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 この大地に生きる僕たちはその昔、人ならざる者たちから特別な技術を授けられた。その一つが薬術だ。薬術を専門に扱う者は古くから薬師と呼ばれていたらしい。

 そんな話を語ってくれた僕の父さんも、この辺境の街で薬を売る薬師だ。父さんは錬成術などは殊更に使えるというわけではなかったが、ある程度の素養があって、しかも薬に関する知識は人一倍深かった。

 そんな父さんに育てられたから、まだ畳の上をちょこちょこ歩いていたほどの時から僕にとって薬術は身近なものだった。物心ついた頃には既に町外れの畑から薬草を摘んでくるような手伝いをしていたし、十三になる頃には、薬草を使った簡単な薬の調合を任されるようになっていた。

 僕のことながら子どもらしくないと思うが 、何も誰ともつるまずに薬術にばかり熱中していた訳ではない。とても親しい関係の人だっていた。

 出会いは春だった。森の中でいつもより遠い所まで素材を探しに行った時のことだ。その森は草木に溢れていて、質の良い薬草が多く自生している隠れた名所だった。

 その日、僕は薬の材料を探していた。近所のおじいさんが腰痛だとかで、薬を用意することになったのだが、普段は外国から取り寄せていた薬品が品薄なので、仕方なく代用の薬の材料を探しに来たのだ。

 ところがその日は運が悪く、その材料である白い花たった一輪を求めて強い日差しを受けながら探して歩き回るが、一向に見つからなかった。

「はあ、きついなあ……」

 いくら探しても全く影も形も無かった 。不毛な探索がだんだんと嫌になってきて、背中がじっとりと湿るのが不快に感じてきたので小川の水を浴びていたとき、僕は見た。

狐だ。

 ひょっこりと幼げな顔を現したその狐は、小さいながらもすらっとした体に白と橙の(つや) やかな毛を優雅になびかせてい た。

 そのふさふさした尻尾が草むらに隠れるのを見た時、ふと思い出したのだけど、狐は人間や他の動物に比べて妖力が高い傾向がある。炎を出したり物を凍らせたりする魔法とは違い、妖術は自身を本来とは異なる姿に変える変化(へんげ) の術が有名だが、その源である妖力は素材の効能を引き出す力があり、薬術にとって有用なものだ。狐の毛の少しでも分けてもらえたら都合が良い。目当ての薬草が見つからなくて飽き飽きしていたのもあって、僕はその狐を追いかけた。

 この森に来た当初の目的をわざと忘れて、狐を夢中で追いかけた。追いかけて追いかけて、やがて 開けた草原(くさはら) に出た。辺りを注意深く見渡したけれど、影も形も無い。完全に見失ってしまったと思ったその時、草むらががさがさと揺れた。狐かと思って瞬時に振り向いたけれど、僕より少し背の高い人間の女の子だった。最近らしい軽い白の洋装を着こなしていて、我関せずといった様子で花を摘んでいるようだった。

 しかし、何でもないような顔をして花をいじっている彼女のお尻の方に、狐色と白の交ざったふさふさとした尻尾があり、その抱えるほどの大きさのせいで全く隠し切れていないのを僕は見逃さなかった。

 不思議に思いながら、ゆらゆらと揺れる尻尾を凝視していると、目が合った。琥珀の瞳が綺麗で周りが異様に静かに思える中、顔と尻尾を交互に眺めていると、急に尻尾が引っ込んだ。それまで尻尾があった空間を僕が見つめていると、何とも言えない空気に耐えかねたのか、声をかけられた。

「あの……見ましたか?」

 こくこくと頷く。というか、あの狐がこの子であると既に何となく分かってしまっている。どうしようか考えているのか彼女が視線をぐるぐるさせながら黙りこくること十数秒。やっと動き出して言葉を発した。

「……他の人には言わないでください、お願いします」

 頭を下げられて僕は非常に困惑した。そもそも彼女が何者かもわからなかった のだから。本当に困り果てた。

 ただ、そこで気が付いたのだが、彼女は肘に怪我をしているようだった。軽い擦り傷だが痛々しく、怪我をしているのに走らせていたと思うと申し訳なかった。

「ちょっと待っていて」

 鞄の中にいくつか薬と手当用品が残っていたので手当ての準備をするのと同時に、ここまでの道のりで採取した薬草のうち、有用なものを磨り潰す。

「もしかして、あなたも薬師なのですか?」

 作業風景を覗き込んでいた彼女にそう問われて、はっとした。忘れていたが、彼女が先ほど摘んでいた花は炎症を鎮める効能がある。彼女は薬師だったのだ。

「まあ、薬師の卵かな? 今は修業の身だよ」

 僕の名前は秋也(しゅうや) で錬成術と合わせた薬術が得意だと言うと、かなり専門的な薬術の話についての話をあれこれと聞かれた。話しているうちに、手当てが無事に終わった。

「はい、これでおしまい!」

「わざわざありがとうございます」

 とても丁寧にお辞儀されたので、何だかこそばゆいような感じがする。

 彼女のことを聞いたところ、名前は葵といって、妖狐の種族であるらしい。師匠である叔母の言いつけで人に化けてこの森に来て、くたびれて妖術を解いて休んでいたところ運悪く僕に見つかったらしい。

 妖狐——伝承に語られる薬術の祖の系譜。まだ僕たちが錬成術どころか魔法さえも 知らなかった遥か昔、九つの尾に絶大な妖力を蓄えた狐が自分の愛した男へと寵愛の証として、薬の創り方を伝授したという。その狐の末裔が妖狐だ。彼らの本来の姿は狐そのもので、妖術によってその姿を変えたり、素材そのものの力を引き出して薬術に用いたりするのが得意なのだと父さんから聞いたことがある。

「九尾の祖か……」

 妖狐の一族は今でこそ見かけなくなったものの、昔はこの辺りに住んでいて薬を作っていたのだとか。いつからか隠れ住むようになり、人里へは化けずには降りてこなくなったと彼女、葵ちゃんは言った。それは父さんの話とも一致していた。

 初対面ではあるのだが、同じ薬に関わる者同士、とても話が盛り上がった。妖術を使う薬術が僕にとって珍しく、摩訶不思議なものに聞こえるのと同様、葵ちゃんにとっても僕が得意とする錬成術を活用した薬学は面白いものだったらしい。薬術のことを語れる友人は妖狐の間でもあまり多くはないらしく、僕の周りに至っては一人もいないので、その点も会話を弾ませるのに一役買っていたと思う。

 それからは頻繁に会うようになり、次第に毎日のように遊ぶようになった。最初に出会った森で白詰草の冠を一緒に作ったら、葵ちゃんの狐の姿にも人間の姿にもとても似合っていたのは印象的だった。

 しばらくしてからは、僕の家で一緒に遊ぶことも多くなっていた 。父さんには葵ちゃんが妖狐であることは一瞬でバレたが、特に悪く思っているわけでもないらしく歓迎してくれていた。

「ねえ、葵ちゃんのご先祖様ってあの九尾の狐なんだよね?」

「はい、本当かは分かりませんが、直系の子孫らしいですよ」

 葵ちゃんは狐の姿になり、三本の尻尾をふりふりと動かして自慢げに胸を張る。妖狐は尻尾が多いほどに妖力が大きい傾向がある。葵ちゃんは僕の二つ上なのだが、その歳で三尾もあるのは珍しいのだとか。いつも大人びた印象があるだけに、自慢気な様子にはギャップがあり、ついかわいいなと思ってしまった。

 いつしか、葵ちゃんの狐の体をもふもふするのも恒例になっていた。まるで飼い犬のように体を撫でまわすのは失礼かとも思ったけど、葵ちゃんは実はこれが好きな のだそうだ。お腹をさらけ出して気持ちよさそうな顔をしているのを見ると、本当にただの動物のようで不思議な気持ちになる。おっとりと落ち着いた目で眺められると、逆に僕が少し恥ずかしいけれど、どうにも心地よくてやめられない。黒い小さな前足で撫でられながら、豊かな獣毛を楽しんで過ごす時が至福だった——。


 初めて出会ってから三年半が経って冬。僕と葵ちゃんはもはや友達と言うには少し親密すぎるくらいの仲になってしまった。僕が成長するにつれて葵ちゃんとの背丈や精神の差がどんどん縮まっていき、それと同時に、葵ちゃんがいない生活が考えられないくらい、僕にとって彼女は大切な人になっていった。

 一方で、僕は父さんの店をたびたび任されるまでになり、もはや実家でもあるこの店は殆ど僕が運営しているくらいだった。ここで重要なのは、葵ちゃんと二人きりの時間が、以前とは比較にならないほどに増えたということだ。

「本当に大好きですね、私のお腹」

 僕の家であれこれと一緒に実験をし終えた後、葵ちゃんのふさふさのお腹を堪能していた今日もそう言われてしまった。美しい琥珀の瞳で優しげに見つめられてそんなことを言われると、すごく恥ずかしい。恥ずかしいけれど、やめられない。そして葵ちゃんも目を細めて心地よさそうにしているのだから、なおさらやめる理由はなかった。むしろ肉球をぷにぷにしながらお腹に顔をうずめてしまう始末だ。僕はすっかり狐の身体の虜になってしまっていたのだ。そしてもっと他の(まともな)要素も含めた言い方をするならば、僕は葵ちゃんがとても好きだった。

ずっとこうしていたいと思ったけれど、今日は来客の予定があった。だから、しかたなく甘美なひと時に終止符を打って、仕事場に出ていく。

 


 数日後に僕は高熱に見舞われた。病気の得体が知れないせいで薬の施しようがないどころか、解熱剤も殆ど効かない。店も閉めざるを得なかった。

 葵ちゃんが異変に気付いてくれなければとっくに死んでいたかもしれない。まさか葵ちゃんに看病されることになるとは思わなかったが、依然状況は悪い。妖力の大きい妖狐は流行病にはそうそう罹らないということには安心できるが、人の心配をしていられるような体調ではないのだ。葵ちゃんは大丈夫だと言っているが、これでも薬師の端くれなので、自分の病状が芳しくないことくらいは分かるし、数年の仲なので、葵ちゃんの顔色に心配と焦りが滲んでいることも把握できている。

「ありがとう、葵ちゃん……」

「大丈夫、絶対に、絶対によくなりますから」

 涙目で自分自身へと言い聞かせるように話す様子を見ていると、ああ、僕を大切に思ってくれているのだなと、場にふさわしくない感想を抱いてしまう。震える手を伸ばして葵ちゃんの尻尾をさらさらと撫でたら、静かに泣かれてしまった。初めてのことだった。

 本当に今更ながら正直に言うと、僕は葵ちゃんのことが好きだった。それはきっと友達としてだけではなく、もっと深い男女の仲に発展させたいと願うほどに。一部、葵ちゃんのもふもふを求める不純な動機があるのも確かだが、それだけでは説明できない愛しさが、今やっと受け入れられた。

 けれど、もうこれで終わりだろう。突如として鋭い頭痛と耳鳴りが僕を苛む。体が融けそうに熱くて声も出ない。

「秋也君!」

 最後に何かを決心したような様子の葵ちゃんの顔を見て、意識がぷつりと切れた。


 体が熱く、いや、暑く感じる。ゆっくりと瞼を上げてしばらく天井を見つめ、僕は今、初めて見るような内装の部屋の布団で寝ているのだとわかった。ふっと緊張の糸が切れて、深い溜息を吐く。

 ただ、僕の目はこんな所は知らないと喚いているが、微かに感じる薬草の抽出液の匂いは慣れたものだし、何よりここ数年僕が魅了されてきた、惚れ惚れする獣の匂いがする。

 そして掛布団と敷布団の間に紛れて、明らかに布団とは違う感触がある。

 もっふもふだ。

「ありがとう、葵ちゃん」

 布団を剥ぐと案の定、見慣れた狐が丸まっていた。温めてくれていたのだろうか、すーすーと眠っていた葵ちゃんはぱちりと目を覚まして、僕が体を起こしているのを見ると目を大きく見開いて、勢いよく抱き着いてきた。

 もっふもふである。

「秋也君、よかったぁ……」

 普段の落ち着いた様子からは考えられない感極まった葵ちゃんの声を聞いて、僕は生き返ったのだと実感できた。

 短くない時間が経ってようやく彼女は落ち着き、人間の姿を取ってあれこれと身の周りの世話をしてくれたのだけど、一通り終わると今度はそわそわとし始めた。

「その……このお薬、病気を治すのにはすごく効くのですけど、副作用があって……」

 これもまたいつも落ち着いた葵ちゃんらしくなく、おどおどと、とても言いづらそうに喋っている。

 僕が倒れた後に葵ちゃんが飲ませてくれた薬のおかげで僕の病気は良くなったらしい。しかも、副作用と言ってもむしろものすごく調子が良くて、全く悪いところは見当たらない。

「大丈夫じゃないかな? 僕はこんなにピンピンしているし」

「いえ、この薬の副作用……というより、もう一つの作用は遅効性で、しかも必ず起きるもので……」

 もうひとつの作用……? その言葉は、この素晴らしく効いた薬が、別の用途にも使われるかのような言い方に聞こえる。

 そんなことを考えていた時、ふっと足の力が抜ける感覚を覚え、立っているのが難しく感じてベッドに倒れこんでしまった。そこに慌てて葵ちゃんが体を支えて静かに体を下ろしてくれる。ありがとうと一言言って息をついた。これが副作用というやつだろうかと思い、少し落ち着くまでまた寝ていようかと思った。しかし、思いの外すぐに眩みはひいて、むしろぽかぽかと体が温かく感じてきたくらいだった。

「これが副作用? すぐに治っちゃったけど」

 すこし声を出すのに違和感を覚えたが、その程度だ。

「すごく言いづらいのですけど……手、見てください」

手と言われて、葵ちゃんの手を見るも何もない。いつ見ても狐が化けたとは思えない人間の手だ。その手が指さしている方を辿ると、僕の手に行き着いた。どう見ても人間のものとは思えない狐の手だ。

………………え?

しばし自分の手、というか前足に付いた爪や肉球をふにふにと触り、僕の大好きな「狐」の存在を感じる。布団を剥いで胸の方を見てみると、寒さに備えて冬毛を蓄えたのであろう、もふもふボディが露わになっていた。

………………狐だ。

「こやあああああああ⁉」

驚いて立ち上がろうとするけれど、足、というか後ろ足の使い方がわからないし、尻尾が絡まってベッドから転げ落ちてしまった。

「落ち着いて、秋也くん!」

そのまま立ち上がろうとするけれど、狐の四本脚で立つという初めての感覚で脚がぷるぷると震えて動けない。そのまま脚が崩れて床に転んでしまった。

「うや、うやあ……」

僕は狐の姿に変わり果ててしまった。血色の良い肉球も、ふさふさの身体も、すべて僕自身のものだと、十二分に理解できてしまった。助けを求めようにも上手く言葉が喉から外に出ていかない。

そうして突然のことに涙目で震える僕に、葵ちゃんは寄り添って、ゆっくりと語ってくれた。

「本当にごめんなさい、この薬が人間を狐に変えてしまうってわかっていたけれど、これしかなくて……」

混乱する僕を落ち着けるように、葵ちゃんはその薬について説明した。昔、葵ちゃんの曾祖母にあたる妖狐が人間の男に恋をしたのだけど、腕の良い薬師で七尾の霊力も持っていた彼女は、人間を妖狐に変えてしまう薬を作ってしまったらしい。そしてそのまま男を妖狐にし、結婚してしまったのだとか。そんな逸話のある霊薬が僕の飲んだこの薬で、名前を『狐の婿入り』というらしい。

この薬の本来の目的は人間を狐にすることだが、素材も術も上等すぎるせいで健康増進や病を治す効果は勝手に付いてくるのだという。そして、葵ちゃんが持っている薬で効きそうなものがこれしかなかったので、僕は狐になってしまったらしい。

「本当にごめんなさい、確認もせずにこんな薬を使ってしまって……」

葵ちゃんは謝るが、ぼくは特に気にしてはいない。先ほどは突然のことで取り乱してしまったけれど、落ち着いてきたら不思議と現状を素直に受け入れることができた。そして、当時の自分の病状がとても酷く手の打ちどころがなかったことも分かっている。問題なのは、今葵ちゃんに心配しなくていいと言いたいけれど、この体でどう意図を伝えればいいのか見当もつかないということだ。

「きゅう」

葵ちゃんの沈んだ顔に頬を摺り寄せ、大丈夫だよと声にはならないけれど心の中で言う。他の動物ならともかく、狐に、葵ちゃんたちと同じ妖狐になるというのなら構わない。最初だから少しびっくりしてしまったし、正直なところ不安もあるけれど、きっとなんとかなると思う。練習すれば言葉も喋れるようになるし、人の姿になることもできる。妖術だって使えるようになるらしい。きっと大丈夫だ。

慣れない仕草なのとこれで良いのか分からないので、ドキドキしていたのだけれど、葵ちゃんはありがとうと一言言うと、変化(へんげ) を解いて狐の姿になってまた頭を下げた。通じたみたいだった。

こちらこそありがとうとお辞儀し返したりしていると、緊張が解けてきたのか、なんだか眠くなってきてしまった。いろいろありすぎて実はクタクタだったのかもしれない。

「ありがとう、ゆっくり休んでね……」

心地よく瞼が落ちていく。おやすみのかわりにキュウと一鳴きして、半ば本能的に葵ちゃんの身体に頬ずりをして、葵ちゃんが昔やっていたのと同じように、尻尾を抱えて丸まる。初めてながらしっくりくる体勢だった。

うとうとしながら思う。せっかく命を助けてもらえたのだし、新たな生活も楽しみたい。正直、この体はまだ慣れないし少し不安があるのも否定できないけれど、気に病むよりは楽観していたい。それに、妖術が使えるようになったらどうしようか。葵ちゃんや、葵ちゃんの家族みたいにすごい薬を作れるようになるのだろうか。人間として遊んだのと同じように、葵ちゃんに狐同士の遊びを教えてもらうのもいいかもしれない。きっとこれからもいろいろなことが沢山あるだろう。

————その想像のいずれにも葵ちゃんの影があるあたり、僕はやはり葵ちゃんのことがどうしようもなく好きなのだろう。

僕がまともに喋れるようになったら……告白しようか。そんな事を思いながら、眠りへと落ちていった————


——————

「びっくりした、葵にも私たち狐の血がちゃんと流れているのね。病に落ちた男を連れこんでこんなことをするなんて、ご先祖様にそっくりだわ」

秋也さんをベッドに運んで寝付いたのを確認して部屋を出たところで、師匠に話しかけられました。作務衣を着崩して気怠そうな顔で、たまたま通りかかった風を装っていますが、きっと聞き耳を立てて出てくるのを待ち構えていたのでしょう。この人はそういう人です。私の叔母でもあるこの人は、何かと首を突っ込むのが大好きな人で、私も今日ばかりはそのにやにやした顔から逃れることは叶いそうもありません。

 ……

「そんなのではありませんから……」

「あら、何も言っていないのだけれど、心当たりがあるの?」

「……」

経験の差でしょうか。早く吐いた方が楽になるわよ、と薬師だか医者だか尋問官だが分からないようなことを言っているけれど……私が改めて話さなくても既に全て把握しているのでしょう。きっと、この人であれば。

「私に頼めばマトモな薬も用意できたのに、私ってあんまり葵ちゃんに信用されていないのかなあ?」

いつもの調子で憎たらしい顔を向けて来る師匠ですが、隙を見せた私が悪いのでしょう。

今回ばかりは全面的に私が悪いのを自覚しているから、とても師匠に対して怒る気は起きず、ただ後悔が募るのみなのです。

——実際、話した方が楽になるというのも間違いではないのでしょう。

率直に言うなら、秋也君が病に伏した時、師匠であれば『狐の婿入り』などという代物でなくても、確かな効果を持った薬がすぐに用意できることを私は知っていました。この人はそういう時には素直に助けてくれることも、そうすれば万事丸く収まるであろうことも、全て知っていました。

つまり、病気の治療などは言い訳でしかなかった。私は、この薬の開発者である私の曾祖母が意図した、本来の用途通りに『狐の婿入り』を使ったのです。

秋也君が病に苦しんでいるのを知って、必死で棚を漁っている時に目に留まった『狐の婿入り』。その瞬間に脳裏をよぎった、甘い誘惑に堪えられなかった。私は秋也君に、同じ狐になってほしいのだと、直感的に理解させられてしまったから。

——それが炎天下で喉が乾いたとき、目の前にぶらさげられた果実のように、魅力的なものに思えて渇望してしまったから。

「私は、愚かですね」

「そんなものは、祖の時代から続く私たち狐の本性よ、諦めなさい」

私はこの小さな狐の体に、無垢な青年を騙した罪を背負って生きていくのでしょう。他の同族と同じです。自分の望むようにするためにその力を使ってきた、他の狐たちと。

私だけは違うと思っていたのに。私だけは、純粋に彼と付き合っていくのだと夢見ていたのに……

「私、彼が言葉を話せるようになったら、私がしてしまったことを打ち明けようと思っているんです」

空間を満たす沈黙。改めて見てみると、こんなにも師匠は大きな人だったかと思うほど、今は彼女がとても力強い存在に思えます。j

「止めも勧めもしないわ。一人の雌狐が人間の男と結ばれようが破局を迎えようが、そんなものは腐るほどある伝承の一部分に還元されてゆくだけ。いくら悔やんだところで歴史は変わらないわ」

「……ありがたい言葉なのでしょうか」

「どうせあなたは悔やむけど、それ以上に楽しむのでしょう? そういうものよ、狐の悪さというのは」

……正直、これから明日のことがとても楽しみで仕方がないのです。

それが余計に私の中に残った良心を逆なでするけど、狐になった秋也君を見るだけで……興奮が止まらないのです。悪いことだとわかっているのに。

もはや私の道徳心は地に堕ちたのでしょう。あの薬を見つけて立ち止まってしまったあの時からずっと。そして、これからも。

「まあ、あの子優しそうだし、あなたにぞっこんみたいだし、大丈夫じゃない? どうせあなたたちも自分から惚気を語りだすくらいになるでしょう」

「……案外優しいのですね」

「面白おかしいことにしか興味がないだけよ」

そう言い放って師匠は書斎の古めかしい扉を開き、私を一瞥して微笑むと、中に籠ってしまいました。

広い廊下に一人。夕暮れ時の隙間風が冷たくて、早くも人肌が恋しくなってしまいました。……今は狐肌でしょうか。

ああ、私は悪い狐ですね。先ほどまでよりもずっと軽々しくそう思いながら、彼が眠るベッドへ向かっていきます。後悔も憂いも忘れて、今はあなたと眠りに落ちたい。同じ布団に身を包んでしまえば、溺れるほどの幸せで全てが許されるのだから。

狐の姿に戻って体を布団の中にねじ込むと、秋也さんが無意識にか身を寄せてきます。愛おしい彼に頬ずりで応え、私はゆっくりと目を閉じました。

思えば、人間から身を転じて妖狐となった曽祖父と、その妻である亡くなった曾祖母の子孫である私が彼を好いてしまった以上、こうなるのは血の運命(さだめ) なのかもしれません。

……今はただ、一人の狐が夢を見ているにすぎませんが、それでもあえて言いましょう。

婿入りでも嫁入りでも構わない。命ある時もそれを失ってからも、私はずっとあなたの傍にいます。

「おやすみなさい、秋也さん」

あなたを愛しています。これからもずっと、永遠に。

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