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江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
第一部 第一章 虎の死と、震える継承者

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第一節 丹徒の森、獣の匂い

 江東の春は、光の粒そのものが湿り気を帯びている。


 長江から這い上がる水蒸気が、幾重もの丘陵を舐め、樹々の緑を黒く染め上げる。肺腑に吸い込む空気は重く、喉の奥に藻の匂いと、腐敗した落葉の甘酸っぱい残香を刻んだ。

 この地は、人間よりも植物や虫、あるいは泥に潜む精霊すだまのためにある。北方の乾燥を知る者にとって、呉の風土は「土地」というより、巨大な「内臓」の中を歩かされているような閉塞感を伴うものだった。


 その湿った内臓を、一筋の鋭利な刃が切り裂いていく。


 孫策、伯符。

 人々が「小覇王」と呼び、畏怖とともにひれ伏す二十六歳の若者は、澱んだ地に踏み入った、あまりに眩く、無遠慮な太陽であった。


 西暦二〇〇年、建安五年四月四日。

 丹徒の西山。


 愛馬・五花馬が泥を蹴り、風を巻き起こして疾走する。

 馬の筋肉が悲鳴を上げるほどに鞭を入れ、ただ前へ、獲物へと殺到する。その速度は、狂気であった。

 だが、孫策にとってそれは遊戯ではない。獣を追い詰め、その絶命の瞬間、瞳から光が消え失せる様を網膜に焼き付ける。その「生の剥奪」に、彼は飢えていた。


「遅い!」


 孫策は鞍上で吠えた。

 背後、濃密な霧の向こうに従騎の影はない。韓当や周泰といった歴戦の将ですら、主君の獣じみた速度には追いつけないのだ。

 いや、孫策が置き去りにした。


(鈍間どもめ)


 彼は口元を歪めた。嘲笑ではない。純粋な事実の確認だ。

 父・孫堅の死後、わずかな手勢で江東六郡を席巻した。向かうところ敵なし。誰も彼の速度に追いつけない。敵も、味方も。

 

 ――殿は、速すぎる。

 

 風に乗って届く嘆き。それがどうした。

 風が止まって見えるこの速度こそが、俺を俺たらしめている。追いつけぬ者が悪い。理解できぬ者が愚かなのだ。

 世界は俺のためにある。この湿った空気さえ、俺の熱量で焼き尽くしてやれる。

 そう確信していた。この瞬間までは。


 不意に、霧が晴れた。

 峠の頂。三人の男が立っていた。

 彼らは風景に溶け込み、ひっそりと佇んでいる。狩人ではない。農夫でもない。森の腐葉土から湧き出した瘴気が、人の形を成したかのような、不吉な「静けさ」をまとっていた。


 五花馬が前脚を上げる。

「何奴だ」

 孫策の声は腹に響く雷鳴のようだった。常人ならば、その覇気だけで震え上がる。

 だが、三人の目は死魚のように白濁していた。その奥底にだけ、どす黒い怨念の火種がチロチロと燃えている。


「韓当の兵か」

 問いに、男の一人が首を振った。錆びた鉄が擦れ合うような声が漏れる。

「否。我らは、韓当殿の兵にあらず」

「ならば何だ。獲物を横取りするなら容赦はせぬぞ」


 孫策が剣に手をかけた瞬間、肌が粟立った。

 殺気ではない。自らの命を投げ打ってでも、対象を奈落へ引きずり込むという、破滅への渇望。

「我らは、許貢様の食客なり」


 許貢。

 かつて自ら処刑した呉郡太守の名。絞殺され、無様に舌を垂らして絶命した男。

 孫策にとって、それは掃除した塵の一つに過ぎない。だが、塵には塵の、執念があった。


「亡霊か」

 鼻で笑おうとした瞬間、世界が止まった。

 中央の男が、既に弓を引き絞っていた。一切の躊躇も、揺らぎもない。


 距離、十歩。

 孫策の視神経が、放たれた矢の羽の震えを捉える。回避行動を命じ、全身の筋肉が痙攣する。だが、その刹那――風切り音より早く、世界が爆発した。


 熱。

 耐え難い熱量が、右の頬に突き刺さった。

 骨が砕ける湿った嫌な音が、頭蓋の内部で反響する。


「ぐ、あ、ああああッ!」


 孫策は落馬した。

 受け身もとれず、背中から地面に叩きつけられる。土の冷たさと、顔面の灼熱。視界が明滅し、天と地が混濁する。

 頬に触れると、ぬらりとした液体と、硬い異物。矢だ。矢が、彼の美しい相貌を貫通し、醜く歪ませている。


 痛みよりも先に、強烈な屈辱が襲った。

 この俺が。小覇王・孫策が。名もなき亡霊ごときに。

「殺せ……! 殺してやる!」

 吠えたが、口の中に溢れた血が言葉を溺れさせる。


 三人が無言で迫る。高揚感もなく、ただ淡々と害虫を駆除する手つきだ。

 孫策は剣を振り回し、一人を斬り伏せた。だが、残る二人の刃が太腿と脇腹を抉る。

 血飛沫が舞う。江東の湿った空気に鮮やかな朱を撒き散らし、黒土へと吸い込まれていく。


 孫策は獣のように咆哮し、二人目を突き殺した。

 だが、三人目の槍が、孫策の肩を深々と貫く。

 膝をつく。

 あり得ないことだった。孫策の膝が、泥に汚れるなど。


(なぜだ)

 薄れゆく意識の中で、問いかけた。

(俺の兵は、どこにいる?)

 

 いつもなら、韓当が、周泰が、死に物狂いで追いかけてくるはずだ。俺の速度に遅れまいと、泡を食って駆けつけてくるはずなのだ。

 だが、森は静まり返っている。鳥の声さえしない。

 聞こえるのは、自らの荒い呼吸と、血が滴る音だけ。


 時間が、不自然に引き延ばされている。

 永遠とも思える静寂の後、ようやく、遠くから馬蹄の音が響いてきた。


 ――あまりに、整いすぎた馬蹄の音だった。

 

 それはまるで、孫策という猛火が消えかかるのを、森の向こうで息を潜めて待ち構えていたかのような、冷ややかな遅延。


 孫策は、残る一人の食客をねじ伏せ、その首をへし折った。

 全滅させた。

 だが、勝者はいなかった。

 顔面を矢で貫かれ、全身を朱に染めた孫策には、もはや威厳など欠片もない。泥にまみれ、苦痛に顔を歪める、ただの瀕死の若造がそこにいた。


 茂みが割れ、ようやく味方の兵が現れた。

 先頭にいたのは、地元の豪族出身の若き騎兵だった。

 彼は、惨状を見て立ち尽くした。


「殿……?」


 その声に、孫策は顔を向けた。

 右頬から矢を生やしたままの、異形の相貌で。

 騎兵は息を呑んだ。

 その時、孫策は見たのだ。騎兵の瞳の奥に宿る、真実の感情を。


 それは「焦燥」でも「悲哀」でもなかった。

 深山の池の底に沈む石のような、冷徹な「観察」。

 あるいは、獰猛すぎる虎がようやく檻に入ったことへの、暗い「安堵」。


(ああ……そうか)


 脳髄に、矢の痛みとは比較にならない、冷たく暴力的な衝撃が走った。

 俺は、愛されてなどいなかった。

 俺の武を、俺の威光を、こいつらは称賛していたのではない。ただ恐れ、ただ疎み、通り過ぎる嵐として耐えていただけなのだ。

 江東の豪族たちにとって、俺は「異物」でしかなかった。


 彼らは、俺が死ぬのを待っていた。

 この刺客たちを招き入れたのは、霧ではなく、この土地の人間たちの「総意」だったのだ。

 

 込み上げてきたのは、自嘲ではなく、焼けるような怒りだった。

 

 裏切りへの怒りではない。

 こんな「内臓」のような場所で、自分一人が太陽であると信じ込み、全速力で駆け抜けてきた己の滑稽さへの、血を吐くような怒りだ。


 韓当たちが駆けつけ、悲鳴を上げて寄り添う。

 だが、その声は遠い水底から響く泡の音に過ぎない。


 視界が暗転していく。

 最後に目に入ったのは、鬱蒼と茂る丹徒の森の木々だった。

 枝葉が風に揺れ、ざわざわと音を立てている。

 それはまるで、厄介な猛獣がようやく倒れたことを喜び、森全体が忍び笑いを漏らしているようであった。


 孫策は、泥の中に意識を手放した。

 獣の匂いがした。

 それは自分の流した血の匂いであり、同時に、これから始まる腐敗の匂いでもあった。

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