第二節 古き血管、新しき毒
組織における「礼節」や「法理」という言葉は、しばしば「保身」の言い換えとして機能する。
創業期の荒々しい新陳代謝を終え、守成に入ろうとする集団において、それは老いた血管に溜まる血の澱みのごときものだ。流れを阻害し、柔軟を奪い、やがては宿主を内側から腐らせていく。
甘寧という、劇薬めいた異物の投入。
それは、硬化し始めた呉の脈動に、無理やり汚れたメスを入れ、泥混じりの新血を注ぎ込むような暴挙であった。
「なりませぬ!」
会議の席上、張昭の老いた声が響いた。湿気を吸って撓んだ古い竹簡を擦り合わせたような、カサカサとした不快な音色だ。
「甘寧は主を裏切ること数度、信義の欠片もない無頼の徒です。そのような者を重用すれば、古くから孫家に忠義を尽くしてきた将たちの士気に、いかなる障りが出るか!」
張昭の背後では、同じような顔をした古参の文官たちが、首振り人形のごとく頷いている。彼らは正しい。古人の教えに照らせば、一点の曇りもない正論を述べている。だが、上座に座る孫権には、それが「変化を拒む老人の呻き」にしか聞こえなかった。
(……喧しいな)
孫権はあくびを噛み殺しながら、ぼんやりと張昭の白髭を眺めていた。この老人たちは、孫家という大樹に張り付いたキノコのようなものだ。日陰で湿気を吸い、己の胞子を撒き散らすことだけに汲汲としている。彼らは「呉のため」と口にするが、その実態は「自分たちが安穏としていられる呉のため」でしかない。
孫権の視線が、部屋の隅に向けられた。そこには、今にも弾け飛ばんとする強弓の弦のような緊張を孕んだ、殺意の塊が鎮座していた。
凌統。まだ二十に届かぬ若武者である。彼の父・凌操は、五年前、甘寧の手によって射殺されている。
凌統は会議の間中、一言も発していなかった。ただ、膝の上で固く握りしめられた両手は、白く浮き上がった関節が怒りに震えている。噛み締めすぎた唇からは一筋の血が滴り落ち、全身の筋肉が鋼線のごとく張り詰め、わずかな刺激で爆発しかねない極限の状態にあった。
その視線の先には、ふてぶてしく胡座をかき、鼻をほじっている甘寧がいる。
憎悪。純度一〇〇パーセントの、混ぜ物のない殺意。
孫権は、その凌統の姿を見て、背筋がゾクゾクするのを感じた。怖いのではない。美しい、とすら思った。張昭たちの枯れ果てた説教にはない、瑞々《みずみず》しい負の生命力がそこにはあった。
(母上は仰っていたな)
『権よ。部下を一つにまとめようとするな。適度に憎ませ、競わせ、その首にかけた鎖を握り分けるのが王の仕事だ』
孫権の口元が微かに歪んだ。そうだ。この殺意を利用すればいい。甘寧という毒と、凌統という抗体。この二つを体内で戦わせ、その発熱を黄祖討伐という矢に変えて放つのだ。
「張昭。お前の言うことはもっともだ」
孫権は、あえて気弱な声を装って言った。
「だが、僕には兄上のような武勇がない。だから、毒を食らってでも力をつけたいのだよ。わかってくれ」
「亡き兄」の名を持ち出されると、この老臣たちは弱い。孫権は心の中で舌を出した。僕もなかなかの役者になってきたではないか。
*
その夜、歓迎の宴が開かれた。空気は廟よりも重く、処刑場よりも殺伐としていた。
甘寧は意に介さず、出された豚の丸焼きを手づかみで引き裂き、骨ごとバリバリと噛み砕いている。その食い様は、神聖な宴席を汚す野獣の捕食そのものであった。
「おい、そこの若いの」
甘寧が、脂で光る手で酒瓶を持ち、凌統に声をかけた。
「アンタ、凌操の息子だってな。……親父さんは不運だった。戦場の矢だ、誰に当たってもおかしくはねえ。ま、これも運命と思って、一杯どうだ?」
それは、極限まで乾燥した野に放たれた、一条の火種であった。
バヂンッ! 何かが切れる音がし、次の瞬間、凌統は抜刀していた。
「……貴様ァッ!!」
絶叫と共に、凌統が机を蹴り飛ばして躍りかかった。食器が砕け、汁物が宙を舞う。甘寧は咄嗟に紫檀の椅子を盾にした。ガギィン! 白刃が硬い木材に食い込む。
「殺す! 父の仇、ここで八つ裂きにしてくれる!」
「よせ、俺を殺せば黄祖への案内役がいなくなるぜ!」
宴席は一瞬で修羅場と化した。怒号と、破壊音と、男たちの体臭が混じり合い、むせ返るような熱気が渦巻く。
上座に座る孫権は、動かなかった。彼は、杯を口元に運んだまま、その乱闘劇をじっと観察していた。
瞳孔が開き、呼吸が荒い。恐怖ではない。孫権は、絶頂に近い昂ぶりを感じていた。
(やれ。もっとやれ)
行儀の良い呉の宮廷が、破壊されていく。格式張った礼儀が、暴力の前で無力化されていく。凌統の剣が甘寧の頬を掠め、鮮血が飛沫となって舞った。その生々しい肉体の衝突こそが、孫権が求めていた「世界の真理」であった。兄が生きていた頃の、あの血湧き肉躍る空気。それを今、僕の手で作り出しているのだ。
「主君、お止めください!」
家臣たちが助けを求める。孫権はゆっくりと杯を置いた。興奮が最高潮に達し、かつ修復不能になる直前の、針の穴を通すような瞬きを見計らって。
「……やめぬか!!」
孫権は立ち上がった。その声は裏返っていたが、広間を一瞬で凍りつかせるには十分な重みを持っていた。
二人が動きを止める。床には血と酒が混じった不快な液体が溜まっている。孫権は、震える足で二人の間に入っていった。その「死への恐怖」が、彼の演技に真に迫った迫力を与えた。
「凌統。……気持ちはわかる。痛いほど、わかるのだ」
孫権は、涙を溜めた目で凌統を見つめた。「だが、今は国家の大事だ。父の仇を討つ前に、国を滅ぼす気か? 私の顔に免じて、剣を引いてくれ」
凌統は血が滲むほど拳を握りしめた末に、剣を投げ捨てた。「……無念です」
男泣きに泣く凌統。孫権はその肩を抱きながら、甘寧を振り返った。甘寧は頬の血を舐めとり、つまらなそうに肩をすくめた。
家臣たちは、孫権の「ご威光」に感服し、安堵のため息を漏らしている。だが、誰も気づいていない。凌統を抱きしめる孫権の腕が、嗜虐的な喜びで震えていることに。その碧眼が、床の血痕を、まるで美しい絵画でも鑑賞するように見下ろしていることに。
(僕は、虎ではない)
兄のように太陽となって照らすことはできない。だが、毒を盛り、傷口を刺激し、人々を狂奔させることで、巨大な力を生み出すことはできる。
「……酒だ。新しい酒を持ってこい」
孫権の命令は、以前よりも低く、湿り気を帯びていた。
冷徹なる治世者の覚醒。それは英雄的な決意などではなく、自分の中に巣食う「他者を操り、壊したい」という暗い欲動の肯定によって成されたのであった。




