082_永禄七年(1564年) 今仲達の一手
「敵の動きはない、と言う事か……」
「はい。手のものによれば、夜のうちに城を抜け出した様子もないとの事です」
その日の朝、境内で再び評定が開かれた。
総大将の朝倉景垙は昨日の酒が残っているのか、眉間に皺を寄せて小難しい顔をしている。
それを周りの者達は景垙が不機嫌だと思ったのか、それともいつもの事だから自分達が引き締めなければと思ったのか、辺りにはピリリとした緊張感が漂っていた。
だから一杯だけだと言ったのに――と思う長政であったが、引き続き夜鷹や他の者らからの報告を続ける。
「攻城用の鉄砲隊の支度は整っております。ただこの霧ですから、霧が晴れ次第、我ら浅井は動けるようになるかと」
霧で同士討ちが起きてもかなわない。そんな思いと共にそう締めくくると、景垙は一度頷いて地図を見下ろした。
「どの道我々とて、この霧では動けぬ。下手に山道を通って罠にかかってもたまらぬからな。とは言え敵は一千にも満たぬ兵で、その上援軍もない。霧が晴れ次第、まずは刈田を行い敵を誘い出す。着実に追い込もうではないか」
刈田、或いは刈田狼藉とは、乱取りの一種である。
敵地で米を略奪する事、特に田んぼの米を勝手に刈り取る行為を指す。
今の時期、敵の畑には春に植えた米が成長し、稲穂が垂れているが、それを育てた敵は城に篭っていて刈り取る事ができないでいる。
それを横から出てきた朝倉軍が、悠々と刈り取ると言っているのだ。
手塩にかけて半年の間育ててきた米を横から掻っ攫われて、平気でいられる百姓など居ない。
ましてやそれが一年分の食い扶持ともなれば尚更。
この刈田狼藉に我慢できなくなった農兵達が城から出てきて、朝倉軍を迎撃する動きを見せれば御の字。
そのまま出てきた敵を打ち払う、そう言う腹づもりなのだ。
それにもし出てこなかったとしても、臨時収入として今年は米が増えるため朝倉方には損がない。
攻め手にとっては得しかない行為なのだ。
そんな刈田狼藉を行えると言う事で、浅井を除いた朝倉家の者達の意気があがる。
臨時収入が増えるともなればそうなるのは当然だ。
「では各々持ち場に戻り、引き続き城を囲まれよ。霧が晴れてきたら今一度評定と致そう」
景垙のその言葉で一旦はお開きとなったが、次に彼らが集まる事になったのは未だ山々が霧に覆われたままのその日の昼頃の事だった。
突然の招集。良い予感はしない。
どこか嫌な空気を感じながら、長政は半兵衛と共に評定の席に着く。
そしてそれから少しばかりの後、主だった将が集まった事を確認した景垙はゆっくりと口を開いた。
「実は今しがた、義景様直筆の書状が届いた」
その言葉に誰もが疑問符を浮かべる。
この国吉城攻略に関しては景垙が全権を委任されており、義景の出る幕はないはずだからだ。
「して、書状にはなんと?」
朝倉家直臣の一人がそう問うと、景垙は言い辛そうに眉間にシワを寄せると、ゆっくりと口を開く。
「義景様が出陣なされた加賀攻めについてだが……状況が芳しくないらしい」
「加賀攻めが?」
直臣の言葉に頷き、言葉を続ける景垙。
「今、朝倉本隊は九頭竜川にて加賀一向一揆衆とにらみ合っているようなのだが……」
一瞬だけ、なぜか長政の方へ視線を向けた景垙は、そうして意を決したように言葉を続けた。
「我が方一万五千に対して、敵は既に――二十万を越える者達が参集しているとのことだ」
その知らせに、評定の席がどよめいた。
かつて朝倉宗滴が三十万を越える一向宗を退け、劇的な勝利を飾ったのもこの九頭竜川での戦いだ。
何の因果なのか、その時の様相が今再び起ころうとしているらしい。
「に、二十万とは……本隊は、大丈夫なのですか?」
直臣の言葉に景垙は暗く沈む表情のまま続ける。
「今はまだ戦いは起きていないようだが……戦いが始まれば、どうなるかわからぬ。義景様自らご出陣なされた事を知った一向宗が、これを好機と見て決戦を挑もうとしているのだろう。書状には、直ちに帰還し加賀攻めの陣列に加わるようにと記されている」
「帰還!? では国吉城はどうなさるのですか!?」
「……放棄するより他あるまい……」
景垙の言葉に陣中はにわかに騒がしくなり始めた。
戦いで最も犠牲が増えるのは、何より退却の時だ。
例え数に勝っていても、荷物を抱えて逃げるその背中を追い打たれれば被害が増えるのは当然の事。
だからこそこの時代、退却する際には敵に気取られないうちに退くか、或いは殿と呼ばれる決死隊を残すかの選択が求められる。
追撃してくる敵を足止めし、自らも退却する殿は難易度が高く、また生存率も低いため成功すれば大きな手柄となるが生き残る事は難しい事この上ない。
そんな撤退戦を、圧倒的有利だったはずの状況で始めなければならないと言うだけあって朝倉軍の動揺は大きい。
「せめて、国吉城を攻め落としてからではならぬのですか?」
「それでもし万が一の事があれば、我らは遅参を咎められて最悪はお家取り潰しぞ!」
「何故に今なのだ……! せめて一日、いや二日あれば城を攻め落とせたろうに……!」
朝倉家の者達が動揺する中、しかし景垙はゆっくりと長政に向き直ると、「すまない」と頭を下げた。
「せっかく浅井殿が助力してくれたと言うのに、かような事になってしまうとは……」
景垙の言葉に、長政は首を横に振る。
「景垙様、頭を上げて下され。致し方ない事です、景垙様が負い目を感じられる事はありません。それに、加賀の戦いが終わった後にまた攻め寄せればよろしいだけの事。めぐり合わせが悪かったのでしょう」
「しかし……そのせいで浅井殿の西近江攻めが遅れる事になってしまう。あともう少しだと言うのに……!」
心底悔しそうに歯を食いしばる景垙。所詮は他所の家の事だと言うのに、心の底から悔しがってくれているようで思わず笑みが漏れてしまう。
「我らとて、他にもやりようはあります。とにかく今は退却する事を第一にお考え下され。遅参して景鏡様に好きにされる訳にも行きますまい」
国吉城攻めは浅井にとって、西近江を切り取るための最後の手段。それが潰えれば後は三好との決戦しかない事をよく理解している景垙は、そんな長政の強がりに、それでも好意を無駄にすまいと「そうだな、その通りだ」と頷いた。
しかし問題はこれからだ。一体どうやって退却するか、そして誰が殿として残るかが一番の争点となる。
霧に紛れて退却しようにも既に霧は晴れ始めており、その上天候も当てつけのような快晴。小高い山の上に築かれた国吉城からはこちらの様子が丸見えに違いない。
何もかもが朝倉軍にとって不利な盤面になりつつあるのだ。
挙句、陣中では誰が殿を務めるかで揉める始末。
誰だって負け戦だとわかっていて殿を進み出るような戦馬鹿ではない。
それにこの山々の中だ、どこから敵の奇襲を受けて壊滅するかだってわかったものではない。
ここで殿に残ると言う事は、それだけ命を危機に晒す事に等しいのだ。
「ならばもはや、景垙様にご決断願うより他あるまい」
そうして言い争っていた朝倉家臣の者達が、そんな事を言って景垙に視線を寄せた。
それはさながら死刑宣告に近しく、一体誰が殿に残されるのか、緊張した面持ちだ。
当然命じる側である景垙にも同じだけの緊張が走る。この中で一体誰を残して、越前まで退却するのか――
「それでは、我らが殿を務めましょう」
――そして家臣達の顔をぐるりと見渡した時、凛としたその声が響き渡った。
声の主の方へ視線を送ると、そこには神妙な面持ちで顎を撫でる浅井長政の姿。
その視線は広げられた地図に向けられ、何やら思案しているようにも見えた。
「浅井殿!? いや、そういう訳にはいくまい。我らの都合で退却するのだ、そこまでしてもらう訳には行かぬ」
景垙は慌てて否定するが、しかし視線を上げた長政は首を横に振る。
「ここから越前に退くよりもここから北近江に退く方が近く、またすぐそこには浅井に与する国衆もおります。万が一の折を考えても、我らが残る方がどうとでもなりましょう」
「しかし……!」
「幸い我らは既に戦の支度が済んでおります。鉄砲を使えば、敵の進軍も阻めましょう。退路も近く、そして守りに慣れた我ら浅井が殿を務めるのが最も確実。それに――」
一旦言葉を区切った長政は、ゆっくりと続けた。
「……それに、我ら浅井にとって、景垙様は大恩人たる宗滴公のお孫。ならばその景垙様に恩義をお返しする事こそ、宗滴公へ報いる事と存じます。今こそかつての御恩をお返しする時にござる」
力強くそう言い切れば、朝倉家の者達は「おお……」とざわめき、それならばと誰もが長政の提案に賛同する。
「湖北の鷹殿であれば、きっと殿を上手く勤めあげられるに違いない!」
「左様、これ以上にない適任でございます。景垙様、浅井殿にお任せ致しましょう」
自分たちが死地に残らなくていい事に嬉々とした様子の者達に、景垙は表情を曇らせる。
しかし、長政はそれでも頷いて見せる。
「さ、早くお退き下され。せっかく退却できても、遅参とあっては景鏡様に良いようにされてしまいます。我らの事を憂うのであれば、ここは一刻も早く九頭竜川へ向かって下され」
そう言った長政の視線は鋭く、そして意思は固く見える。
これから死地に臨むと言うのに、その覇気はまるで衰えそうにない。
なるほど、これが湖北の鷹か。
心の中で呟いた景垙は一度瞼を閉じ、そして決断した。
「皆の者! 殿は浅井殿にお任せし、我らは退却する! 一刻も早く退き、本隊へ合流するぞ!」
『ははっ!』
景垙がいうや否や、直ちに支度を始める朝倉の者達。
続々と評定の場を後にして行く彼らを長政が目で追っていると、最後まで残っていた景垙が長政の前まで進み出て、そして言った。
「この恩は忘れぬ。必ずや生きて、また会おう」
「景垙様もお気をつけて」
そうしてお互いに頷きあって、景垙は評定の場を後にしたのだった。
◆――
それから少しばかり辺りが騒がしくなる中、朝倉家の者達が皆出て行った事を確認した半兵衛はゆっくりと口を開いた。
「見事なものですな。一体どこまで見通しておられるのやら」
半兵衛が呆れたようにそう告げると、長政はニィと嗤った。
「少々、上手く行き過ぎだなこれは」
「……加賀の一向一揆衆にとって、恐るべくは朝倉宗滴ただ一人。その宗滴の後を継ぐ朝倉景垙が不在となれば、好機とばかりに決戦に臨む。普段は一乗谷から動かない当主、朝倉義景が出陣したとなればなおの事。全ては今仲達の目論見通り、という訳ですか」
長政の想定通り、加賀一向一揆衆は動き出し、朝倉本隊は危機に陥り、そして朝倉景垙率いる国吉攻めの部隊は越前へ招集された。
これによって生まれる若狭の空白。これこそが長政の本命だったのだ。
「ここで仮に粟屋勝久を討ち取り国吉城を落としたとして、三好の介入は止まらぬ。どころか、粟屋勝久を取り逃せば面倒にさえなる。三好に若狭を――西近江を諦めさせるには、粟屋勝久本人が、三好に退くよう伝えるより他はない」
「城に籠る粟屋勝久から見れば、一斉に朝倉が退いていくのは約定通り、浅井の説得あっての事……そう見える事でしょう。これでようやく、粟屋勝久との交渉の場を設ける事が出来ると言うもの」
「敵の我らが交渉したいと言い出したところで、信じる訳が無いからな。少々手間はかかったが、予め奴らに送った書状通り、朝倉は退かせた。これでようやく向こうも席に着くだろう」
長政が越前朝倉の元へ行く前、政澄らに任せた仕事があった。それは粟屋勝久との交渉である。
ただで交渉の席に付かせようとしても、当然向こうは拒絶する。だからこそ長政は、朝倉軍の全面退却を条件に粟屋勝久との交渉の場を設けることを提案した。
きっと勝久もそんなことできる訳が無いと高を括っていたのだろう。越前から戻った時、政澄の手にはその条件を呑むと言う粟屋勝久直筆の書状が握られていた。
「最小の犠牲で最大の成果、ですか。この場合、最小の犠牲は一向宗の者達ですかね」
「戦なぞ起きんよ。景垙殿の軍勢が引き返して来れば、一向宗とて手出しできぬし、二十倍もの敵に対して朝倉も手は出せん。米の刈り入れもある故、ある程度見合ったところで解散だ」
「……全ては浅井様の思うまま、という訳ですか。かような壮大な策、一体どちらで?」
「昔マンガで読んだ」
「まん……?」
「西洋の書物だ、気にするな」
粟屋勝久からの書状を手に現れた八重を見ながら、長政はもう一度笑って見せたのだった。