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070_永禄七年(1564年) 西近江征伐事後処理

「今度と言う今度は、もう許しませぬぞ! 大体、お主らがそばに居てなぜそんな無茶を許したのだ虎高! 直隆! 八重!」


 その日小谷に雷が落ちた。


「面目次第もございませぬ……」


「申し訳ござらぬ」


「すみません……」


 藤堂虎高、野村直隆、八重の三名は現在評定の間にて正座をさせられ、反省の真っ最中。


 怒りの主は長政の腹心、浅井政澄である。


「そう怒るな叔父上。私が無理を言っただけで三人には何度も止められた。非があるのは私だ」


 その様子を少し離れたところで伺う長政がそう告げると、鬼の形相で政澄は顔を向ける。


「それは大前提です! その上で三人を叱りつけているのです! あの三好の軍を相手に、たった一人でのこのこと歩み出て、挙句酒を食らって相手を煽ったなど無謀にも程がある!!」


「酒じゃなく水だぞ叔父上」


「どちらでもよろしい!!」


 ピシャリと言い切られ、思わず目を閉じて体を震わせる。

 目の前に落雷が落ちたかのような衝撃だ。


 政澄が怒っているのは勿論、三好との一件について。

 長政だけでなく、ここに居る者達は皆、こうなる事がわかっていたため政澄には黙っていたのだが……


 撤退時に長政の行った、三好への挑発行為。実はあれに尾ひれどころか背びれに鱗に頭まで付いて、竜になって近江中を飛び回った結果、その噂が政澄の耳にも届いたらしかった。


 黙っていた分、その反動は大きい。

 まるで鬼の様な形相を浮かべて政澄は激昂していた。


 長政自身としては敵の鉄砲も矢も届かない距離で、八重も傍にいて、蒼鷹隊と熊鷹隊も控えさせた状態の挑発だったため特に危険も無かったと思っている。


 それにあのまま大人しく退いて、もし万が一敵が追撃してきた時に総崩れとなりかねないため、時間を稼ぐためにも敵の目を引きつける必要があったのだ。


 だからこそあえて長政が前に出たのだが……


「野良田と言い南宮山と言い、私が目を離すとすぐに無茶をする! もはや何を言っても無駄と判断致しましたので、この者らを叱りつけているのです! この者らを辱めたくなければ、いい加減にご自重なされんか!!」


 手に持った木刀で床をガン! と殴りつけ、怒りを露わにする政澄。


 普段の彼からは想像できないほど怒り狂っており、同じように怒っていただろう遠藤直経に至っては「まぁまぁ……」と政澄をなだめる側にまわってしまっている。


 普段怒らない人間が怒ると余計怖いと言うのは本当だな、と政澄が殴りつけた結果、へこんでしまった床を見ながら思うのだった。


 政澄の耳に入った尾頭付きの噂は、事実からはかなりかけ離れている。


 曰く、浅井備前守はたった一人で三好の軍勢六千と相対したとか。


 曰く、浅井備前守はたった一人で三好の軍勢六千を足止めしたとか。


 曰く、浅井備前守は将軍家を傀儡とする三好を許さず、たった一人で京へ乗り込むつもりだったとか。


 曰く、将軍家へ仇なす事は本意ではないため、三好の前から渋々軍を退いたとか。


 一体何のことだと言いたい噂ばかりだが、人の噂に戸は立たぬと言うように、今更それを止めることは出来そうにない。


 その上、元々将軍家に仕えていた京極高吉を、現在小谷城にて扶養しているのも事実。


 そんなこんなであの撤退劇から早数日、長政は何故か将軍家の臣下として三好を打つ覚悟を見せた忠義の将になってしまっていたのだった。


「私なんかが将軍家の忠臣扱いとは、将軍家はよほど家臣に恵まれておらぬらしい」


 けらけら笑う長政に、政澄はもう一度「そんな事はどうでもよろしい!」と雷を落としたのだった。



◆ーー



「叔父上め……こっぴどく絞られたわ……」


 それからしばらくして、ようやく長政は政澄の説教から解放された。


 最後の方はもはや忠臣三名を叱りつけると言う当初の目標を忘れ、家長たるものどうあるべきか、武家の男子たるものどうあるべきかを延々と聞かされた。


 そうして最後に、もう二度と無謀な真似はしないと宣言させられて、ようやく解放となったのだった。


 あの八重ですら長すぎる正座のせいで足が痺れ、ふらふらしながら部屋を後にしていた。

 八重のあんな姿を見るのは初めてだ。もしかすると、この家で一番恐ろしいのは政澄なのかもしれない。


 政澄を怒らせるようなことはなるべく控えようと誓う長政なのであった。


「兄様。随分とお叱りを受けてらっしゃいましたね」


 そうやって自室へ戻ると、反物を整理している小夜の姿があった。


「ああ……三好より余程、叔父上の方が怖いわ」


 おどけて言うと、小夜はふふっと小さく笑った。

 彼女のお腹は目に見えて大きくなってきており、既に着物を着るのにも苦労しているらしい。


 初めて子ができた事を知らされてから既に三ヶ月は経った。逆算すれば、大体妊娠六ヶ月から七ヶ月と言ったところだろうか。


「お腹の子はどうだ、大事ないか?」


 段々と大きくなってきた小夜のお腹を見ながら声をかける。

 すると小夜は「はい、元気な子でございます」と笑った。


 最近ではつわりも酷いらしく、外に出られる機会も減ってきている。


 なるべく傍に居てやりたいが、戦国大名と言う立場上そうも行かない。そのため時間さえ空けば小夜の元を訪ねるのが、近頃の長政の習慣になっていた。


 彼女曰く、お腹の子は近頃よく動いているらしい。小夜が仕切りに「今動きましたよ」と長政に教えてくれる。


 だと言うのに、その度に長政が慌ててお腹を触っても未だに動くところを見られた試しがない。


 もしかしたらお腹の子に嫌われているのではないか? と不安になる長政であった。


「元気な子ですから、きっと男子にございましょう」


「男でも女でもどちらでも良い。とにかく無事に産まれてくれれば、それ以上はない」


 小夜の腹を恐る恐る撫でてみるが、やはり動く気配はない。

 この中に自分の子がいるのだと思うと、それだけで胸がいっぱいになる思いだ。


「ですが、誠に良かったのですか? 穢れの事……」


 不安そうに告げる小夜に対して「もし本当なら三好との戦で死んでおるわ」と長政は笑ってみせた。


 彼女が言っているのは、この時代特有のふざけた慣習についてである。


 この宗教と信仰が重んじられる時代、血は穢れを生む縁起の悪い物だと信じられていた。


 そのため出産は大量の穢れを産む行為だと信じられており、穢れを最小限に抑えるための風習や信仰で塗り固められていたのだが、現代医療を知る長政からすれば信じられない常識ばかりだったのだ。


 例えば出産する場所。


 当然穢れの温床たる妊婦を他の者が住まう場所へ居させるわけにはいかないと、わざわざ出産のために出産用の建物を建て、妊婦を隔離するのがこの時代の常識だ。


 しかしこれは取り壊す前提の造りのため、粗雑で簡素、とてもじゃないが人が住む場所とは言えないような作りをしている。


 そんな場所に一人押し込められ、その上そこに通えるのは僅かな供の者のみとなれば、妊婦の世話が行き届くはずもない。


 この時代の武家の妊婦は、劣悪な環境で出産することを強いられていたのだ。


 その事を知った長政はすぐさまその悪習を辞めさせ、これまで通りの生活をさせる事にした。


 誰もが穢れを恐れていたが、長政はお構いなし。

 それどころか戦場に八重を連れて行く始末で、今更多少の穢れとやらが増えたところで関係ないと言わんばかり。


 更には先日の三好の件もあり、長政は穢れを寄せ付けないと言うのが浅井家での通説に成りつつあった。


 お蔭で小夜とこうして頻繁に会っても、今更目くじらを立てる者がいなくなったと言う訳だ。


 しかしまだ油断は出来ない。問題は出産の後なのだから。


「下らぬ悪習は全て辞めさせるつもりだ。姉上が出産なされた際も全て辞めさせたが、今のところは親子共に健康。穢れなど迷信よ」


 この時代の出産はとにかく危険がつきもので、その危険は妖怪や魔のたぐいによるものだと信じられていた。


 そのためやれ出産後七日は寝てはならないだの、食事は粥だけだの、穢れを払うための祈祷を三日三晩大人数で行うだの、信じられないほど母体に負担をかける悪習がまかり通っていたのだ。


 とにかくこの時代の医療は祈祷や魔を祓う事に傾倒していて、医学的根拠に基づかない事ばかり。


 未来の常識を知る長政からすれば、後進的な事この上ないのだった。


「それに穢れごときで死ぬならば、それまでの事だったと言うだけ。私が穢れなどと言う下らぬ迷信に負けたと言うだけの話よ」


 そう言って笑って見せるも、小夜の表情は暗くかげる。


「ですが、兄様に万が一の事があったらと思うと、小夜は不安でたまりません。此度のことも、話を聞いた時に肝が冷えました。ご無事だから良かったものを、あまり無茶はしないで下さい……」


 小夜が悲しそうに目を伏せ、長政の手を自分の両手で柔らかく包む。


 どうやら小夜には心配をかけたようだった。


「……すまない、心配をかけた」


「もう兄様一人のお命ではないのです。どうか無茶はなさらないで下さいませ。本当は戦にも行ってほしくはありません。ですがそんな我が儘は言えませんから、せめて怪我だけはないようにと祈るばかりです」


 熱に潤む小夜の瞳が、長政の顔を映す。

 くりくりとした愛らしい瞳は、子ができてから急に大人びたように見える。


 そんな瞳で懇願されては、長政ももう無茶はできない。


「あぁ、誓う。もう無茶はすまいよ」


「はい、そうして下さい」


 政澄の説教より、こちらの方が余程効くなと長政は頭をかく。


 一旦中止となった西近江征伐はいずれ再開しなくてはならないが、その際はもうこれまでのような無茶はできないことだろう。


「あ、雨……」


 そんな事を思っていると、小夜がふと呟いた。


 彼女の視線の先を追うと、庭先に雨が蕭々しょうしょうと降り出している。


「ああ、もう夏か」


「早いものですね」


 夏の訪れを告げる梅雨が、もうすぐそこまでやってきていたのだった。

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