 一二〇一年に和歌所わかどころを設置した後鳥羽院は、藤原定家ら六名に撰者を命じて、待望の『新古今和歌集しんこきんわかしゅう』の編纂に取りかかる。定家にしてみれば、万感胸に迫る大抜擢であったことだろう。その新古今和歌集は一二〇五年に完成するのだが、その後も切り継ぎの作業が一二一六年頃まで続いたということだ。ところが、新古今和歌集の編纂に際しては、好みの歌の相違によって、後鳥羽院と定家の間でかなりのいざこざがあったらしい。互いに気性が激しく、他人に譲歩することがない頑なな気質であるが故、二人の関係はしだいに疎遠になっていった。凝り性の後鳥羽院は、歌の善悪は最終的には自分にしか判別できぬとばかりに、次々と歌の差し替えを要求してきて、わがままなパトロンの応接に疲れ切った定家は、これでは撰者としての専門家プロの面目が丸つぶれだ、と不平を漏らしている。

 そんな中、日蓮法師にちれんほうしに前代未聞の下剋上といわしめた大事件、承久の乱が勃発した。


 承久の乱は、一二二一年に時の鎌倉幕府の実権を握っていた北条義時ほうじょうよしときに対して、後鳥羽院が討幕の兵を挙げた事件である。

 兵を挙げた当初、後鳥羽院は、もはや朝敵となった義時に参じる者は千人もいなかろう、とかなり楽観的だった。しかし実際は、鎌倉にいた有力御家人のうちで彼に味方する者は、結局一人も現われなかった。

 この戦では、後鳥羽院の気質が垣間見られるエピソードが残されている。北条義時が長男の泰時やすときと軍議を開いた際、敵の大将である後鳥羽院が万が一にも自ら先陣を切って乗り込んでくることがあれば、天皇に弓を引く事は出来ぬ故、無条件降伏をせよ、とまで議論は進展をしていたらしい。しかし、後鳥羽院が自ら先陣を切って敵陣に踏み込むなどという暴挙は、とうとう最後までなかった。おおらかで天才肌であるが故に、あえて背水の陣など引かなくても事態はどうとでもなる、といった事なかれ主義が、最後の土壇場で仇となってしまったのだ。こうして、どちらが勝ってもおかしくないと思われた天下分け目の戦は、終わってみればあっさりと幕府側の大勝利で終焉を迎える。この乱の結果、幕府と朝廷の力の拮抗は崩壊し、幕府が圧倒的に優勢となる。朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などの実権を握るようになった。

 敗れた後鳥羽院は隠岐島おきのしまに流刑となり、そのままその地で十九年の歳月を過ごし、生涯を閉じた。時を同じくして、息子の土御門上皇、順徳天皇もそれぞれ、土佐国とさこく佐渡島さどがしま配流はいるされている。


 小倉百人一首が完成した年は十三世紀前半とされているが、詳細ははっきりとしていない。超新星爆発スーパーノヴァに関する記述も残されていて、さまざまな方面の学術的に極めて貴重な資料ともなっている明月記には、その文暦二年(一二三五年)五月二十七日条に、『宇都宮蓮生うつのみやれんしょうに請われて嵯峨さが山荘(小倉おぐら山荘)の障子に貼るための色紙和歌を染筆した。古来の人の歌各一首、天智天皇てんじてんのうより家隆いえたか雅経まさつねに及ぶ』、と記載されてある。当然、その和歌百首こそが『小倉百人一首』であろうと、これまで考えられて来たのだが、近年になってその仮説を覆す新説が飛び出した。昭和二十六年に国文学者、有吉保ありよしたもつによって、定家が編纂した『百人秀歌ひゃくにんしゅうか』と呼ばれる別の百首の歌集が発見されたのだ。

 百人秀歌に収められた百一首と小倉百人一首の百首は、実に九十七首が一致していて、作者も九十八名が全く同じ人物である。異なっているのは、小倉百人一首の後鳥羽院(第九十九番)と順徳院(第百番)の代わりに、百人秀歌では一条いちじょう院皇后宮、権中納言国信くにざね、権中納言長方ながかたの三人の歌が採録されていることだ。ちなみに、一条院皇后宮とは、枕草子まくらのそうしを執筆した清少納言せいしょうなごん真摯しんしに仕えた藤原定子ふじわらのさだこ、すなわち中宮定子ちゅうぐうていしのことである。

 明月記に記された一二三五年に編纂された百首とは、果たして、『小倉百人一首』なのか『百人秀歌』なのか? 仮に、小倉百人一首だとすると、後鳥羽院と順徳院の歌がおおとりを飾っているのだから、なぜ定家は明月記に、『古来の人の歌各一首、天智天皇より順徳院に及ぶ』、と記さなかったのかが疑問になる。その上、この二人の上皇の歌というのが、


 人もし 人もうらめし あぢきなく

  を思ふゆゑに もの思ふ身は


   後鳥羽院 (小倉百人一首 第九十九番)

(ときに人を愛しく思い、ときに恨めしくも思う。味気ない世の中だと思うからこそ、あれこれと思い悩んでいる私がいるのだ)



 百敷ももしきや ふる軒端のきばの しのぶにも

  なほあまりある むかしなりけり


   順徳院 (小倉百人一首 第百番)

(宮廷の古びた軒端に生えている忍ぶ草を見ていると、いくら忍んでも忍びきれない昔の栄華を思い出さずにはいられない)


と、そろいもそろって当時の鎌倉幕府を挑発するような、政治的に極めて危険な歌であったことも見過ごせない。

 さらには、百人秀歌の奥書きに、定家による次のような謎めいた文章も残されている。


『私はこのアンソロジーに、上古以来の名高い歌人の歌を一首ずつ、思い出すままに書き連ねていったが、有名な人、秀逸の作のおおかたが漏れてしまっていることも事実である。けれども、どの歌を採用し、どの歌を外したかという取捨選択の基準は、この私の心のうちにしまってあるから、あれやこれやと、はたから非難される筋合いもなかろう』


 これらのことを配慮して、『小倉百人一首』と『百人秀歌』の二つの歌集のうち、どちらかがオリジナル版で、もう片方は後の修正版ではないかと考えられるが、危険な思想が含まれた後鳥羽院と順徳院の歌を取り入れた小倉百人一首が修正版であろう、というのが現在の定説である。そして、定家が、小倉百人一首を世に広め、百人秀歌を影に隠そうとしている事実から、後鳥羽院と順徳院に対して、定家は小倉百人一首になんらかの特別なメッセージを込めたかったのではないか、と歴史文学者たちは推測している。実際に、小倉百人一首と百人秀歌に載せられた定家の歌は、


 来ぬ人を まつほのうらの 夕なぎに

  くや藻塩もしおの 身もこがれつつ


   権中納言定家ごんちゅうなごんていか (小倉百人一首 第九十七番)

(松帆の浦の夕なぎの海辺で焼かれる藻塩草のように、いつまで待ってもやって来ないあなたのことを、私は身を焦がしてまでも、待ち続けているのです)


というもので、『来ぬ人』というのが、あたかも後鳥羽院や順徳院であるかのような思わしげな言い回しになっている。一方で、百人秀歌の発見により、小倉百人一首に収められた最後の二首に特別な意味が込められている事実が判明したことを鑑みると、定家は後世の人が秘めた暗号を解き明かせるよう、あえて非公開鍵プライベートキーたる百人秀歌を破棄せずに残したのではないかとさえ、いぶかしまざるを得ない。


 小倉百人一首では、選ばれた歌に番号が付けられているが、これは歌が詠まれた時代順となっている。つまり、番号が若い歌ほど昔に詠まれた歌ということである。さらに、選ばれた百首は、時代ごとに『万葉まんようの時代』、『六歌仙ろっかせんの時代』、『平安貴族の時代』、『隠者と武士の時代』という四つにおおまかに分類することができる。

 万葉の時代(第一番から第七番まで)は、日本最古の歌集である万葉集まんようしゅうに載せられた歌で、おおらかでいて素朴な『ますらおぶり』という歌風が好まれている。

 六歌仙の時代(第八番から第三十九番まで)は、平安時代の前期に当たり、古今和歌集こきんわかしゅうが編纂された時代に詠まれた歌である。優雅で格調高い『たおやめぶり』という歌風が流行り、縁語や掛詞などの技巧を凝らす歌が多くなっていった。

 平安貴族の時代(第四十番から第六十五番まで)は、貴族文化が全盛期を迎えた平安時代中後期に詠まれた歌で、多くの女流歌人が活躍した華やかな時代でもある。

 隠者と武士の時代(第六十六番から第百番まで)で、平安時代が終焉を迎え、武士が支配する鎌倉時代へと移る過渡期の歌。不安定な世の中から仏教に心の支えを見出す人が増えた時代である。


 小倉山荘の襖に装飾された百首の式紙が、どのような意図で定家によって選出されたのかは、いまだに古代文学史上に君臨する空前のミステリーなのである。

 換言すれば、定家が選んだ小倉百人一首には、他の歌集には選ばれていない歌も多く含まれており、定家独特の美意識が色濃く反映されている。それらは必ずしもその時代の最先端の歌人だけが選ばれているわけでもなく、六歌仙の一人である大伴黒主おおとものくろぬしや、才色兼備な中宮定子の歌は選ばれておらず、逆にそれまで評価の低かった名もなき歌人や、有名な歌人による歌の中でもさほど代表作とは思われていない庸俗な歌が、少なからず選出されている。

 しかし、長い年月を経て、現在の小倉百人一首の知名度を考えると、定家の先見の明は、やはり類まれなるものであったと驚嘆せざるを得ない。恋を詠んだ歌が多いことや、百首のさまざまな歌で用いられている『共通する言葉』が異様に多く飛び交っているのも、他の歌集にはない大きな特徴ともいえる。だからこそ、紛れも多くなり、まさに、かるたには打ってつけなのだ。でも、よもや定家が、未来でかるた遊びに使用されることを想定して、わざわざこの百首を選出したとまでいってしまうと、興味深いものの、さすがにそれは常識的な思考の及ぶ範疇から外れた俗説といわざるを得ないであろう。

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