ある夏の夜に
あぁ。もう私の記憶で辿ると45年も前になるのだから、覚えている人は少ないだろう。だが、私は覚えている。あの夏の出来事を。
私はその時、借家に住んでいた。いや、借家というのも贅沢に感じるほど、小さくてボロボロの小屋だった。部屋は1つしかなく、お風呂はそこから一キロ程離れた銭湯だけだった。今もあるほうではないが、当時は今よりも経済的に厳しく、その小屋も主人の伝手で何とか借りた漁師の離れ家だった。漁師からしてみれば物置、私達からしてみれば家というのだから面白い。
「あなた、何時帰ってくるの?」
定時は6時と決まっていたけれど、私達の大家に当る漁師から借りた古びたラジオからは、台風が近づいているというニュースがあったので、不意に尋ねたのだ。
「そうだな、出来るだけ早く帰るよ。なぁに、大丈夫。台風が本格的になるまでには帰ってるさ」
主人は笑った。笑ったときに口角の上がり方が少し小さく、微笑んだといったほうが良いかもしれない。
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
主人は私達の家がある崖に通る道を傘をさしながら歩いた。主人は一般的な公務員で、まだ若かったために給付はそう多くはなかった。だが、主人は懸命に働いてくれた。「子供ができたときに、これじゃ格好がつかないだろ?」それが、彼の口癖だった。
「緊急ニュースをお伝えします。現在、日本に上陸しかかっている台風3号は、今日の午後より悪化すると見られています。尚、沿岸部付近は波が高いため、近づかないようにしてください」
古びていてもラジオ。聞ければ十分だった。
「大丈夫かしら?」
私の癖として、不安になると口に出してしまうものがあった。特に気にすることもないので、直そうとは思わなかった。だが、主人の前では不安を出さなかった。何としても主人の前だけでは強い女として居たかったのだ。なぜそう思ったかは分からない。
ザバーン! ザバーン! 午後に入って、急に風が強さを増した。家は波が崖に当るたびにその飛沫を受けていた。見るからに耐え難い光景でもあった。少しでも高い波がくれば屋根に当り、部屋の中に落ちてきた。
「はぁ……」
ため息が一つ漏れる。毎年の事だが、怖かった。
「お……い。大へ……ぞ」
断片的に下から聞こえたその声は、私の興味を引いた。崖の上に住む私にとって、下は未開の地だった。
「あら……」
下を除くと、一隻の小船が、岩にぶつかっていた。少し横に視線を送ると、何人かの漁師がそちらを見て騒いでいた。当時の私は心が狭かった。その姿を見ても、何をしようなどとは考えなかった。何とかなるだろう。そう思っていた。
「……きゃっ」
突然、海側の窓が割れた。とてつもなく大きな音を立てて、破片が飛び散った。穴があいたその隙間から、飛沫が入り込む。
「何?」
わけもわからないまま、私は下を見る。
「あぁ」
そう声が漏れた。いつもは岩にぶつかるだけだった潮水が、小船にぶつかることで勢いを増して家にぶつかったのだ。その場しのぎの方法として、散らかっている板を張り付けた。女一人の力だったため、不安だけがあった。何時壊れるか、気が気でなかった。
「……」
無言で時間が過ぎるのを待った。涙が頬を通る。目元の時には温かかった涙は、口元に近づくに連れて冷えて冷たくなった。
「怖い……怖い」
怖かった。今まで経験したことのない出来事は、私の心臓を動かした。涙は止まることなく出る。時計のない家で時間を知るには、日の位置しかない。私は外を見ようとした。だが、板があって外は見えない。
「うぅ、うぅ……」
時は少しずつ進み、下からの声が聞こえた。
「よおし。もう大丈夫だ」
実にはっきりと聞こえた。安堵した声。私の心とは正反対だった。
コンコン……。
「……?」
涙も乾き、涙の通り道の筋が出来たところで、ドアを叩く音がした。時刻はわからなかったが、もう十二時はまわっていただろう。
「はい」
自分でも驚くくらい、小さな声でいった。
「私だ。大丈夫か?」
暖かい声が、心に響く。
「あなた……。ぐすっ、うぅ」
主人の胸を掴み、胸で泣いた。結婚してから初めての行為だった。
「よしよし」
主人の優しく、冷たい手。空は、もうすでに輝いていた。
「心配かけたな」
そう、主人は呟いた。私にとって、不安な気持ちをなくしてくれる、合言葉で愛言葉だった。
「たまには、弱くてもいいんだぞ」
少し照れた声。全てを分かっていて、それでいて受容してくれるような感覚だった。涙は、不思議と止まっていた。
あの夏の夜、私にとっては大きな出来事……。
初めましての方は、「はじめまして」。知っている方は「本当にお待たせいたしました」。
はい。ここで、作者の近況を話しますと。。。
高校の方にも慣れてきたので、ここらでまた小説家になろうに徐々に復活していきたいと思っている所存です。これからも、スランプなどで、書かなくなるときもありますが、ぜひ、書いたときには見てください。
それでは、久しぶりで恥ずかしいですけど。
ここまで読んでくださったすべての皆様に
「ありがとう」