第1話 ここは異世界なんかじゃないから帰って勇者様 1
波間を暴れる小型ボートの中で十歳の男の子がしがみつき、倒れている中年のおじさんをかばっていた。
上下左右から滝に打たれたような水しぶきで視界が白に埋まっている。
それが不意に、轟音を弱めて薄まっていく。
豪雨の乱雲は海上の水平線へ遠ざかっていく。
「竜巻……だったの?」
男の子はぼうぜんとしながら、まだ腕の力を抜けない。
波はまだ荒れていて、いつ放りだされるかもわからない。
「父さん? ……気を失っただけ?」
片手をのばし、胸の鼓動を確かめた。
ゆすってみると、目をかすかに開ける。
「うっ……いててっ……うごっ? だいじょうぶかヒコくん!? ヒコくんは……ケガとかは?」
「ボクはだいじょうぶ……あれ? えっ?」
ヒコくんはようやく周囲を見る余裕ができて、海上に家のような太さの石柱がいくつも立っていることに気がついた。
大雑把な彫刻で飾られているけど、欠けやひびわれが多い。
海中からは巨大な影が近づいてくる。
父親もはいずり起きて同じ光景を見ていて、ヒコくんの頭を下げさせた。
「サメかクジラか……ぶつけられなきゃいいが。群れ……なのか?」
影は様子をうかがうようにまわりこんでくる。
でも奇妙なことに、電車のようにやたらと長くのびていた。
陸は水平線あたりに見えていたけど、ほかの船や航空機は通っていない。
「というか、あの柱はなんだ? ここはどこだよ?」
「父さんが気を失ってから、一時間も経ってないはずだけど? ボートが壊れそうな勢いでずっと流されてた」
父親はスマホが濡れないように気をつけながら操作する。
「時刻が……というか日付までおかしい。位置情報もやられて……というか圏外? おいおいまだ買い換えて半年も使ってねえのに~?」
「父さん……嵐にのまれた時、まだ朝方だったよね?」
晴れてきた空は日が暮れはじめていた。
ふたりともアロハシャツにハーフパンツとサンダルで過ごせるような季節で、日没は午後六時すぎのはずだった。
「ボクも少し、気絶していたのかな?」
「まさか離島どころか国外か? モーターが急に壊れて……おっう?」
船体が急に跳ね上がり、父親はヒコくんを抱えこむ。
あちこちからぶつかってくる巨体を見る余裕まではない。
点在する巨大石柱は遠くの陸まで続いていて、海岸ぞいの森では密度が増していた。
足場の悪い木々の間を飛ぶように駆けてきた男の子はイヌのような耳としっぽを生やしている。
砂浜から何メートルも跳んで巨柱へしがみつき、ひびわれを頼りにひょいひょいよじ登りはじめた。
後から森の枝づたいに飛び渡ってきた女の子も巨柱へ身を投げると、両手両足の爪を伸ばして突き立てる。
ネコみたいな耳としっぽを生やしていた。
手がかりも関係なく真上へ駆け上がり、男の子も追い抜かして登りきる。
「やべーぞ兄貴。あの電動機械、魔力放電とか精霊発火の対策がぜんぜんなさそうなやつだ」
「やっぱり『元世界人』のにおいだったか。こんなところで『勇者』にならねえだろうな?」
ふたりは頭に布を巻きつけて耳を隠し、しっぽも衣服へもぐりこませた。
「全員が災害なみの素質を持っているわけじゃねえし。確率で数十倍か数百倍くらい高いだけ……でもあれを見られたらまずいな?」
目をこらしている水平線ではシャチを何頭もつなげたような巨体がボートを持ち上げていた。
「大海蛇は『元世界』にもいるだろ?」
「似たようなやつの化石しかないってば……げっ!?」
巨体の先端には胴部と同じ色と大きさで人型の上半身がついていた。
「海巨人のオッサンじゃねえか!? 相手が元世界人と気づかないで威嚇してやがる!」
「あんなの見られたら一発で魔法世界だってばれちゃう! ……あ。警備隊?」
コウモリが数匹、暴風に飛ばされたような高速で直線的にボートへ向かっていた。
少し遅れて飛行機雲のように濃霧が広がっていく。
「間に合うかあ? まだギリギリ、見られてなさそうだけど」
コウモリは一匹だけ女の子の肩へ停まり、羽根で頭をなでた。
「キッ、キイッ……通報ありがとうございました。区域担当の部隊長、ミラです」
「ミラさんの使い魔が魚人族の周波数も発信できるなら、コードは……」
女の子が指示するとコウモリはうなずいて羽根で丸を示す。
沖へ向かったコウモリの群れはキイキイ鳴きはじめ、人間の可聴域からはずれた音声で『勇者警報! 即時退去せよ!』『大魔王サタンダン様の命である!』『一族の皆殺しを御希望?』と口々に伝達した。
肌が青緑の巨体オッサンは口をあんぐり開けて頭を抱え、大あわてで潜りはじめる。
女の子の肩ではコウモリがキョロキョロと忙しく頭を動かして鳴きはじめた。
男の子は小声で「混線してる?」とつぶやく。
「キッ、キピッ? キッ……わたしもまもなく到着しますので、それまでは御協力いただけま……キイッ……ご苦労だぜえガキども!? 教師を買収できるくれえの小づかいをポッケに突っこんでやろうなあ!?」
コウモリの鳴き声、静かな女性の声、いかついオッサンの声と次々に変わっていた。
女の子は兄貴へ小声で「部隊長の通信にわりこんで入れるなら、大魔王様かな?」と耳打ちする。
「この大魔王サタンダン様のご到着まで拝めたら、気にくわねえやつ誰でも一匹ぶんなぐってやるから、きばって目つけとやあ!?」
「同じようなこと言ってるけど、到着も同時かな? 懸賞金どばどばもらえる~!」
ネコぽい獣人の女の子はゴロゴロとうれしそうにのどを鳴らして兄貴の肩を両手でこねくった。
イヌぽい獣人の男の子も服の中でシッポをふっていたけど、急に顔をしかめてターバンの中で耳を沖へ向ける。
「あれ……まずくないか? 竜亀だよな?」
潜行を急いでいた海巨人ごと、ボート下の海面が盛り上がりはじめていた。
山となった海面をすべり下りてボートが加速し、それを追いかけるように海面が盛り上がり、ジャンプ台の形になってボートを飛ばしてしまう。
その軌道はちょうど海岸近くの巨大石柱へ舳先から衝突して全壊する……直前で軌道がずれた。
ボート全体と、伏せてしがみついているヒコくんから光の筋が何重にも拡散したように見えた。
獣人の女の子は笑顔をひきつらせてシッポをふくらませる。
「でたらめな魔力噴出だけで防護結界もどきにしやがった!? これだから元世界人は!?」
それでも船底は石柱にかすり、ボートは半壊しながら大きく回転する。
数階ぶんもの高さから砂浜へ激突……その寸前にもヒコくんと地面から光の筋が大量に広がった。
速度と角度からはありえない柔らかさで受け止められる。
獣人の男の子は遭難者たちの様子を観察した。
「なんとか無事か? けっこうかわいい顔……あれ? においは男だな?」
ヒコくんの髪は短くて耳にかかる程度だけど、細くて色白で優しそうな顔をしていた。
そのころ、とある魔方陣だらけの艦橋では僧衣の蜥蜴人が呪文を詠唱しながら翡翠の石板をなでまわしていた。
モニターがわりの巨大水晶が青い炎で表示した情報を伝達する。
「目標すでに覚醒! 無詠唱かつ無意識で魔力噴出、および結界形成まで行使の可能性あり! 勇者候補の危険もある素質です!」
中心の玉座でふんぞりかえる大柄で筋肉質な紫肌の中年男は貴族装束で着飾り、二本角を光らせ、巨大なコウモリの羽根と長いシッポを逆立てた。
いかつい悪人顔でニカアアアッとふてぶてしく笑う。
「ふっはーあ!? おいでなすったぜえ!? 我らが魔法世界をハチャメチャにしてくれやがるテンサイ様がよう!?」
両手のひとさし指を自分のほっぺたにあて、茶目っけもアピール。
「貧乏クジにご当選した区域担当者は!? よりによって新人ちゃんの部隊かよ!? ヘイばあさん、画像はまだ出ねえのか!? クソやっかいなお客様の位置座標は!?」
密閉された艦橋のあちこちに設置されている巨大水晶へコウモリたちの視点で画像が映し出される。
砂浜まで飛ばされた半壊ボートには親子が倒れていた。
ヒコくんは駆けよってきた現地の子供たちへ叫ぶ。
「助けてください! 父さんが……ヘルプ! ヘルプ!」
十歳で小学五年生のヒコくんと比べると、中学生くらいの年上に見えた。
しっぽを隠していたボサボサ灰色髪の男の子も愛想よく気をひく。
「ヘルプ、ジャパニ? グッド! ベリグー!」
「そう……日本! 日本人! 病院……ホスピタ! ドクター!」
ヒコくんがふりむけば見えてしまう近さで、途切れたジェットコースターのように巨竜の首がのびていた。
その根元は小島のようなサンゴだらけの甲羅につながっている。
艦橋船員の蜘蛛女は義手型の操作端末を操作しながら叫ぶ。
「サタンダン様! 見りゃわかりますが真上でした!?」
「アーウチ、ジャストミートかよ♡」
すました笑顔でアゴひげをひとさすり。
直後から艦橋をゆるがす脚力で床を何度も蹴りつけてがなる。
「うおおおーい亀ジジイ!? 急いで潜りやがれ!? 伏せ! チンチン! ……はしなくていい伏せ! 伏せ!」
寝ぼけた顔の巨大な竜頭が荒波へ沈みはじめ、獣人の女の子はとっさにヒコくんへ抱きついた。
「グッド! ベリグー! ニホン、ヘルプ! グッド!」
ヒコくんの顔面へ胸を押しつけ、頭をバンバンたたき、巨大竜亀が潜行する轟音をごまかす。
異様な高波と海中の巨影は残っていたけど、それもコウモリたちが広げた濃霧へのまれた。
近くの石柱にとまるコウモリは人間では聞き取れない周波数で指示を続けている。
『そのまま元世界の言葉だけ使ってください。共通魔法語に含まれる自動翻訳の術式は意識されると習得されてしまう可能性があります。この鳴き声まで理解されかねません』
ヒコくんの父親は壊れたボートの破片で脚が骨近くまで切られていた。
「うぐあっ……動けね……傷の上、もっと強く押さえて……」
ヒコくんは父親の指示どおりに脚を押さえている。
獣人の男の子は上着を脱ぎ、止血帯の代わりにしてテキパキと縛りはじめた。
「ニホン、ワカル……クル。ヘルプ、クル」
女の子のほうは明るい笑顔で「グッド」ばかりくりかえし、手を血まみれにして涙ぐんでいるヒコくんの頭をなでくりまわして肩を組む。
ズボンだけでは隠れきらない兄貴のシッポとか、ヒコくんの手がぼんやり光っている様子とか、じわじわふさがっている傷口を見せないように隠していた。
そんな様子が映っている水晶モニターをがっしりつかんだ法衣の蜥蜴人は職務と関係の薄い叫びをあげる。
「わしが授業と実習を百時間は重ねて習得した高等医療魔法を意識もなしにぶちかましてんじゃねー!? どれだけご都合主義だよニホンジン!?」
大魔王サタンダンはその後頭部めがけて指を鉄砲みたいにかまえ、ピンポン玉くらいの火炎を射撃して小突く。
「お気の毒サマだぜトカゲ野郎! そんなクソやべえテンサイ様には『ここは異世界なんかじゃないから帰って勇者様』作戦がてっとり早くて安上がりだよなあ!? 転移設備の敷地確保はどうしたあ!?」
大魔王のすぐ側で働いている人材だけあって、すでに巨大魔方陣の設営場所はいくつか候補をしぼっていて、モニターへすぐに表示できた。
「ようし! 工期重視で入江に急げ! 市街セットのほうは虫人間どもの住処をぶんどっちまえ! 姐さんはまだかよ!?」
日没直後の砂浜では、日傘をさした長そでロングスカートのワンピース姿がいつのまにかボートのそばに立っていた。
長い黒髪に青白い肌の細身。
中学生くらいに見える女の子だけど、映画でも珍しいくらいの美人だった。
静かにほほえんで通報者の女の子をゆるやかになでる。
「沿岸監視員のミラです。病院には連絡しておきました」
落ちついた声としぐさで応急処置を代わる。
「わたしの祖母が日系人で、観光案内などでも日本語を学んでいましたので。……傷は浅いようですが、念のため動かないでください」
優しい会釈を見せながら、遭難者たちからは見えない角度で爪をナイフのように伸ばす。
完全にふさがっていた傷口を確かめるふりで、そっと切れこみを薄く入れなおした。痛みを感じにくい素早さと、カミソリのような鋭さ。
そしてつい、見えない角度では指につけた鮮血をうれしそうに舐めとってしまう。
「おいし……♡ いえ、無事に治療が済みましたら、おすすめの『おいしいお店』へご案内しますね?」
口を大きく開けない上品な話しかたで、犬歯の長さや鋭さがわかりにくい。
そのころ森の小山にある洞穴集落では虫人間の一族が魔王軍の暴鬼部隊一個師団の襲来を受けて追い出され、横っつらを金貨袋で殴りつけられて不動産取引を強要されていた。
「ギビイー!? モウヒトフクロブツケレー!」
「ざけんなゴラア!? なるべく早く元通りにしてご返却いたしますぞテメエ!?」
契約成立の前からすでに建築資材は大量に運びこまれ、元世界と変わらない見た目のレストランの玄関や看板が急造工事で組み立てられている。
その様子は巨大竜亀の艦内モニターでも中継されて状況報告が集められていた。
別モニターではそこから離れた入江でも即席の大型儀式祭壇がドラゴンや巨人の群れまで動員して突貫工事にかかっている。
海岸の石柱にとまっているコウモリは人間には聞こえない周波数でがなった。
『ヘイばあさん! 森で一時間はもたせてくれや!? ねっちり大きくまわりこんでくれりゃ、進路のスライムや歩行樹は先行部隊に始末させておく!』
ミラさんはすました笑顔を変えない。
「帰国までの手続きも担当者が手配をはじめておりますので、どうぞ心配なさらずご滞在ください」
『そう! 余計な不安をあおると無茶な魔法をぶっぱなしてきやがるからよう!? ……ってオイ待て爆撃詠唱を感知って……もう嗅ぎつけてきやがったのか!? 勇者テロ警報! 艦載している近衛デーモン航空部隊をぜんぶ出せ! あとステージ効果スタッフは四尺玉の射出用意!』
ミラさんは『勇者テロ警報』で一瞬ビクリと肩をふるわせたけど、すました笑顔を保つ。
ヒコくんの父親はペコペコと頭を下げ、ヒコくんの頭までつかんで下げた。
「どうも、助かります……あれ? 傷は思った以上に軽いかも? かなり血が出て、動けないほど痛かったのに……もう歩けるなこれ?」
「では診察で無事を確認できましたら、さっそくお店へご案内しましょうか。料金などはご心配なく。この小さな島国の風習で、遭難者のかたは丁重におもてなしすることが行政の方針になっています」
「おいおい、なんだか都合よすぎて恐縮しちまうなあ!? ……あの花火は? まさか歓迎の打ち上げ?」
そのころ山向こうにある入江の工事現場には数人の魔法剣士が襲来して爆撃魔法をばらまいたり、醜悪奇怪な触手の大群を増殖させて破壊工作をはじめていた。
「おじゃましまーす! おかまいなくー!? オレっちそのあたり、動画配信やってたころからまるで気にしないんで!? みなさんそのまま……死ね! みたいなーあ!? へひゃ~ひゃひゃひゃひゃ!」
妖精のひとりは逃げまどって泣き叫びながらも、爆音をごまかすため『四尺玉』サイズの花火魔法は上空へ打ち上げる。
海岸の石柱にいるコウモリは大魔王サタンダンと同じ豪快なポージングで騒がしく鳴きまくった。
『遭難者どもを早く森へぶちこめ! 絶対に渡すなよ!? あんないかれた連中の仲間がさらに増えたら、ほんわり長風呂もできたもんじゃねえぜ!? やられる前にやれ! だが、できりゃあケンカは売られる前に返品しちまえ! それで軍事予算がごっそり浮くんだから特別手当は惜しまねえ!』
ミラさんはすました笑顔をがんばっていた。
「おそらく……『来訪したみなさま』のことは『国のみんな』で歓迎していますので」
『我が魔王軍の愉快な手下ども! 総力をあげて勇者候補どもの帰国を助けてさしあげちまえ~!』