009_永禄三年(1560年) 三人の侍
この時代の水流は物流・経済と密接な関係にある。
近江が滋賀と呼ばれる時代では、工業が発達し、大型船や飛行機、そして自動車によって陸海空から物品を運搬しているが……当然この戦国時代にそのようなものは存在しない。
ならばどうやって物を運んでいるかと言えば、木造船で川や海を渡り、馬や人が陸路を使って各地へ運ぶのである。
しかし一度に人手で運べる量は限られており、大量の物品輸送は困難だ。
また馬は貴重な家畜。特にこの戦国時代では、少ない移動手段の一つであるため戦にも利用され、非常に高価。
そうなれば普通の商人や庶民が多数の馬を使えるはずも無く、大量の物品輸送は川や海を利用するのが一般的だった。
そして、船で物を運ぶためには必ず港が必要になる。
港ができれば物を運ぶために人が集まり、人が集まれば彼らを相手に市が立ち、市が立てばそこに経済が生まれる。
若狭や近江が豊かとされ、朝倉が敦賀郡司などと言う役職を作ってまで敦賀湾を抱えるのは、日本海や淡海によって生まれる物流経済の恩恵を受けるためだ。
そのお蔭で湖北一帯の水運利権を牛耳る浅井家は、他国に比べるとけして広大な土地を持っている訳ではないが、その圧倒的な財力のお蔭で北近江勢の筆頭になり得たのである。
これは裏を返せば、水路さえ繋がっていれば陸路で敵中に孤立していても味方の支援が受けられると言う事に等しい。
淡海の南に位置する肥田城が浅井についた今、陸路では六角領地から分断されているはずの東近江の国衆が、未だに六角家の影響を強く受けている理由もこの水運が原因だった。
淡海南東には、朝妻と呼ばれる大きな港町がある。
南近江との物流を繋ぐこの港は当然のように六角家の支配下にあり、東近江の六角勢に南近江から船で運ばれた物資を送ることで、未だ支援を続けていた。
その結果、陸路で分断されていてなお六角勢の勢いは強く、浅井が東近江の平定に苦戦する原因になっており、この朝妻の情報を手に入れて一刻も早く制圧する事が浅井にとって急務と言えた。
「……とは言え、よもや殿自らが視察に出られる必要はなかったでしょうに」
長政の隣を歩く遠藤直経が、そんな風に呆れた顔でぼやく。
旅装束に身を包んだ二人の姿は、今は近江の南東、坂田にあった。
ここは朝妻から東に数刻のところにある浅井方の領地で、大きくうねった天野川を挟んで朝妻とは対岸の位置にあたる。
この天野川は淡海から東に延びる河川で、その先では東山道と呼ばれる道に繋がっている。
東山道はこの時代には数少ない整備された道の一つであり、美濃から駿河へと続く太平洋側の陸路であるため、そこに繋がる天野川は東への物流を担う重要な河川と言えた。
その重要な河川が六角に利用され、東近江の平定を阻んでいるのは苦々しい事実ではあるが。
「何を申すか。私が直接この目で朝妻、そして近江の今を知ることで、今後の近江の統治に大きな影響を与える。言葉や文字だけでなく、直接この目で見る事こそが肝なのだ。それから、今の私は新十郎だ、殿ではない」
尤もらしい事を言っているようにも聞こえるが、その実、国衆相手の書状の処理に嫌気がさして外に出たがっているだけ。
その事をよく知っている直経は、「失礼いたしました新十郎様」と、相変わらず呆れた目を長政に向けていた。
「とは言え……御身は既に浅井家の長。万が一の事があれば浅井家は……」
「ならばその時は家督を新八郎へ譲る。あやつも父上から色々と学んでいるようだからな、私の身に万が一の事があっても浅井家を担ってくれよう」
「その万が一が起こらぬために私がおるのです。少しはご自重下され」
やれやれといった様子の直経をよそに、久方ぶりの外出である長政は鼻歌混じりに辺りへ視線を巡らせた。
行きかう者達は誰もが馬や牛、そして自身で荷物を運搬する者達ばかり。
時折、牢人と思われる者達もちらほらと見受けられ、これから京へ向かうのか、或は美濃へ向かうのか、急ぎ足で道を往来していた。
今回の長政達の目的は、彼らに紛れて六角勢の視察を行う事。
いくら浅井家当主、浅井長政とは言え、その名を知る者は多くとも、顔まで知っている者は殆ど居ない。
少しこうして旅装束を身にまとってしまえば、彼らが北近江を収める戦国大名とその重臣だと気付く者は早々いないだろう。
とは言え六角家で人質として過ごしていた以上、長政の事を知っている者が居ないとも限らない。
そのため今回の視察には、細心の注意を払う必要があるのだった。
「この道をまっすぐ行けば、四木と呼ばれる村に出るようです。天野川を挟んで朝妻の丁度北に位置する村のようで、上手く行けばそこから、朝妻の様子を探る事もできましょう」
直経の言葉にうむ、と頷く。
どこまでも広がる畑やくさむらに田舎の匂いを感じつつ、長政は四木村を目指して歩みを進める事とした。
◆――
「随分と……寂れているな」
それから数刻後、長政が目にしたのは寂れた村の様子だった。
直経の手の者の報告によれば、ここが四木村で間違いないらしいが……
人の気配一つなく、ボロボロの納屋のような家が立ち並び、ただ乾いた風が吹きすさぶ。人が本当に住んでいるのかすら疑わしい。
「様子がおかしいですな」
遠藤直経も村の様子に訝しむ。
いくら寂れているとは言え人が生活している痕跡があちこちに残っているため、無人と言う事は無いはずだ。
恐る恐ると言った様子で長政が村へ足を踏み入れると、すぐさま遠藤直経がそれを止めた。
「人の気配がします。恐らくは家の中に」
言われて家の中をよく見てみれば、確かに人の姿がうっすら見える。息を潜めているものの、気配を完全に消しきれていない。まるでこちらをじっと観察しているようだ。
「あまり良い気分はしないな」
嫌な視線の感覚を味わいながらふっと顔を村の外へ向けた、まさにその時だった。
「うおおおおおおおおおおーーーーっ!」
突然の怒声。物陰から現れたのは刀を構えた男。
長政や直経をめがけてその男が突進を仕掛けてきたのだ。
「お下がりを!」
すぐさまそれに反応し、刀を引き抜いたのは直経。
相手に向かって肉薄し、その動きに合わせて振り抜かれた一閃を上手くいなした後、体をぶつけて距離を取った。
「何者だ!」
直経が叫ぶ。
「名乗る名など無し! お前たちにくれてやる米など無いわ!」
相手の侍はそう叫ぶなり態勢を整え、刀を中段に構える。
構えに迷いはなく、武術の心得があるようだ。それに合わせて刀を構えなおした直経との間には緊張が走る。
相手の侍は見たところ若く、長政より少し年上程度に見える。しかし体つきはしっかりしており、どこかの武家の子だという事は明白だった。
――まさか六角か。何故バレた? どこかで下手を踏んだか?
慌てて長政も刀を引き抜くが、既に相手の侍の目には長政の姿など映ってはおらず、また長政も二人の間に割り込む事は出来ないでいた。
まさに一触即発。何かきっかけさえあれば、すぐに血なまぐさい戦いが始まる。
そんな緊張感を伴って、二人の間には死線ともいうべき見えない隔たりが生まれる。
その死線の前に居る直経は、相手の侍と一定の距離を取りながらじりじりと、じりじりと間合いを図る。
お互いに隙を探すが踏み込めず、と言った様子で、まるで、先に動いたほうが斬られるとでも言わんばかり。
刀を握る長政の指に、ぎり、と力が入る。その瞬間、乾いた風が両者の間に吹きすさび、そして。
「双方待ったァ! 刀を収めよ!」
不意に現れた男の声が、この緊張を叩き割ったのだった。
◆――
「まッッッッッッッッことに申し訳ない! この通りだ!」
先程切りかかってきた男は長政達がただの旅の者、新十郎とその護衛の喜右衛門だと名乗ると、すぐさま土下座して頭を地面へこすりつけた。
「誠に申し訳ない。我らは六角の兵からこの村の米を守るために集った者だ。こんな寂れた村に来る侍など、六角の手の者くらいだと思ったのだろう。……全く、あれほど慎重に立ち回れと申したのに……重ねてお詫びいたす」
そう言って、後から現れたもう一人の侍も頭を下げた。
その男は先ほどの侍よりも更に一回り程年上に見え、やけに落ち着いた雰囲気を纏っている。それに、どこかの名家の出なのか、侍にしてはやけに所作が美しい。
「いや、こちらこそ名乗らなかったのが悪いのだ。頭を上げてくだされ」
長政が声をかけると、土下座していた男がゆっくりと立ち上がった。
「誠にかたじけない……それがしは島勝猛と申す。この村には故あって立ち寄ったところ、こちらの十兵衛殿と出会い、事情を伺って加勢する事にした次第」
そう言って彼は後から現れた侍へ視線を向ける。それを追って長政と直経が視線を向けると、水を向けられた十兵衛という男が口を開いた。
「改めて、私は十兵衛と申します。妻と共に旅をしているのですが、こちらの村の者達に寝床を貸してもらいましてな。その折にこの荒れ具合の事情を聴き、一宿の恩を返すために力を貸している次第にて」
島勝猛と十兵衛は、そう言うと村の方へと視線を向けた。
「嫌に寂れておるでしょう。少し前までは天野川の恩恵を受けた豊かな村だったらしいのですが……今、この村は六角の兵に襲われているようなのです」
そうして十兵衛が語りだしたのは、この村の立たされている現状であった。
四木村のすぐ南には天野川が流れ、川を挟んだ反対側には六角の治める朝妻がある。
この朝妻、東近江の六角勢にとっては命綱ともいえる港のため常に六角兵が駐在しているのだが、定期的にその兵達の人員交代がされるのだという。
そしてその交代の折、六角兵達は川を渡ってこの四木村に訪れるのだ。
やってきた六角兵達が行うのは四木村での食料、或は人の略奪と焼き討ち。
天野川から北は浅井の領地であるため、浅井の領地から略奪を行って物資を減らしてやろうという算段なのだろう。
誰もが食うのに必死なこの戦国時代。ただでさえ現代に比べて寒冷な気候で冷夏が多く、また戦火で畑が幾度も焼かれるため飢饉も珍しいものではない。
そんな時代に戦争という食料の大量消費を行い、不足した食料を他国から略奪し、奪いきれない分は敵を苦しめるために焼き払うのだから、民が飢えるのも当然と言えた。
そしてこの略奪行為は、浅井が六角に反旗を翻してからというものずっと行われているのだという。
「……とは言え今どき珍しくない話です。こんな事が日本各地で行われている……近江には淡海があって魚が獲れる分まだ良いというもの。これが東の甲斐や越後に行くと、もっと酷いと聞きます」
「……あそこは、去年も今年も、冷夏の飢饉で米が値上がりしているようですからな」
遠藤直経がそう言うと、十兵衛は一度頷いた。
「左様。そんな場所では、金のない百姓は飢えて死ぬしかない」
十兵衛の言うように、日本各地で同じような事が起きていた。
足りていない食料を求めて誰もが戦い、その戦いの為に食料を消費し、戦略の為に食料を焼く。
そして残るのは、焼き尽くされて傷ついた村々と百姓たちだけ。
例え勝っても勝ち逃げは許されず、奪った土地には因縁が付きまとい、負けた者達は土地を奪い返すために幾度も戦い、奪った者達は今度は守るために戦う。
戦いが戦いを呼び、更に食料をすり減らし、そのしわ寄せに民が飢えていく。
そんな、誰もが救われない、法すらまともに機能しない末法の時代。それがこの戦国時代だった。
「実に嘆かわしい事よな……」
十兵衛のつぶやきが、寂しく響いたのであった。