008_永禄三年(1560年) 新九郎覚書
野村直隆と言葉を交わした日の夜、長政は自室でとある物に目を通していた。
『新九郎覚書』と記載されたその紙束は、かつて長政が六角の本拠、観音寺城で人質として囚われている間に書き起こした書物だ。
記されているのは、これから先の未来に起こる事、生まれる人、発明される物、そして可能ならばその製造方法。長政が覚えている未来の事象その全てである。
数年かけて書き上げたこの覚書、長い人生を歩むうちにこれらの事を忘れ、回避できたはずの結末を回避できなくなっては困ると思い一心不乱に書き起こしたため、時系列も脈絡もメチャクチャで書いた長政自身が読み解くのに苦労するほど。
当時はとにかく覚えている事を忘れないうちにと書き殴っていたため、文字に至っては現代の文字で書かれており、この時代の文字に慣れてきた長政からすると読みづらいことこの上ない。
誰かに横から盗み見られて情報を抜かれると言うような事が無いだけマシかとも思うが、にしても少々乱雑すぎるというもの。
そのため浅井家当主となった今、まさに必要な知識となるこれらを効果的に使うため、夜な夜な暗がりで読み解いているのである。
そうやって読み進めていくうち、これから起こる物事の記憶が蘇っていく。
この次に起きる大きな出来事と言えばやはり、観音寺騒動だろうか。
野良田の戦いの責任を取って隠居した六角承禎に代わり当主となった嫡男、六角義弼だったが、実情は六角承禎の傀儡のような状態で不満を募らせていた。
そしてその不満がついに爆発し、承禎の腹心だった後藤賢豊を無礼討ちし、権力の簒奪を狙うのである。
浅井家で例えるなら、自分の代わりに家臣への指示や陣ぶれを飛ばす重臣、赤尾清綱の振る舞いに怒った長政が、無礼だと彼を討ち取ったようなものだろうか。
清綱――もとい後藤賢豊からすれば、忠義ゆえの働きだったろうに。
そして当然、この義弼の振舞いに怒ったのは六角家家臣団だ。謂れのない罪で家臣団筆頭の後藤賢豊が討たれた事で、彼らは六角家に対して反抗。南近江は真っ二つに割れる。
最終的には六角家腹心の蒲生家によって和議がなされるものの、この時の軋轢は後の織田家侵攻まで影響を与え、織田の攻撃の前に僅か数日で観音寺城が陥落。
六角家が事実上の滅亡に至る遠因にもなった。
この観音寺騒動をどう利用するかで今後の近江における、浅井家の影響力も決まってくる事だろう。慎重に事を運ぶ必要がある。
そして、その観音寺騒動の次に起きるのが永禄の変と呼ばれる事件。将軍、足利義輝の暗殺だ。
これによって将軍家の権威が失墜し、将軍を暗殺した三好三人衆らによって畿内は治められる事になるが、その際に京を逃れた後継者、足利義昭を上洛させるために信長が上洛軍を起こすのだ。
この上洛によって信長の天下が確定的になるが、織田家を嫌った朝倉家は信長による上洛要請を拒否。
これを将軍家への反意と断じた信長は朝倉攻めの軍を起こし、それを知った浅井家は信長を裏切り――
後は史実が示すように、金ヶ崎の戦いと呼ばれる朝倉・浅井軍と織田軍の戦いから信長包囲網と呼ばれる織田家と多数勢力の戦い、そして姉川の戦いから浅井家の滅亡へと至るのだ。
それらの始まり、浅井と織田が手を切るきっかけになった金ヶ崎の戦いは、史実通りであればこれから十年後に起こるだろう。
それまでに、どれだけ浅井家の力を蓄えて史実から流れを変えられるかが長政の運命を決める。
差し当たって行うべきはとにもかくにも軍備の増強だ。
幸運にも北近江には国友村と呼ばれる鉄砲鍛冶衆の村がある。他でもない、昼間に会った野村直隆の治める土地だ。
戦国時代に置いて要所の一つであるこの土地は既に浅井の領地であり、支援自体はすぐにでもできる。
ここをいち早く発展させる事が出来れば、鉄砲の量産が可能になる。そうなれば後は火薬、特にその材料となる硝石さえ入手できれば浅井家は強力な鉄砲衆を抱える事ができるだろう。
この硝石、この時代の日本では手に入れ辛く、堺を介して他国からの輸入品に頼っているのだが、実はこの時代でも日本で生産している場所があった。
それが加賀国である。
近江の北、朝倉義景の治める越前の、そこから更に北にある加賀国では、独自に硝石を生産して売ることで利益をあげていると聞く。
事実、近江では越前を介して運ばれてきた硝石を入手できるため、他国に比べれば火薬は比較的入手しやすい環境だった。
加賀国で生産できているという事は当然、やろうと思えば近江でも硝石を手に入れられるという事。しかし、硝石は生産可能になるまでの準備に数年の時間を要すると聞く。
戦乱続きの近江では硝石が生産できるまでの間、管理するための土地を用意するのも困難だ。比較的平和な加賀国だからこそ、硝石の生産などと言う長期の商売が成り立っているのだろう。
であれば硝石は作るよりも買うべきだ。そして買うためには金が要る。硝石を買い漁るための経済基盤を整える方が先である。
楽市楽座の実施に関の廃止、そして農業改革。できる事や思いつく事は山ほどある。どれもこれも、後の世を知る長政にとっては導入自体はそう難しくない。
しかし問題は、それに絡む利権の数々だ。
不特定多数の人間が売り買いできる楽市の実施や座の廃止を行えば、商売が今よりずっと自由になって経済が活性化するだろう。
しかし、それを行えば今までその利権で利益を得ていた商人達から反発される。
また、通る人々から通行料を取る関を廃止すれば、今以上の人の流れが生まれて経済が回る――と言うのは簡単だが、実際にそれを行えば、関の収入で生計を立てている国衆にも反抗されることだろう。
更には、関が無くなれば他国の間者も好き放題に通れるようになり浅井の情報は他国へ筒抜けになる。
実際にはほぼ形骸化しているため、今の関所は通行料を徴収するためだけに存在していると言っても過言ではないが、それでも戦の際やいざと言う時に利用できる建物があると言うだけでも選択肢は広がってくる。
それらを経済が活性化するからと言って廃止したところで、国衆からの反発は避けられない。
もしそれを強引に推し進めれば、そんな強硬な態度が浅井への不満に繋がり、不満は他国の付け入る隙になり、やがては国衆が浅井に反旗を翻して独立することになるだろう。
戦国大名と言えど、結局は周りの顔色を窺いつつ行動を起こさなくてはならない。
どうやって彼ら国衆を納得させるか。長政にとってはそれも大きな問題だった。
「……ままならんな」
暗がりの中で一人ぼやく。
運命の時は刻々と近づいている。一刻たりとも長政には無駄にできる時間など残されていない。
しかし何か新しい事を行おうとすれば必ずそこに利権があり、しがらみが生まれる。
このしがらみを鬱陶しく思った織田信長は、武力をもって全てを踏み壊し、新たな秩序を作りあげた訳だが……
「果たしてその覇業が、私に真似できるのだろうか――」
油で照らした小さな明かりの下で、そうやって一人黙々と作業を続けていると、不意に部屋の外からチリンと小さく鈴の音がした。
他の者ならばきっと、聞き間違いかと気にも留めなかっただろう。しかし、長政はそれが、合図である事を知っていた。
「八重か」
「はい。書状を受け取りに参りました」
月明りすらない闇の中から、か細く低い、若い女の声が響く。
スッと闇の中から差し出された手に、長政はそばに置いていた書状を手渡した。
その手は闇の中に書状を引き込むと、「確かに受け取りました」と告げる。
そうしてうっすらと見える彼女は、その書状を胸元に差し込んだ。
そして立ち去ろうとする彼女に、長政は声をかけた。
「たまには顔を見せろ、そのままでは礼も言えんだろう」
「……はっ」
そうして、闇の中から朧気になりながら姿を現したのは、顔の半分を長い前髪で隠した村娘姿の女であった。
彼女、八重は、六角に仕える甲賀の忍びの一人である。
近江には伊賀と呼ばれる間者の傭兵集団と、甲賀と呼ばれる間者の集団が存在する。
金さえ貰えれば誰にでも雇われる伊賀に対し、甲賀は六角家を主として代々仕え続けており、史実でも六角家が滅んだ後は、織田家に仕えたと言われている。
普段は薬売りに扮し、各国を渡り歩いて薬を売る彼らは諜報の達人集団であることが特徴だ。
そんな中でも八重は、優秀な若手の忍びの一人である。
生まれた頃に戦火によって顔の半分を失う大やけどを負った彼女は、女として生きる事を諦めて彼女の父に忍びとして育てられた。
その実力は折り紙付きで、本来女が存在しないはずの甲賀の忍びで唯一、女の身でありながら実力を認められている凄腕だ。
そんな彼女は長政にとって、二つ年上の幼馴染と言える間柄だ。
幼少期に六角家で人質として過ごしていた長政や、その長政と常に共にあった婚約者の小夜とは、縁があって親しくなった。
その縁もあってか今では小夜の護衛として、彼女と共に六角家で過ごしているのである。
「小夜は達者にしているか?」
長政が問うと、八重はその表情を崩す事なく告げる。
「姫様は浅井様に離縁されてから、ずっと自室に籠っておいででございます。離縁された事で心を病んだのだと――」
「それは誠か……!?」
八重の言葉に、長政は思わず声を荒げる。野良田の戦いの前、家同士の結びつきを強くする目的で長政に嫁がされた小夜は、その後の浅井家独立の際に離縁され、六角家へ戻されたのだ。
長政にとって不本意な事だったとは言え、彼女にとっては辛い出来事だったのだろう。
自身を兄様と呼び慕う小夜の姿を思い浮かべ、胸が痛んだ。
「――そう思わせておけば、他の殿方の元へ嫁がされる事も無くなるだろうと。相変わらずお元気であられます」
……と思っていたらそれさえも小夜は計算ずくだったらしい。真顔で淡々と告げた八重の言葉に、小夜の強かさを感じて舌を巻く。
「さ、左様か……それならば、うん、良かった。――そなたも大事ないか、八重」
「はい。ですが、仮にも今は敵方同士のため、これまでのように頻繁な往来は困難になると思われます」
八重の言葉に「そうか」と呟く。
小夜と離縁してからと言うもの幾度も彼女に手紙を送ったが、その手紙に返事があったことは一度もない。
おそらくは未だ、小夜は離縁のことを怒っているのだろう。
「八重、小夜の事をよろしく頼む。すぐには無理だが、必ず迎えに行くと伝えて欲しい」
「承知しました。それでは失礼します」
言うが早いか、チリンと最後にまた鈴の音を鳴らすと、八重は一瞬で闇に溶けて消えていった。
彼女のいた場所を見ながら、ふと過去の記憶を思い返す。
もし彼女が男であったならば優秀な忍びになっただろうに、顔に傷さえなければ嫁に行けただろうにと、彼女の父が嘆いていた事を今でもよく覚えている。
そしてそれを陰で聞いていた八重が、相変わらずの無表情のままに、ぐっと唇を噛み締めていた事も。
それから少しして、八重の気配が完全に消えた頃。長政は再び覚書をめくり始めた。これから始まる浅井の戦、その全てを頭に入れるために。
「必ず迎えに行く。それまで待っていてくれ」
記憶の向こうにいる小夜の姿を思い浮かべ、長政は決意を強くするのであった。