第32話 涙に髪が濡れる夜
目抜き通りを全速力で駆け抜けた。
脳裏には、挑戦的なレベッカの笑顔と胸を押し付けるようにしてキースと距離を詰める姿が浮かぶ。何度振り払っても鮮明によみがえった。その度に息苦しくなり表情筋が固くなっていった。
キースはいつも通りだった。
少しは迷惑そうな顔をしていたけど、あの人の胸が腕に当たっても動じていなかった。それって、どういうことなんだろう。よくあることなのかな。
不安が胸を締め付け、熱くなった頬を涙が伝い落ちる。
息せき切らしてロンマロリー邸に辿り着くと、自室までの階段を駆け上がった。荷物を投げ出し、靴を脱ぎ捨てるとベッドに飛び込む。
「ミシェルちゃん、どうしたの?」
何度か扉がノックされ、心配そうなマルヴィナ先生の声が聞こえた。それに、疲れてるだけだからと返すのが精いっぱいだった。
誰にも顔を見られたくなかった。
不安と悔しさに涙が零れ、枕も髪もしっとりと濡れた。
忘れ去ろうとしても、親しげな二人の様子と誇張された大きな胸、それに食い込むキースの腕が思い出される。
そうして、もやもやしながらすごしていると、いつの間にか眠ってしまったらしい。夜の帳が下り、部屋は真っ暗だった。
そんな中、扉を叩く音が響いた。
返事をする気力もなく膝を抱えていると、二度、三度とノックは繰り返された。マルヴィナ先生かな。
重たい体を起こしてドアの前に立つ。
先生に心配をかけたくない。でも、今言葉を発したら泣いてしまう気がした。
息を整えながらドアに触れると、再び扉が叩かれる。
「先生、ごめんなさい……今、一人になりたいから」
精いっぱい冷静を装って絞りだした声は、なんて弱々しいのだろう。
触れた扉はひやりとしていて、孤独感が増すようだった。
マルヴィナ先生に泣きつくことなんて出来ない。キースと両思いだったと報告したとき、あんなに嬉しそうによかったねって抱き締めてくれたんだもの。心配させたくない。
扉に背を当ててその場に座り込む。膝を抱えると、返ってきた声は予想しないものだった。
「ミシェル、俺だ。ここ開けろ」
驚きに涙も引いた。
どうしてキースがいるの?
とっさに置時計で時刻を確認したけど、酒場が閉まるにはまだ早い。店の護衛なら閉店時までいるものよね。
「……護衛引き受けてたんじゃないの?」
「店長から承諾もらって早く上がった。それより、なぁ、どうした?」
どうしたもなにも……なんて言えばいいか分からない。
まだ、脳裏にはあの人の言動がまざまざと蘇る。
泣きそうになるのを堪え、言葉を飲み込む。抱えた膝に額を押し付けて、ともすれば再び溢れそうになる涙を堪えた。
「俺に用があったんだろ?」
「それは……でも、今日はもういいの」
「もういいって」
突き放したような言葉だっただろうか。でも、そうとしか言えない。
私たちを隔てる扉が、いっそう厚くなったような気がした。
突き放したたような返答に、キースは扉の向こうで困惑しているかな。嫌われちゃうかな。面倒な子だって思われるかもしれない。
考えは悪い方へと流れていく。でも、それを止めることもできず、膝を抱えたまま鼻を啜った。
コツンと扉が叩かれる。ゆるく長いため息が聞こえた。
「じゃあ、なんで逃げたんだ」
「……逃げてない」
自分に言い聞かせるような嘘に手が震えた。スカートをきつく握りしる。
これはただの嫉妬。醜い嫉妬で泣いてる顔なんて見られたくない。笑顔でいたい。だから、今は放っておいて。
「なら、何で泣いてんだよ」
「……泣いて、なんて」
「泣いてる」
いくら願っても、キースがそこからいなくなることはない。
嘘を重ねる度に、彼は見透かしてしまう。それが悔しいような嬉しいような、どう表現していいか分からない感情が胸に広がった。
止まらな涙だがスカートにシミを広げていく。
「ドア壊してまで開けたくないんだけど……開けないなら、壊すよ」
まさかそんなこと、するわけないよね。それだったら、もうとっくに壊してそうだけど。
一度、ドンッと強く叩かれ、その振動が私の背にも伝わる。このまま帰る気は、さらさらない。そう言っているようだった。
黙っていると、再び扉を叩く音が響いた。
「窓から入った方が良かった?」
「……明日じゃ、だめ?」
「ダメ」
「……今、顔見られたくない」
「俺は見たいんだけど」
「……可愛い顔、出来ない」
「そのままでいいよ」
「きっと……笑えない」
「いいよ。俺が笑わせる」
のろのろと立ち上がり、ドアに向かう。
本当は、今すぐにでも扉を開けてキースの腕に飛び込みたかった。でも、怖い。逃げ出した私を子どもっぽいって思ったんじゃないかな。
再び、扉が小突かれた。
「明かりを消したままで良い。今すぐ抱きしめたい。それも、ダメ?」
私を気遣うように語りかけられ、会いたい気持ちと会いたくない気持ちが入り交じる。鼓動が早くなり、ドアノブに伸ばした指先が震えた。
ゆっくりと、扉が開く。
明かりが差し込み、私はとっさに手を離して後ずさった。
キースは静かに部屋へと身を滑り込ませ、後ろ手に扉を閉ざした。
再び部屋の中は真っ暗になった。直後、熱をもった指が、私の腕を掴んで引っぱった。
仄かな煙草の残り香と汗のにおいが、私を包んだ。
背中に回された手が、優しくとんとんっとゆっくり叩く。それから髪を撫でられ、肩を抱き締められ。おずおずとキースの背中に両手を回せば、さらに締め付けが強くなった。
彼のシャツをくしゃりと握り、しがみつく。この腕も手も、背中もすべて私のもの。そう主張するように、すがり付いていた。
「……なぁ、俺、なんかした?」
「してない」
「じゃぁ、また学院で何かあったとか?」
「何も……」
頭をキースの胸に押し付けるように、ふるふると振って否定する。すると、彼の口から困ったと言わんばかりのため息がこぼれた。
それに申し訳なさが込み上げ、少し体を離してキースを仰ぎ見る。そこには眉間にしわを寄せて辛そうにする顔があった。
「なんで、キースが辛そうなの?」
「笑顔を守らせてくれとか言っといて、さっそく泣かせてるんじゃ、格好つかないでしょ?」
そうやって優しくされたら、よけい笑えないじゃない。
頬を撫でた指の温かさが私の凍りついた心を溶かし、涙がまた溢れそうになった。それをどうにか誤魔化したくて笑おうとすると、キースまで困った顔で笑った。
「泣き顔、反則でしょ」
「それ?」
「泣きながら笑うなよ」
再び引き寄せられ、少し強く抱きすくめられた。耳元に今度は安堵の吐息がかけられる。
「泣き顔が可愛いとか、反則だから」
強く抱きしめられただけで、胸に安堵感が広がっていく。
不安や嫉妬なんて、バカみたい。そう笑い飛ばせばいい。キースを近くに感じられるのは私だけだなんだから、それを信じれば言い。抱きしめてくれる腕と髪を撫でる手、耳に届く吐息や鼓動も全部ここにある。
私を包み込む熱に包まれ、次第にあの人の影が薄れていった。
どのくらいそうして抱き合っていただろうか。
私から話しかけるのが気恥ずかしくなったとき、キースが「で?」と尋ねた。
「……なんで逃げたの。理由が見当つかないんだけど」
「それは……その……」
思い返すと恥ずかしくて、耳まで熱くなった。
どう話したら良いのか、話さない方がいいのか。言葉を探して唸っていると、キースは首をかしげる。
「言いにくいこと?」
「……あの女の人、誰、かなって……」
おずおずと言い出すと、キースはきょとんとした。
「レベッカのこと?」
「……レベッカさんって言うんだ」
「昔の仲間だ」
「なんか、距離が近かったし……」
もごもごと口ごもりながら、勘違いだってするし不安にもなるってなるって伝えると、キースは小さく笑った。
「何、妬いたの?」
「……だって、仲良さそうだったし」
「ミシェルに会う前にちょっとつるんでた奴らの一人だ。アニーの天敵みたいなヤツだよ」
「……それに」
言いかけた言葉を飲み込み、視線を泳がせた。
脳裏にちらついたのは豊満な胸をこれ見よがしに押し付ける様子。それは恋の経験が皆無の私でも、明らかなセックスアピールだと分かった。それが不快だった。
でも、そのことをどう言葉にしたらいいのか分からず、ごにょごにょと言葉を濁す。
「それに?」
「……胸」
「胸?」
「……レベッカさんの胸、おっきかった」
思いきっていってみた。でも、言いながら恥ずかしさで消えてしまいそうになった。
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