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幽霊でいいから逢いにきて

作者: 一年卯月

日々は、ユライでいて


季節の移り変わりは、アレグロのようで


ベッドの中の温もりは、ドルチェのようで


あの音たちは、ドライヴのようで


街中は、ブリッランテのようで


頬を肩を撫でる風はただ――――――――。




 通勤ラッシュの中、押しつぶされながら飽きもせずよく続くものだなと思いながらあたしは、心の中で自嘲する。辞めたいけれど辞めたところで、とくにやりたいこともない。趣味も夢も希望もない毎日だけれど働いていればお金なら手に入る。そう毎朝ベッドの中で、玄関でパンプスを履くときにドアを開けるたび、自分に言い聞かせる。立ち止まってしまえば楽なのかもしれない。でもそうしてしまったら今度は、それが日常になってしまうのが怖い。ならばこのまま惰性でも続けるしかない。だからあたしはこうして満員電車に揺られて会社に行く。

「あの人かっこよくない?」

「あ、ホントだ。あの制服は東高だよね」

 週の疲れもたまりにたまった金曜日。少しでも休めようと目をつぶっていると、そんな女子高生たちの黄色い声が聞こえてきてあたしは思わずつぶっていた目を開けて顔をあげた。

視界がひらけ目がくらみそうになったのはきっと太陽の眩しさだけのせいじゃない。

 あたしの目の前には、ギターバッグを背負った詰め襟の制服を着た男子高校生がいた。ちょうどあたしの頭ひとつ分くらい上の身長。女子高生たちが噂をしていた通り、二重のまぶたにはまつげがびっしりと長く生えていて、鼻筋が通りすっきりとした顔立ちをしている。これが俗に言うイケメンかとあたしが感心していると男の子は少し迷惑そうに眉根を寄せた。少し見すぎたかと思い気まずくなって目をそらそうとしたけれど、どうやらその黄色い声の主たちに軽蔑の目を寄せていたようだ。あたしにも聞こえたくらいだから当然、その声は彼にも聞こえているのだろう。そんな顔をしているのも頷ける。だが、それがイケメンのさだめなのだよ。諦めなさいと、あたしはまた目をつぶろうとしたとき、思いがけない電車の揺れにつり革を掴もうとしたけど近くにいたサラリーマンに先を越され、釣り革を掴んでいたその男子高校生の腕をとっさに掴んでしまった。

「ご、ごめんなさい」

「……いえ」

反射的に謝ったけど男の子は、そんなことを言いつつなんとも食べ物が歯に挟まってそれがなかなか取れないような表情をしている。そりゃそうだ。高校生の若者からしたらこんな年上の異性にがっちり触られて嬉しい高校生がいるわけない逆に痴漢で訴えられないかとヒヤヒヤしたけど意外にもその男の子は、

「嫌じゃなければ、お姉さんが降りるまでこのままでもいいですよ」

と口にした。社交辞令だとしても甘えるわけにはいかない。なにしろ他人の目が痛い。

「それは悪いわ」

「減るもんじゃないんで気にしないでください。また揺れると危ないし」

ありがとう。でもと言って手を離そうとしたとした時、また大きく揺れて掴む形となってしまった。

「ね?」

小首をかしげながらそう彼は言う。 

ちょっと運転が荒いんじゃないかと普段ならば、思わないことを思ってしまう。掴んでていい。そう言われたものの周りからの刺さりそうな視線が気になる。小さな声でお礼を言い、うつむいたままちらり目線だけ動かして様子をうかがってみたが、少しも気にする素振りも見せずそっぽを向き平然としていた。少しは、動揺しなさいよと心の中で念じ、掴んだ指先に力を込めてみた。それが伝わったのか彼は、ん?とあどけない顔でこちらを見てきた。その顔にあたしのほうがますます動揺してしまってそれを悟られないように深く、深く下を向いた。

 満員だった車内も落ち着き始めた頃、車掌が会社の最寄駅名を告げる。東高みたいだし降りるのは2つ3つ先かと考え、まだ話をしていたかったなという思いは、頭のすみに追いやった。別れ際、彼にもう一度お礼を言った。

「ありがとう。助かったわ」

小さく胸の前で手を振った。彼は、力こぶを作り

「俺の腕で良ければいつでも貸しますんでいつでも掴んでください。お姉さん今日も仕事頑張って」

そう言った。

 お姉さんという歳でもないのだけれど、あえて訂正しないでおくことにする。それにしても、そんなに疲れた顔をしていたのだろうか。いまさらだけど顔を両手で覆い隠したくなってきた。たしかに最近、化粧のノリが悪くなってきたのは年齢だけのせいだけではないような気もする。帰ったらケアを入念にやろう。

このときは、まだ名前も知らないけれど、これがりくとの初めての出会いだった。


 この日は、現役高校生からの声援のおかげかわからないが、上司に言われた嫌味もさらりと交わし同期から頼まれた仕事もさっさと片付けてなんの問題もなく仕事を終えて家に帰ってきた。

 夕飯を作りながら男の子腕を掴んでいた手をまじまじと見る。男の人に触ったのはいつぶりだろうかとぼんやり思い返していると、なにやら香ばしいにおいがしてきた。慌てて火を消したが、フライパンの中には少し焦げた野菜炒めが出来上がった。小さくため息をつき、お皿に乗せてごはんとお味噌汁とともにテーブルに運んだ。

 テレビをつけてザッピングしつつ少し焦げた野菜炒めを口に運ぶ。ちょうどいい番組のところで止めてから食べることに集中する。ご飯と一緒に食べれば少しの焦げも気にならないこともない。そう舌に言い聞かせる。これは焦げではない。そして、お味噌汁で流し込む。

 テレビの中では、芸能人のカップルが結婚を発表していてふたりの馴れ初めはと記者に聞かれていた。俳優が、共演していたドラマです。と笑顔で答えていた。女優の方も、はにかみ頷いている。確かに、少し前に恋愛ドラマで共演していた。このドラマは、話題作になっていて会社でも放送のあった翌日はもちろん放送終了後もあんな恋愛してみたいと後輩たちが話しているのを聞いた。あたしもそう思うのだけれど、いざその立場になってしまうと自分の年齢を考えしり込みしてしまう自信があった。別に恋愛経験がないわけでも辛い経験をしてきたわけではない。ただ、焦がれるほど心が擦り切れるほどの恋愛をしてこなかった。なんとなく好きになってなんとなく嫌になり別れた。それがあたしの方だったり相手の方だったりした。ただそれだけだった。

まわりの友人たちは、あたしと違い恋愛をして結婚している。なかには子どもがいる友人もいる。その子とあたしはどこが違うのだろう。そのことを知らされるたびに欠落していることに打ちのめされる。恋愛が結婚が全てだと思わないとそう自分に言い聞かせなければやっていられない。

 あたしは、大きなため息をつきテレビを消した。真っ暗になった画面には疲れた女の顔が映し出され、ますますため息をつきたくなった。

 週明けあたしは、わずかな期待を胸に抱き電車を待った。昨日は、いつもより早く寝たし気持ち的に化粧水もたっぷりと付けてついサボりがちになってたパックもした。これで疲れた顔をしているなんて言わせるものか。そんな気持ちでプラットフォームに入ってきた電車に乗り込むと同時に小さく息をつく。

 満員にも関わらず、ぴょこんと飛び出ているギターバックのおかげかすぐに彼を見つけることができた。さりげなさを装い近づくと彼もあたしに気が付き頭を下げてきた。

「この間はありがとう。なにかお礼ができればいいのだけれど」

あたしは、他の乗客の迷惑にならない程度の声で話しかけた。

「たいしたことしてないんだからいいって」

 パタパタと手を横に振りながら言う。

「そんなことないのよ。君の声援?のおかげでいつもより調子良かったし」

そういうあたしがなにかお礼をしないと気がすまないと感じたのかあごに手をやり少し思案したのちに、

「じゃあ、俺のバンドのライブ見に来て」

「ライブ?そんなのでいいの?」

あたしは、きょとんとして聞き返した。

「チケット余ってて困ってるんだ」

「それなら行かせてもらおうか……な」

少し言いよどんでしまったのは、こんなあたしが行っても場違いじゃないかと思ってしまったからだった。彼は、そんなあたしに気にする様子もなく器用に背負ったままギターバッグのポケットからチケットを取り出し手渡した。そのチケットを両手で受け取るとあたしは思わず、あ。と思わず口にした。

「どうかした?その日、予定あった?」

彼はあたしの顔を覗き込んで聞いてきた。その顔は、あたしの気のせいかもしれないけど少し残念そうに見えた。子どもの頃に持っていた犬のぬいぐるみを思わせる。

「ううん。平気。空いてる」

 首を振りもう一度、受け取ったチケットの日付を見ると間違いなくあたしの誕生日。誕生日だけどとくに今も今後も予定もない。いつも通り仕事に行ってケーキも買うことなくごちそうを食べるわけでもなく帰ってくる。

 でも、それを手にしたとたん、特別な日に変わり、彼に逢える手段の切符みたいに見えてくる。ありがとうと言いながら大切に財布の中にしまった。


 昼休みにお弁当を食べながらもらったチケットを眺めていた。チケットにはいくつかのバンドの名前が書かれていてどのバンドが彼のかわからない。まだ日にちもあるし次に会ったときにでも聞けばいいか。

「ゆり先輩。何見ているんですか?」

 慌てて財布に戻そうとしたけど間に合わず後輩の弥生にチケットをかすめ取られてしまった。

「知り合いにライブのチケットをもらったの」

「ゆり先輩がライブ?」

 嘲笑交じりのの言い方にカチンときたがかけらも出さずにあたしは、弥生に変わりに行くか聞いてみる。譲る気なんて小さじ1杯分もないけれど。語尾を上げて、両手を横に振りながら

「えぇ。いいですよ。ゆり先輩の知り合いに興味はありますけど、せっかくもらったんだし1回くらいは行ってあげないと可哀相じゃありません?」

「それもそうね」

 そう言いながら返されたチケットを財布の中に戻した。

 

 それから、彼とは毎朝会うようになっていた。お互いの通学通勤時間が同じなのだから当然といえば当然なのだが、あれだけ目立つ彼の装いに気がつかないほど周りを見る余裕もなかったのとも言える。ただ、それだけであたしの日常は変わっていた。

「そういえばバンドの名前なんていうの?」

あたしは貰ったチケットを見せながら彼に聞いた。

「このFって名前」

彼は、アルファベットの5番目。ひと文字で書かれている名前を指さした。

「え、エフ?」

「ホントはほかにも候補があったんだけどメンバーに却下された」

「どんな名前?」

「オムライス」

 彼がすごく自信たっぷりに言ったあと笑うものだからあたしもつられて笑ってしまった。

「ファミレスで名前決めているときにそれ食べていたから、それがいいって言ったらそれにするならそれしか食うなって言われるし。まぁそれでもいいんだけど。たまには違うものも食べたいじゃん?ねぇ?」

「そうね。栄養偏っちゃうね」

そんなことを話している間に車掌がもうすぐあたしの降りる駅を告げた。

「じゃあ、入るときこの名前を言えばわかるようになっているから。そこで俺は、ボーカルとギターをやってるよ」

チケットが余って困っているというのは、そういうことなのだろうか。ノルマがあって、どのバンドに客が入ったことがわかるようにしているのだろうとあたしは納得した。

「私、そういうところ初めてだから楽しみ」

「だと思った」

あたしがそうつぶやくと彼は破顔した。その顔を見たあたしは、その顔を独り占めしてずっと眺めていたいようなたくさんの人にも見てもらいたいような、クローゼットの奥にしまい込んだままの子どもの頃に作ったおもちゃの宝物箱の中に入れておきたいようなそんな複雑な気持ちになった。

 あんな顔で笑ってくれたら絶対――――――。

 

 彼のライブ当日、残業は一切しませんという雰囲気を出しさっさと仕事を片付けて、いつもとは違う駅で電車を降りる。駅も違えば人の様相は違っていて金曜日という週末のせいかもしれないけれどみんなどこか浮足立っている。彼に書いてもらった簡単な地図を見ながら目指すライブハウスは、人通りの少ない路地にあって誘われでもしなければ近寄らない場所(ところ)ところにあった。

 受付で緊張しながらチケットとバンドの名前とボーカルの子の紹介できたことを奇抜な髪型と色をした受付の男性に告げると無愛想にあぁとだけ答えちらりとあたしの顔を見た。

なんだその「あぁ」は。彼は、よく女の人を呼んでいるということなのだろうか。朝、電車で会うだけのたいした関係ではないのに。きっと今後もこれ以上の関係になることもないのだろう。そう思っただけでなぜかちりりと胸の奥が痛んだ。

 階段を降りおそるおそる足を踏み入れたライブハウスは、薄暗く、開演前のせいか人はまばらだった。それでも、彼のバンドの演奏を見るためにあたしなりにネイルや流行の服をリサーチしておしゃれをしてきたけどやはり場違いのようにも感じられた。みんなきらきらとしている。

 入口でもらったドリンクチケットをウーロン茶と交換して壁によりかかりながらちびちびと飲みながら目をやるとこの場所は、あたしとは違うきらびやかな世界が広がっていてそれがだんだん嫌になってきて残ったウーロン茶をいっきに煽ってコップをカウンターに返して帰ろうと出入口に向かった。

「帰っちゃうの?」

 振り返ると私服姿の彼がいた。前髪を上げているせいか制服姿のときとは変わって少し大人びて見えた。帰る気でいたのに彼の姿を見るとそんな思いはどこかに吹き飛んでしまって、

「か、帰らないよ」

突然の出来事に声が裏返ってしまったけれどそう返した。

「良かった。俺たち5番目だから少し待っちゃうけど他のバンドもそんなに悪くないから。なんならあそこにあるイスに座っててもいいし」

彼は、壁の方を指差した。いくつかのイスとテーブルがある。そうか、ずっと立ちっぱなしかと思っていた。いつもより少し高めのヒールを履いてきてしまっていたことに軽く後悔しかけていたところだったから安心した。

「でも、早いもの勝ちだから取っておいたほうがいいかもね」

 あたしの思っていることが理解(わか)っているかのようにいたずらっぽく彼は言った。

「ありがとう。そうする」

「じゃあ、俺楽屋に戻るから」

手を振ってくれた彼に手を振り返し彼を見送った。あたしがちゃんと来ているのか見に来たのだろうか。心配しなくてもちゃんと来るわよ。約束したし、チケットもったいないしそうつぶやきながら教えてもらったとおりにイスに座って彼の番を待つ。

 どのバンドの曲も空気を通して身体に響いたけれど、心までは響かなくて騒がしいだけだった。それでも、そのバンドを好きな人たちがいて、聴いている人たちの眼差しは皆、眩しいくらい笑顔だ。

 そして、彼の番になりセッティングをし始めたのと同時におそらく彼ら目当ての女の子達がステージ前に駆け寄ったのにつられてあたしもなぜだかステージ前の真ん中に移動していた。彼を真正面で見ていたかったのかもしれない。

 薄明かりのマイクスタンドに立つ彼は、どこか視線を彷徨わせたあとあたしと交わると穏やかな笑みを落とし、1音を奏でた瞬間――――――――――――。

 あたしはその視線に射抜かれた。

 ステージに立つ彼は、スポットライトに当てられているせいだけではなく光り輝いていた。

 ギターが音を奏でその1音だけで電撃が走り、呼吸を忘れるほど釘付けになった。

 身を削るような歌声、視線。その視線の先にはあたしがいる。正確には、あたしだけを見ているわけではないだろうけれど、その視線に目をそらすことができない。許されない。音楽の良し悪しなんて正直わからないけれど絶対に他のバンドとは違う。いままで生きてきてこんな音、聴いたことがない。その歌声が心臓まで届いて響いていく。まるで直接、心臓を鷲掴みされているような気持ちだった。

すべての曲も終わり、最後にそっけないMC程度のメンバー紹介をしていく。

 そこで初めてあたしは、りくの名前を知った。


「どうだった?」

まだライブの熱が冷めきっていないあたしにりくがギターを下げたまま近づいてきて感想を聞いてきた。首筋に玉の汗が浮かびライトに照らされ輝いている。その汗を袖口で拭いながら、

「すっごくよかった。なんだかよくわからないけれど、ここがざわつくような感じが今もしている」

胸に両手を当てながら拙いながらも伝えるけれど相変わらず、語彙力なさに悲しくなる。その手の上にりくは自分の手を乗せた。

「今でもドキドキしているってこと?」

「……うん」

いまどきの男の子は、こんなことをするのだろうか。あたしが動揺しているのをりくは、微塵も気付く様子もない。触られたせいでよりいっそう鼓動が速くなる。

「あははは。すごいドキドキしている」

あたしの手ごしにわかるものなのかとそんなことを思いつく余裕すらない。

「りく」

バンドのメンバーのひとりに声をかけられ、りくはさっと手を離した。

「今、行く。もしよかったら、次も来てよ。気をつけて帰ってね」

 手を振り次もあることに安堵する。きっと誰にでも言っていることなのかもしれないけれど。

「うん。ありがとう」

あたしは、りくの背中を見送りライブハウスをあとにした。まだ、演奏するバンドは残っているけれど他の音楽を耳にしたくなかった。余計な音を耳の中に入れたくなかった。

 りくたちの曲を何度も身体中で感じながらにとぼとぼと駅に向かっていると誰かの足音が近づいて来る気配がした。人通りはまばらながらあるしジョギングしている人かもしれないし、珍しいことでもなかったけれど近づいてくる足音には、少し怖さがある。いざとなったらバッグを振りかざそうと紐をぎゅっと握りしめ、おもわず足を止めた。早く通りすぎてほしい。早く。早く!早く通り過ぎろ―――――。

「はぁ。追いついた」

顔を上げ、横を見るとギターバックを背負ったりくだった。

息を切らしていたがさすがは現役高校生。すぐに息が整う。

「やっぱり遅いし送るよ」

「えっ。駅ももうすぐそこだし家も駅から近いからいいよ。それよりも打ち上げ?とかあるんじゃないの?」

「んー。別にいいかな。他のバンドとの交流もみんなに任せてるし、反省会も映像を見ながらゆっくりやりたいし。今はこっちのほうが大事」

なんでもないことかのようにそう言いあたしの手を握りしめた。

 そして、そのまま流れるようにりくは、あたしの家についてきた。

 名前しか知らない異性を家の中に入れるということに全くの抵抗がないといえば嘘になる。昨日のあたしが知ったらなんていうか解ったもんじゃない。むしろ知っている同性ですら多少、迷うことはある。それでも、朝の数分間の会話だけで、いつあるかわからないライブだけで終わりになんかしたくないと思った結果が()()だった。

「帰らなくていいの?」

ここまで連れてきておいてなに聞いているんだ。あたし。

鍵を差し込みドアを開ける前に大人として一応、聞いてみる。

「帰らなくても別になにも言われない。たぶん帰ってなくても気が付かないんじゃないかな。あ、でもさくらさんは気がつくか。まぁ、平気でしょ。内緒にして、おねが〜いって言えばなんとかなる」

 親指を立てて無邪気に言うりくにそのご両親が心配するんじゃないかと言いたかったけれど、そんな親ばかりじゃないことは知っている。年上ぶって諭すこともくわしく聞くこともやめた。そうしてしまったらきっともう二度とりくはここには来ない。朝だって、時間帯をずらされてしまえばあたしにはりくに会う手立てがない。この関係が終わってしまいそうで怖かった。そう。とだけなんでもないことかのように返して差し込んだ鍵をひねってドアノブを回した。

「どうぞ」

「おじゃまします」

りくを先に入れて何気なく様子をうかがった。挨拶や脱いだときにちゃんと靴を揃えたりするところを見るときちんと育てられているようだ。

「お茶入れるから奥で待ってて」

「うん。ありがとう」

いつもは、ティーパックの紅茶のところを今日は、とっておきの茶葉を使おう。茶葉を計る指先が微かに震えるのは緊張からなのかそれとも違うなにかなのか。それを察したのかりくがふっと、小さな笑いをこぼした。

「へ?」

「あ、いや。知り合ったばかりのお姉さんのところに来ている自分に笑えてきた」

なんだ。緊張しているあたしのことを笑ったんじゃないのか。

「そうだよね。あたしも普通入れないよね」

あたしたちは、くすくす笑いあった。

「はい。紅茶どうぞ」

そうカップを渡すと少し、りくの顔が曇った。

「コーヒーのほうがよかった?」

あいにくインスタントしかないがコーヒーを淹れ直そうと立ち上がったあたしの腕を掴んだ。

「ううん。大丈夫。それに、夜コーヒーを飲むと寝られなくなるんだよ?」

知らないの?とでも言うようないたずらっぽく笑みをこぼしている。

「そうだね。眠れなくなると困るね」

あたしは、そう言って座り直した。

「俺、紅茶ってあまり飲まないけれどこれはいい薫りがする」

カップのフチに鼻を近づけてくんくんと嗅いでいる。表情がコロコロと変わってやっぱり犬みたいだ。

「そう?なら良かった」

りくが気に入ったらしいこの茶葉をまた買い足しておこう。と、また来るかもわからないのそう心に決めていた。

「ライブで汗かいたよね。シャワー浴びる?」

そう聞いたものの、あまり人が来ることすら少ない我が家に男物の着替えなんてあるわけがない。あるのは、少し大きめのTシャツくらいだが背の高いりくにサイズが合うだろうか。そして、そんなことを聞いてどうするつもりなんだ。あたしがそういったことが意外だったのかりくは目を見開いた。でも、すぐに柔らかく微笑んだ。

「いいの?ライブで汗かいちゃったから助かった。もしかして、俺、汗臭かった?」

 腕を上げて自分の匂いを嗅ぐりくに、

「そんなことないよ。ライブのときすごい汗かいていたの思いだしただけ。それなら、着替えTシャツくらいしかないけれど出しておくね」

「ありがとう」

バスタオルを渡してお風呂場に案内した。

「じゃあ、ごゆっくり」

「うん。覗かないでね」

 ウインクしながら冗談っぽく言うりくに早く入ってきなさいと背中を押した。

「はぁい」

 笑いながら脱衣所の中に消えていった。

シャワーの音を聞きながら、未成年の男の子を家に連れ込んでなにをしているんだ。問題になったりしないだろうか。と頭を抱えていた。でも、無理矢理連れ込んだわけじゃないし、同意だし。そんな言い訳を誰にするでもなくしていた。なにしろあのまま分別れるなんてしたくなかった。できるわけなかった。落ち着かない様子でソワソワとりくが出てくるのを待っていたけれど、いざ、出てくるとなにをはなしたらいいのかわからない。どこに座っているべき?家主なのにまるでここが他人の家みたいだった。ここでもないそこでもないとうろうろしていると、そんなあたしの思いに気がつくこともなくさっぱりした様子でりくは出てきた。

「のどが渇いたら勝手に冷蔵庫開けていいから。あたしもお風呂入ってくるね」

 そう言いながら、下着と着替えをバスタオルで包み隠して脱衣所に入る。

「うん。ありがとう。行ってらっしゃい」

あたしがお風呂から上がるとりくは、両足を抱え込むように小さくなって眠っていた。

「……りく眠るならベッド使っていいよ」

「んー」

声をかけるとモゾモゾと体を動かすが起きる気配はない。あたしは、りくにブランケットをかけてあげて頭を逆合わせにして眠った。閉じられたまぶたには初めて会ったときと変わらないがどこか幼さの残る顔をしている。当たり前だ。りくが何歳かは、詳しくはわからないけれど少なくとも27歳のあたしより10歳下なはずだ。

「やっぱり問題だよね」

手を伸ばし唇に触れてしまいそうになり、りくが一瞬、身じろいだ。本当は起きていて、拒絶にも感じられて手を引っ込めた。

 翌日、目が覚めるとなぜか向きが変わっていた。あたしは、りくと向かい合っている。勢いよく起き上がって確かめる。服は、着ている。とくにこれといって乱れてもいない。

なにもなかった……よね。りくのことをじっと見つめる。毎朝、顔を合わせているうちにちょっとだけ親しくなってライブに行く。それはいい。そして、家に入れる。お酒も飲ませてもいない。これは、まだセーフだ。グレーかもしれないけれど。だけど、たとえ覚えていなくても行為に至ったとしたら問題だ。黒だ。あたしが内心焦っていると、

「ぷっ」

「……りく起きてるでしょ」

少しねたふりをしていたりくだったけれど観念したのか片目を開けて、

「ばれた」

と起き上がった。

「おはよう。えっと……」

あたしは、りくのことをMCで知ってたけれどまだ名乗っていないことに気がついた。

「ゆりあ」

「じゃあ、ゆりちゃんだ」

そんなふうに呼ばれたのは小学生以来だった。会社ではもちろん名字だし彼氏にも友達も呼び捨てだ。後輩には呼ばれているけれど、同性なのでノーカンだ。久しぶりの感覚にくすぐったくなる。

「りくです。ってあれ?なんで俺の名前知ってるの?」

頭を下げ、きょとんとしている。

「ライブのMCで言ってた」

 MCで紹介もしていたしメンバーにもそう呼ばれていた、昨晩だって何度も呼んだ。彼の名前を呼ぶ歓声も忘れられないくらい耳にこびりついている。だけど、りくが名前を言った時の声の方が今でも焼き付いている。

 ステージの上ではあんなに堂々としていたのにここにいる彼は、年相応に見える。いや少しだけ幼く見えた。これがりくの本当の姿なんだろうか。あそこにいた子たちは、この姿を知っているんだろうか。こんなりくを知っているのがあたしだけだといいなそんな優越感みたいなことを思ってしまっているあたしは嫌な女だ。

「お腹、すかない?なにか食べに行く?それかなにか作ろうか?」

「え、作ってくれるの?じゃあ、オムライス食べたい」

「そんなのでいいの?ちょっと待ってね」

材料があるかあたしは、冷蔵庫の中を確認する。卵、ベーコン。玉ねぎはなかったけれど冷凍ミックスベジタブルがあるはず。それでもいいかとりくに聞くと、

「それがいい」

冷凍してあったご飯を先に電子レンジで解凍してからベーコンとミックスベジタブルを炒める。そこにご飯を加えてある程度混ざったらバターを入れてバターライスにした。影が落ちて気がつくといつの間にかりくが隣に立っていた。

「どうしたの?テレビ見てていいよ?」

「んー?いいや。普段からあんまりテレビ見ないし。こっちのほうがおもしろそう。ゆりちゃんも、男はキッチンに立つなってタイプ?」

「そうでもないけど」

 料理は、好きでも嫌いでもない。得意かって言われればそうでもない。

 女だから。男だからやって当たり前ということもない。作りたい方が作ればいい。でも、それが食べたいと言われれば可能だったら作ってあげたいとは思う。

「じゃあ、いいじゃん」

「うん。できた。あとは卵で包むだけ」

あたしが、そう言うとりくがあーんといいながら口を大きく開けた。

「味見?」

「うん」

仕方がないなと言いつつあたしはりくにこんなふうに甘えられるのが案外、嫌じゃないみたいだ。だからこそ厄介なのかもしれない。木べらに乗せ少し息で冷ましてからりくの口元に持っていく。ゆっくり咀嚼してりくは、

「おいしい」

できたバターライスを一旦、取り出してからひと皿ずつ卵で包む。

隣りにいるりくにお皿を渡し冷蔵庫からケチャップを出す。

「ケチャップかけるの俺がやっていい?」

「うん。いいよ」

りくは、オムライスにそれぞれの名前を書いてくれた。

「ゆりちゃんの名前難しい」

「りくの名前は書きやすそうだね」

「うん。書きなれてるから」

りくは、自信たっぷりに口にしたけれどどこか寂しそうな顔をしていた。

「いただきます」

「いただきます」

手を合わせながらそう言いあたしは、りくが口にするのを待った。りくがスプーンですくい口に運び咀嚼する。いつも自分しか食べないから正直、料理の腕を信用していない。この間だって野菜炒め焦がしたし。

「バターライスのオムライスもおいしい」

 そういうりくに安心してスプーンを差し込みオムライスを口にした。

「そう?ケチャップライスだと少ししつこいかなって」

咀嚼し終えてからそう言うと、 

「いつもはどうしているの?」

「いつもは、トマトジュースでご飯炊いたりかな」

「今度は、それも食べてみたい」

「え?」

思いがけないりくの言葉にあたしは思わず聞き返した。

「だめ?」

スプーンを唇に当ててまるでしかられた子どものように聞いてきた。

「ううん。だめじゃないよ。また食べに来てくれるの?」

「もちろん」

「じゃあ、料理のレパートリーも増やさなきゃ」 

あたしがそういうとりくは残りのオムライスをあっという間に食べきった。両手を合わせてそう言うりくにやっぱりちゃんと教育されていると感じる。

「ごちそうさまでした」

「はい。おりこうさん」

食べ終えたお皿を持ってあたしは立ち上がろうとしたらりくに手首を掴まれた。

「俺が洗うよ。作ってくれたお礼」

「そう?じゃあ、お願い。なにか飲む?ジュースあったかな」

「昨日の紅茶がいいな。あのいい匂いがするやつ」

「わかった。」

りくが、お皿を洗っている横であたしはお湯を沸かす。観察してみると内側だけではなく外側もちゃんと洗えている。内側しか洗わなかったのはどの男だったかと一瞬よぎった。そんなことを思えるほど男関係が豊富ではない。まして人を比べられるほどあたしは人間ができているわけじゃない。

「……ちゃん。ゆりちゃん!」

「え?」

「お湯湧いたよ」

不意に現実に戻される。とっさに素手のまま取っ手を握った。

「あっつ」

「大丈夫?!すぐに冷やして!」

「大したことないから平気だよ」

「だめ!」

りくに手首を捕まれ強引に冷やされる。水の冷たさ、りくの体温、あたしの体温が混ざり合ってなんだかひだまりの中にいるような感覚に陥る。ずっとこうしていたい。上目遣いでりくを見やると真剣な目でじっと流れる水を見ていた。

「りく?」

「ごめん。俺、人がケガするのすきじゃなくて」

「好きな人もいないと思うよ」

「あっ。それもそうか」

さっきまでとは違う無邪気な目をしてりくは言った。

それから、紅茶を入れ直して肩を寄せ合って飲みながら、

「今度、いつライブやるの?」

「えー?終わったばかりだよ」

カップのフチを撫でながらあたしは聞いた。

「反省会をやらなきゃだし、新しい曲もやりたいから少し期間は空いちゃうかな。期末テストも近いし」

空になったカップをりくは置き軽く伸びをした。

期末テストという言葉にいっきに現実に戻される。

「そっか。忘れてたけど、りく高校生だったね。ねぇ聞いていい?」

首を軽くかしげながら、んー?と返事をした。

「りくは……」

いくつ?と聞いたあたしの歳を逆に聞かれたら答えなければならい。答えてその差にがっかりされたら?悪くてフェードアウト。良くて金づる。もしくは、ご飯を作るためだけの女。そうなる未来が見えてしまい怖くて聞けなかった。

「俺は高2。ゆりちゃんはって、女性に年齢を聞くなんてだめだよね。それに何歳(いくつ)だって関係ないし」

「そういうもの?」

 陽当りだけが取り柄のいい部屋とオムライスでお腹も満たされ、紅茶の温かさも相まってりくの()はどこか眠そうだ。 

 そういうものなんだろうか。付き合うことにもなっていないのにあたしは気にし過ぎなのかもしれない。りくが関係ないというのならばそれでいいじゃないか。

「りく眠そうだね。勉強とか練習とかで寝不足だった?二度寝しちゃう?」

 そういうあたしが忙しかったから二度寝をしたいのかもしれない。りくの隣ならいい夢が見られるに違いない。

「んー。しない」

 眠そうな声を出したあと、大きな声を出し立ち上がって手を差し出した。

「ゆりちゃん。デートしよう」


 何年かぶりに聞いたデートという甘い言葉に別にお城の舞踏会に行くわけじゃないんだから着替える必要なんてないと半分呆れながら言うりくのセリフを背中で聞きながらあたしは、普段着でもわりかしいいものに着替えた。

 小さな花がらのロングワンピース。りくは、あたしが貸したTシャツからすでに昨日着ていた服へと着替えも済んでいる。その間に軽くメイクを済ませておいた。

 デートとは名ばかりでとただ単にりくを送る道すがらあたしの家の近所を散歩をするというものだった。

 近所と言ってもほぼ駅までと近所のスーパーしか知らないあたしは、ほとんどりく任せについて行くしかない。

 遠くには、わたあめみたいな 綿飴みたいな入道雲。あちこちから聞こえるセミの大合唱。日傘をしていても太陽から熱烈に抱きしめられている感覚は変わらない。それなのにりくは、元気だ。大通りを歩いていたかと思えばこっちの道が気になると道をそれ、犬を連れているおじさんがいれば断ってからわしゃわしゃと撫でて、野良猫を見つけて触りに駆け寄るのかと思ったら遠くからぼうっと見つめるだけだった。

「触りに行くのかと思った。もしかして、猫嫌い?」

「へ?」

りくは首を振った。

「ううん。すっごく好き」

 じゃあなんでと聞こうとしたけど、りくは続けた。

「今の俺には飼ってあげられないから。ぬくもりを知ったあの子は、このあときっと寂しくなる。俺が触らなくても誰かに撫でられるかもしれないけど、それだったらいたずらに触れないほうがいいよ」

「そうなのかな?」

「だから俺は、触らないんだ。メンバーの飼っている猫にはめちゃめちゃ触るけど」

 りくは繋いだ手に力を込めた。その力にどんな意味があったのかなんてあたしはまだ知らない。

 歩いているうちにのどが渇いてきてコンビニでアイス買って2人で分け合い、アイスをくわえたままりくは繋いだ手を急に離して駆け出した。

「見て。セミの脱殻」

 戻ってきたりくは、それをあたしの目の前へと突き出した。

「きゃあ」

 後ろに思わず飛のいてしまった。

「あ、ごめん。子どもの頃、これやってお母さんにめちゃくちゃ怒られたの忘れてた」

 舌を出してうなだれるりくを見て怒る気にもなれずに笑ってしまった。

 セミの脱殻を元のところに戻すりくの背中越しにお母さんにも同じことやったの?と聞いた。

「うん。入院していたからおみやげにしようと思って、少しでも夏の気分を感じてほしくて。クッキーの入っていたカンカンにたくさん集めて入院先に持っていった」

 そのことを思い浮かべるとそれは、恐怖でしかない。たとえ苦手じゃなくても勘弁してほしいだろう。そしてりくは、セミの脱殻を触っていない手の方を差し出した。

「そろそろ駅に行こっか。俺はまだ平気だけどゆりちゃん疲れちゃうよね」

「でも、りくとの散歩楽しいよ」

「そんなこと言うと俺の家まで歩いて帰ることになるかもしれないよ」

「ここから近かったりするの?」

 言ってから気がついた。こんな風に踏み込んだこと聞くべきではない。

ごめん。今の忘れてとパタパタと繋いでない方の手を振りながら言った。

「たぶん、近くもないけど遠くもないよ」 

「そっか」

「うん」

それから少し気まずくなって言葉も少なくなてきたとき駅が見えてきた。でもそこはあたしの最寄りではなく隣の駅だった。家を出てから随分と時間が経っていたみたいだ。りくは繋いだ手を離して大きく伸びをする。頭上にあった太陽も落ちてきてもう夕暮れ時だ。

「楽しかったね」

「へ?」

 りくは、顔を覗き込んで楽しくなかった?と聞いてきた。

「元気ないみたいだから楽しくなかったのかなって。俺だけが楽しかったのかなって」

「そんなことないよ。あたしも楽しかった。久しぶりにこんなに歩いたしいい運動になった」

「ゆりちゃん普段からあまり運動してなさそうだもんなぁ」

苦笑しながらりくは言う。それってどういう意味だろう。健康診断ではいつも標準的をキープしているはずだけど。

「体型がとかじゃなくて全然、筋肉ついていないもん」

 頭のてっぺんからつま先まで見ながら言う。 

もう少し話していた気持ちもあるけれどあたしの方から切り出した。

「りく。じゃね」

「うん。ゆりちゃんまた月曜ね」

 思わず変な声が出た。

「あれ違った?もしかして月曜日お休み取っているとか?」

「ち……違わないけど。また会ってくれるとは思わなくて」

「ひどいなー。俺そんな薄情なやつだと思われていたんだ。ショックー」

 その場にしゃがみ込み項垂れるてあたしを見上げてきた。ショックとは言ってはいてもさほど気にしてはいない様子だ。

 あたしも同じようにしゃがみ、小指を差し出した。

「約束?」

 りくはおそるおそる聞いてきた。

「うん。約束だよ」

指切りをしたあとりくは、立ち上がり繋いだ小指を引っ張られるかたちであたしも立ち上がった。

「じゃ、今度こそ。またね」

「また」

手を振って別れ、りくは、改札の中に吸い込まれていった。少し離れたところでりくは振り返り大きく手を振った。

 その姿にあたしは苦笑いをして小さく手を振ったらりくは、頬を膨らませ不満そうな顔を見せた。

 それが今できるあたしの精一杯だった。

 りくとの散歩で身体が疲れていたようであたしは、ベッドに入るなり夕飯も取らずにすぐ夢の中へと落ちていた。

 夢にはりくが出てきて大きな会場で歌を歌っていた。あたしはというと遠くでひとりぽつんとその姿を眺めているだけだった。それが悲しくもあり嬉しくもあった。あたしは歌っているりくが好きなんだと思う。


 目覚まし時計が起きる時間を告げあたしは目を覚ました。いつもは冬眠から目覚めたくまのようにのっそりとベッドから出るけど今日は違う。パンを焼いている間に顔を洗う。メイクをしながら情報番組を流していると今日の星座占いのところであたしは思わず手を止めた。

 内容はたいして覚えていないのに、いいか悪いかまたは普通かくらいしか記憶に残らないのに見てしまうのはなんでなんだろう。

「最下位のあなたのラッキーパーソンは……年下の人」

 手に持っていたマスカラを落としてしまった。

 年下の人という響きが頭の中で反芻される。職場にも年下の人は、たくさんいるのにまっさきに思い浮かんだのはりくの顔。唇が歪みそうなのをこらえてマスカラを握り直しメイクの続きに取り掛かる。こんなことで電車に乗り遅れてりくに会えなかったら意味がない。それこそ星座占いの予言のように最下位じゃないか。

 ゴミを出して、出入口の掃き掃除している管理人さんに笑顔で挨拶をすると少し意外そうな顔を見せた。少し気になったけど今はゆっくり話をしている暇はない。

 ホームに立ちいつもの電車を待つ。こんな気持ちで電車を待つのなんていつぶりだろうか。少し待って電車が到着するアナウンスが流れ、髪の毛を手ぐしで整える。電車が到着してドアが開いた。後ろ姿でも背負って立ついるギターバッグのおかげですぐにりくだということがわかる。そのぴょこんと出ている姿に笑みがこぼれあたしはりくの肩を叩いた。

「おはよう」

「ゆりちゃん。おはよう」

朝のせいなのかなんだか眠そうだった。

「眠そうだね」 

「うん……眠い」

 そう言うとあたしの肩に頭を乗せてきた。

「そんなに夜ふかししたの?」

「んー。曲作ったり曲作ったり曲作ったりしてた」

 りくは、指折り数えた。ほぼ曲しか作ってなかった。

「あたしが降りるまで寝てていいよ。目をつぶっているだけでも少し楽になるし」

「ありがとう。そうさせてもらう。ゆりちゃんは、平気?この前の散歩で疲れたりしていない?」

「うん。平気だよ。たくさん歩いたからか割と早く寝ちゃった」

「よかった」

 そう言うと、寝息が聞こえてきた。わずかにかかる息にくすぐったさを覚えた。このまま寝させていたいけれどそういうわせにもいかない。そろそろ駅に着く頃だ。肩に乗っている方とは反対の手でりくを起こした。ゆっくりとまぶたを開けた。

「ありがとー。少ししゃっきりした」

 まったくそうは見えなかった。

「また明日ね。授業中寝ちゃだめだよ」

「頑張るー」

 授業中寝て教師に怒られたりしないか心配になってくる反応だったけど、あたしにどうすることもできない。こんなときりくと同じ歳だったら同級生だったらどんな毎日だったのか。きっと、世界がパステルカラーのように色づいて見えるのかもしれない。そんな意味のないことを考えてしまった。頭を振って現実に戻してから会社へ向かった。

 りくと過ごす朝の時間以外は変わりのない毎日で、家と会社を往復するだけ。でも、りくと過ごす朝の数分間は一歩踏み出す力をくれた。

 ねぇ、りく。きっとそのことを思ってもいないでしょう?

  

 空気の温度や吹いてくる風の匂いが変わり、木々が赤や黄色に色づき始めた頃、仕事が終わり家に帰ると玄関先に黒い塊を発見して身体が一瞬強張った。脳内でいろんなことが駆け巡っているとその塊は、私の気配に気がつくと顔を上げた。

「あ、ゆりちゃんおかえり」

「りく?」

「来ちゃった」

見上げるりくは、どこか不安げでまるで迷子になった子どものように見えた。

「もう、びっくりしたよ」

「あははは。ごめん」

玄関を開けてりくを招き入れた。それと同時に、鍵もしめておく。前日、今日は学校を休むけど具合が悪いとかじゃないから心配しないでとは聞いていたけどいつもと様子が違う。

「寒かったでしょ?先にお風呂入ってきて。溜まるまで時間かかるけど、湯船に浸かっていれば少しは温まると思うから」

指先に触れるとひんやりしていた。その手はごつごつしていて骨ばっていて、ギターを鳴らし続けてきたことが分かるちょっとだけささくれた指。触れた瞬間、びくりとさせた。

こんなに冷えさせるくらいなら、スーパーに寄らないでさっさと帰ってくればよかったと、あたしは後悔した。

「ありがと」

かばんとギターバッグを預かりそのままお風呂場に入っていくりくを見ていた。りくがお風呂に入っているうちになにか温かいものでも作っておこうと思い野菜を一口大に切っていく。切りながらシチューかポトフどっちがいいか考える。煮込める時間があればシチューがいいけれど、ポトフにしておけば後でシチューにすることもできるからポトフにすることにした。ちょうど出来上がった頃、頭にタオル乗せたを出てきてあたしの肩に頭を乗せた。いつもと違う様子のりくに火を止めて手を引きリビングへと手を引き連れて行く。

「これからも来るなら合鍵渡しておこうか?」

 なにかあったのか。聞きたいけれどそんなこと聞けない。そんなこと聞く前に教えてくれる。話してくれるりくは、そんな人だ。だからあたしは自分から話してくれるのを待つ。

「そんなことしていいの?バンドのメンバーとか呼んで入り浸っちゃうかもよ?」

「そんなことしないでしょ。りくは」

お風呂から上がったりくの髪を乾かしながらあたしは答えた。りくは、目を見開き、うん。とだけつぶやき嬉しそうに微笑んだ。

「いいよ。こうして待つのも慣れているし」

 ドライヤーを当てて自分の髪よりも丁寧に乾かしていく。

「髪、乾かしてもらえるし?」 

「うん」

「りくは、どんなときに曲を考えてるの?」

「いつでも」

「いつでも?」

そう言いながらギターを弾くまねをしたり、身体をゆらゆらと動かしてじっとしていないから少しだけ乾かしにくい。

「通学途中だったり、授業をサボってるときだったり」

「…………授業はちゃんと聞かないとだめだよ」

 はーい。とドライヤーの音に飛ばされそうな声で返事をした。

「風呂入ってるときでもトイレのときでも。寝ているとき以外はずっと考えているかも。……あ、でもこの間で夢でいい曲で来たーって思って目が醒めたらきれいさっぱり忘れていた」

そう言うりくはしゅんとした。

「私といるときでも?」

「もちろん」

そこは、あたしといるときくらいは、音楽から離れなさいよとも思う。でも、そんな日常の中にいることに喜んでいるあたしがいる。

「じゃあ、ここにいるときもギター弾きたいんじゃないの?」

「うん。でも、さすがに人様の家じゃ弾けないよ」

たしかに近所迷惑になってしまう。

「…………今日」

 めずらしく真剣な声音にあたしはドライヤーを止め置いた。

「お母さんの命日だったんだ。」

「そう………だったんだ」

 寂しいよねとか悲しいとでも言えればいいのだろうか。でも、大切な誰かを亡くしたこともないあたしに一体どんなことが言えるのだろう。

 うつむいて、ぽつりぽつりりくは零していく。ときおりこぼれる水滴は、水なのか涙なのかそれとも違うなにかなのか、下を向いているからわからない。

「まだ、俺が小学生になる前に病気で長いこと入院していて、先生も父さんもじいちゃんもばあちゃんもお母さんもみんな俺には、よくなるって言っていたんだ。よくなって帰ってくるって」

「うん」

「その言葉をずっと信じてた。いま思えば本当は助からないのことにうっすらと気がついていたのに。そう思っていたからきっと、罰が当たったんだ」

 見上げたりくと視線がぶつかった。

「お母さんがいなくなってから父さんが仕事で忙しいからしばらくじいちゃん家に預けられてて夜、家を抜け出してお母さんのお墓に行って夜を明かしてた。そこに眠っているんだって聞いていたから。バカだよね」

 りくは、一笑した。

「しばらくして、そこにお母さんはいないって怒鳴られて父さんに家に連れ戻された。それからはたまにしかいかなくなった。いい子にしているからゆりちゃんはいなくならないで」

 そう言うとりくは、あたしの胸に顔をうずめた。

 そんな風に笑わないで自分のしたことを幼いって笑わないで。そんなりくにあたしはなにも返すことができなかった。


 その日、あたしとりくは、同じベッドで手を繋いで眠った。ベッドで寝たけどほとんど身動きしていないせいか身体がバキバキだった。起き上がりその場で軽く伸びをする。

「りく。おはよう」

「ん。ゆりちゃんおはよう」 

 少しだけ声がかすれている。朝起きて隣にりくがいることに心がくすぐったくなる。

「紅茶飲む?」

「もうちょっとこうしている」

 繋いだままの手に頬を擦り寄せる。あたしもりくに習いベッドに潜り込むことにした。ベッドの中はまるでとろけたチョコレートのようでずっとこうしていたい。何度かの微睡みのなか、りくの腕を枕にあたしは寝てしまっていたようだった。そのことに気がつくと慌てて飛び起きた。

「ごめん。重かったよね」

「ううん。平気。ゆっくり寝られた?」

「うん。ぐっすり。お腹空いたでしょ?ご飯にしようか。やっぱりリクエストはオムライス?」

 うんと返事をする前にりくは器用にお腹で返事をした。

 いつ来るかわからないりくのためにトマトジュースで炊いたご飯を用意していたからそれと鳥のささみとピーマンととうもろこしを使ってオムライスを作る。りくはやっぱりできていく過程を見るのが好きみたいであたしにくっついている。

「あとは包むだけ」

「やった。でもホント器用にできるよね」

「どんなことないよ。たまに破れっちゃうときあるし」

 そんなことを言っていると本当に破れてしまった。りくと目が合う。

「そんなときは?」

「ケチャップで隠す」

「そうなんだ。じゃあ、俺がやるよ」

 そう言うと自分の名前を書いた。もうひとつの方にはあたしの名前。

「え、破れたほうあたしが食べるよ」

「いいよ。だって味は変わらないじゃん。そうだけどどうせならきれいな方りくに食べてほしかった」

 頬を膨らませそういうあたしにりくは、

「じゃあ、ゆりちゃんの方を一緒に食べる?」

「それだけじゃ足らないでしょ」

「うん。全然足らない。だからこっちはゆりちゃん食べて。こっちは俺の」

 りくはそう言いながらお皿を持ってリビングの方に逃げていった。観念してあたしの名前が書かれてあるオムライスと飲み物を持ってリビングに行く。

 ふたりで両手を合わせ、

「いただきます」

「いただきます」

今回は、トマトジュースで作ったオムライスにスプーン入れるりくに気に入ってくれるかあたしは見守る。

「うん。これも美味しい」

 りくは顔の横で親指を立ててグーをした。

 あっという間に食べ終え前のようにあたしの分のお皿まで洗い戻って来た。

「今日はどうしよっか?このままのんびりする?天気もいいしこの間みたいにお散歩する?」

 あたしは、窓から差し込む明かりを見ながら言う。りくも同じように窓を見て、

「ライブも決まったし新曲の歌詞も考えたいから散歩かな」

「ライブやるの?!」

 思ず大きな声が出てしまう。

「あれ、言ってなかった?」

「聞いてないよー」

 あたしはポカポカとりくの胸を叩いた。その手を取り握りしめてから人差し指を立てて口元に持っていってから、

「ごめーん。でもまだ他の人には、内緒ね」

「でも新曲を作るならあたしがいると邪魔じゃない?」

「そんなことないよ曲の途中を見られるのは恥ずかしいけど、邪魔じゃないよ」

「ありがとう。お散歩行くなら簡単にお弁当作ろっか」

「お弁当?!」

「卵焼きとウインナーミニトマトくらいしかないけど」

りくは取れそうなほど頭を横に振った。

「ううん。じゅうぶんだよ。ゆりちゃんあれできる?」

「あれ?」

「タコさんウインナー」

できるよとあたしが言うとりくは、子どものように両手を上げて喜んでくれた。

「りくは、甘い玉子焼きと甘くないのどっちが好き?」

「さくらさんの作るやつは甘くないやつなんだよね。甘いやつもあるみたいだけど食べたことないや」

「どっちがいいかな?どうせなら、甘い…………やつにする?」

 そのさくらさんが誰なのかわからない。味の違いを比べられるのは嫌だった。

「うん。甘いやつがいい。」

そばで見ていたいというりくをなんとかリビングに押しとどめ、水筒にりくの気に入った紅茶と出来上がったものをお弁当箱に詰め家を出たのはお昼前。これなら、お散歩をしている頃にはお腹も減っていい具合だろう。

 今回の散歩も特に目的は決めずりくの行きたい方について行く。どこに行くの?と聞いてもいいところとしか答えてくれない。高い空に流れるハケで描いたようなすじ雲。もこもこかわいいひつじ雲。窓辺で日向ぼっこをしている家猫。繋いでいない方の手でりくは、

「ゆりちゃんあれなんていう花?」 

あたしは、指のさしている方を見た。見るとそこにはピンクの淡い色を付けた可愛らしい花が咲いていた。

「花びらの形からして桜かな」

「えっ。いま秋だよ。狂い咲きってやつ?」

「そう言われることが多いみたいだけどいまの時期に咲くって見たことがあるよ」

「そうなんだ。春の桜も一緒に見ようね」

 りくはそう言ってあたしの顔を覗き込んだ。あたしはそうだねと返した。そして、あたしたちはさらにあるき続け坂道を登っていく。家の近所なのにこんな場所があるなんて知らなかった。りくと一緒にいると新しい発見であふれている。

 足の踏み入れないライブハウス。

 誰かのために作る食事。

 朝一番に言うおはよう。

 繋いだ手のぬくもり。

 一度は経験したことがあるかもしれないけれど、忘れていた。隣を歩りくを見るとまるでどうかした?というような顔で見返すから、あたしは、なんでもないと首を振った。

「さあ。ついたよ」

 ついたその先は小高い丘の上で街が一望できた。りくは、駆け出し手を繋いでいたあたしも同じように駆け出した。

 ベンチもあって休憩するにはいい所だ。

「こんな素敵な場所。よく見つけたね」

「夜、バイトの帰り歩いて帰っていたら見つけた。夜景もきれいだったから今度、見に行こうね」

「うん。りくバイトしてるんだね」

「バンドやってるとお金かかるんですよー」

 そう言って柵に腰掛け、あたしの肩に頭を乗せた。

 吹いてくる風は冷たいけれど、この時期の陽は低くさほど寒さは感じない。

 ベンチに座り、遠くの風景を眺めていると、隣から鼻唄が聴こえてきた。

「なぁに?その歌」

「ん?お腹が空いたな―の歌。晩御飯は、オムライスがいいな〜。でもハンバーグもいいし、エビフライもスパゲッティも捨てがたい〜」

変な歌詞にあたしは、思わずに笑ってしまった。

「お腹空いてきた?そろそろ、お昼にしようか」

 そう言ってあたしは、持ってきたお弁当箱をベンチの上に広げた。

「もう、お腹ペコペコ」

 お腹をさすっているりくにおはしを渡した。

「ゆりちゃん!」

「え、どうかしたなんか嫌いなもの入っていた?」

「タコさんウインナーの隣になんかいる!!」

 ああ、そうか。りくは()()あれのこと言っているんだ。

「カニさんウインナーだよ」

「へー。タコさんウインナーが初めて知ったからしてくれたんでしょ?」

「……まあ。そうだけど」

 そう。りくのこの顔が見たいがためにしたことだけに当てられて歯切れが悪い。

「それが嬉しいんだよ」

りくは、しみじみカニの形をしたウインナーを口にした。

「卵焼きも食べてみて」

 お弁当箱を持ち上げて取りやすくする。

「うん」

 甘い玉子焼きを持ち上げて一口で頬張り、

「甘くて、ふわふわで美味しい」

 その笑顔にあたしは、ひと安心する。おにぎり鮭とおかかどっちがいいか聞くと、鮭と答えたので鮭の方を渡す。

 食べ終えて、りくはベンチの上に寝転びあたしのひざの上に頭を乗せた。

 吹いてくる風に髪がなびき、前が見えなくなる。乱れた髪を整え終えるとりくと目が合った。あたしはこの瞳に弱い。ずっと見ていたいのにいざ視線が合うとどこを見たらいいかわからなくなる。この瞳に見つめられるたびに心臓が早鐘のように響いている。

「次のライブね」

「うん」

 今度は、髪が乱れないように頭を手で抑えながらりくの言葉を聞く。

「クリスマスイブなんだ。聴きに来てくれる?」

 りくは手を伸ばし抑えている手に触れた。

「当たり前じゃない」

「よかった。クリスマスイブだから予定があるかと思った」

「残念でした。その日も仕事です。でも、仕事が終わったらダッシュで行くよ。あ、チケット代」

「いいよ。そんなの」

「それはだめ。あたしはりくの作る歌が、曲が好きなの。歌っているのを見るのが好きなの。そこにちゃんと対価を払わせて。タダにするなら行かない」

 あたしは、きっぱりと言ってそっぽを向いた。りくは、今どんな顔をしているんだろう。 

「ごめんなさい。わかった。チケットできたら渡すからその時ちょうだい」

 その声音は、あまりにも幼すぎてあたしは、りくを置き去りにしてしまったかのような感覚に陥った。

 

 それからは相変わらずりくは、忙しくしているようで朝は会えているけれどあたしの肩に寄りかかって寝ていることが多い。話をしたかったけれど、休めるときは休んでほしい。朝の数分間だけど一緒の時間を過ごせるだけでじゅうだった。

 そして、ライブ当日。

 前回、来たときと同じライブハウス。街は、クリスマスソングが流れ街路樹は、色とりどりのライトに飾りたてられている。いつもは、寒さに首をすぼめ足早になるけど、この街並みをりくと見たいと思う。

受付の人も同じだったけど、前来たときとまったく違う髪の色になっていた。チケットとりくの名前を出したけれど特になにも反応はなかった。

ドリンクを烏龍茶に変えて早速、いすに座って飲んでいると笑いながらりくが来た。

「あ、もういすに座ってる」

「早いものがちってりくが教えてくれたんでしょ?」

「まあね。ゆりちゃんこのあと泊まりに行っていい?明日、朝からバイトなんだ」

「うん。いいよ」

「ありがとう」

 そう言いながらりくは、視線を動かした。誰か知り合いを見つけたのだろうか。

「じゃあ、俺そろそろ行くね」

「うん。またあとでね」

 手を振りコップに口をつけた。目線だけでりくのことを追ったけれどそのまま楽屋と思われるドアに入って行った。

 りくたちが出てくる前に烏龍茶を飲み終えてコップをカウンターに返しに行こうとしたら、りくたちが出てきて準備をし始めるとステージ前に数人集まったのであたしも慌てて、コップを置いてから前の方に陣取る。真ん中からちょっとだけズレたけれどいい。そばで聞けるだけでいい。

 暗転し、りくにスポットライトが当たる。初めて聴いたときとは違う衝撃が身体の中を駆け巡る。目線だけじゃない。周りなんて見る余裕ないけれど、ライブハウス全体が支配されるそんな気配を感じた。

 最初の曲は、りくの言っていた新曲だった。あのときのお子様ランチの歌はの鼻歌は、形を変え大人が食べるようなものに様変わりしていた。さしずめ大人様ランチと言ったところか。原曲を知っているだけにその変わりように思わず、口角が上がる。

 セットリストは、ジェットコースターのようなアップテンポばかり。全身がゆすぶられているような感覚に陥る。もともと、りくの作る曲は激しいものばかりらしい。バラードとかラブソングなんて作ったことがないと言っていた。なんて書いていいのかわからないと。でも、そこには、伝えきれないほどの想いがあるのだと思う。だって、こんなに心をざわつかせるものなのだから。だからこそりくが、作るラブソングをいつか聴いてみたいとも思う。それがたとえあたしに向けられたものじゃないのだとしても。

 初めて見たときと同じようにそっけないメンバー紹介でりくたちのライブは、終わった。

 あたしは、小さくりくに手を降るとりくも同じように小さく手を振り返してくれた。いつもなら大きく振るのにひと目があるからなんだろうと思っていると、急に手首を横から掴まれた。

 理由(わけ)もわからず驚いていると、 

「ちょっと来て」

 掴まれた先を見ると、りくと同じくらいの年齢の女の子が目を釣り上げてあたしを睨んでいた。

 手首を思いっきり引っ張られ外に連れ出された。急な階段に躓きそうになるがそんなことはこの子は、構わないようだった。

 地下の溜まった空気から解放されたけどあたしは、清々しい気持ちにはなれなかった。それは、この子の視線がどこか避難しているようにも私怨じみたもののように感じた。彼女は、出入口の少し離れた路地に連れて行きそこで突き放すかのように掴んでいた手を離した。

「もう来ないでもらえますか?」

「どうして?私が来ることでりくに迷惑はかからないと思うけれど」

 あたしは、掴まれた手首をさすりながら言う。

「応援しているだけならりくの見えないところでやって。ただのファンがでしゃばらないで」

「あたしとあなたは、たいして変わらないと思うけれど」

 あたしがそう言うと彼女は、軽蔑の目を向け鼻で笑った。

「は?違うじゃない。私は、ファンである前にりくのクラスメイトで友達。隣で立っていてもなにも不自然じゃない」 

「でもそれだけじゃない。ここに来てしまえばあなたは、ファンの一人でしかないじゃない」

 彼女の言っていることは、間違っていない。でも、ここで簡単には引き下がれない。今までのあたしならこんなことは言えなかったはずのことを口にする。

「あんたは違うって言うの?ばっかみたい。いい年したおばさんが高校生と恋愛しないでよ!りくがしてるのは恋愛じゃなくて……」

人が来た気配がして目を向けてみると叱られた子供のような顔をしたりくがいた。

「あ、なんかごめん……」

そう言って去ろうとしたりくの手を慌ててあたしは掴んだ。

「終わったら家来るんでしょ?なにが食べたい?用意して待ってる」

りくは、少し戸惑ったあと、小さな声で、

「…………オムライスが食べたい」

と言った。

「うん。わかった用意して待ってる」

りくが、安堵したのを感じあたしは、その手を離した。

「じゃ、あとで」

「うん。気をつけて来てね」

「ゆりちゃんも気をつけて帰ってね」

ライブハウスに戻っていくりくを見送り、彼女に目をやった。

「あたしはこれからもりくのライブを見に行くし、りくが望んでくれるのならご飯を作って待っている」

あたしは、そう宣言し彼女の言葉を聞かずに家へと急いだ。りくのためにオムライスを作るために。

 

 りくが来るだろうと前もって買い物を済ませていたから家に帰ってすぐに料理に取り掛かる。ウインナーは、輪切りにし玉ねぎをみじん切りにしていく。なぜだか今日はやけに目に染みる気がする。涙がこぼれないようにときおり上を向く。下を向いただけで想いが溢れて零れ落ちそうだった。

 あの子に言われたことを反芻する。本当は、気がついていた。あたしたちがしているのは恋愛じゃない。好きだと言ったことも言われたこともない。少なくてもあたしは、りくのことが好きだし他の人以上に特別な存在だ。隣にいないことを考えたこともない。でも、それが果たして恋愛と呼べるものなのだろうか。りくは、ふたりになるとすぐ手を握るし、料理をしているときもしていないときもそばにくっつきたがる。涙で視界がぼやけてくるのを手の甲で拭った。涙味のオムライスなんてまっぴらごめんだ。

 ご飯が炊きあがり切った具材あわせてバターライスにする。初めてりくが家に来た時の味だ。ふわふわのオムライスを食べてほしいから卵はりくが来てから乗せることにする。紅茶でも入れようかと考えていると玄関に人の気配を感じた。炒めているときに足音が聞こえてきたけどその時は隣の住人が帰ってきたと思っていたけれど、今はとくに聞こえなかった。あたしはまさかと思ってドアを確認もしないで開けた。

「わ。びっくりした」

 ドアの前には、泣いたあとのような無理に笑顔を作っているような顔のりくが立っていた。

 「ゆりちゃん。ちゃんと確認したー?」

 いつもと変わらない声音。でも、なにかが違う。

「おかえり。オムライスもうすぐできるよ。名前書くんでしょ?」

「ただいま。うん。書く」

「あと、卵乗せるだけだから手を洗ってきて」

「はーい」

 手を洗う音を聞きながら卵を溶いく。この想いも洗い流せればいいのに。そうすればきっと―――――。

「ゆりちゃん。卵焦げちゃうよ」

今度は焦げる前になんとかすることができた。

 なにもなかったかのようにすることはやっぱりできなくて、でもあたしもりくも切り出すことができなかった。

 りくは、軽めの朝食を食べたあとそのままバイトへ行った。


 休み明けいつものようにりくと会ったけどぎこちなさは変わらくて話しても差し支えのない話ばかり。勉強が忙しいとか。冬休みに入るからバイトたくさん入れちゃったとか。このままフェードアウトしていきそうな予感がしてきた。

会社につき、デスクワークをしていると、今ままでの日々が思い出されてきて仕事が手につかなくなってあたしは―――――。


 思わず来てしまった。好きでいること以外の迷惑はかけたくなかったのに。

 朝、偶然知り合ってそこからよく話すようになって、ライブにも行くようになって家に来るようになった男の子の通う学校の校門にあたしは、立っていた。

 やっぱり、帰ろう。そうしたとき、遠くから見慣れた男の子が歩いてきた。りくだ。ギターバッグを背をっているからだけじゃない隣にはあの子が寄り添うように歩いている。小さいものを差し出している。りくはそれを少し、面倒くさそうに受け取ると耳の中に差し込んだ。女の子の方がなにか話をし、ふたりとも足を止める。手のひらサイズのなにかを操作している。校門の内側と外側。それは明らかな境界線のようにも感じられた。あの子が言っていた。そばにいてもおかしくない関係を見せつけられる。

 あたしは、りくのことをなにも知らない。

 いくつなのか、どこらへんに住んでいるのかとか好きな教科とか家でなにをしてなにを思っているのか。     

 わかるのは会話の節々に出る些細なこと。オムライスが好きで、自分たちが造る音楽に誇りを持っている。

 あたしは、あの女の子のように隣を歩けない。

 会わないで帰ろう。来た道を戻ろうと思い振り返ろうとしたときりくが顔を上げこっちを見た。

 さっきまでのめんどくさそうな瞳が明らかに変化したのがあたしにもわかった。

「ゆりちゃん!」

 りくは、手を上げ手を振った。耳に差し込んだものを女の子の手の中に戻してあたしの方に走ってきた。

 その時のあの子の刺すような視線は、今でも忘れることができない。

「どうしたの?会社は?」

 あたしは、りくと手をつなぎ通学路の道を駅まで歩いている。

「……早退してきちゃった」

「え、どこか具合悪い?」

 足を止め心配そうにあたしの顔を覗き込んだ。そんな、りくの優しさに瞳が水の膜を貼る。

「ううん」

 頭を振ったせいかその膜は決壊した。りくは、優しい声音でどうした?とそのまま手を引き道を外れ小道に入ってくれた。

「ごめん」

「俺の方も、ごめん」

「なんで?りくは悪くないでしょ?あたしが勝手に来ただけだし」

「え?そんなこと?」

あたしたちは、お互いにきょとんとした。

「お迎えうれしいけど俺これから、練習なんだよね」

「そっか。練習なら仕方ないか」

「そのかわり、明日ゆりちゃん家行っていい?」

「もちろん」

やったーと繋いだまま手を上げ大きくばんざいをした。

 

朝食を食べたあと、軽く掃除機をかけているとチャイムが鳴った。荷物など頼んでないから来る人は限られているが、突然の訪問にはびくりとする。念の為、ドアスコープで確認すると思っていた通り、りくだった。

「おはよう、りく。朝早くからどうしたの?」

「ゆりちゃんおはよう。少し寝かせて」

あくびをしながらそう言ったりくは、半分寝ぼけているのかあたしに寄りかかっている。一緒になって倒れそうになるが壁に手をつきなんとか踏ん張る。

「それはいいけれどベッドまで頑張ってよ。このままじゃ倒れちゃう」

耳元でりくの息づかいを感じた。

「わざとやってるでしょ」

「ばれた。でも眠いのは本当。さっきまでバイトしていたんだ」

舌をぺろっと出しながら言うりくにおかえりと頭を撫でる。

「ただいま。やっぱりカレーだった」

「なんでわかったの?」

「ここに来る途中、だんだんとカレーの匂いがしてきてどこかの家がカレーなんだ。それがここならいいなって思った」

「カレーなんてたいしたものじゃないでしょ」

「そんなことないよ。俺、親が作ったカレー食べたことないけれど家によって少し違うんでしょ?」

確かに家庭によって違う。二種類のカレールゥを使う人もいればいちからスパイスを使う人もいる。

「家によって隠し味があるよね。チョコとかコーヒーとか」

「ゆりちゃんはなにを入れてるの?」

「なんでしょう?」

絶対わかるわけ無いと、あたしは勝ち誇ってフフンと笑ってみせた。

「うーんと…………?」

あたしは、目を見開いた。絶対にわかるわけがないと思っていたのに一発でりくは当ててみせたのだ。

「すごい!どうしてわかったの?」

りくは、あたしの背中の方を指差した。

 カレーを食べ終えたりくは、ベッドで眠りその横であたしは、洗濯物をたたんでいる。

忙しいみたいだし、ゆっくり眠れるのなら寝させてあげよう。

 りくが起きてきたのは、陽も落ちた頃。あたりはすっかり暗くなってからだった。

 オムライスが食べたいというりくのリクエストに朝残ったカレーをかけオムカレーにした。

「ゆりちゃんは、明日仕事?」

「ううん。もう仕事納めてきたから休みだよ」

「よかった。それなら、デート行かない?」

「こんな時間に?」

この時間に開いているお店は飲み屋やスーパーくらいしかないのだと思うけど、そう思っているとりくが、

「この前、行ったところ。夜景見せたいっていったでしょ」

「あ、それなら温かい飲み物作るからちょっと待ってて」

あたしは、キッチンに立ちりくのお気に入りの茶葉を使って寒い日には温まるチャイティーを作ることにした。チャイティーと言っても入っているスパイスはジンジャーパウダーだけだけれど即席だけどおいしいからあたしは、好んで飲んでいる。この味をりくも気に入ってほしい。


冬の夜は、キンと冷えていてでも繋いだ指先だけは温かい。空を見上げると星たちは瞬き、輝いている。頂上に着き、ベンチに座ると、りくが、

「あのね。ゆりちゃんに一番に知らせたくて」

「なに?いいこと?」

あたしの耳元に口を近づけた。

「デビュー決まった」

「ええっ?デビュー?」

「声、大きいよ」

しぃーと言った。周りにはあたしたちしかいないのだから気にすることはないのかもしれないけど、りくは、人差し指を立てて口元に持っていく。

「まだ他の人には内緒なんだから。ホントは、ゆりちゃんにも話ちゃだめなんだけれど黙っていられなくて」

りくは、りくたちは本気でバンドをやっていた。数回しか見に行ってないけど、そう思う。他のバンドの人たちも遊びでやっている人たちはいないはずだ。それでも、デビューできるのはきっと一握りだりう。たとえ、デビューできたからとはいえ売れるとは限らない。そういう世界だということはあたしもりくたちも知っているだろう。りくたちがデビューして嬉しい反面。あたしの顔が曇っていくのをりくが気がついた。

「ゆりちゃん?俺たちがデビューするの嬉しくないの?」

「嬉しいよ!嬉しい……けど」

「けど?嬉しいけどなに?」

あたしの指先をりくは掴んでいた。

「デビューしたらきっとりくは離れていっちゃう」

「離れないよ。それは変わらない」

「変わるの!そして私は離れていっちゃうりくを止められないんだ。だって、他の誰よりも浅いかもしれないけれど、りくたちのバンドのファンは、私なんだもん」

りくの手を振りほどこうとするが、しっかりと掴まれていて振り解けなかった。

「それならずっと俺のそばにいて俺のことだけ見てよ」

あたしもそうしていたい気持ちでいっぱいだった。けれど、離れていかれるのが怖かった。

「そんなに俺のことが信用できないの?俺が年下だから?一瞬の気の迷いで一緒にいたとでも思ってるの?」

あたしの手を握っていたりくの手が震えていた。

「そうじゃ……。ごめんなさい」

そんなりくの手をあたしは、振り解いた。今度は、簡単に離れてしまう。

「ゆりあ!!」

必死に呼び止めるりくの声を聞きながらあたしは、足早に家に帰った。

家に帰ってから、一緒に飲もうと思って用意したチャイティーを忘れていたことに気がついた。


会社も学校も休みということは、りくと会えないということに今更ながら気がついたあたしは、自分から振りほどいたのに取り残されたような感覚に落ちた。

休みだからといっても自堕落に過ごしすぎていた。

いつの間にかあたしの中でりくの存在は大きくなりすぎていてそのことにすら忘れていた。

「りく」

声にならない声でりくの名前を呼ぶと、チャイムが鳴った。

「りく!」

よろけながら玄関を開けると少しあきれた顔のりくが立っていた。

「ゆりちゃん。ちゃんと確認した?そういうところ心配になる」

「りく。お腹空いていない?」

「え、まぁ空いてはいるけど」

「それなら作るから少し待ってて」

腑に落ちないりくをリビングに連れていき、ちゃんと座っていて待っていてと言ったあと料理に取り掛かる。

しばらくしてリビングにプレートを持って戻るとやはりりくは拗ねていた。でも、そのプレートを見ると一変して、

「お子様ランチみたい!」

リクエストされたわけではないけれどに出したものはオムライスにミニハンバーグ、ポテトサラダのワンプレート。りくが言うようにお子様ランチのようだった。

大皿をテーブルに置くとお皿とゆりあの顔を交互に見た。

「何かのお祝い?」

「お祝いでしょ?デビューが決まったんだし、りくが食べたいって言ったものを作っていたらそうなっただけ。でもハンバーグはまとめて作っておいたものだし、エビフライは冷凍食品だよ」

「ううん。でもうれしい」

「子供の頃に食べなかった?私は、ファミレスとかレストランでそればっかり頼んでいたよ」

あたしがそういうとりくは、少し悲しそうな目をさせた。でも、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「ガキの頃、一度食べったっきりだったな。いただきまーす」

両手を合わせてオムライスから頬張る。

「美味しい」

子供みたいに唇の端にケチャップがついている。喜んでいるりくを見ながらあたしもポテトサラダを咀嚼する。

こんなに喜んでくれるのなら次はもっと本格的に作ってみるのも悪くない。ハンバーグにエビフライ。ポテトサラダにスパゲッティ。ケチャップライスには旗を建てるのを忘れちゃいけないデザートにはプリン。ホイップクリームとさくらんぼちょこんと乗せて。コンソメスープかコーンスープのどっちがいいか今度、りくに聞いてみよう。

「あのさ」

「うん」

りくは大きく息を吐いた。

「好きってどんな事を言うの?その人のことを知りたいって思ったら?キスしたいって思ったら?触れたいって思ったら?一緒にいたいって思ったら?俺は、ゆりちゃんと一緒にいたいって思うよ。ゆりちゃんがご飯作っててくれて俺が帰ってくるときに匂いで夕飯がわかってそれが俺の好きなものだったら嬉しくてドアを開けたらおかえりって言ってくれて俺もただいまって言ってそんな時間が好きだよ。でもこれって普通じゃないの?」

「そんなことないよ」

「俺がしているのは家族ごっこなのかな」

りくは、気づいてしまったのかもしれない。

あたしは、りくの手を握ろうと手を伸ばしたけどりくは、その手を拒絶するかのように引っ込めた。

それが、答えだったのかもしれない。

「…………ごめん」

「なにが、ごめん?恋愛感情もないのに一緒にいたこと?それともこんな年上のあたしに触られたくないから?」

だんだんとあたしの声色が強くなっていく。

「そうじゃないけど」

「けどなに?」

りくは黙ってしまった。

「帰って」

あたしはりくの顔を見ずに言った。

りくは、どうしたらいいのか分からない様子だったけど、あたしが俯いたままだったからかまたねと言って部屋から出ていってしまった。静かにドアがぱたんと閉まった。

今度こそ、終わった。あんなに離したくないと思っていたのにあたしから手離してしまった。りくのいなくなった部屋は、なんだかしんとしている。どれくらい時間がたったのだろうか。何時間かのような気もするし数分かのような気もする。

りくに逢いたい。そう思ってしまったら夜が明けるのすらもどかしくて気がついたらりくを追いかけけていた。追いつけるかわからないけれどなにもしないでいるよりはいい。りくに逢ったら真っ先に謝ろう。もしたとえ許してくてなくたっていい。応援している気持ちに嘘はない。初めてあったあの日から、音楽が鳴り止まなくてりくが触れたところが熱くて、目をつぶっていても焼き付いて離れなくていなかったときのことを思い出せなくて、こんな感情知ってしまうくらいならはじめから知りたくなんかなかったなんて思えなくて―――――――――――。

歩いているうちになにもないところで足を取られ転んでしまった。

「うぅ……。ふぇ……」

言葉にならない声を発してしまう。

 もうだめかもしれない。いつもは平気な段差でも、今だけはだめだ。

 りくといることで、いつの間にかこんなに弱くなっていたのか。風に飛ばされそうな声音で彼の名前を呼んだ。でも、その場にりくはいるはずもないから来てくれるはずもない。これからも、こんな日常が続いていくのかと思うとまるで目隠しをされたようだった。

 たくさんの幸せとありがとうをもらってもこんな最後ならあたしたちは、会わないほうがよかったのかもしれない。そんなふうに思ってしまう。その場にひざをつけたままぼろぼろと涙をこぼす。ぼやけた車のヘッドライトが通り過ぎていく。

ひざが痛い。

涙を拭う手のひらが痛い。

なによりりくがそばにいないことのほうが痛い。

歌で生きていくことが夢だっていうことは理解(わかって)いたし、あたしもそうなることを望んでいた。

うまく呼吸ができない。息をちゃんと吐けているのか吸えているのかすらわからない。


強い光に包まれたかと思っや瞬間、視界が暗転した。

あたしは、りくを傷つけたいわけじゃないけどりくの傷になりたい。そう思ったからきっと罰が当たったんだ。

こんなに強い光を見たのは、初めてりくが歌っているのを見た日、以来だと思った。

 

 

心に。

全身に。

過ごした日々が刻まれている。

たちすくみ泣き叫んでしまいたい。それでも声にならない。ただ、がむしゃらに曲を作り思いを綴ってきた。

カーテンの隙間から漏れる陽射しに目を細め、まだ夢心地ながらも目覚まし時計を確認すると同時にその微睡みもいっきに覚めた。気が付かないうちに止めてしまっていたようだった。慌てて 制服に着替えかばんとギターバッグを掴む。マグカップにコーヒーをサーバーから注ぎながらなぜかつけっぱなしのテレビからニュースが流れて危うく持っていたカップを落としそうになった。 視界のすみに入った時間に遅刻寸前だったことを思いだした。テレビを消して、家から飛び出す。もつれる足をなんとか地につけ 学校へとかけ急いだ。なんでこんなに急いでいるんだろう。もうあの時間の電車に乗る意味なんてないのに。

ねぇ。ゆりちゃん。あなたも同じ気持ちだった?


目をつぶるたびに

季節がめぐるたびに

夜ベッドに入るたびに

ひとりぼっちの野良猫を見かけるたびに 

街中で流れたクリスマスソングを聴くたびに 

買い物中で好きだったものを見つけるたびに

弁当箱に詰められたウインナーを見るたびに

ケチャップで名前を書くたびに

だから俺は

風が肩を頬を撫でるたびにそう願う。


 幽霊でいいから逢いに来て。と。



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