校正をしながら泣くとき
私は、フリーランスの校正者をしている。
校正者になって初めてもらった仕事は、小学生向けの学習教材の校正だった。教科は算数。半年ほど担当してから、国語への変更をお願いした。文字が多いものを経験することで少しでも校正の技能を高めたいと思ったからだ。
国語の教材は、教科書に準拠して作られる。読解問題は教科書の素材文を使う。文章そのものはもちろん、字下げなどもすべて教科書にそろえる。当然、教科書の内容を何度も読み込む。
子どものころは、国語の教科書に出てくる文章は単なる勉強の道具であり、テストで点数をつけられる対象だった。だから、その文章を魅力的に感じることはあまりなかったように思う。でも、時を経てあらためて教科書を読んでみると、何ていい話なんだろう、と心を揺さぶられることがある。
そのひとつが、向田邦子さんの『字のない葉書』。
戦時中、まだ文字を書けない幼い娘を疎開先へ送り出すとき、父親はたくさんの葉書に自分の宛名を書いて娘に持たせた。元気な日は丸を書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。疎開先で歓迎を受け、初めは大きな丸が届いていたのが、しだいに丸は小さくなり、やがて葉書は来なくなる。疎開先で娘は病で衰弱していた。家に帰ってきた娘を見た父親ははだしで家を飛び出し、抱きしめて声を上げて泣く……そんな話だ。
私にも子どもがいる。どうしても父親に感情移入してしまい、読むたびに涙が止まらなくなってしまう。子どものころなら絶対に教科書の文章で泣くことなんてなかったのに。教科書とゲラ(校正紙)の照合をしながら、思わずティッシュに手を伸ばす。何やってるんだ、私。
もうひとつが、重松清さんの『バスに乗って』。これは教科書ではなく、中学受験対策の問題集のなかにあったものだ。重松清さんの作品は教科書でもよく見かける。『カレーライス』などは記憶にある方もいるかもしれない。
『バスに乗って』はこんな話だ。少年は、入院している母親を見舞うため、回数券を買ってバスで病院に通っている。三冊買った回数券が最後の一枚になったとき、少年はバスの運転手に、警察に捕まってもいいから、この回数券、ぼくにください、と泣きながら伝える。最後の一枚を使ってしまってまた新しい回数券を買ったら、母親の退院の日が遠ざかってしまう。だから、最後の回数券はどうしても使いたくない。すると運転手は、無言で小銭を運賃箱に入れ、少年にバスを降りるように言う。
これも、読むたびに涙が出てしまう。母親を想う少年の気持ちが胸に迫ってきて、どうしても耐えられない。いやいや、これは仕事なんだから。ちゃんと冷静に読まないと。必死に自分に言い聞かせる。でも、少年が涙する場面あたりまで来ると、もうだめだ。まったく、もう。来るってわかってるのに。そして、ティッシュで涙を押さえながら、「あれ、ここって改行してないじゃん」などと意外と冷静に間違いを見つけたりしている。なんか、メンタル崩壊してるな。自分で自分に不安を覚える。
私はふだん、ほとんど本を読まない。仕事で毎日活字を目で追っているので、プライベートでは本を読まなくなってしまった。本を読んで感動する、という体験が乏しいせいで、耐性がないのではないか、と思うこともある。だから、教科書や問題集に出てくる文章がこれほど心に沁みてしまう。
スタジオジブリの名作『となりのトトロ』。夏になるとよくテレビでも放映される。私はこれを見るといつも、「ちゃんと健康診断に行こう」と思う。メイちゃんがとうもろこしを持って母親のもとへ走るすがたを見て、親は元気でいなきゃな、としみじみ思っている。こういう発想を、「斜め上を行く」というんだろうか。ちなみにこの「斜め上」という語は以前は辞書には載っておらず、2021年12月発売の三省堂国語辞典第八版で新語として初めて採用されたそうだ。単なる位置関係ではなく、「予想外の展開」の意。
問題集を教科書と照合しているとき、つい声に出して読んでしまうことがある。目だけでなく耳も使うと、より違いが見つけやすい。
中学生の教科書に『握手』という素材文がある。恩師が数年ぶりに訪ねてくる話だ。当時厳しかった恩師が、やせて弱々しい姿で現れる。元気そうに振舞っているが、握手をすると、昔はひどく手が痛かったのに、いまは力のない柔らかい握手。一年後、恩師は悪性の腫瘍で亡くなる。自分を訪ねてくれたのは、最期の挨拶だったと知る。
私が声に出しているのを聞いて、下の子が寄ってきた。「なんか、それ知ってる」「教科書に出てたでしょ」「そうそう、懐かしいなあ」
下の子にとっては、漢字の書き取りをさせられたり、主人公の気持ちの変化を書かされたりしたもので、さほど思い入れはないんだろうと思う。でも、数年前父親をがんで亡くした私には、これも胸に響く話だ。
このときは、横に下の子がいてくれたおかげで、何とか乗り切った。まあ、考え方を変えれば、こんなふうに仕事で文章を読んで感動できるのはある意味幸せなのかもしれない。次はどんな素材文に出会えるか。心の準備をしておこう。