066_永禄七年(1564年) 田屋の城
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翌日。早朝から炊き出しを行い、朝食を済ませた浅井軍は日が昇り切る前から主立った将を集めて評定を行っていた。
議題は今後の行軍予定について、だ。
「まず、我らが今いる海津城から西に一里(約4km)ほど先にあるのが我が詰城、田屋城にござる。そしてこの田屋城から南へ二里半(約10km)先にあるのが井伊城、そして今津城にござる」
この辺りの地図を広げて皆にそう説明するのは、浅井軍が布陣する海津の地にある海津城城主、田屋明政という男だった。
北近江と西近江の狭間に位置する海津。
浅井から見ると西近江の玄関口とも言えるこの他に居を構える彼が、浅井側に恭順の意を示した意味は非常に大きい。
西近江の地理をよく知る彼らに水先案内を任せる事で、安全に西近江を進む事ができる他、彼の伝を当たって味方を増やすことも出来るためだ。
ここから先の進軍は今までよりも順調に進む事だろう。
しかし、長政の胸中には別の思いが巡っていた。
この軍議が始まる前、阿閉貞征が長政に言った言葉が脳裏を過ぎる。
『田屋明政にご用心されよ。大殿が良く名を出す明政とは、かの者の事にて』
その言葉を聞いた時、長政には一人の名が思い当たった。
父の久政は、常日頃からよく言っていた。
嫡子の政弘亡き後、明政めを担ぎ上げようとする者共を六角と手を結んで黙らせたまでは良かったものを……と。
当主となった以上、この辺りのことに興味ないと言うわけにもいかず、前に一度、何があったのかを調べた事がある。
するとわかったのは、久政には浅井政弘と言う腹違いの兄がいたと言う事だった。
正妻の子であった浅井政弘は、本来なら浅井家の当主を継ぐ筈の嫡男であった。
しかし政弘は若くして亡くなり、浅井家を継ぐ事になったのが父の久政だったと言うのが事の始まりだ。
誰もが知っての通り、久政は武勇に優れず戦下手。当然誰もが彼に期待などしておらず、あわよくば別の誰かが家を継いでくれることを望んでいた。
そんな時に白羽の矢が発ったのが、この田屋明政だったと言う訳だ。
彼の妻は長政の祖父、浅井亮政の娘にあたる人物だ。
しかも正妻の娘であるため家格で言えば側室の子である久政より上である。
この時代、家の存続を何より重視されるため、血縁が直接繋がっているかどうかはあまり重視されない傾向にある。
とにかく家を継ぐに当たって正当な理由さえあれば、全く無関係なところからでも次期当主を引っ張ってくる事ができるのだ。
久政に不満を抱く者達は、その血縁を使って田屋明政を浅井家の当主として担ぎ上げようとしたのだと言う。
そうなれば困るのは久政だ。下手に生きていると邪魔になるため、命を狙われる危険すらある。
ならばと生き残るために打った逆転の一手こそ、あの六角家への恭順だったのだ。
六角家と言う巨大な力を味方につけた事で、久政に従わないなら六角家が相手になるぞと家中の者達を脅し、田屋明政を担ぎ上げようとした者達を黙らせたと言う事らしかった。
そして久政との後継者争いに負けた明政はと言えば、浅井家に残るわけにはいかず、海津城並びに田屋城を治める西近江衆としての立場に戻ったのだと言う。
もしこの時のことが事実であるのだとすれば、彼は久政の子である長政に並々ならぬ思いを抱いていてもおかしくないだろう。
久政の逆転の一手、六角家との同盟に人生を振り回されたと言う点ではある意味親近感が湧くが、相手もそうだとは限らない。
阿閉貞征の密告は、そんな万が一を懸念しての事らしかった。
その阿閉貞征は地図を広げて西近江各地の説明をする田屋明政の向かいに座り、話を聞く振りをしながら時折彼に視線を向けている。きっと怪しい行動を取らないか警戒しているのだろう。
長政とてその思いは同じだ。もしここで、かつて家督を奪われた恨みだと襲われでもしたらひとたまりない。
浅井軍が今居るこの場所は既に敵地。今回の西近江路征伐は、田屋明政が浅井方に着いたことで結構された侵攻戦だ。
いわば、彼が味方であることを前提にこれらの戦いは始まっている。
もし彼が土壇場で浅井を裏切れば、西近江を進む浅井の退路は完全に断たれる事になる。
それどころか日和見な国人衆までもが次々寝返れば、長政は敵地に孤立する事になる。これが侵攻戦の恐ろしいところだった。
軍神と呼ばれた当代の戦上手、上杉謙信ですら、敵である北条家を討つため敵地の関東へ乗り込んだ際には、諸将の足並みが揃わず、寝返りまで発生して軍を退いている。
反北条勢力や各国衆を集めて十万とも言われる大軍を率い、北条家の居城たる小田原城を包囲したにも関わらずだ。
侵攻戦では始めから大軍を引き連れて進軍することは困難だ。始めから大軍で進めばその分進軍速度が遅くなり、必要な食料は一気に増える。
そのため誰もが敵地の近くの国人衆を使って兵を出させ、時には敵地の者たちを味方につけて進軍するのだが、そんな中では総大将の影響は小さくなる。
一度敵地へ踏み込めば、一人の寝返りが致命傷になりかねない。そのため寝返りが発生しないように総大将は周りに配慮せざるを得ず、ある程度の勝手に目を瞑らなくてはならないためだ。
しかしそうなれば誰もが手柄を望み、被害を避け、己が利益を求めようとする。そうしてそのうち身内同士での争いが増えて足並みが揃わなくなり、空中分解してしまうのである。
連合軍が負け易いのはこれが原因で、絶対的な統率者か圧倒的な敵勢力が居なければ互いの利益を食い合ってしまうのだ。
その点で言えば今回の西近江征伐における浅井軍は、絶対的とは言えない長政の統率とそれほど強く無い敵が揃う、途中で瓦解する連合軍の典型的な形と言えた。
「井伊城と今津城を治めるのは山中秀国と言う人物で、今津城はかの者の居城、井伊城は詰城に当たりまする。かなりの戦上手のようで歳は六十とも七十とも言われておりますが、未だ隠居は考えておらぬようで」
「まるで宗滴公のようだな」
長政の言葉に「確かに」と相槌を添えて、田屋明政は言葉を締めくくった。
居城とは、普段城主が生活する城の事だ。詰城とはその反対に、有事の際に籠る戦いのための城を指す。浅井家で言う、浅井屋敷と小谷城のような関係だ。
つまり山中秀国が普段守っているのが今津城であり、有事の際に将兵を詰めて備えるのが井伊城と言うわけである。
「どちらか片方を攻めるともう片方から出陣して挟み撃ちにするという訳か」
長政が地図を見ながら呟くと、田屋明政は静かに顎を引いた。
そこへ阿閉貞征が口を開く。
「順当に行くのであれば、軍を二手に分けて同時に攻略するのが良いでしょうな。大した兵数もおりますまい、力攻めですぐに片が付くかと」
確かに彼が言うように、今回の場合は二手に軍を分けるのが最善と言える。
西近江征伐を早く終わらせたい長政の都合もあるが、何より長期間の布陣は国人衆の不満が溜まり、寝返りを誘発させやすくなる。
それを知る阿閉貞征だからこそ、早期の決着を提案したのだろう。
両方で勝つ必要はない。どちらかが勝つまで、もう片方は敵を出陣させないだけの戦力で威圧し続ければ良いのだから。
そうなると問題は、別働隊を誰に任せるかだが――
長政が陣中をぐるりと見渡すと、誰もが自分に任せろと言わんばかりに視線を長政と交錯させた。
敵は弱小、味方は多数。その上大将は常勝無敗の浅井長政ともなれば、誰もが手柄ほしさに名乗りを上げるのも当然だ。
ここで手柄を上げれば、切り取った領地を任せてもらえるかもしれないからだ。
彼らにとって領地とは、すなわち収入源であり力の源でもある。
力があれば主人に対する発言権も増すし、いざという時の判断もある程度自由が効く。
だからこそ誰もが領土を望むし、その切り取りを行える侵攻戦には力が入るのだ。
しかし、長政は知っている。その切り取りを続けていては、やがて立ち行かなくなることを。
織田信長や豊臣秀吉が唐(中国)入りを目論んでいた理由は諸説あるが、その中の一つに恩賞として配れる土地が国内に無くなったからだと言われている。
貢献した部下には恩賞として土地を配らなくてはならないが、勢力が拡大していけば当然部下は増え、それぞれに恩賞を与えなくてはならなくなる。
そうなれば与えるための土地を敵から奪う必要があるのだが、敵とてそう馬鹿ではないため、大体は自身の領地の安堵を条件に降伏してくる事になる。
多少領地を削ることはできても丸ごと手に入れることはできなくなるため、やがて限られた土地は尽きてしまい、恩賞を払いきれないと言う事象が起こるのだ。
だからこそ信長は銭での支払いも行っていたし、秀吉は大規模な国替えを行って領地の差配をやり直したのである。
ならば銭で払えば良い……という簡単な話でもない。
鐚銭と精銭が入り混じるこの時代では、同じ一千貫でも鐚銭か精銭かで天地ほどの差が出る。
それに貯蓄するにしても使うにしても面倒だし、土地ならわかりやすく生活の基盤になり得る。
そのため誰もが土地という分かりやすい報酬を求めるのだ。
長政はもう一度陣中の顔ぶれを見直す。彼らをどう差配し、どう使って報酬を支払うのかまで考えるのが総大将たる長政の務めだからだ。
まず長政の弟である浅井政元、その護衛の田中吉政。長政の腹心たる藤堂高虎に野村直隆。信用できる者たちはここまで。
次に、浅見道西。
彼の父の浅見貞則はかつて長政の祖父、亮政と共に京極家を追い落とし権勢を握ったが、その横暴さに今度は亮政によって追い落とされた過去を持つ。
今では浅井の下に留まっているが、内心は穏やかではないだろう。
近頃では新入りを厚遇する長政に対して不満を抱いている様子で、かつて長政に対して直談判して来たこともある。
そして熟練の将だが長政を快く思っていないだろう阿閉貞行。彼も長政の差配に不満を募らせる人物の一人であり、いざと言う時に信用なるかと言われると決定打に欠ける。
有能である保証はあるが、腹の中では一体何を考えているかわからず、今回の出兵ではやけに大人しいのは宮部継潤。
彼ら三人はいずれも、史実では織田との戦いで浅井家を裏切った者たちだ。
今はまだ大丈夫だろうが、いざとなれば敵になる恐れもあることを心に留め置かなくてはならない。
そして最後が便宜上、西近江国衆の代表を務め、長政に並々ならぬ感情を抱いているかもしれない田屋明政。
彼については長政自身知ることが全く無いため、用心しておかなくてはならない。
こうしてみると、半分以上が信用ならない者たちばかりで苦笑する。
しかし信用できる者だけで固められないのは戦国の常。これが織田との決戦でなかった事だけでも良しとすべきだろう。
ひとしきりしたところで考えをまとめた長政は声を張る。
「今津城攻めの指揮は私が執る。補佐を宮部継潤とし、藤堂高虎、野村直隆、浅見道西、その他西近江の者達は私の元に参陣せよ」
長政が告げると、名前を呼ばれた者たちは一斉に返事した。
「続けて井伊城攻めは、大将を政元、お主が務めよ」
「わ、私ですか!?」
長政の言葉に、政元が跳ねる。
「これがお前の初陣となる。気合を入れろ、ただし張り切るな。必ず生きて戻るのが務めだと心得ろ」
「・・・はい!」
「そして政元の補佐にはーー阿閉殿、お願いできるか?」
次に名を呼ばれたのは阿閉貞行。この中では戦の経験も多く、頼りになる。長政の事を快く思っていないとは言え父の久政は評価しているようだし、突然裏切る様なことは無いだろう。
「承知致した」
「そして土地の勝手を知る田屋殿も井伊城攻めをお願いしたい。井伊城は山城、土地勘のある者がいた方が攻めやすいだろう」
「かしこまりました」
歳上をアゴで使うようで抵抗があるが、これも総大将の務めだ。
兵をおおよそ、今津城攻めに三千五百、井伊城攻めに一千五百の割合で編成したところで軍議はお開きとなる。
当然田屋明政を政元の元へ付けたのはそれだけが理由ではない。
おそらく内心では反目しているであろう阿閉貞行とぶつけることで、この二人が一緒に寝返ることを防止する狙いが一つ。
そしてその他の西近江衆と切り離すことで、彼らと結託して寝返ることを防止する狙いがある。
これらの狙いが吉と出るか凶と出るかはその時にならなければわからない。
侵攻戦の面倒さにうんざりしつつ、「以上、では解散とする」と告げた長政は、席を立った。
「頼むから面倒は起こさないでくれよ……」
そんな独り言を呟きながら。