075_永禄七年(1564年) 会合2
「……まさか、浅井様は凡百の犠牲を気にして、国取りを目の前に手をこまねいていると? だとすれば余りに甘すぎる。愚昧と言う他ありますまい」
長政の言葉に呆れたように、半兵衛はそう漏らした。
仮にも敵地だと言うのに、半兵衛の言葉には一切の容赦がない。
傍に控える片桐直貞が、いつ長政が刀を抜くかとヒヤヒヤしながら見ているほどだ。
もし長政が短気な性格だったなら、ここで半兵衛を切り殺していてもおかしくなかっただろう。
しかし生憎と長政はそこまで短慮な性格ではなかったし、それは半兵衛とて熟知していた。
だからこそ彼は臆する事なく言葉を続ける。
「南宮山の戦いで浅井様は斎藤の兵を一千近くも討ち取られた。あれも元を辿れば百姓達です。何を今更躊躇われるのか」
「鷹の兵の力を見せるため、華々しい戦果が必要だった。浅井とは戦ってはいけない、そう思わせるだけの戦果がな」
「つまり、力を示すため必要な犠牲だったと?」
「左様。事実、その犠牲のお蔭で幾つもの戦を避ける事ができた。斎藤があれっきり攻めてこなかったのも、鷹の力を見たからなのだろう? 最小の犠牲による最大の戦果。それこそ鷹の兵を率いる一番の目的だ」
「ならばこたびの西近江攻めも同じ話。丹波が荒れたとして、兵が死んだとして、それは必要な犠牲でしょう。それに自立色の強い国人衆の弱体化にも繋がる。彼らの死で西近江と丹波を手に入れ、更に領国が安定するなら、これ以上の戦果は無いはずだ」
「もっとやりようがあると言っているのだ。反抗的だからと被害をわざと増やし、人死にが増えるような真似をせずとも……もっと他のやり方が――」
「話になりませんな」
ピシャリと長政の言葉を打ち切る様に、半兵衛はそう言い切った。
「己の負けた相手がいかほどの大人物かと思い、ここまで来てみましたが……まさか凡百を気にかけて好機を見逃すお人好しだったとは。何のために近江に出向いてきたのか、わからなくなりました」
鋭く冷たい半兵衛の視線が、長政を射抜く。
「良いですか。浅井様がどうお考えになろうが、世は乱れて人は死ぬ。物を知らぬ凡百共が己が考えこそ正しいと、下らぬ戦を起こすのです。物を考えぬ愚物共が、それを信じて乱を起こすのです。さような凡百愚物のために、何を躊躇っておられるのか」
彼の瞳に宿るのは、怒り。
先ほどまでの無感情な瞳から、冷たい静かな怒りの色が滲み出ていた。
長政とさほど変わらない生を歩んだはずの半兵衛は、その目で一体何を見てきたと言うのだろうか。
「差し出された手をはじきのけて、自ら地獄のような生にすがる。救われたいと言いながら他者を踏み躙り、自らのためだけに世を乱す。ならばかような凡百を、誰かが導かねばならぬのです。――力ある、誰かが」
「……そのために、世に生きる物達を犠牲にしろと?」
「才ある者が力を振るうための、必要な犠牲でしょう」
ようやく今、鷹は鴻鵠の志を理解した。
彼は、他者に期待することを辞めたのだ。
誰にも理解されることのなかった鴻鵠は、他者の愚かさに絶望したのだ。
高々二十年ほどしか生きていない自分でもわかる事が、この時代の者たちには理解できない。
そしてそれを理解させるための前提の知識すら欠如している。
そんな世の中を、そんな世に生きる者たちを諦めたのだ。
だからこそ彼はここに来たのだろう。
唯一の理解者足りえる、鷹のもとへ。
「大義や道理、義理や意地。下らぬ誇りのために奴らは自ら死を選ぶ。人がいくら救ってやろうとしても、奴らは自らこぼれ落ちていく。余りに救いがたく、余りに愚か。ならばせめて、その死を使ってやるしかありますまい」
それはきっと半年の間、国を治めた半兵衛の感じた答えなのだろう。
下らぬ誇りのための反発。長政にもよく覚えがある。
いくら正しい道を示してやっても、彼らは誇りのために道を踏み外そうとする。
いくら彼らを説得しても、彼らは意地のためにその考えを否定する。
そんな者たちと歩幅を合わせる事が、どんなに面倒で鬱陶しい事か。
しかし。いや、だからこそ。
長政は半兵衛に共感する事が出来なかった。
「その死を使う、か。確かに、そう言う考え方もあるとは思うが……ならば半兵衛殿、一つ伺いたい。そなたにとっての天下とは何か。そなたの考える、天下のあるべき姿とは何か」
唐突ともいえる長政の問い。しかし半兵衛は迷わず答える。
「私にとっての天下とは、物を知らぬ凡百がはびこる愚者の世にございますれば。力ある者による支配こそ、唯一天下を正しきに導く術にございましょう」
「力ある者とは?」
「物を知る者。術を知る者。法を知る者」
「それが自分だと?」
「浅井様もそうだと思っていました。……先ほどまでは」
再び、二人の間に沈黙が降りる。
喉を潤す水は、とうに空になっていた。
そうして幾許かの後、今度は半兵衛が口を開いた。
「ならば、浅井殿の考える天下とはなんでしょう。天下のあるべき姿とは?」
まるで意趣返しのようにそう問う半兵衛。
或いは本心で、長政の答えに興味を抱いているようでもあった。
そんな彼に対して、長政はゆっくりと口を開く。
「――天下は、一人の天下にあらず」
長政の言いたいことをすぐに理解した半兵衛は、その後を続けた。
「……天下は天下の天下なり。六韜ですか」
天下は一人のためではなく、天下に棲まう全ての者のためにある。
太公望によって記されたとされる兵法書、六韜にはそんな記述がある。
虎の巻の語源にもなった事からもわかるように、昨今の兵法の基本になったと言っても良い書物である。
しかし長政は首を横に振った。
「天下を統一した、ある偉大な男の言葉だよ。天下を治めるものは、天下万民から天下を預かっているに過ぎない。だからこそ、天下に善政を布かねばならないのだ」
長政の言葉に半兵衛は首を傾げる。
古今東西、あらゆる学術書や兵法書を知る半兵衛でも、その言葉を言った人物が思い当たらなかったからだ。
しかしそれも無理はない。
この時代に生きる人々には到底知る由のない人物の言葉だからだ。
「将たる者、大名たる者はすぐに忘れるが、一万の兵はただの数字に非ず。一万の兵には一万人分の命がある。妻を娶ったばかりの者。子が生まれたばかりの者。腰を痛めた親の代わりに働く者。人を傷つけてしまった者。物を盗んでしまった者。彼らには、それぞれの生がある」
「それをいちいち数えていてはキリがありますまい。戦の折に逐一彼らの顔と名前を数えるおつもりか?」
「……半兵衛殿。稲葉山の城下に降りた事はあるか?」
「まぁ、何度か」
「百姓達と言葉を交わした事は?」
「数えられる程度には」
「彼らと共に、田畑を耕した事は?」
「……浅井殿はあるので?」
「ああ、ある。そして彼らの生きる、この天下を知った。そなたの知らぬ、天下のあり様をな」
脳裏に浮かぶのは米を育てるために訪れた村の、百姓たちの顔。
今浜に住まう町人たちの顔。
一人一人違う顔をして、違う考えを持ち、違う生を生きている。
彼らを一括りに、数字で表すことなど出来はしないのだ。
だからこそ、彼らを数でしか数えられない戦は無くさなくてはならない。
彼らを代わりの居る数字にしてはならないのだ。
「天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり。そなたが馬鹿にする万民こそが、その天下そのもの……私はそう考えている。そなたは天下のためと言いながら、その天下を馬鹿にしている事を気づいているか?」
「それこそ馬鹿馬鹿しい。だとしたらなんだと言うのです。気づけば戦に強くなるとでも言うのですか?」
「変わるかもしれぬし、変わらぬかもしれぬ。ただ一つ言い切れるのは、それを私は知っていて、そなたは知らぬと言う事だ。私たちの考えが異なる理由もそこにあるのだろう」
長政の言葉に、半兵衛は口を結んだ。
そんな彼を責めるわけでも問いただすわけでもなく、ただ静かに長政は言葉を並べる。
「もしもこの世に、そなたの言うような凡百愚物の類いが居るのなら。それは知らぬ事を知ろうともせず、また知った気になっている者の事では無いだろうか。……そして、高々二十数年生きただけの我らが、天下を全て知った気になるには、余りに早すぎるのではないか?」
「だから天下を知れ、と?」
「何かを知る事が無駄にはならない事、我らはよく知っているだろう」
「……馬鹿馬鹿しい」
長政の言葉に、半兵衛は小さく毒づいた。
しかし長政は、良いことを思いついたとでも言うように言葉を続ける。
「どうだ半兵衛殿。どうせ隠遁すると言うのなら、その間私と共に来い。そなたが凡百と笑う者達、その姿を見に行こうではないか」
「凡百の?」
「左様。斎藤の下では見られなかった、天下の別の姿を見られるやも知れん。興味はないか?」
長政の問いに半兵衛は答えない。
迷っているのだろう。
ならば、と更に長政は続ける。
「何も仕えろとまでは言うつもりもない。三千、いや五千貫で食客として迎えよう。一度地に足を付け、天下を上からではなく横から見てはどうだ」
「五千貫……随分私の事を高く買ってくださるのですね」
「そなたの才なら十万石は硬いと踏んでいる。とは言え食客だからな、今は五千貫だ。私に仕える気になったなら城を任せても良いぞ」
十万石といえば、今の浅井領の三分の一だ。
本気なのか、世辞なのか。長政の軽口に呆れたように、半兵衛は眉間に皺を寄せた。
「とにかく天下のありようを見て、どうあるべきか、どうしたいか答えを出せばいい」
「答えが変わらぬ場合は?」
「それもまた良し。知らずに出す答えと、知って出す答えでは同じようで全く違う」
長政の言葉に、半兵衛は「くだらない」と吐き捨てる。
そして。
「……実にくだらないが、湖北の鷹の戦を間近で見られるならば損は無い、か。……仕えるつもりも、長居するつもりも御座いませんが、少しの間くらいはお世話になると致しましょう」
実に偉そうに胸を張りながら、半兵衛はそうして頭を下げたのだった。