第二章 帳簿の影
放課後の教室は、白墨の匂いだけ残して静かだった。院師が向かいに座り、黒板の粉を払う指を止めて、ゆっくり尋ねる。「君の瞳はまるで猛獣のようだ。君にとって世界は敵か?」
胸の奥で古い針がちくりと動く。雪巴は即答せず、ノートの余白に三つ書いた。猛獣=集中して狙う目。敵=倒す相手ではなく課題。牙爪=ノートと砂時計。名札を言い換えると、息が通る。院師は「急がなくていい」とだけ言って、窓際に移動した。真っ白な壁に午後の光が差し、純白と霧白の境目が床に落ちる。
「君はよく観察する」院師は続けた。「三分だけ静かに座って、見えたものと聞こえた音を一行ずつ書きなさい。世界が敵かどうか、三分のあとで決めても遅くない」
「三分……」
「砂時計がないなら、呼吸で数えるといい」
遅い夕方、校門を出ると風が冷たかった。家に帰れば、母の苛立ちが壁に跳ね返る。父は黙り、皿は欠け、電気は時々止まる。逃げ場は本棚だけだった。わたしは物語の中に港を作り、余白に矢印を描いて時間の流れを整理した。夜、ふとんにもぐり、鉛筆で小さく書く。「きょうを生きた」
今はそこに“三分”が加わった。砂時計を返し、〈時の布〉を指で押す。押した形が遅れて戻るあいだ、呼吸も戻る。三分の中で、わたしは言葉を並べ替えられる。「世界は敵ではない。わたしの目は、課題という的を見るためにある」。小さく声に出してみる。月白の帯が机の端に落ち、黒は少し退いた。
翌朝、院師に短い手紙を渡した。「三分を試します。いつか首都で働きます」。あの問いが、わたしの羅針盤になった。次の夏、船に乗る準備を始める。三分を数えながら。
そして十年後のいまも、その練習は続いている。三分で戻り、三分で進む。その繰り返しが、わたしの歩幅になった。