069_永禄七年(1564年) 梟雄の賢弟
「丹波の内藤……誰だ?」
長政が問うが、当然誰も知らないと言った様子だ。
丹波と言えばこの西近江から更に西にある国で、長政が全く注意を払っていなかった場所だ。
こう言うことは大体が遠藤直経に一任しているため、彼が居ないとなると隣国の情勢がわかるような者は浅井には居ない。
ましてやそれが、ついこの間まで敵だった西近江の更に西ともなると、情勢を把握しているものは誰一人としていないだろう。
強いて言えば西近江の国人衆がわかりそうだが、彼らは近江情勢を伺うことに必死なのか隣国のことまでは知らないようで、視線を右往左往させていた。
すると「恐れながら」と声が響く。
声の主は、長政の傍に控える八重だった。
「わかるか?」
「はい。丹波国……この西近江から更に西に行った隣国の守護代、内藤家の当主にございます。近頃、若狭で朝倉と小競り合いをしているとか」
流石は甲賀の忍びとも言うべきか。どうやらこの辺りの情勢は頭に入っているらしい。
なるほど、朝倉の敵か。そう納得しかけたが、聞き捨てならない言葉に「ん?」と声を漏らす。
「待て、若狭に出張っているのは三好では無いのか? 若狭のごたごたは朝倉と三好の代理戦争だと記憶していたが」
すると八重がこくんと頷く。
「その三好勢が、内藤なのです」
八重の言葉に思わず、「はあ?」と声が漏れた。
「内藤家当主、内藤宗勝。元の名は…… 松永長頼。かの副王、三好長慶の右腕、松永久秀の実弟にございます」
「松永久秀の……弟だと?」
「はい。かの者は三好家の丹波方面を担当しておりますれば、丹波の管理と若狭への介入はかの者の管轄にございます。かつて六角家が三好と一戦交える際に仕入れた情報ですから、それほど差異は無いかと」
淡々と告げる八重の言葉に、益々長政は疑問符を浮かべる。
その内藤……事実上三好の軍勢が、なぜこの西近江に来る?
背筋に嫌な汗が流れ始める。
当然、三好に伝手などなく、彼らに援軍を派遣してもらえる心当たりなどありはしない。
「三好は丹波を乗っ取ったのか?」
「色々とあったそうですが、結果的には。少なくとも確実なのは、内藤の手勢は三好の兵だと言うことにございます」
内藤と朝倉は若狭でやりあっているらしいため、恐らくは敵。そうなると朝倉と手を結ぶ浅井にとっても当然敵だ。
しかし、三好は六角家とも敵同士。そして西近江の国人衆が崇めている将軍家とも敵である。
となれば一体、誰が何のために奴らをーー
ーーいや、思い当たる節は一つしかない。
「山中、秀国か……!」
腹の底から、怒りにも近い声が漏れた。
「奴め、まさか三好に取り入ったか! 六角も浅井もダメなら三好だと、そう言うことか! 三好長慶が将軍家を傀儡とし、京を牛耳っていること、奴とて知らぬわけではあるまいに!」
「……今や三好長慶は将軍家と和解し、将軍家随一の臣下でありますからな。……名目上は」
流石に京の情勢には詳しいのか、宮部継潤がそう口を開く。
「馬鹿が、体裁さえ整えば宿敵の手すらも借りるか」
「彼らの主家に当たる六角家ですら、今や三好の傘下。もはや三好の他、頼る術がないと言う事でしょうな」
「これで籠城や奇襲で時間稼ぎしてきた理由がやっとわかった。始めからこれを狙っていたのだな……!」
かの六角家すら敗北した、副王の軍勢だ。
そんなものと一戦交えれば、浅井がどうなるかなど想像に容易い。
何より、もし勝てたとして、その先に待つのは畿内全土を支配下に置く三好との全面戦争だ。
しかも相手は将軍家すら味方にしている。下手すれば三好や六角だけでなく、朝倉や上杉と言った将軍家に仕える者達まで敵に回す。
それは即ち、日本全土を敵に回すと言って過言ではないのだ。
勝ってもいけない、負けてもいけない。馬鹿げた話だと言うより他はない。
「如何いたしますか。三好を相手取り、これより一戦と言うにはちと……」
おそらく現状で一番浅井軍の戦力が頭に入っているだろう野村直隆が表情を暗くする。
とは言え彼の言うことは最もだ。今から余力有り余る三好の軍勢と一戦、と言われれば誰もが逃げ出したいに違いない。
しかし、考えてみれば悪いことばかりでもない。
「……六角ですら手に余る現状では、近畿の王の軍勢を相手取るには分が悪すぎるか」
そう、あくまでこれは三好を相手に退却するだけの話だ。
いくら何でも三好相手なら、負けても言い訳が立つというもの。
今この日本に、三好に勝てる勢力など一つたりともありはしないのだから。
……問題は、相手がその退却を許してくれるかだが。
「……致し方なし。兵を退くより他あるまい」
長政が苦渋の決断、と言った風でそう告げる。
内心は退却理由が出来たため嬉しさ半分、山中秀国にだし抜かれたことに対する怒り半分だが。
「お待ちくだされ! 今浅井に退かれては、我らは一体どうすれば……!」
そんな長政の決断に異を唱えたのは、西近江の国人衆だった。
しかしそれも無理はない。既に彼らは浅井に着いたのだ。このまま浅井が西近江から手を引けば、待っているのは三好による蹂躙だ。
そうなると彼らは浅井に着いた裏切り者として討ち取られるか、三好に寝返るしか道はない。
三好に着いたところで、結局は裏切り者として冷遇される事がわかっていてもだ。
長政とてそんなことは百も承知。みすみす彼らを三好に渡す訳にはいかない。
「案ずるな。どの道追撃を阻むため、最低限の戦果は要る。奴らとて本国を空けての進軍だ、長居はすまいよ。近畿の王にお帰り頂いた後、体勢を整えれば良い。虎高、直隆、部隊を整えろ! 向こうの出方次第では、一戦交えることになるぞ!」
虎高らが返事をし、本陣を後にすると、途端に辺りは騒がしくなり始める。
あの三好と一戦交える事になるかもしれない。元々勝ち戦のつもりだっただけに、誰もが緊張の色を浮かべる。
そこへ不意に、宮部継潤が口を開いた。
「伊井城は如何するおつもりで?」
「放棄するより他あるまい。どの道、我らの領土からは離れすぎて維持できん」
別働隊の抑える伊井城は水路からも陸路からも遠く、西近江を放棄すれば必然的に伊井城も放棄する事になる。
出来れば破壊して使い物にならないようにしたいところだが、そんな事を言っている余裕もないだろう。
すると継潤が「ならば」と続けた。
「ならばわたくしめに城を預けては下さいませぬか」
「正気か? 仮に三好が攻め寄せてきても、すぐには支援できぬぞ。三好が帰ったとしても北近江からは完全に孤立する。敵中に取り残される事になるが」
「しかし同時に、かの山城はこの西近江と丹波、若狭を繋ぐための玄関口でありますれば。かの城を抑えさえできれば、今後の西近江からの展望も臨めましょう」
継潤の言うことは最もだ。
伊井城を抑えさえできれば、今後の西近江征伐の牙城にもなるし、何なら西近江衆を監視する浅井の矛にもなる。
とは言えそんな飛地を確保できるなら誰も苦労はしない。
もし敵に攻められれば敵中孤立、逃げることもままならず死ぬしかない。
だが継潤はそれでも続ける。
「それに、最も武功を挙げられるのは最も危険な場所にございますれば」
元々武功を上げるために坊主の身から浅井家に仕官した変わり者だ。その彼にとって、今の伊井城は危険と隣り合わせな分望ましいと言うことだろう。
その覚悟があるならば、長政とて文句はない。
「左様か、面白い。ならば伊井の山城、お前に任す。但し、城を枕に討死しようなどとくだらぬ事は考えるな。お前はまだ、浅井に必要な男だ」
「承知致しました」
「別働隊への指示もお前に任せる。適度なところで退かせてくれれば後は好きにして良い」
そこまで告げると継潤は承諾し、陣を後にする。
その顔はこれから死地に足を踏み入れようとしているにも関わらず、実に楽しそうだった。
歴史に名前を残すだけあって、頭の作りが常人とは違うらしい。
「さて、ではこれより、浅井は兵を退く。但し、タダでは退かんぞ。畿内の王に、我ら近江武士の威容を見せつけてやろう」
周りが慌ただしく支度を整える中、長政は一人、不敵に笑った。
◆ーー
それから数刻ほどして、ついに内藤の軍勢が姿を現した。
意外だったのは、浅井の側方を突くような位置ではなく、石田川の対岸側に姿を表したことだ。
長政はてっきりこちら側に現れ、今津城と内藤勢で二方向から攻め立てるつもりだと踏んでいたが……これなら都合がいい。
もし攻めて来るにしても敵は川を渡らなければならないため、地の利を見るならこちらが有利だからだ。
とは言え相手もそれはわかっているはず。ならば何故、そんな布陣の仕方をしたのか。
「流石は畿内を手にした王の軍勢か。兵の質が違うわ」
続々と対岸に布陣する兵を見て、長政は呟く。
兵の一人一人に自信がみなぎり、負ける気がしないと言った風だ。
鎧もしっかりと手入れが行き届いており、確かにこれは六角が負けるのも納得だ。
例えるなら、向こうは全ての兵が白鷹隊と言ったところだろう。
兵の質なら蒼鷹隊の方が上だが、いかんせん数が違いすぎる。これを全て相手取るには分が悪い。
だからこそなおのこと、わざわざ対岸に布陣した意図が読めない。これではまるで、始めから戦う気がないようなーー
「なるほど。奴らめ、余程我らに西近江を取られるのがまずいらしい」
長政が嗤うと不思議そうに虎高が問う。
「西近江を?」
「わざわざ危険を冒し、本国を空けてまで出張ってきたのがその証拠よ。だと言うのに対岸に布陣して、まるで戦うつもりはない、このまま引き下がってくれとでも言わんばかりではないか。奴らとて我らと同じようだ」
考えてみればおかしな話だ。十河一存に加え、昨年の戦いでは三好実休まで失ってその混乱から立ち直れていないだろうに、わざわざ丹波を空けてまで出張って来る意味がない。
そこには何かしらの意図があるはずだ。
「とは言え、その理由まではわからんがな」
「では、我らと同じと言うのは?」
「山中秀国よ。奴がもし我らに内通し、裏切りでもすればたちまち奴らは窮地に陥る。そんな状態で戦いたくないと言うのが本音なのだろう」
国人衆に退路を握られているのは浅井も内藤も同じらしい。
浅井同様、何かしらの理由をつけて向こうも退却したいらしく、川の向こうに布陣したのは三好の軍勢を浅井に見せることで威圧するためなのだろう。
西近江を取られるのはまずいが、かと言ってこのまま戦うのもまずい。相手は湖北の鷹と名高い浅井長政だ、下手に戦力を削られれば、勝ったとしてもその後の丹波の維持が危うくなる――そんなところか。
「昨夜、意地でも退かなかったお蔭で敵にはこれが罠に見えていような。既に山中秀国は浅井と通じていて、三好を引き込むための狡猾な罠に。奴の戦上手な名声が仇になったな」
連合軍の瓦解を懸念して退けなかった昨夜の奇襲劇も、三好からすれば見え方が変わってくる。
自分達を西近江に誘い込むための、狡猾な罠に。
そんな罠の中にそれでもわざわざ飛び込んできたのは、もし罠ではなかった場合、それだけの致命傷となるからだ。
進むも地獄、退くも地獄。
一見浅井が不利なように見えて、敵も苦渋の決断を迫られているらしい。
ならば話は早い。
「虎高、全軍に伝えろ。退却するとな」
「三好に背を向ける事になりますが、よろしいので?」
「一刻も早く退きたいのは向こうとて同じ。だが我らが居てはそれもままならん。ならば理由をくれてやる」
「川を渡ってくるのでは?」
「渡ってはこぬよ。一戦交える気なら、とっくに兵をぶつけてきておる。奴らに戦う意志などハナッからないわ。良いか、悠々と、そして堂々と支度しろ。奴らに背後を突かれること、我らは一切恐れていないと見せつけてやれ」
「ははっ!」
とは言え、いくら堂々と退いたところで必ず『浅井は三好を恐れて退いた』と言いふらす者は現れる。
現代で俗説まみれになっている歴史からもそれは明らかだ。
ならば、誰も勘違いできないようにダメ押ししてやる必要がある。
それも、後に逸話として語られるくらいの衝撃と共に。
そこまで考えて、一つ思いついた長政は早速立ち去ろうとしていた虎高の背中に声をかけた。
「それから……水と盃を持て」
◆ーー
浅井軍と内藤軍が両岸に布陣する石田川。
近江の覇者となりつつある浅井と、近畿の王たる三好が睨み合うその川に、一人の武者が馬に揺られて進み出た。
掲げるのは浅井家の家紋、三つ盛亀甲に花菱の旗印。
旗を軽々と肩に抱える武者の馬を、女が一人で引いていた。
その姿を目撃した時、三好の軍勢に動揺が走る。
あの旗印を掲げられるのは他でもない、浅井軍総大将、浅井長政ただ一人であるからだ。
川を挟んでいるとは言え、あろう事か敵の総大将が最前線に、それも女を一人だけ連れて歩み出てきたのだ。
普通ならば絶好の好機だ。総大将を討ち取るため、誰もが前に進み出るだろう。
しかし、三好の兵は動かない。
それをわかっていたとでも言うように、長政はある程度したところで馬を降りると、何とその場に旗を立てて、胡座をかいて座り込んでしまった。
その長政へ、女が何かを手渡す。見れば漆塗りの盃だ。
一体何をするのかと思えば、唐突にその盃へ女が並々と酒を注ぎ、一方の長政はと言えば三好に向けて乾杯するように盃を掲げると、一息にそれを飲み干した。
実際はただの水なのだが、三好にはそれが酒に見えた。まるでここで酔っても構わないとでも言いたげに。
これ以上ないほどの挑発だったが、それでも三好は動かない。
「ここまでされて動かぬと、今は動けぬと教えているようなものだぞ。内藤宗勝、気づいているか?」
誰にも聞こえない声でそう告げた長政は、八重に注がれる水を続けて二杯、三杯と飲み干していく。
そうこうしているうちに浅井軍は支度を終えて、長政を置いて撤退を始めた。まるで長政一人でも三好を相手できるとでも言うように。
「殿、そろそろ」
「ああ。退くとしようか」
その後、本格的に撤退を始めた浅井兵の後を追うようにして、とっくりを空にした長政はゆったりと馬にまたがり、まるで散歩帰りのようにその場を後にした。
三好の兵は、その長政と八重の背中を見送るばかり。
この悠然たる撤退により、浅井に与した者達へ手出しが出来なくなった三好勢。
結果、石田川から北は浅井が、南は三好の庇護を受けた西近江衆が暗黙の了解で治める事となった。
西近江の戦線は、浅井と三好の奇妙な利害の一致によって、今後不気味な膠着を見せる事になるのだった。