お兄ちゃんの授業6
“私とは何か”というような問い、これに対する回答に随分手間取ってしまいました。時間も大分経ってしまっております。ただ、このご質問に関しましては大変に難しい問題であると、これはよく了解していただけるのではないか。従いましてかなりの悪戦苦闘が元々予想されていたことだと、おそらく皆さんに大目に見ていただけるのではないか、私の長広舌を許容していただけるのではないか、こう私は勝手に思い込んでいるわけなんでありますが―――あらためまして、ご寛恕の程を。
さて、それでは次のご質問の方へ移ることにいたしましょう。勿論先程の一つ目のご質問、これに対する私の回答にある程度満足していただいたということを前提として、なのですがね。このこともついでにお願いしておきましょうか、と申しますのもこれからお話しようとする内容につきましてもですね、あの質問に対する回答、これの中身が後々関係してくるからなのです―――ずるいなあ、などとお考えにならないように、単なる作戦なのですよ、悪しからず。
さあ、第二の問題です。私が御仏の教えについてお話しました因縁果ですとか因果応報ですとか、そういったところに絡む、というよりその根本のところですね、そこに内在しております原因結果という結びつき、これは果たして確実な法則なのかどうか、ある原因があれば必ずその結果というものが生じて来るということは、若しくはある結果が生じてきたのならそれに先立った何らかの原因がなければならないということ、これは間違いなく一般的に妥当することなのかというようなご質問でした。簡単に言ってしまえば因果律というものは間違いのない法則とみなしていいものだろうか、もしかしたら単なる習慣のようなものによって産み出されたものなのではないか、という疑念がその根底にあると思われる。例えば、これは因果律ではありませんが例えばです、朝太陽が東の空に昇っても夕方には西の地平に沈んでいく、けれど次の朝にはまた陽は昇り夕にはまた沈む、というようなことが繰り返された、それを経験してきた人間が太陽の昇り沈みの連関を確実なものとして結びつけ、あたかもこの結びつきは必然的なものなのだと考えるように―――ところが或る朝太陽が昇らない日があったとしても別段そこにはおかしいところは何もない。もし太陽の昇り沈みの理屈が分かっておらず、ただ単に太陽は沈んだらまた昇るものだという経験則だけで考えるならば、たまたま太陽が昇らないことがあっても何らおかしいことはない。原因結果というものは、そんなような経験則から何となく導き出された思い込みなのかもしれない。とすると、因果律というものは常に必ず物事に妥当する法則であるということは出来ないのではないか―――ざっとこんなような疑問であったと思われます。
確かに、こういう疑問を持たれていましたら因縁果、略して因果というものを基礎に説かれました仏様のお教えは砂上の楼閣ということになってしまいますよね。仰る通りです。ですから私としては、将来仏様のお教えを広め、それによってこの修羅の世界を救おうと考えておりますこの私と致しましては是非ともこの疑問を払拭し、仏様のお教えが間違いのないものだと皆さんに了解していただきたい、と心底考えております、いや本当の話。
それでは、この難題に取りかかることにいたしましょう。先ずこの原因結果を伴う出来事が見られるのはどこでしょうか。それはこの世界であろうと思われます。有体に言えば、この私達の目の前にあるこの世界であります。外界と表現してもよろしい。私達の身体の外側に広がっていると思われる空間とその中身であります。様々なもので満たされ生きて不断に活動しているこの世界―――そうです、この世界は常に至る所で多様な数限りない働きで満ち溢れているのです。そしてこの働きは闇雲に動き回っているのではない。何らかの秩序を持った無数の働きから成り立っているように思われる。そこで、この世界というものをここで取り上げてみようと考えているのです。
ではこの世界とは何か、どのように見ればよいのか。出発点からして難しいですね。私達が現在おりますのは教室の中です。皆さんが普段から見知っているところ。窓から外を見れば校庭がある。これも皆さんがいつも元気に走り回っているところですね。そして目を上げると空が、青く澄み白い雲がぷかりぷかり、それから眩しいお天道様だ。世界はこんな風に私達を取り巻いている。私達はこの世界の内にいるようなのです。このような世界ですが、これだけでは取っ掛かりがない。見えている世界をただ眺めてみても、今直面している難題を解くことはなかなか出来ない。と言いますか、やはり取っ掛かりがない。そこでですね、この取っ掛かりが見つかりそうなこの世界の見方というものについてですね、ここで提案させていただきたい。一体何なのか。
それは先程一つ目の問題についてお話しした際に導き出された、あの世界です。私が或る日のおそらく未明、自宅のお便所で昏倒し意識を失って暫くしてから目覚め、それでもまだ記憶が戻らないまま奇怪な表象が私の眼前で展開していき、次第に意識を取り戻しつつある中で形作られていったあの世界―――そう、限ずるという作用によって細断された諸部分が、その限ずるという作用におそらく内在している何らかの働きによって組み立てられてきた、その世界、つまりそのようにして成立しているこの世界であります。先程皆さんと一緒に見てきた私達の外側の成立と構造、この、言わば世界のモデルを切り口にしてみようということであります。勝手に決めてしまって申し訳ありません。けれど折角これまでいろいろに考えをこねくり回してきましたので、そこを取っ掛かりにやっていく方がより分かり易くなると思いますので、再び悪しからず。
さて、“私”とはそのものとしてしっかりとした存在を持っているのだろうかという第一の問題、この問いに答えるために、簡単につづめて言えば、私と外界・世界とがどのような関係にあるのかという点から考えてみました。この時は、この“私”と“世界”との対立状態が主なお話でしたから、“世界”の構造についてはざっと触れただけでした。ですから今回はここに焦点を当てて詳しく見て行こうと思います。
これまでの話では、“世界”とは全き混沌状態に線が引かれることによって、限ぜられることによって現れて来ると考えられました。それ以前の状態は、何の区別もなく空間的な広がりも時間の流れも有るということも無いということもない単なる状態でありました。そこに“限”という作用がなされることによって区別が生ずる。その一方を甲とするなら、他方は乙です。これら二つを分かつのが“限”という作用であり、ここに甲と乙との関係性もあるはずです。この関係性は端的には相異なるという関係なのですが、これは分かたれているという関係なのであり、まさに互いに限定された状態なのであります。そしてここで大事なことは、この関係性は甲と乙とが自ら持っているものではないということ、甲と乙とはそれぞれただ限ぜられて有るものに過ぎませんので、それ独自で存在しているものではないからです。
このような限ぜられることによって生ずる区別線とでも言うべきものは、勿論一本だけではありません。これが瞬く間に際限なく現れて来る。当初の混沌状態は幾つにも分かたれ細分化され、相互に関係付けられる。その過程であちらとこちらが限ぜられる、つまり“私”と“世界”とが分断され、さっきと今とが細かく切断され時間の流れが生じ、そこと向こうとが分けられて空間の拡がりが現れて来ます。このようにして“私”と相対する“世界”というものがその形を整えていくのです―――ここまでお話しして気が付いたのですが、私先程から“生じた”という言葉を使っていましたよね。すいません、こういう言葉は少々まずかったかも知れない。これですと、私達の認識が成長してきた、生まれてから成長するにつれて認識能力が段々完成していくという風に聞こえてしまう。しかしそうではありませんのでご注意ください。今までやってきたことは、私達の認識というものをある体験を切り口として解剖してみただけなのです。表現の問題なんですね。認識能力とはこれまで考えてきたようなからくりで成り立っているんだ、とそうお考えください。つまりは、今ここで問題としようとしている世界というものをこのようなモデルとして見て行くことにしたいのです。取り敢えずこのモデルによると、“私”と“世界”とは見るものと見られるものとして対立している、ただしこの“私”と“世界”とは限ぜられているが故に区別されつつ関係付けられているという対立の仕方をしております。何しろこの両者、私のあの体験から明らかなように認識という面から見れば、元々は混沌という名のもとに一つの状態であったわけですから。そして人間にとっては認識こそが全ての根元であると言えましょう。
さて、ここで皆さんにお聞きしましょう。こんなように私達の前に現れているこの世界、これを私達は考えることができるでしょうか―――また珍妙なことを言い出しやがった、と皆さんの目は語っていますね。何を馬鹿なことを、じゃあお前が今の今までやってきたことは何なんだ、と皆さんの口元からもれる息遣いからそうした声が聞こえてくる、これは耳が痛い―――いや、これについては少々弁解しておきましょうかね。そう確かに、私、この眼前の世界に対して思いを巡らし、解剖まで試みてきました。それで幾つかの回答をひねり出してみたんですが、それとは別のやり方でですね、この世界を考えることが出来るかどうかということ、つまりはそのやり方をすごく高度にすれば科学という分野にまで行きつくようなやり方、ということなんです。眼前の世界を見えている対象として考えることが出来るかということです。難しいことではありません。また私が始発点として設定したものがよろしくなかったかも知れませんが、そこはよしなに。
寄り道とか言い訳が多くて申し訳ない。さて先程の、この世界を我々は考えることが出来るのかという質問、まあおそらく私達が通常行なっていることでありますので、それは可能だと前提させていただきましょう。得意の前提であります。しかしこれに異論はなかろうと思います。私達は日々生活の中で、常にと言ってよいほど行なっていることだからです。朝目覚まし時計が鳴らなかった、何故だろう。朝食のお味噌汁がいつもの赤だしじゃなかった、何故だろう。学校に行く途中東の空が赤くなっていた、何故だろう。学校の先生の顔が不機嫌そうだ、何故だろう。授業中窓の外を見ると校庭の樹木の枝が大層揺れている、何故だろう。午後になると外が暗くなってきた、何故だろう。学校から家に帰ろうとすると雨が降っていた、何故だろう。そして僕は傘を持っていない、何故だろう―――こんな具合に皆さんは日々世界について、世界における出来事について考えています。だから、私達は世界について考えることができるのかという問いに対する答えは、事実そうしていると言うしかないのです。前提としてそうしている、としか答えることが出来ないのです。
だから言い方を少し変えて、私達は世界のことを考えている、といたしましょう。そして次の質問です。それなら“考える”ということはどのようなことなのか―――言い直しましょう、この質問の仕方もやはり分かりにくい。別の言い方をしますと、この場合“考える”ということはより分かり易くなるようなどんな言葉で置き換えることが出来るだろうか、という質問です。
毎日皆さんが行なっている、身の回りで起こる様々なことについて思いを巡らせる、さっきお話しした例によれば、朝目覚まし時計が鳴らなかった、何故だろう、それは調べてみるとその時計の針が午前二時過ぎあたりで止まってしまっていた、だから電池がきれてしまったためだったんだとか、朝食の味噌汁が赤だしでなかったのは丁度いつもの八丁味噌が切れていて、少し前にお歳暮でいただいた信州みそを使ったからだったとか、そんなようなことです。世界での出来事がどのような流れでそういう風に起承転結していっているのか、ということの解明であります。そこで考えてみていただきたい。このようなことを世間では何と呼ぶのか―――ずばり言いましょう。“説明”であります。考えるということは説明するということなのです。いかがでしょう、そうお思いになりませんか。
これに関しては様々な異議もあろうかと思います。例えば、説明とは或る人が別の或る人に対してするものだとか、考えるとは頭の中ですることだが説明とは自分の外への伝達だとか、説明とは考えた末の結論としてあるもいのだとか、色々とあるでしょう。それぞれもっともなことです。言葉の意味合いとしてはその通り。
しかしここでは言葉の通常の意味合いからちょっと踏み込んでいただきたいのです。私達が考えるという行為をする時、一体何を行なっているのかということです。またさっきのお話から持ってきますと、登校途中に東の空が赤かった朝焼けだったから、つまり東の方には雲があったんだと考える。先生の顔が不機嫌そうだったということは置いておいて――どうせ昨日の試合で中日が負けたからとかなんでしょう――授業中、校庭の樹々の枝が揺れていたのは段々と風が強くなってきたからだと考える。昼過ぎから外が暗くなってきたのは雲がどんどん増えてきたからだと考える。そして帰宅時に雨が降り出したのは雲が分厚い雨雲になったからだと考える。この時自分が傘を持っていないのは、朝寝坊をしてテレビの天気予報を確認しないまま、それに東の空の朝焼けを見たのに今日のこの雨予想できなかったからだと考える―――このように、皆さん、私達は日々自分の置かれた状況に関わりながら、それを考えるという形を取りつつ、実際には説明を行なっているのであり、そのようにして反省を行なっているのです。
こんなような具合ですので、私は敢えて“考える”とは“説明する”と言い換えることができると言わせていただきました。こうした言い換えは別の利点もあるのですよ。私、始め皆さんに“考える”と何ぞやという質問をしましたね。この時、皆さん困ってしまったでしょうね。考えるとは何か考えてみよ、これはいかにも難問ではありませんか。それにこの問いの立て方、少々おかしいと思いませんか。それなら、考えるとは何か説明しなさい、このように言った方がより分かり易く、正しいのではないでしょうか。こういった事情からも“考える”とは“説明する”ことである、という前提を置かせていただきたい、はい、またも前提です。