第九章 時の布の工房
旧街区は路地が細く、石の隙間に潮が眠っていた。鈴の鳴る戸をくぐると、奥で機が低く唸り、糸と糸の間に雨みたいな音が生まれている。店主の仕立屋は、白い布の端を持ち上げて笑った。
「探しているのは、戻れるための道具だろ。これは〈時の布〉。押すとゆっくり形が戻る。戻る速さが呼吸の目安になる」
わたしは指でそっと押し、三分だけ待った。形が戻るのに合わせて胸の緊張がほどける。仕立屋は細い針を差し出す。「〈刻針〉。糸に“秒”を縫い込む。覚えな、三分結び。細く結んで三分待ち、ほどく。切り替えの合図になる」
言われた通りに結んでみると、指に白い輪が残った。輪は、「戻ってから進む」を思い出させる印になる。仕立屋は白と黒の糸を撚り、短いリボンを作ってくれた。
「相棒に渡しな。白は君、黒はあの評価者。二人で帯を整えるなら、合図が要る」
もう一つ、薄い札を織ってくれた。表には小さく「調律中」。入口に下げれば、いまは“整えている最中”だと示せる。監察官は紙より音を見る。札の下で唸りが揃っていれば、余計な口は出さない、と仕立屋は肩をすくめた。
店を出ると、路地に月白が流れ始めていた。わたしは白黒リボンを三分結びにしてポケットへしまう。三年分の上京で擦り切れた心の端も、押せばゆっくり戻る。次は工房へ。入口に札を掛け、三分会議を始めよう。戻れる道具を、ようやく手に入れたのだから。