080_永禄七年(1564年) 国吉出兵
「なるほど、委細承知した。加賀攻めに加われぬ事を知った時は口惜しい思いもしたが、かの湖北の鷹の戦振りを間近で見れるなら安いと言うもの。その知勇、存分に振るわれよ」
光秀との再会、そして朝倉義景への謁見から早十日。
国吉城攻めの陣振れの中、鎧兜を着込んだ初老の男、朝倉景垙はそう言って長政に笑いかけた。
敦賀郡司朝倉景垙。かつて朝倉家に君臨した越前の守護神、朝倉
宗滴の後を継ぐ敦賀郡司朝倉家当主である。
かつて三十万を越える勢力で越前への侵入を目論んだ加賀一向一揆衆をたった一万の兵で打ち払い、越前を、そして朝倉家を守り抜いたとされる朝倉宗滴。
彼の伝説は留まる事を知らず、越前の守護神として戦い続けた宗滴は七十八年間、一度として敗北の汚点を残すことなくその生涯に幕を閉じた。
彼は存命中、加賀一向一揆衆を一度たりとも越前へ侵入させた事がなく、彼のその豊かな経験は“宗滴話記”として記され、今も朝倉家の軍略指南書として語り継がれているほどの伝説的存在だ。
朝倉景垙はそんな宗滴の義理の孫に当たる人物で、噂では生前の朝倉宗滴に負けずとも劣らぬ戦上手だとか。
そんな彼が国吉城の攻略に手間取るのは、それだけ粟屋勝久の守りが見事と言うことなのだろう。
自身へ笑いかける朝倉景垙に長政は首を横に振って答える。
「こちらこそ、浅井を戦国大名として独り立ちさせて下さった大恩人、朝倉宗滴公のお孫で有られる景垙様と同道できる事、これ以上ない名誉にございますれば。その采配をしかと学ばせて頂きまする」
長政がそう言うと、今度は景垙の方が照れ臭そうに首を横に振ったのだった。
長政の祖父、浅井亮政。
浅井家三代の祖である彼が北近江で勢力拡大を目指していた頃、南近江の守護たる六角家が彼の前に立ちはだかった。
強大な敵である六角家に敗北した亮政は、時には北近江を追われながらも再起を図ったが圧倒的国力を前に少しずつ追い詰められていく。
そんな時、六角の援軍として亮政と対峙していた朝倉軍総大将、朝倉宗滴は、あろう事か敵であるはずの亮政を約半年もの間助け、亮政が北近江に地盤を築き上げることに手を貸したと言う。
それどころか浅井家が北近江の地盤を固め切るために宿敵であった六角家との間を取り持って和睦させ、亮政の北近江支配を後押ししたのも朝倉宗滴その人なのである。
言ってみれば朝倉宗滴は、戦国大名浅井家の大恩人なのである。
そのため今でも小谷城には朝倉宗滴が半年間住んだとされる金吾丸と言う名の曲輪が残されている。
金吾とは朝倉宗滴の諡号、即ち死後に送られた送り名であり、朝倉宗滴自身を指す。
今尚その曲輪が残され続けているのも、大恩人たる朝倉宗滴への恩義を忘れないためなのだと言う。
浅井家の者達が朝倉家に並々ならぬ恩義を感じているのはそのためであり、朝倉景垙は血こそ繋がっていないとはいえその大恩人の孫に当たる人物なのであった。
「偉大な祖父を持つと、期待ばかりが大きくなる。噂に尾ひれがついて困ってしまうな」
景垙は自虐するようにそう言ったが、同じように偉大な祖父を持つ長政には身に覚えのある話だ。
事あるごとに祖父と比べられる苦労は、実際に体験した者にしかわからないものである。
「死者にはどうあっても勝てませぬからな。祖父の名を背中に背負ってこれからも歩み続けるしかないのでしょう」
「そうか、浅井殿も……お互い、祖父の名を汚さぬような生き様を見せたいものだな」
「祖父が偉大と言うだけで、要らぬ苦労ばかりさせられるものですな」
長政が肩をすくめてそう言えば、今度は心の底から愉快そうに景垙は大笑いしたのであった。
若狭街道椿峠を守る国吉城攻略のため、朝倉景垙を総大将とする朝倉・浅井連合軍は敦賀城を出陣した。
朝倉軍五千、浅井軍二千。小城一つ落とすにしては多すぎる戦力だが、今回の出兵がどれだけ本気なのかがわかる陣容だ。
総勢七千の軍勢は若狭の国境を越えると、その翌日には国吉城へ至った。
敦賀城から国吉城までは目と鼻の先だったが、やはり七千の軍勢ともなると足が鈍ってしまうのは仕方ない。
その間に国吉城を守る粟屋勝久は籠城を選択し、城の守りを固めた。
曇天ぐずつく天気の中、朝倉・浅井連合軍と粟屋軍の睨み合いが始まったのだった。
「降伏の知らせは……当然蹴られましたか」
本陣を国吉城近くにある寺、芳春寺に構えた連合軍は、寺の境内で評定を始めた。
その評定の際に長政が問うと、総大将である景垙は「ああ」と頷いた。
「国吉城は山の上、辺りを一望できる要害に築かれた山城。攻めるにも囲むにも一苦労だ。城に篭られてはこちらからは手出しできぬ」
この辺りの地図を開き、朝倉景垙は腕を組む。
すぐ傍に若狭湾を臨むこの場所は既に少しずつ秋の色に染まり始めており、深い山々に囲われていながらも海の匂いが漂ってくる不思議な土地だった。
今は戦の気配を嗅ぎつけてか人通りがぱったりと止んでいるが、普段は行商人たちが行き交う活気づいた場所なのだそうだ。
「元々の目的は粟屋勝久への仕置き。それ故、秋の収穫に合わせて攻め寄せ、米を略奪する事でじわじわと苦しめていくつもりだったのだがな」
そんな山々の中で、景垙は地図に視線を落としながらぼやいた。
「それは……もしや、要らぬ事をしましたか」
「ああいやすまない、勘違いさせてしまった。むしろ我らにとっては浅井殿の助力を得られたのは僥倖。何度も兵を出さずに済むならそれが一番良い。可能なら一息に済ませてしまいたいからな」
長政の言葉に慌てたように、景垙はそう訂正する。
焦りを見せる景垙へ、長政が「戯れにござる」と笑って見せると、景垙も釣られるようにして笑顔を見せた。
後世に随分な悪人として伝わる朝倉景鏡や、ついこの間面会したお喋りな朝倉義景に比べると、朝倉景垙は幾分も誠実な印象を受ける。
朝倉家の一族は誰もが鼻持ちならず、その血筋を鼻にかけている、と言うのが長政の勝手な想像だったが、景垙の為人はそんな想像にかすりもしない。
もし彼が朝倉家の当主だったなら、例え織田と手を切ったとしても長政は朝倉家の味方をしていたかもしれない。
その結末を知っていてなおそう思わせるほど、彼には人を惹きつける何かがあるように感じた。
「我らとしては力攻めでも構いませんが……この天気ですから、鉄砲が使えないのが痛いですな」
長政はわざとらしく空を見上げ、暗に晴れるまでは攻撃を待ってほしいと告げる。
今回は藤堂虎高率いる蒼鷹隊と野村直隆率いる角鷹隊を連れてきているが、この天候では角鷹隊はほとんど機能しないだろう。
そうなると実質的な浅井の戦力は半分ほどまで落ち込み、城を落とす事がより難しくなる。
「雨、か……」
長政の視線を追うように、景垙も空を見上げる。
分厚い雲に覆われた曇天はしばらく晴れる様子にない。
ぱらぱらと雨雫をこぼし続ける空は、昼間だと言うのに薄暗いままだ。
「しばらくは様子を見るより他あるまいな……」
総大将である景垙の言葉で、その日連合軍は様子見に徹する事が決定したのだった。
◆――
「虎高、直隆、訓練通り備えろ。西近江での無様、二度晒すわけにはいかんぞ」
「ははっ!」
「承知!」
評定の後、長政はすぐさま藤堂虎高、野村直隆の両名を呼びつけてそう激励し、持ち場に付かせた。
訓練とは無論、敵地で夜を過ごす際の陣形についてだ。
西近江征伐の際に浮き彫りになった敵地における夜間布陣の危うさを無くすため、この半年間蒼鷹隊と角鷹隊はそれぞれの訓練に加えてこの夜間布陣の訓練を繰り返し行った。
隊の分け方、巡回の仕方、物資の置き方など詳細は多岐に渡るが、一つ言えるのは西近江征伐の際の不覚を二度と取る訳にはいかないと言う思いは誰しも同じだったという事だ。
結果、今では長政が備えろと一言指示を飛ばすだけで次々に手際よく作業が進んでいく。
これならば粟屋勝久とて、夜襲を仕掛ける訳にはいかないだろう。
蒼鷹、そして角鷹の陣列を眺めながらうむと頷いた長政。
するとそこへ、チリンと鈴の音が鳴った。
「八重か」
「はい。只今戻りました」
声の主は長政の護衛を務める八重。
今回は朝倉軍との連合と言うだけあり、風紀を乱すわけにはいかないため彼女は久方ぶりに忍びとしての参陣だ。
草陰からわずかに姿を見せる八重は、珍しく忍び装束に身を包んでいた。
「夜鷹隊、配備完了致しました。……とは言え、正直未熟な者達ばかりですので、最低限の情報の収集程度しか行えませんが……申し訳ありません」
そう言って彼女は僅かに表情を曇らせる。
新たに編成した第四の隊、夜鷹。女のみで構成するこの部隊の戦場における主な仕事は、八重が自由に動けるように長政の護衛として目を光らせる事と戦場周辺の情報をかき集める事だ。
今回の戦いにはあえて遠藤直経を連れて来ることをしなかった長政。
不服そうな直経を何とか説得してまで彼を小谷に残したのは、この夜鷹を戦場に初投入し、成果を確認するためであった。
結成からたった半年ほどであるためやはり人数を揃える事は難しく、主な活動は歩き巫女による平時の諜報と長政の身の回りを守るこの二つに絞られている。
また彼女たちを八重が訓練したものの未だ成熟したとは言い難く、未完成な部分が目立つ部隊であった。
「いや、元々半年で仕上げると言うのが無茶だっただけだ。それに、この深い森の中で敵の動きを一気に見張る事が出来るだけでも相当だ。誇りこそすれ謝る事はない」
長政がそう言ってやると、八重は少しばかり表情を明るくして「ありがとうございます」と礼を述べた。
「……ところで、その服だが……目のやり場に困るな……」
「そうですか? 忍び装束と言うとこういうものですが……それにこの方が何かと動きやすいもので。お見苦しいとは思いますが」
そう言って己の姿を確認する八重だが、彼女の言う忍び装束とは殆ど裸のようなものだった。
袖は無く肩までざっくりと露出しているし、裾の丈は短く太もも辺りまで見えている。
それどころか背中はぱっかりと開いていて布で隠そうと言う意思すら感じられず、そのせいで彼女の豊かな胸元が目に毒なほど存在を主張していた。
それだけ服の方は露出しているというのに、口元は黒い布で覆って髪を後ろで束ねているため、妙な色気まで出ている始末。
正直、今の長政に八重を直視する事はできなかった。
「見苦しい訳ではないが……お前はもう少し、自分の容姿が人より優れている自覚を持った方が良いと思うぞ」
「誠に優れていれば行き遅れになどなっていないと思いますが……この顔ですし」
そう言って顔の半分を覆った前髪をちら、とよける八重。
その中から出てきたのは見るも無残な、やけどによって爛れた肌と開き切らない瞳だった。
恐らく黒い布の下では、火傷の痕のせいで今もひきつって締まり切らない口元から、歯が覗いているのだろう。
「すまん、そっちの顔は怖いから勘弁してくれ」
「昔は夜中に厠に行く際など、こちら側の顔を見て――」
「その話は無しだ、終いには泣くぞ」
「――夜鷹の者達の様子を見て参ります。それでは失礼致します」
散々長政をからかうだけからかった八重は、いつものようにチリンと鈴の音だけを残して消え去る。
表情がぴくりとも動かない彼女ではあるが、そうやって長政をからかう事が存外楽しいらしく長政にしてみればたまったものではない。
昔を知る者が身近にいると不用意な事は言えないなと、肩を竦める長政なのであった。