076_永禄七年(1564年) 西近江への次なる道
「あぶぶぶぶぶぁあ〜! あばぶぶぶぶぶばぁ〜!」
小谷山のふもとにある浅井屋敷。
この日は月に数度ある評定の日だった。
「あぼぶぶぶぶぶべぁ〜!」
「……殿。評定を始めますぞ」
先程から奇声を上げる長政に、浅井政澄が呆れながら声をかける。
長政の腕の中には先日生まれたばかりの長男、万福丸の姿。
長政の変顔につられてか、きゃっきゃと声を上げて喜んでいた。
「おう、それでは始めようか。本日の議題は他でもない、西近江と三好について、皆の忌憚ない意見を聞きたい」
すると先ほどまでの変顔が嘘のように、急に引き締まった表情に変わる長政。しかしその腕の中では相変わらず万福丸が笑っている。
余りに間の抜けた光景だが、しかしそれを気にしている者は少なかった。
「その前に殿、一つお伺いしてもよろしいか」
「おお、どうした清貞」
「そちらの御仁は、一体どなたなので?」
何故なら、それ以上に異色を放つ存在が部屋の中にあったからだ。
雨森清貞がそう問いながら向けた視線の先、部屋の下座に当たる襖の前には、一人の男の姿。
まるで女のように華奢で、一目見るだけでは男か女かわからぬような中性的な顔立ちをしているその人物は、浅井の者達が見慣れない者のようだった。
そんな彼を見て長政は「あぁ、竹中半兵衛だ。食客として迎えた、よろしく頼む」と何でもないように告げると「では先ほどの続きを――」と言葉を続け。
「お待ちくだされ! 竹中ですと!?」
「なぜ斎藤の家臣がここに!?」
勢いでは誤魔化しきれず、言葉を遮られるのであった。
「あー、話せば長くなる」
「私が浅井様を訪ね、浅井様が私を食客として迎え入れただけの話。長くなどなりますまい」
「竹中半兵衛を食客でとは、如何なお考えがあっての事か!」
「敵に我らの内情を知らせるおつもりか!?」
にわかに殺気立つ国人衆たちに、長政はため息をつく。
こうなる事がわかっていたからこそ触れたくなかったのだ。
「好きに動かれて探りを入れられるより、私の目の届く範囲に置く方がよかろう。いざと言うときは私が斬る」
「しかし……!」
「それに、半兵衛はもう斎藤に戻るつもりはないらしい。そうだな、半兵衛?」
「斎藤龍興のような愚物に仕えるくらいならば、近江で農学書でも読む方が有意義と言うもの。愚問にございます」
「貴様、無礼であるぞ!」
「やはりここで切り捨てましょうぞ!」
「殿、ご決断を!」
半兵衛がいつもの調子の物言いをしてしまったがために、とうとう国人衆は立ち上がり、腰の刀に手をかけた。
半兵衛が斎藤家で浮いた理由がわかる一幕に、評定の間は空気がひりつく。
いつ刃傷沙汰に至ってもおかしくない緊張感が満ちる。
そして彼らが刀を引き抜こうとしたまさにその瞬間。
「静まれ!」
長政の凛とした声が辺りに響いたのだった。
長政の次の言葉を聞くためか、誰もが物音ひとつ立てずに聞き耳を立てる。
そんな緊張の中、長政は続けた。
「今、万福丸が私を父と呼ばなかったか……?」
「……」
「……殿、生まれたばかりの子はまだ喋りませぬ」
「いや待て、確かに言った。よく聞けお前たち! 万福丸はもう喋るのかもしれん!」
そうして万福丸の声を聞くためか、しぃっと指を立てて静寂を促す長政。そこにはもう先ほどまでの緊張感はなく、誰もが呆れ返っていた。
そして。
「あだぷ」
言葉ともいえない言葉を万福丸が発したのだった。
「今、もしや……喜右衛門と呼ばれたのでは……!?」
「たわけ、引っ込め直経。お呼びでないわ」
「左様。今のは孫三と呼んだのよ」
「お主も図々しいわ清綱。始めは父と決まっておる。なー万福丸? ち、ち、う、え、だぞ」
「浅井家は本当にこれで大丈夫なのだろうか……」
「私は何故かような者達に負けたのだ……」
浅井政澄と竹中半兵衛の二人は、頭を抱えて大きなため息をついたのだった。
◆――
「では改めて……西近江の割譲と対三好の方策について、皆の意見を聞きたい」
あまりに評定が進まないため、長政から万福丸を取り上げた政澄はそのまま万福丸を乳母に預けて長政を睨みつけた。
政澄を怒らせると面倒な事が身にしみている長政は、気を取り直して評定を始めるのだった。
「ではまず私から、現状の確認をさせて頂きます」
政澄はそう言うと、この辺り一帯が描かれた地図を開く。
いつもと違うのは、その描かれている範囲が隣国にまで及ぶ大きな地図である事だ。
「現在、春に行った西近江征伐によって、石田川から北の西近江国衆は我ら浅井の傘下となりました」
敵味方を判別しやすくするためか、その地図の上に白と黒の碁石をコツコツと並べていく政澄。
結果西近江は二分され、かつての東近江のように白と黒が入り乱れた。
「三好――正確には丹波内藤の介入ですが、どうやらあれは山中秀国の独断だった様子で、西近江衆、特に高島七頭の中でも是非が別れておるようにございます」
遠藤直経や宮部継潤の調べによって、近頃段々と西近江衆の状況が見えてきた。
三好に味方することの是非で別れているのも、そんな見えてきたことの一つである。
朽木や横山、佐々木と言った家は昔から三好と対立していたためか三好の介入に反発しており、浅井に対しては彼らを討つためならば力を貸すとまで言っている。
一方で田中や永田は三好の介入を受け入れており、同じ西近江衆と言えど意見はさまざまなようだった。
とは言え力を貸すと言ってきているからといって、彼らは味方ではない。
対三好のために一時的に手を結ぶだけで、三好を追い払えばまた六角対浅井の構図で西近江は割れるだろう。
今回浅井の介入が認められているのも、山中秀国が守る今津城までの話。
その更に先に城を構える高島七頭は、結局のところ敵のままなのだ。
「次に丹波内藤の様子ですが、こちらもこちらで複雑な様子」
その西近江から更に西にあるのが内藤宗勝こと松永長頼の治める丹波国である。
丹波にも西近江同様に、白と黒の碁石が入り乱れる。
「この白は丹波内藤と敵対する国衆勢力にございます。どうやら丹波も内藤と反内藤に割れているようで、表立った戦いこそありませぬが水面下では緊迫している様子」
こちらは最近発足したばかりの夜鷹による情報だ。
丹波は三好による支配を良しとせず、それを拒む者たちとの間で揺れているらしい。
この時代はどこを覗いてみても、そんな話ばかりである。
「そしてこたびの面倒を最も大きくしている要因が……この、若狭国にございます」
そう言って政澄が最後に碁石を置いたのは近江から北西、丹波から東の位置にある日本海沿いの国、若狭。
その国は今、幾つもの勢力に別れて入り乱れる群雄割拠の時代に入っていた。
「若狭の守護、武田家のお家騒動を発端として次々重臣や国衆が独立し、今では若狭国内は混沌としているとか」
この中でも特に台頭している勢力が、若狭武田の重臣格だった粟屋勝久と、逸見昌経である。
この両名は現武田家当主、武田義統と対立し、彼に対抗するために内藤宗勝を若狭へ引き入れたのである。
「既に逸見昌経は敗走しておりますが、未だ粟屋勝久は健在。内藤は若狭を切り取るため、この粟屋と示し合わせております。そこで武田義統が助けを求めたのが――」
「越前朝倉、と言うわけか」
長政の言葉に政澄は頷いた。
「朝倉家当主、朝倉義景殿の母君は若狭武田の出身。その縁を辿っての事かと」
母の縁から助けを求められた朝倉義景は、武田義統救援のために兵を起こした。
朝倉の援軍により形勢は決まり、若狭の動乱は終わりを告げる――はずだったのだが。
しかし、朝倉の若狭侵入を阻んだのが国吉城城主、粟屋勝久であった。
若狭武田の本城である後瀬山城。
越前からその城まで援軍に駆けつける場合、必ず通らなくてはならないのが丹後街道の椿峠であるが、この椿峠を抑える城こそ国吉城なのだ。
朝倉が若狭武田家の元に辿り着くには、国吉城を突破しなくてはならない。
粟屋勝久はその国吉城の特性を活かし、頑として朝倉の若狭侵入を許す事なく鎬を削り続けている。
ここを朝倉が突破できるか否かで、今後の若狭の勢力事情が大きく変わる事だろう。
「内藤からすればこれ以上の朝倉の介入は許し難く、国吉城を抜かれるわけには行かない。そこへ我ら浅井が絡みます」
ようやくか、と言う空気が漏れるが、政澄は気にせず言葉を続ける。
「我ら浅井が西近江を抑えると、朝倉は今津から後瀬山城まで、若狭街道と呼ばれる道から攻め上がる事ができるようになります。当然、国吉城を無視してです」
「だからこそ内藤は、浅井に西近江を渡すわけにはいかないということだな」
「左様にございます。そのため、我らが西近江を手に入れる方法は三つ。内藤と正面から戦うか、内藤が西近江から手を引くか、西近江衆が浅井に着くか。……どれも難しいことには変わりはありませぬが」
内藤と正面からぶつかれば、必ず三好が出てくるだろう。
落ち目の三好とは言え未だ強国。真っ向からやりあえば被害は免れない。
かと言って内藤が西近江から手を引くことは前述の理由からあり得ない。
そして西近江衆が浅井に着くことなど、それ以上にあり得ないだろう。
「つまり手詰まり、と言うわけか……」
長政のため息が評定の間に響く。
「やはり、攻めるより他ありますまい。今であれば三好長慶の死で、三好家中は混乱しておりまする。そこを叩くのでござる」
集まった国人衆の一人がそう言えば。
「いや、ここは様子見が良いのでは? 三好と事を構えれば、我らは三好、六角、斎藤と三方向に敵を抱えることになる。いくら殿が戦上手とは言え、余りに無謀な戦にござる」
また別の一人がそう答える。
それからやいのやいのと意見が出始め、誰もが己の意見を主張していく。
中にはいつもの通り、朝倉に援軍を求めるなんて案まで出る始末で、どこまで我らは朝倉が居なくては戦えんのだ、と一人苛立つ長政であった。
そのうち、意見が段々とまとまり始める。
最も推されているのは内藤との決戦だ。彼らはやはり、力攻めで決着を付けたいらしい。
西近江征伐の際、あれだけ張り切っていたにも関わらずろくに戦果もないまま撤退することになったのが、国人衆は不満なのかもしれない。
その挽回を、と言うことなのだろう。
長政から言わせればあれほどの体たらくを見せた時点で、次にまた西近江征伐を行うとしても彼らを使う気はさらさら無いのだが。
そんな中、そうら見たことか、と半兵衛が言っているような気がした。
いくら長政が心を砕いたところで、彼らは武功のために戦を起こすのだ、と。
彼らは誰一人として長政の気持ちを汲んではくれないし、すぐに朝倉に助けを求めようとする。
浅井が独力で立てるようにするため西近江が必要だと言うのに、その西近江を取るために朝倉に力を借りては本末転倒だ。
国人たちは、何もわかっていないのだ。
「いかが致しますか、殿」
そんな中で珍しく、佐和山城を守る磯野員昌が声を上げた。
長政が辟易としている事に気が付いたのかもしれないし、或いはこれ以上の議論に意味が無いと判断したのかもしれない。
内藤との決戦。これで家中の意見はまとまりそうだ。西近江征伐の下準備に苦心したことの全てが無駄になってしまうが朝倉に援軍を頼むより他はない。
内心大きなため息を吐きたい気分だったが仕方がない。
そうして内藤との戦いを決断しようとした、まさにその時だった。
「いや、待てよ……そうか、朝倉か」
長政に、天啓とも言うべき良案が舞い降りた。
「何か案が?」
長政に家臣らの視線が集う。
代表して政澄が問うと、長政は「ああ」と頷いた。
「見えましたか、鷹の目で」
員昌も続けてそう告げる。
半兵衛も平静を装っているが興味がある様子だ。
彼は長政が戦いたく無い理由を知っている。だからこそ、次の一手が気になるのだろう。
「して、その策とは?」
そんな期待の視線を一身に集めて、正澄がそう問うと、長政は彼らに対してその妙案を披露した。
「朝倉と共に戦うのよ」