068_永禄七年(1564年) 動乱の西近江
「継潤は無事か?」
「殿、援軍感謝致しまする。今少し遅くば、どうなっていたことか……」
虎高ら数名を伴い宮部継潤の隊を訪れると、くたびれた様子の継潤が出迎えた。
「何があった?」
「突然西から敵が現れました。始めは別働隊かと思ったのですが……その直後爆発が起きてそのまま。正直、何が起きたか私にも……とにかく、ここで退けば本陣が危ないと思い、知らせだけ走らせて遮二無二戦っていた次第で」
「左様か、よくやった。お前のおかげで隊を整える時間ができた。兵の中に敵が紛れ込んでいるともわからん、とにかく用心して事態の把握に努めろ」
「ははあ!」
それから軽く二、三、次の動きを指示した後に長政は宮部隊の陣を後にする。
この混乱に乗じて敵が打って出てくるとも限らないためだ。
「山中秀国、噂通りの戦上手の様子。こちらが烏合の衆である事を的確に見抜いての不意打ち、見事と言うより他ありません」
移動中、虎高がそんな事を言う。
悔しいが今の長政にはその言葉を肯定するしかない。
「数だけの軍の弱さが出たな」
未だあちこちで混乱している兵の姿を見て、長政が呟いた。
「ただいま戻りました」
そこへ、丁度八重が戻ってきた。
暗がりに隠れてよく見えないが、何かを抱えているように見える。
火元を通ったのか、顔や服も汚れていた。
「怪我はないか」
「はい。やはり、敵の間者が紛れていました。不要に混乱を煽る者が複数居たため、身元を問いただしたところ襲い掛かってきましたので――」
言うなり、先ほどから手元にぶら下げていた何かを、ごろんと長政の足元に転がした。
「――始末致しました」
それは、複数の男女の首だった。どうやら彼らが紛れ込んでいた間者のようだ。
「先日の野営の際に紛れ込んだ様子。あの御仁女郎も、敵の間者が紛れていたのでしょう」
よく見れば汚れだと思っていたものは、赤黒い血だ。怪我はないとの事だったため、それは全て返り血なのだろう。
そうやって何事もなかったかのように、その血を拭った八重。彼女は冷ややかな視線を、地面に転がる首に向ける。
こう言うところを見せられると、やはり彼女も甲賀の忍びなのだと実感させられる。
「敵地で野営すれば敵が紛れるのは当然か……とは言え、油断しすぎたか」
「と言うより、知らぬ顔が一気に増えたことが原因でしょう。粗方は片付けましたが、まだ潜んでいるとも限りません、いかが致しますか?」
「とにかく今は目の前の対処だ。八重、ご苦労だった。少し休め」
長政の言葉に返事した八重はそのまま長政の傍に控える。彼女にとっての休憩とは長政の傍にいる事らしい。
とにかく、彼女のお陰で敵の侵入経路がわかった。軍は数が多ければ良いと言うものでもない事も、敵地で野営する難しさも実感させられた。
反省と対策は後に行うとして、今は目の前の事態に対処しなければならない。
これで終わりかどうかさえわからないのだから。
そこへ続けて、今度は別の知らせが舞い込んできた。
「別働隊より伝令! 目標としていた伊井城に敵影無し! 奇襲の恐れがあるため、直ちに転進して合流するとの事!」
駆け込んできたのは、別働隊として動いていた政元からの伝令。その内容は、伊井城がもぬけの殻になっているというもの。
これで合点がいった。西から攻めてきていた謎の部隊は、別働隊が向かった伊井城を守っていたはずの敵だ。
浅井が攻めかかってくることがわかった彼らは、地の利を活かして密かに山を降り、真夜中に本隊へ奇襲を仕掛けてきたのだ。
敵がすぐさま南へ退いた理由もこれでわかった。
この爆発騒ぎの混乱に乗じてこちらに奇襲を仕掛ける事で、本隊を退かせることが目的だったのだ。
しかし実際は蒼鷹隊による反撃によって、撤退させることに失敗した。
背後から浅井の別働隊が迫っている事を知っている敵は、目的が果たせなかった事を理解するや否や、南の今津城へ退いたのだ。
そして今頃は、悠々と城の中へ入っている頃だろう。
「腹立たしいほど見事な用兵術だな。敵であることが悔やまれるわ」
吐き捨てるように長政は告げる。
ここまでコケにされると、もはや怒りすら湧いてこない。
「我らを退かせることが目的なら、流石にもう無いと思いたいが……」
「そう思わせて、油断したところを敵の本命が、とも考えられますな」
虎高の言葉に長政は苦い顔をする。
竹中半兵衛もそうだったが、戦上手を敵に回すとこれが面倒なのだ。
どこからどこまでが敵の手の内かさっぱりわからない。
下手に緊張を緩めることができず、かと言って警戒し続けていてはいずれ疲れが溜まって警戒が緩む。
もしかすると敵が狙っているのはその疲れかもしれないため、下手に体力を消耗させる訳にもいかない。
まるでじゃんけんだ。
「敵が皆、義治くらい浅慮なら楽なんだがな」
愚痴りながら、西近江征伐を行うキッカケとなった観音寺騒動。その騒動を起こした浅慮な六角家元当主の顔を思い浮かべる。
責任を取るためか、名を義弼から義治に変えた、彼のような敵ばかりならこんな苦労はしなかっただろうに。
「まぁいい。蒼鷹隊も順次火消しに回せ。朝まで警戒を怠らず、事態の収束にあたるぞ」
長政の言葉に、虎高は「ハッ!」と威勢よく答えたのだった。
◆ーー
結局あれから敵の策らしい策は何もなく、長政は無事朝を迎えた。
……混乱によって兵の一部が逃げ出し、緊張と警戒のせいであれから一睡もできず、兵糧や火薬の一部が燃えてしまった事を無事と言うのなら、だが。
「一応は待ったが、やはり返答は無しか」
日が昇り始めた頃、ようやく混乱が落ち着いたため諸将を集めて軍議を開いた。
山中秀国は一日欲しい、とは言っていたが、一晩もあれば家中の話はまとめられるはずだ。
だと言うのに返答がないと言うことは、つまりそう言うことなのだろう――昨日の奇襲で分かりきっていたことだったが。
「攻めかかりますか?」
夜通しで火消しに励み、今は煤だらけになっている野村直隆がそう問う。
本人は真面目な顔をしているが、顔も煤だらけのため少し面白い顔になってしまっている。
そんな彼の顔を見て笑わないようにしながら、長政は口を開いた。
「火薬はどれほど残っている?」
「当初の予定の半分ほどは焼けましたが、それでも今日一日は持ちましょう。一日相手をすれば、向こうも我らに抗する事がいかに難しいかわかりそうなものですが」
かつて観音寺騒動の際に行った日野城攻め。その光景を知る者達は一様に頷く。
あの守りに硬い日野城ですら半日で三の丸を突破したのだから、今津城ならば一日あれば充分だろう。
「確かにな……」
とは言えそれは、敵が目の前の山中秀国だけならば、と言う前提が付きまとう。
わざわざ口にこそしないが、浅井家の者達は誰もがわかっていた。
もし西近江の国人衆に裏切られれば、その者達を倒して北近江に帰還しなければならない事を。
そしてその際、最低限戦えるだけの余力は常に残しておかなければならない事を。
「別働隊から知らせは?」
「はい。昨日知らせを走らせ、今は伊井城の確保を行なっているようです。早朝に城を制圧したと、知らせが参りました」
今度は宮部継潤がそう告げる。
いざという時の退き先として城を用意したかった長政は、別働隊に合流より城の制圧を優先するよう指示したのだが、どうやらそれがうまく行ったようだ。
もぬけの殻とは言え、初陣の政元が城を落としたのだから喜ぶべき戦果だろう。
「……左様か。ならば今日は軽く一当てして、相手の出方を見るとしよう。昨夜の疲れも残っているだろう、今日はとにかく様子見から入るぞ」
本音を言えば今すぐにでも撤退して安全を確保したかったが、ここで戦果もなく退けば、今後の西近江征伐に支障が出ることだろう。
せっかく長政が戦上手として名を馳せ始めているのに、ここで一万以上の兵を率いて城一つ落とせなかったとなると、途端に天下の笑い者になるからだ。
長政自身はそれでも良いが、そうなると厄介なのは今後の敵だ。
あの浅井を打ち負かしたと下手に士気が高くなり、逆に北近江に攻め入られても面倒だ。
いや、それだけならばまだ良い。
このせいで浅井に靡きつつある国人衆が再び六角につき、再び近江が混沌とし始めれば全てが振り出しに戻ってしまう。
何なら史実よりも悪い形になって、だ。
退くにしても、何かしらの都合いい理由が欲しい。
できれば浅井が仕方なく退くような、そんな都合の良い理由が。
とは言えないものねだりをしていても仕方がない。明日にでも総攻撃をかけ、敵が降伏するならばそれでよし。そうでないならば適当に戦果を挙げて退却しよう。
そんな事を考えつつ、諸将へ指示を飛ばそうとしたまさにその時だった。
「報告! 西よりこちらへ向かってくる軍勢有り!」
陣中に伝令が走り込んできた。
「ん? 政元の部隊か? 合流指示は出していないぞ」
「家紋は、輪子に手毬! 総大将は丹波の内藤宗勝! 総数約六千にございます!」
「……はあ?」
どうやらもう一波乱起きそうだった。