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073_永禄七年(1564年) その名は

「……」


 どすどすと足早に、屋敷の廊下を歩く長政。

 その表情は硬く、口は一文字に引き締められ、両腕は前で組まれたままピクリとも動かない。


 普段の長政からは想像できないほどに緊張した面持ちで、落ち着きのない足取りだった。


「……」


 かと思えばある程度歩いたところで引き返し、またどすどすと足早に廊下を歩き始める。


「……殿、少し落ち着かれては」


 そうやって廊下を何度も往復する長政の姿を見かねてか、浅井政澄まさずみがあきれ顔でそう告げた。


「政務に没頭していればすぐですよ。宮部継潤から西近江の情勢を知らせる書状が届いております、目をお通し下さい」


「む……それもそうだな……」


 落ち着かない様子の長政は政澄に窘められて、政務を行うために机の前に腰を下ろす。書状の内容は近頃の西近江の情勢についてだ。


 数か月前に行った西近江征伐後から、伊井城を任せていた宮部継潤はあれからずっと城を守り続けている。


 浅井軍が西近江から退いた後、すぐに撤退したらしい三好の軍勢はそのまま丹波たんばへ帰還し、西近江衆もそれっきり動きが無くなったらしい。


 そのお蔭で敵中に一人取り残される形となったにも関わらず、宮部継潤は存外平和な日々を過ごしているようだった。


 そんな異常なしの報告を半分ほどまで読んで、再び長政は立ち上がり歩き出す。

 そうしてまたうろうろと、屋敷の廊下を行ったり来たりを始めてしまった。


「殿……」


 呆れた様子で政澄が頭を抱えるが、既に長政にそんな声は届かない。


 ふと政澄が少し遠くへ視線を向けると、庭を挟んだ反対側で、長政の父である久政までもが同じように難しい顔をして廊下を歩いている。


 その姿を目撃した途端に大きなため息を一つ付いた政澄は、「大殿もか……」と頭を抱えた。


「そんなに落ち着かぬなら、刀でも振っていればよろしいかと」


「む……それもそうだな……」


 そわそわとしきりに落ち着かない様子の長政は、部屋に置いてある木刀を手早く取ると、庭先でその木刀を振り始める。


 普段は剣術の稽古など嫌がって全くやらないくせに、こういう時ばかりは真剣だ。


 そうして何度か刀を振った頃。


 ――おぎゃあ。おぎゃあ。


「産まれた!!」


「産まれたか!」


 屋敷に赤子の泣き声が響き、父子揃ってそう叫んだのだった。


「産まれた、産まれたぞ叔父上、産まれた!」


 言うまでもなく、長政と小夜の子だ。


 数日前から産気づいていた小夜が昨夜遅くにとうとう破水し、それからは医者や女中たちと共に部屋にこもってその時を待っていたのだ。


 その間、長政にできる事は何もなく、かといって大人しく政務をできる程の度胸も無く、小夜の破水の知らせを受けてから一睡もできずにそわそわし続けていたのである。


「殿、男にできる事などありませぬ。知らせが来るまで腰を落ち着けられよ」


 数年前に既に嫡男を授かっているだけあって、政澄は慣れたもの。いつもの冷静な調子を崩す事なく、落ち着きのない長政を窘めた。


「む……それもそうか……」


 口ではそういいつつもそわそわと落ち着きなく、家の中を忙しそうに行きかう女中をしきりに視線で追う。

 そのうち小夜が出産を行った屋敷の奥から足早に駆けてくる女中の姿を見ると、思わずと言った様子で身を乗り出した。


如何いかがであった!?」


 すると彼女は満面の笑みで答える。


にございます!」


 それだけ告げると足早に去っていく彼女。遠くでは同じように、彼女に声をかけて同様の言葉を貰ったのだろう久政が「でかした!」と叫んでいる。


「お世継ぎですな。おめでとうございまする」


 政澄が声をかけるも、長政の返答はない。

 不思議に思い長政の背中に声をかけるが、やはり答えはない。


「殿?」


 そうして政澄が長政の顔を覗き込むと――


「……泣くには少々早すぎるのでは……」


 ――泣いていた。一人で。声も出さずに。


「よう頑張った……よう頑張った小夜……そうか、男か……よう頑張った、よう産まれてくれた……」


 どんなに苦しい状況でも泣き言一つ漏らさなかった長政が、ただただ静かに泣いている。


 その姿は珍しいとしか言いようがなく、政澄に至っては「珍しいものを見た」くらいの感覚だが、長政にとっては自分の子が生まれたその事実だけで胸がはちきれそうだった。


 この時代、子供が生まれたからと言ってすぐに会う事はできない。

 穢れという観点からも、衛生という観点からもだ。


 そのため長政は、未だ見ぬ自分の子供の事を想い、ただただ涙を流し続けた。


 それからひとしきりして、長政の涙が止まった頃。


「……随分と忙しないな。叔父上の時もこんなに?」


「……いえ、私の時はこれほどは……何かあったのではございませぬか」


 屋敷の中を女中たちが仕切りに行きかい続ける光景を眺めていた長政は、ふと疑問に思う。

 彼女たちの手には桶に入ったお湯や綺麗な布が抱えられているが、それを先ほどから何度も行ったり来たりして運んでいるのだ。


 始めは生まれた後も大変なのだろうと思っていたのだが、それにしてはやけに時間がかかっている。

 それどころか、行きかう女中たちの表情も暗く陰っているのだ。


「すまない、何があった?」


 我慢できず、行き交う女中の一人に声をかける。すると彼女は「お方様の血が止まらぬのです!」とだけ声を上げてそのまま駆けていく。


「小夜の……!?」


 思わず立ち上がろうとした長政を政澄がぐっと押しとどめた。


「行ったところで邪魔になるだけにございます」


「しかし……!」


「医者を信じなされ。彼らも必死でやっている事でしょう」


 政澄の言葉に歯を食いしばり、どかっと腰を下ろす。

 この時代の出産は命がけだ。だからこそ誰もが必死になる。産まれてきて当然の命など一つもなく、その一つ一つが奇跡の積み重ねで出来ているのだ。


 だからこそこの時代の医者も必死にその奇跡を起こそうとしている。今長政が口を出せば、それを邪魔する事になるのだろう。


 だったらと、長政は静かに手を組んだ。


「俺は仏など信じていないが、今だけは信じるぞ。礼が要ると言うのであれば、金でも米でもくれてやる。だから……だから本当に仏が居るのなら、どうか小夜を救ってやってくれ……!」


 穢れを迷信だと笑い飛ばし、仏をまやかしだと吐き捨てる普段の長政を知る政澄は思わず驚く。

 普段の長政からは想像できない姿だったからだ。


 長政に倣い、政澄も静かに祈る。どうか小夜と二人の子を救ってやってほしいと。


 そうしてどれだけの時間が流れただろうか。ゆっくりと二人の居る部屋に近づいてくる足音が響いた。


 見れば小夜のお産を観ていた医者だ。


「小夜は!?」


 長政が問うと、医者は静かに口を開いた。



◆――



 その日から数日後、長政の姿は小夜が出産を終えた部屋の外にあった。


「……入っても良いか?」


 長政の言葉に女中の一人が頷くと、静かにふすまを開く。

 そこには布団に横になったまま、目を閉じた小夜の姿。


「小夜……」


 長政が声をかけるとわずかに瞼が動き、小夜が静かに目を開けた。


「兄様……」


 か細い声で薄く笑う。

 元々体の線が細かった小夜は産後の肥え立ちが悪く、顔色も芳しくない。

 子供を産んだ後も安心する事はできないが、それでも小夜は命を繋いだ。


「よく頑張ったな……」


 小夜の傍に腰掛けて軽く頬を撫でてやると、小夜は静かに目を閉じた。

 子供の方は既に乳母が世話をしており、産まれた翌日には長政も面会した。


 信長が自分の子供に奇妙丸、なんて名前を付けた理由がわかるほど奇妙な姿だったが、小さな手で長政の指を握る姿が印象的で、生きる事に対する強い意志を感じ、思わず目頭が熱くなった。


「産まれた子は、元気ですか……?」


「ああ。らしい、聞いたか? 小夜に似て愛らしい子だった」


「そうですか……兄様に似てたくましい武士もののふになって欲しいですね」


「私と小夜の子だ、きっと名将になるとも」


 笑いかけながら少しの間小夜の頬を撫でる。そうすると気持ちよさそうに目を細めた小夜だったが、不意に彼女が言葉を漏らした。


「何かありましたか?」


「……え?」


「兄様がそんな顔をする時は、決まって何かがあった時です……約束したでしょう、隠し事はもうしないと」


 弱々しい声音でそんな事を言う小夜。

 あの日――観音寺城で小夜と再会した日、約束した事を思い出す。


 もう二人の間に隠し事は無しにする、と。


「……やはり、わかるか」


「兄様は、すぐ顔に出ますから」


 くすりと笑う小夜。

 彼女の言葉に意を結し、長政は一呼吸置くと静かに口を開いた。


「小夜は……もう、子を産めぬらしい」


「……子を?」


「医者が言っていた……血を流しすぎたのだと。もし万が一子ができたとしても、次を産めば小夜の命が無いと言われた。……だからもう、子は産めぬらしい」


 あの日、医者が長政にかけた言葉はそんな絶望的な現実だった。


 元々体の線が細く、小柄な小夜には出産の負担は余りに大きすぎたのだ。


 今こうして小夜が生きている事すら奇跡的、二度目はない。

 医者は長政にそう告げた。


 この時代で子を産めなくなる事は、現代のそれよりずっと重い意味を持つ。

 子を産む事が仕事である以上、その勤めを果たせなくなれば扱いがぞんざいになることさえあり得る時代だ。


 それはある意味、死より重い現実だった。


「子を産めなくなったからと言って離縁するつもりはない。幸いだ、嫡男にも出来る。姫は家臣や国人衆から養子に貰えば良いだけだしな、何も案ずることは――」


「あの子の名は……決まりましたか?」


「――名?」


 せめて小夜を不安にさせまいと、何も問題ない事を伝えるために口早に言葉を発した長政だったが、小夜から問われたのはそんな事だった。


「お坊様に名前を決めて頂くという手も考えましたが……やはり小夜は、兄様に決めて頂きたいです」


 まるでそんなこと・・・・・よりも子供の名前のほうがよほど大切だと、そう言わんばかりに。


 小夜はそう告げて薄く笑った。


 長政に心配をかけまいとしているのか、それとも本心でどうでも良いと思っているのか。どちらだとしても、彼女の強さに目頭が熱くなる。


 長政はこの事実を受け入れるのに数日かかったと言うのに。


 彼女はその小さな体で、それでも自分の事より長政や子供のことを気にかけているのだ。


 それはまさしく、母の覚悟とも言うべきものだった。


 だが……いや、だからこそ。長政の腹は決まった。


「名か……そうだな。ずっと悩んでいたが――」


 涙で熱くなる眉間をぐっと堪えて、そして長政はその名を口にした。


「――今決めた。名は、万福丸まんぷくまるだ」


「万福丸……」


「万の福来たる。あの子の未来に、無数の幸いあれと言う願いを込めた。どうだ?」


「良いと思います。万福丸……とても、良い名です」


 それは、史実の浅井長政の嫡男の名。

 長政が小谷城で自刃した後、信長によって磔にされて僅か九つでこの世を去った悲劇の子の名だ。


 その子の名前を、長政は新たな命に付けることにした。


 これはある種の宣言であり、そして長政の覚悟そのものだ。


 万福丸を二度、同じ悲劇に遭わせるものか。滅亡などさせてなるものか。

 小夜の強さに胸打たれた長政は、己が子の名前に覚悟を示したのだ。


 それはきっと、誰にもわからぬ覚悟だろう。誰にも伝わらぬ覚悟だろう。しかし、それで構わなかった。


「この子の行く末は、必ず私が守り抜いてみせる。誰にも奪わせてなるものか。万の幸いが訪れるまで、万福丸はきっと強く生きるのだ」


 背負ったものの重みを、手にした命の尊さを。

 例え乱世の狂気に呑まれたとしても、決して忘れてなどなるものか。


「だから小夜。そなたもしっかり休んでまた元気な姿を見せてくれ。父と母の顔、万福丸に見せてやろう」


 人しれぬ覚悟と共に長政がそう笑いかけてやると、小夜は「はい」と笑顔を見せたのだった。

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[一言] 猿夜叉丸じゃ無いんだ。
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