第二節 崩れ落ちる太陽
その部屋は、甘ったるい腐敗の臭いで満たされていた。
江東特有の湿気が、死にゆく者の熱と混じり合い、一種の粘度を帯びて澱んでいる。呼吸をするたびに、肺の奥へカビの胞子と、煮崩れた果実のような不快な甘みがへばりついた。
回廊の柱に額を押し付けている孫権の肩が、微かに震えていた。十九歳。碧みがかったその瞳は、暗い廊下の先を、何かに怯えるように見つめている。
「仲謀様」
背後から声をかけられ、孫権はびくりと身を竦めた。振り返ると、侍医が立っていた。その顔は土色に汚れ、治療の術を失った者の絶望を湛えている。
「……兄上の具合は」
「峠は……越えられませぬ」
侍医は重く首を振った。
「傷そのものは致命傷ではございませんでした。ですが、肉が塞がることを拒み、溶け落ちていくのです。まるで、この土地そのものが殿を拒絶しているかのように。……あれはもう、人の体ではございませぬ」
孫権は、その言葉を奇妙な納得と共に受け止めた。
兄・孫策は、生前からして人ではなかった。あれは荒れ狂う嵐であり、すべてを焼き尽くす太陽であった。
太陽が墜ち、腐り始めている。ならば、この程度の異臭は当然かもしれなかった。
「お呼びです。最期のご差配を、とおっしゃっております」
重い扉が開かれる。
むせ返るような熱気が、孫権の顔面を打った。
薄暗い寝室の中央。帳の向こうに、かつて「小覇王」と呼ばれた男が横たわっていた。
孫権は、足がすくんで動けなかった。
兄という巨大な遮蔽物がいなくなった後に残される、荒野のような「空っぽの自分」と向き合うことが恐ろしかった。
「……鏡を」
帳の奥から、くぐもった声が聞こえた。喉に痰と血が詰まったような、湿った濁音。
「鏡を持ってこいと言っているのだ!」
突然の咆哮。侍女たちが悲鳴を上げ、銅鏡を差し出した。
孫権は、見てしまった。鏡を覗き込んだ兄の横顔を。
周瑜と並び称された美貌は、もはや原型を留めていない。頬の肉は削げ落ち、矢が貫通した傷口は紫色に腫れ上がり、黄色い膿が絶え間なく溢れ出している。
それは、英雄の顔ではなかった。泥の中で腐り果てた、名もなき獣の死に顔だった。
「ギャアアアアアアッ!」
孫策が絶叫した。鏡を床に叩きつける。金属音が響き渡り、銅鏡が鈍く歪む。
「これが俺か! 孫伯符の顔か! 嘘だッ! こんな醜い姿で、誰がこの俺に跪くというのだ!」
孫策は狂乱し、自らの傷口を爪で掻きむしった。鮮血が噴き出す。
兄は知っていた。己の力の源泉が、武勇だけではなく、誰もが目を逸らせぬほどの「光」と「完全性」にあったことを。
欠けた太陽など、誰も崇めない。膿にまみれた英雄など、誰も愛さない。
兄は、肉体の崩壊と共に、己が築き上げた「覇王」という虚像が音を立てて瓦解していくのを、その耳で聞いているのだ。
「権、か」
不意に、孫策の動きが止まった。血走った目が、部屋の隅で縮こまっている弟を捉えた。先程までの狂気は消え、代わりに底知れぬ「諦念」が宿っていた。
「こっちへ来い」
跪く孫権の手首を、孫策の手が掴んだ。
その手は、沸騰した泥のように熱く、湿っていた。ギリギリと骨がきしむ。
「よく聞け。……俺の命は、もう尽きる。悔しいが、認めざるを得ん」
「あ、兄上……」
「黙って聞け!」
孫策が咳き込み、血の泡を吹く。
「江東の豪族どもは俺の武を恐れて従っていただけだ。俺が死ねば、奴らはすぐに牙を剥く。……お前が、それを抑えねばならん」
孫策は、孫権の心を透かすように口元を歪めた。
それは慈愛の笑みではなく、残酷な烙印を押し付ける審判者の顔だった。
「軍勢を率いて戦陣を駆け、天下を争うことにかけては……」
孫策の言葉が、部屋の空気を凍らせた。
「お前は、俺には及ばない」
ドクン、と孫権の心臓が跳ねた。
誰よりも自分が知っていた。だが、死の床にある兄の口から、逃れ得ぬ事実として突きつけられたそれは、魂への死刑宣告に等しかった。
「だが、賢人を任用し、その能力を尽くさせ、江東を保つことにかけては……俺は、お前に及ばない」
それは後世、美しい兄弟愛の物語として語り継がれるはずの言葉であった。
だが、その場にいた孫権だけは、その言葉に含まれた猛毒を理解した。これは褒め言葉ではない。「呪い」だ。
(――お前には、天下を取る器はない)
(――お前は、俺が獲った土地の番犬をしていればよい)
兄は死の淵にあってなお、弟の魂に「二番手」という名の鎖を括り付け、その限界を規定したのだ。
「印綬を受け取れ。張昭や周瑜を頼れ。だが、忘れるな。奴らはあくまで『漢の臣』であり、あるいは『家の臣』だ。……お前自身が、奴らに食われぬようにな」
孫策の視線が、ふと虚空を彷徨った。
「ああ……見えるぞ。父上が見える。烏程侯が、手招きしておるわ」
うわごとのように呟き始めるが、孫権を掴む力は強まる一方だった。
兄の掌から、どろりとした野心、無念、暴力といったものが、皮膚を通して自分の血管へと流れ込んでくる。
(放してくれ)
孫権は思った。
(早く、冷たくなってしまえばいい)
この巨大な太陽さえ消えれば、僕のような小さな星でも、瞬くことができるのではないか。
その思考は、業にも似た悦びとなって孫権を包み込んだ。悲しみよりも先に、重石を取り払われるような「安堵」が腹の底を占めた。
「権……頼む……ぞ……」
ガクン、と力が抜けた。掴まれていた手首から圧力が消える。
だが、熱だけは残っていた。べっとりと手首にこびりついた兄の汗が、見えない鎖となって孫権を縛り続けていた。
静寂が落ちた。誰かがすすり泣きを始める。
孫権は、事実を確認した。怪物は死んだ。
そして、怪物の食べ残した巨大な餌場――江東という国が、自分の前に放り出された。
孫権はゆっくりと、兄の手を離した。ゴト……という鈍い音がして、孫策の手が寝台に落ちた。
立ち上がろうとした孫権の足元がふらつき、耐えきれず、こみ上げてきた酸っぱい液を床に吐き出した。
胃液と、少しの胆汁。
それは、兄の傷口から滲んでいた膿と同じ、不吉な黄色をしていた。
孫権は袖で口元を乱暴に拭った。
荒い呼吸を整える。喉にへばりついていた腐敗臭は、もはや気にならなかった。むしろ、その臭いこそが自分の生きる戦場なのだと、魂が居直った。
歪んだ鏡に、自分の顔が映っていた。蒼白で、碧い瞳だけが異様にぎらついた、頼りない若者の顔。
だが、そこにはもう、昨日のような甘えはなかった。生き残るために何かを食らわねばならぬと悟った、飢えた獣の相貌があった。
(僕に、天下は取れないと言ったな、兄上)
孫権は、心の中で死者に語りかけた。
(ならば、見せてやろう。あなたが力でねじ伏せようとして失敗したこの国を、僕がどうやって飼い慣らすか。……あなたのやり方ではない。僕の、陰湿で、臆病で、確実なやり方で)
部屋の外から、張昭の怒鳴り声と、大勢の足音が聞こえてくる。
新しい時代の、泥沼の幕開けを告げる足音だった。
孫権は、一歩を踏み出した。
その足音は、死んだ兄のそれよりもずっと静かで、そして重かった。




