第66話 世界の歪みを正す波形と、闇を切り裂く夜明け(アルバ)
「おおおおおッ!」
トビーは咆哮とともに、レナードの懐へと文字通り突っ込んだ。
かつて背中を預け合った男――しかし今は、討つべき敵。
「無駄だと言っているだろうが、トビー!!」
「ぐっ……」
レナードは冷笑を浮かべ、飛び込んできたトビーの拳を最低限の動きで受け流す。
そのまま強烈なカウンターの蹴りがトビーの腹部を捉え、彼の身体が廃工場のコンクリートの床を激しく転がった。
「ふんっ、相変わらず単細胞だな。お前がどれだけ吠えようが、現実は変わらん。お前は何も守れず、またすべてを失うんだよ!」
「黙れっ……!」
トビーは口内の血を吐き捨て、すぐに立ち上がる。その瞳の炎は消えていない。
「レナード!あんたいつもそうだった! そうやって上から目線で、全部わかったような顔をしやがって! 昔からお前のその気取った態度が気にいらなかったんだよ!」
「凡人の僻みか? お前が俺の指示通りに動いていれば、今頃もっとマシな地位にいただろうになぁ」
再び拳が交差する。
鋭い拳撃がトビーの頬をかすめ、肉が裂ける。しかし、トビーは怯まない。
どれだけ吹き飛ばされ、泥に塗れようとも、執念深く、レナードへとしがみつくように間合いを詰めていく。
「はんっ、何が指示通りだ! あんたの独善に付き合わされるこっちの身にもなってみろ!」
「独善だと!?」
激しい打撃の応酬のなかで、会話は次第に、二人がかつて共に過ごした過去の泥沼へと引きずり込まれていく。
トビーの異常なまでの打たれ強さと執念に、レナードの完璧だった立ち回りがわずかに狂い始めていた。
受け流しきれず、トビーの泥臭い拳がレナードの顔面に浅くクリーンヒットする。
「チッ……!」
初めて余裕を崩し、顔を歪めたレナードの口から、本音が剥き出しになって零れ始める。
「お前に何がわかる! 常に先を見据え、組織の泥を被り、泥水をすすってこの地位まで這い上がってきた俺の苦悩が!」
「何も考えずにただついてくるだけだったお前に、俺の何が批判できるんだぁッ!!」
「──ああ、わかるさ! あんたがそうやって一人で勝手に背負い込んで、勝手に悲劇のヒーローぶってることぐらいにはな!」
「っ!?なんだと……!??」
「だから、俺は気づかないフリをしてやったんだよ!」
トビーは一歩踏み込み、レナードの胸元に指を突きつけた。
かつて胸の奥に仕舞い込み、二度と口にしないと決めていた、最大の『裏切り』の事実をここに叩きつける。
「お前が裏で手を染めていたあのあくどい悪事の数々――その罪の一端を、都合よく俺に被せて隠蔽していたことになぁッ!!」
「っな――!!?」
レナードの顔から、完全に余裕が消失した。その動揺は、数式を解析していたリーンや、氷の壁を維持していたライナスの目にも明らかなほどだった。
「お前、それを……知って……」
「知ってたさ! 知ってて騙されてやってたんだよ、相棒!」
「うがぁぁぁ、黙れええええええええッ!!」
秘密を暴かれた羞恥と激昂。レナードは理性をかなぐり捨て、全力を込めた拳を振りかぶった。
狂気的なまでの速度と威力。逃げ場のないゼロ距離。傍目から見れば、トビーの頭部が文字通り粉砕される未来しか見えない一撃。
だが、トビーの瞳はどこまでも冷静だった。
まっすぐにレナードを見据え、皮肉な、しかし最高に晴れやかな笑みを浮かべる。
「今だから言うけどさ……」
迫り来る拳の風圧が、トビーの髪を激しく揺らす。
「俺はあんたのそういう所――大っ嫌いだったんだよね!!」
「死ね――ッ!!」
レナードの拳が、トビーの鼻先数センチに迫ったその刹那。
――ガキィィィンッ!!!
凍てつく硬質な音が、廃工場に響き渡った。
「なっ……!?」
レナードの拳を受け止めていたのは、トビーの肉体ではなかった。
いつの間にかトビーと位置を入れ替え、目の前に立ちはだかっていたのは
――冷徹な笑みを浮かべたライナス。
その腕は、強固な氷の甲冑に覆われている。
「見事な時間稼ぎでしたよ、トビー」
ライナスは背後のトビーに視線すら向けず、凍りついた拳をさらに強く握りしめる。
「さて――チェックメイトです、レナード」
刹那、ライナスの氷の術式が至近距離で大爆発を起こし、レナードの身体を容赦なく吹き飛ばした。
「ガハッ……!?」
ライナスの氷撃を至近距離で喰らったレナードは、廃工場のコンクリート壁まで吹き飛んで激しく激突した。
容赦ない衝撃に血を吐きながらも、その目はまだ死んでいない。
「おのれ……おのれ、おのれぇッ!!」
レナードは狂ったように笑いながら、懐から呪符をむしり取る。
完全に理性を失った彼は、自身の全魔力を代償にして、ミリーナの胸の奥にある黒いノイズを強制増幅させ始めた。
相打ちを狙う、狂気の道連れだ。
主の狂気に呼応するように、周囲にいたゾンビ兵たちの動きがさらに狂暴化し、獣のような咆哮を上げて一斉に牙を剥く。
(――落ち着きなさい。大丈夫、間に……合ったわ!)
押し寄せる圧倒的な絶望を前に、リーンの視界、その網膜を駆け巡るエメラルドグリーンの数式が、ついに「0.00%」を示した。
膨大な計算の終着点。たった一つの最適解。
「システム、オールグリーン。暴走波形相殺パッチ、固定!」
リーンは両手を掲げ、その網膜の光を世界へと解放する。
「数式解放――! 」
「『対抗周波数』ッ!!」
【リーン:歌学・干渉シークエンス】
TARGET: ALL_CORRUPTED_HUSH_ID_001_TO_142
SCANNING_RESONANCE_FREQUENCY...
DETECTED [ UNSTABLE_BERSERK_WAVE ]
INJECTING_ANTI_FREQUENCY_PATCH:
[ COUNTER_PHASE_RESONANCE ]
OVERRIDE: COMMAND_LINK_VAL *= 0.00
空気を震わせるリーンの歌声が、廃工場全体を一瞬で満たしていく。リーンの叫びと共に、彼女を中心として美しくも絶対的なエメラルドグリーンの光の波紋が、廃工場全体へ一瞬で広がっていった。
それはただの光ではない。世界の歪みを正す、絶対的な『対抗周波数』。
歌声が描く「逆位相の波」が、世界の歪みである暴走コードの振動数に直接干渉し、強制的にその波形を平坦へと叩き潰していく。
【処理結果】
PULSE_CANCELLATION: 100%
LINK_STATUS: FORCED_TERMINATION STATUS: SYSTEM_STABILIZED
迫り来ていたゾンビ兵たちに光の波紋が通り抜けた刹那、それまで廃工場を呪わしく満たしていた耳障りなノイズが、綺麗に消滅した。彼らを動かしていた「暴走コード」のリンクが、完全に強制切断されたのだ。
「ア、ガ……」
と虚しい音を漏らし、波のように押し寄せていた兵士たちが、糸の切れた人形のように次々と床へ崩れ落ち、物言わぬ屍へと戻っていく。
「な……に……っ!?」
レナードが目を見開く。
そして、最も強い光の波紋は、宙に浮くミリーナへと収束した。
彼女の小さな胸の奥から噴き出していた禍々しい黒いノイズが、エメラルドの光に中和され、みるみるうちに霧消していく。
「あ……ぅ……」
彼女の瞳に、懐かしい正気が戻る。
しかし同時に、暴走状態から急激に魔力を喪失した反動で、彼女の小さな身体から完全に力が抜けた。そしてそのまま、力なく空中から落下していく。
「ミリーナちゃん――!!」
リーンの悲鳴のような声が響く。だが、その距離では誰も間に合わない
。 ――いや、一人だけ、最初からその軌道を見据えていた男がいた。
「うおおおおおッ!!」
ボロボロの身体を、ただその執念だけで奮い立たせたトビーだった。
彼はコンクリートの床へとスライディングするように滑り込み、両腕を限界まで伸ばす。
――ぎゅっ。
確かな重みが、トビーの腕の中に収まった。
過去、同じように目の前で奪われ、守れなかった大切な存在。そのトラウマの呪縛を、彼は今、己の肉体で完全に打ち破ったのだ。
「……今度は、間に合った……。間に合ったぞ、ミリーナ……!」
トビーの目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。腕の中の彼女は、静かに安らかな寝息を立てていた。
「馬鹿な……俺の、俺の計画が……こんな、ゴミ屑のような男に……」
背後で、レナードが信じられないものを見るように呟く。
暴走コードを強制停止されたことによる魔力逆流を受け、彼の体内回路は完全に崩壊していた。
魔法の力を失い、ただの無力な犯罪者へと成り下がったレナードは、トビーに抱きとめられたミリーナの姿を見つめながら、最悪の自嘲を浮かべてそのまま意識を失った。
◇
静まり返る廃工場。 あれほど世界を揺るがしていた不快なノイズは、もうどこにもない。
「はぁ……はぁ……、やった、のよね……?」
緊張の糸が切れたリーンは、膝の力が抜けてその場にへたり込みそうになった。
その身体を、スッと長い影が背後から支える。
「お見事でした、お嬢様。完璧な演算です」
ライナスはいつもの冷徹な、しかしどこか誇らしげな微笑みを浮かべ、主を優しく支えた。
トビーはミリーナをしっかりと抱きかかえたまま、ゆっくりと立ち上がる。そして、リーンとライナスの二人に向き直ると、深く、深く頭を下げた。
「お、お嬢様……いや、リーン。それとライナス。……ありがとうございます。──俺たちを、救ってくれて」
過去の負い目に怯え、レナードの影に怯えていたトビーの表情には、もう微塵の陰りもなかった。
そこにあるのは、大切なものを守り抜いた一人の男の、晴れやかな顔だ。
ガタガタに壊れた廃工場の屋根の隙間から、一筋の光が差し込んでくる。
長かった夜が明け、彼らの未来を祝福するように、眩しい朝の光が世界を照らし始めていた。




