第一章 窓の風
海霧が石畳を舐め、油と金属粉の匂いがまだ眠る港から上がってくる。群島リタの安下宿で、雪巴は窓を開け、小さな砂時計を返した。紫の砂が落ちる三分だけ、吸って五秒、止めて一秒、吐いて六秒。幼い夜の黒――賭場帰りの怒声、割れた皿、電気の切れる音――は消えない。それでも三分なら薄まる。
ノートの端に〈時の布〉を貼る。指で押すと、布は遅れて戻る。戻りの速度に合わせて心拍も落ち着く。箇条書きで朝を拾う。「潮の音、荷車二台、猫一声」。窓の下を、灰色の帽子を被った男が通りかかった。腰の笛に手を当て、ふと顔を上げる。
「ラベンダーの匂い……規格外だな?」
雪巴は思わず砂時計を握り込む。男は鼻先で笑い、肩をすくめた。
「規格、規格。まあ、今日は“見なかった”ことにする」
灰帽――監察官シェルド。名前だけが、ぬめるように耳へ残った。三分が尽きる前に雪巴は布を押し、呼吸を揃え直す。去年も一昨年も、首都ルクスナの工房は門前払いが多かった。「仕事は遊びじゃない」と何度も言われた。けれど雪巴の答えは決まっている。遊びは軽さではない。集中を長持ちさせる“遊び方”は、仕事の武器だ。
切符を確かめ、鞄を閉じる。指先に白い粉のざらつき。港のクレーンが背伸びをし、月白の帯が屋根を渡る。雪巴はもう一度だけ砂を見た。三分なら、怖くない。階段を降りると、油の匂いの奥で、誰かが笛を軽く叩く音がした。